海獣だって走りたい

 正午過ぎの日差し直下日和。
 汎敷高校(みなしき こうこう)の体育館裏口では、二人のバスケ部員が背を伸ばしていた。


「あ~だから、今日はやけに調子が悪かったのか?」
「まぁ、まだ引きずってるかも」
「そりゃ、ご苦労なこって」


 毒づくように、「思ってもないことを」と、秀輝は隣に並ぶ頭一つ抜けた長身の男を小突く。汗が額からじんわりと幾重にも伝った跡を残していて、今でも鬱陶しそうに袖で拭っていた。
 対する小突かれた男は、ケラケラとスッキリした面持ちで秀輝の悪態をいなしている。捲くられノースリーブにされた練習着から生えている腕は、長身に見合った太さを持っていて、そのガタイの良さは遠目でもはっきりと鍛えていることが伺えた。刈り上げられた項ともみあげは程よく涼しさを加えている。


「そうかあ〜せっかくの休みだったのに、疲れが取れてないなんて勿体ねえーっ! よし、このあと遊びに付き合えよ」
「話聞いてたか?」
「わざとだって」


 冗談混じりに手を合わせた男の目は、意外にも笑っていなかった。真面目に労ってくれている気持ちはあるのだ。やり方に少々突拍子がないだけで。
 でも、それくらいの気遣いにも至らない優しさが秀輝にとって丁度いいから、二人は三年間も親友でいられている。他人の顔色を伺って生きる秀輝が、ここまで素を曝け出していることがまさに証明だ。
 彼――野間海虎(のま かいと)は、秀輝と同級生で且つ、共にバスケ部に身を置く人間である。
 単に高校一年の時、同じクラスになったことがきっかけに過ぎない。偶然にもバスケという共通点があったおかげで秀輝は、海虎に心を開くことが出来たと感じている。
 しかし、海虎はそうでもないらしい。
 彼曰く、「バスケがなくとも俺と秀輝は、絶対に親友になっていた」と自慢話にするほどには、互いの相性の良さを実感しているのだ。とはいえ、毎度のように恥ずかしげもなく語り歩く海虎の様子には、秀輝も流石に止めるどころか野放しにすることを選んだ。
 なぜなら、満更でもないが、秀輝自身も否定できないでいたからだった。
 そんな二人は、バスケでも海虎がキャプテンを、秀輝が副キャプテンを務めるほどに名コンビである。
 二年生の秋。任命式にあたって海虎が、「向かうところ敵無し!」と声高に放ったときのこと。それには、秀輝も思わず吹き出していたのを昨日のことのように思い出せる。


 海虎という存在は、紛れもなく秀輝の〝ゴールリング〟だったのだ。


「それにしても、スゲーやつがいるもんだな」
「? 誰が」
「秀輝が会ったていう、男だよ」


 二人は、つい数十分ほど前に朝練習を終えたばかり。部員たちを送り出した後、体育館出入口の施錠と用具の最終チェックを行っている真っ最中である。
 ただ、幸いなことに補充の必要そうな小物も冷感グッズもなく、既に行き届いている整理整頓具合に二人は静かに息を呑んだ。おそらく、帰路についているであろう後輩たちが、いつの間にかやってくれていたのだろう。


「本当に、今日遊ばないのかー?」
「おう、遠慮するわ」


「ざんねーん」と海虎は、拗ねたように口を窄めて、扉に鍵をかけ終える。表玄関ではなく裏口から出るのが決まりになっているため、二人は、わざわざピロティのほうへ回り体育教官室を目指していた。
 バスケ部のコーチは、女子バスケも兼任している教師だ。朝は男子、そして、今は午後からの女子の練習のためにスケジュールを再確認中で忙しない。


「先生、お疲れ様です」
「くしコーチーっ、鍵置いときますよ~」


 パソコンのデスクトップに邪魔されて顔は見えないが、「おつかれさん」と聞こえてきた。いくら、次なる全国大会予選リーグを控えた運動部の若コーチとはいえ、疲労の滲んだ声色は隠せない。海虎は、キャプテンとして、「なにがくしコーチを癒せるんだろうなあ」と真剣に頭の中であれこれ吟味しながらピロティの階段を降りていた。
 くしコーチとは、勝手に海虎が呼んでいる愛称だ。
 本名は櫛田勇(くしだ いさむ)。まだ三十も迎えていない、校内でも女子人気が圧倒的の教師である。


「やっぱ、卒業前になにか『コーチありがとう会』とかするべきなのかなー」
「やるとして、海虎は当日まで先生に隠していられるの?」
「いやいや、さすがに! 無理だろ!」
「言うと思ったよ……、あ」


「あ……」


 バタリ、と階段を降りてすぐに足が止まった。手すりがあったため、階段横の通路を歩いている人の気配なんて感じられなかったのだろう。
 二人は、間一髪というところで、突然目の前に現れた人とぶつからずに済んだ。


「あ、この間の」
「え、マジ?」


 驚いたはずみで出た言葉だった。秀輝は、口元を抑えて自分はなにを言っているのだ、と瞠る。
 間違いなく彼の前に現れたのは、歩で正解なのに。
 秀輝は、明らかにしまった、と顔に書いていた。なぜなら、数日も経たずに再会するなんて思っても見なかったし、そもそも忘れてやろうと考えていたから。
 だから、本人のいる場で、本人に届く声で覚えていることをバラしてしまったことに後悔しているのだ。


「……」
「あぁー、と、その」


 真顔のまま立ち尽くす歩の無反応さに秀輝は、しどろもどろに言葉を紡ぐ。初対面でないにしろ、ほぼ初対面であることは変わりない。海虎は、たじろぐ秀輝を横目に、歩の肩から提げられていたモノを見つけた。


「それって水泳バッグ?」
「……よく、分かりましたね」
「お、良かった。正解か!」


 小さくガッツポーズを見せた海虎は、楽しそうに秀輝の肩に腕を回した。中々、空気を変えられずにいる親友を気遣ってくれたのだろう。


「こいつ、秀輝ってヤツ。そんで俺が、海虎」
「はぁ」
「どうぞ、よろし――」


――ブー、ブー。


 海虎が手を出す直前、彼のスマホが鳴り出した。
 彼は、すぐに身体を引っ込め、途切れない通知主を確認するなり、か細く感嘆を漏らし始める。背後で呆然としている二人のことなど全く気にしていない様子だ。


「やべえ! 真帆がずっと外で待ってるって! やべえ!!」
「はぁ、行ってらっしゃい」
「すまん!! 秀輝! じゃな、また明日!」


 バタバタと駆け出していく大きな背中を二人は見送っていた。姿が見えなくなっても追いかけていた。沈黙の破り方を探すために。


「まさか、同じ高校だったなんて……あー、いや、ほんと、あの日はありがとう」
「……すか」
「ん?」


 意を決して改めて、水族館での出来事を振り返った。あの日、咄嗟に出来たはずの愛想笑いよりもぎこちない苦笑いで。
 しかし、秀輝の勇気など意に介さず、歩は、伏し目がちにしていた瞼を持ち上げた。彼の予想できない次の動作には、毎度のように驚かされる。
 いざ並んでみると変わらない身長。そのせいもあって、余計にあの日よりも目が合う。


「海が嫌いなんですか」


 その間、ほんの数秒。蝉の鳴く声が、より一層喧しく、鬱陶しく感じるほどに、その言葉は秀輝の頭に殴りかかった。
 心の底からの唖然が口から漏れ、閉じられないでいる。
 歩も歩で強情なのか、意地なのか。秀輝の返事を聞くために、ただ目をパチクリと瞬くだけ。なにもアクションをしてこないので、秀輝は、嫌でも応えるしか無いのだ。


「ぃ、いーや? き、らいじゃないんじゃない?」
「でも、クラゲ見てビビってましたよね」
「なっ! いや、いやいやいや? いざ目の前にすると、びっくりするでしょ」


 さきほどの海虎の発言を、秀輝は思い出していた。「水泳バッグ」と言われたソレは、よくよく見れば分かる特徴が見受けられる。スイマー御用達のスポーツブランドの表記。ナップザック型だが、おしゃれにリュックのように背負えるデザイン。
 それに、一番大事なことに気付いた。


――未だに、歩の前髪が乾ききっていなかったことだ。


 海虎は、彼らよりも頭一つ抜けているので、歩の頭頂部が濡れているのを一番に見つけていたのだろう。対する秀輝といえば、漸く目を合わせたばかり。確かに、塩素に濡れそぼった髪の毛は、全体的にフワフワと波打っている。トリートメントが落ちてしまい、きしんでしまったのだろう。水族館で見たときよりも数倍もラフな髪型は、歩のジト目を強調するどころか、彼が童顔であることをはっきりと見せつけている。

「気を遣わないでいいですよ。俺、一応後輩なので」
「あ、そうなの? てっきり同い年かと」
「二年の比企田歩っていいます。コレ(・・)で分かったと思いますが、水泳部です」
「俺は、鳶巣秀輝です……バスケ部デス」

 調子の崩される妙な後輩という印象だった。名乗る前から三年であることが知られていたのは、海虎との会話が通路まで聞こえていた、と思えば妥当である。
 お茶を濁すかのような、適当な咳払いをして秀輝は話を戻した。


「比企田くんこそ、海に落ちるかも知れなかった。……クラゲに刺されるかも知れなかったのに、怖くないの?」


 いくら後輩でも、早速下の名前を呼ぶことなんてしなかった。というより、出来なかったとするのが正しい。二人とも、そういった言動を即座に取れるほど器用ではないのだ。
 そんな中でも、依然として歩は涼しい顔をしている。水泳終わりといえど、日本の蒸し暑さは侮れない。プールから出てきたばかりなら、尚更それは痛感することのはず。それなのに、歩の額から伝っている雫が、たとえ汗でも冷たい水のようだと感じるほどに、彼自身から冷淡さを感じてやまないのだ。


「俺は、侵略者だから」


 水泳部だから、という安直な答えを待ち構えていた自分の頬を抓りたくなるほどに、秀輝は、間抜けな顔をしていた。更にいうなら、勿体ぶることもなく、デンパなことを言いのけた目の前の男に言葉も失っていた。
 歩は、不思議がって首をひねっている。それをしたいのは秀輝のほうであるが。


「あ、クラゲの扱いにも、もう慣れてるので大丈夫なんですよ」
「……ちょっと、まて。タンマタンマ」


 これ以上、喋らせては駄目だと判断し、目の前の男の口を塞ぐように両手を構えた。実際に塞いではいないが、歩は、それが秀輝にとっての自己防衛だと察したのだろう。案外、すんなり口を噤んでくれる。
 その拍子だった。彼は、秀輝の両の手のひらが眼前で泳ぐのを見て、つい掴んでしまった。一週間も経っていないのに、あの時の傷が綺麗さっぱり癒えていることが気になったのだ。
 まだまだ、十代の健全な男子高校生だ。傷の治癒が早いのは頷ける。くわえて、秀輝は、バスケのことを考えて相当念入りに保護したのだろう。回復力の速さは、常日頃の彼の慎重さが故に発揮されていた。


「この手なら大丈夫ですね」
「……なにがって、……ちょっ?! はぇっ!?」


 凡そ、彼の外見からは微塵も感じない強さが、秀輝の右手首に集中していた。配慮しろと胸中で毒づくも、引っ張られるままに素直について行っている。
 どうせ、拒めないと分かっていたから。


 ぐんぐんと足早に抜けていく。去っていくピロティのコンクリートの冷気を名残惜しげに、空いた左手は、宙を撫でていた。どこへ連れて行かれるのかと、秀輝は、心ここにあらずの様子である。
 しかし、数十秒もせず、刻々と見えてくる連行場所。渡り廊下のルートから導き出される答えは、ただ一つ。


――プール。


「え、嘘でしょ。なに、なになに、なにすんの」
「ちょ、力強……先輩、力つよい……」
「そりゃ、鍛えてるからね……」


「そういう話じゃなくて!」と、掴まれていた手を振りほどく。
 息が上がっているのは、早歩きでここまで休み無しに連行されたからだろうか。それとも、プールを前にしているからだろうか。
 秀輝は、手首を擦りながら歩を睨んだ。


「警戒しないでください。突き落としたりなんかしません」
「……いや、別に……」
「証拠です。……見ていてください。それだけです」


 歩は、纏っていた練習着をあっという間にその場に脱ぎ散らかして、プールサイドへ駆け出した。積み重なる奇行に、秀輝の頭の中は既にパンク状態。
 そうして、水着姿になった歩がプールへ入水してしまったのを上から見下ろしていた。


「見てるだけで、いいんだな?」
「はい、……見ていてください」


 簡単に水の中で身体を伸ばした歩は、合図もなしに壁を蹴ってスタートした。
 それは、とてつもなく長く粗のない動作。準備も特にされていない状態からでも、完璧なフォームだった。沈んでいく水の中で、バタフライキックを数回――スイマーでもない秀輝の目には、明確な数なんて分からない。ただ、ついさきほどまで濃ゆい藍色の影になるまで沈んでいた彼は、いつの間にか水面へ戻ってきていた。
 伸びていた身体は、すぐにクロールの動作に変わる。観測できないほどに一瞬で、水をかき分け、割るように進んでいくのだ。
 それなのに、彼の上げる水の飛沫は一切荒々しくなく、野蛮でもなく、情熱さもない。恐ろしいほどに無関心に水を割り行っていく。その様子は、まるで、まるで。

――夜宮水月(よみや みずき)の姿を想起させる。

 秀輝は、テレビに映る一流のタレントを前にしたような興奮に襲われていた。ごくり、と生唾を飲む音が冗談でもなく、プールから聞こえてくる音を一瞬凌駕するほどに。


「まだ、……いたのか……」


 数年前、突如として選手を電撃引退した万年金メダリスト。整った美貌とアイドルのようなマスコミ受けのする愛嬌と人格に、当時は一大ブームを起こすほどだった選手が一人、いたのだ。


『水泳界に君臨した人魚』こと、夜宮水月。
――過去に、確かに彼を液晶越しに眺めていた。


「でも、……違う。アイツは、夜宮選手よりも……」


――残酷だ。


 それは、水に対する恐怖でも、不安でもなかった。
 歩に対する心からの危惧と惨さを、秀輝は感じ取っていたのだ。
 まるで、歩が水の底にいつか知らない間に沈んでいって、泡沫になる未来が漠然と見える不安感に近い。それは、予知能力でも、スピリチュアルな力でもなんでもない。ただの秀輝の勘に過ぎない。でも、彼には、痛いほどに突き刺さってくるのだ。


 なぜなら、彼もまた――。


「もう、……諦めてるんだな……アンタも」


 次第に秀輝の呼吸は、浅く、あの日のクラゲを前にした時のようになっていた。得体のしれない、プールという物質ではない、概念的な存在からの強襲だと、脳みそが信号を出している。
 スタート台に凭れ掛かるように、へたり込んだ。予期していないところで恐怖症が刺激されて、成すすべもなく侵食されていく。太陽からの容赦ない日差しに、世界が眩む。


 今、歩は、どのへんを泳いでいるのだろうか。
 スタートしてから、まだ間もない。
 もう少し、かかるのだろうか。


 帰ってこい、さっさと帰ってこい。
 このままでは、きっと。


「ぅわッ!!? つめた……!!」


 勢いよく頭から水をかけられ、秀輝は決死の思いで両腕で顔を守った。肩は、未だに恐怖症の重荷によって震えている。


「なにもしないですよ」
「……、したあとに言うか、それ」


 気が動転している間に、歩はスタート位置に帰ってきていたらしい。水泳帽とゴーグルは、既に首に提げられていて、水の中から秀輝のことを見上げていた。両手を見せつけるように水面でぷかぷかと浮かせていたから、確信犯である。
 でも、だんだんと秀輝の強張った全身から、力が抜けていく様子は一目瞭然。こんな仕打ちを受けておきながら、恐怖症までも退いてもらったという事実がどうも気に入らないようだ。秀輝は、スタート台に頬を付けて拗ねている。
 冷静になって感じる、ひんやりとした優しさは、妙にむず痒かった。


「酷だな……比企田くんの泳ぎは、……」
「どういう意味です?」
「言葉の通りだよ。……自分を殺してないと出来ない、そんな泳ぎ」


 目を閉じて、頬から感じる冷気に意識を集中していた。だから、秀輝にとっては、なんの気なしの会話だった。しかし、彼の下、水の中で漂う歩は眉を上げて目を丸くしているようだ。それは、彼の大きな黒目が珍しく水以外のモノを捉えた瞬間でもある。


「……久しぶりです、先輩みたいな人」
「そうかよー……俺は、もうこりごりだ……」


 完全にリラックス状態に入ったのか、間抜けな声を上げている。
 ふは、と歩は、秀輝の前で息を吹き出した。滴り落ちてきていた前髪を後頭部へ撫でつける。歩は、笑うと眉が八の字になるのだと、その時初めて秀輝は、本当の素顔を垣間見た。


 歩が、一頻り笑い疲れるまで見守っていた。秀輝は、今日の出来事だけで不思議と、彼とまだまだ話してみたくなっていたのだ。
 それは、歩という人間の奥深さが引き起こした化学変化がきっかけでもある。最初こそ、奇行まみれのデンパだと思っていたものの、彼の性格を知らなかっただけに過ぎない。
 極めて不器用なのだ、と秀輝は、呆れ混じりに口元を緩ませた。最も、彼も同様に二人揃って不器用な同族だ、という意味も込めて。
 歩も感じ取っている節があるのだろう。そうでもなければ、秀輝をここまで連れてきて、泳ぎをわざわざ見せるなんて、やらなかったはずだ。


 ちゃぷちゃぷと遊んでいた水の中から、歩は両手を伸ばした。
 今までにない以上の澄み切った笑みは、蓮のように凛としていて、やはり、言い逃れできないほどに、夜宮水月そのもの。
 テレビの見せる偽りだと思っていた偶像の存在が、人間として、そこにいた。


――たとえ、彼が夜宮水月でなかったとしても、それでも。


 なぜ、そこまでして、〝彼ら〟は自分を殺さないと、泳げないのだろうか。


「先輩も、侵略者になりますか」

 歩の全身に映しだされた、反射する水模様は、煌々と彼の存在を更に神格化していくパーツの一つだった。
 あの時の海とは全く違う。落ち着いた、誰も囃し立ててこない、手を取れる距離にある安心感に、秀輝は息を呑む。


 間もなくして、彼は、肯定とも否定とも取れない、曖昧な頭を振った。今は、そうとしか応えられなかったのだ。
 なにせ、恐怖としてきた対象に突然、絆されるような感覚は、いつにもまして嫌気が差してしまう。だから、遠ざけたくて仕方がなかった。






 帰宅後、すぐさまシャワーを浴び終えると、ベッドに転がり込んだ。
 疲労から始まった一日に、追加で疲労が蓄積されて、どうしようもなくなんの気力も起きなかった。既に、体力も精神もギリギリだったため、無理もない。
 秀輝は、海虎とメールのやり取りをしながら、重たい瞼を何度も瞬かせ、無理やり起こしていた。


「先輩も、侵略者になりますか」


 その言葉は、甘言か、もしくは、苦言か。
 彼は、歩の手を取るべきか否かを思いあぐねていた。

「――無理。……俺は、殺されにきたんじゃない」


 確かに、そう伝えたのだ。
 それでも歩は、揃った歯を見せて、綺羅びやかに微笑みかけるのをやめなかった。
 奇しくも、鬱陶しいなんて微塵も感じなかったのが、彼を取り巻く得体のしれない冷ややかな優しさのせいだと思いたい。


「殺すも生きるも、その人次第です。先輩なら、きっと水の中で生きられる」


 歩は、足のつかない藍色の世界に、どれほどの重たい枷を付けているのだろう。