海獣だって走りたい

 四季が一巡りして、いたいけな青のパレットが汎敷高校に漸く馴染み始めていた。
 雄風は過ぎ去り、継ぐものたちが席につく。
 今年の夏は、前年よりも熱気が立ち込めていて、まだまだ居座るつもりだろう。


「ただいまより、表彰伝達を行います」


 一ヶ月の休暇を終えた生徒たちは、規定の範囲内で各々好きなように制服でクールビズを図っている。ポロシャツを着る者もいれば、シャツ一枚に第一ボタンまで締めている者。シャツの下に着た冷感インナーが見えているにもかかわらず、首元をだらしなく寛げる者もいる。
 汎敷高校は、夏制服になると男女共にシャツのみでの生活を許されるため、女生徒もリボンを付け忘れるということが起きない。なにより、ポロシャツのデザインが評判よく、前年から着用者は増えているらしい。


「水泳部三年生、比企田歩さん」


 いくら窓を全て開放していても、全校生徒が体育館に敷き詰められれば、自然とその場の温度も上昇していく。心ばかりに置かれた扇風機は、端に並んだ生徒と、わざと当たりに行ってるように立つ職員にしか効果を発揮してくれない。
 早くも、この蒸し暑さから逃げたがっている生徒たちに鞭打つように汎敷高校二学期の始業式は始まりを告げる。


「はい」


 うだるような暑さの中、すっくと立ち上がった青年は、清涼な出で立ちをしていた。夏の爽やかさを思わせる刈られたもみあげとさっぱりとしたシースルーバングの前髪。
「夜宮さんのヘアスタイル、凄く涼しそうですね」その一言から始まった唐突な教え子からのアプローチに、一人のコーチが猛烈に喜び美容室にまで連行する、という話はまた別の機会。


「比企田さんは、去る――第94回日本学生水泳選手権において、個人種目・自由形において見事優勝を果たしました。また、団体戦においてもチームのエースとして、総合優勝に大きく貢献しました」


 形式的な声色で台本を読み上げた放送部員は、壇上へ上がるよう促した。演台で待つのは、校長と補佐の女性教師が二人。ちらりと、幕の奥からフラッシュのような瞬きが見えた。放送部の部員たちが、歴史的瞬間を抑えるべくカメラを構えてくれているのだ。
 壇上で向かい合った二人は、深い一礼を交わした。


「第94回日本学生水泳選手権。個人自由形、優勝。三年――比企田歩。よく、頑張ってくれました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」


 慈愛に満ちた校長の丸く柔らかな温かさは、きっと生徒一人ひとりに余すことなく注いできたものに違いない。黒髪がまだ多く残る、明朗な生き様は定年が近いとは思わせない姿だ。
 しかし、そんな校長も珍しく名残惜しそうに、渡した表彰状からゆっくりと手を引いた。高校三年最後の有終の美を飾った、目の前に立つ選手のこれまでと、これからを思って。




 汎敷高校で、最も金メダルと表彰状を持ち帰ってきたと言われる彼。
 ほんの一年ほど前までは、「侵略者」や「人魚の連れ子」などと揶揄されていた選手人生だった。しかし、高校二年の夏、汎敷高校水泳部に本格的に参加するようになってから個人のみならず、チーム全体の成果を上げていったのだ。なにより、引きこもるように行っていた個人練習をやめて、かつて通い詰めていたスイミングスクールに再び顔を出すようにも変化したという。
 彼の淀みのない晴れやかな姿に、「空を走るペンギン」と愛称をつけ親しみ始めたのが誰なのか、時期すらも不明である。「ペンギン」という可愛らしい、男に不釣り合いな言葉は、彼の持つ澄ましたようなジト目に一目惚れした奥様方や女性ファンによる発案が始まりだ、と風の噂で囁かれている。


 そして、もう一つ。
 汎敷高校では、同時期にある卒業生が一年生で大学駅伝出走メンバーに選抜されるというニュースが学内の掲示板を彩っていた。九月と、まだまだ選定まで時期尚早な中でのメンバー入りは相当の速さと記録が無いと果たせない偉業である。
 これには、校長も舞い上がり、徹夜して二つの祝賀垂れ幕を作るほどだった。


 そして、校門をくぐる多くの生徒たちの目につく場所から掛けられたソレは、二学期から早々立派に名を連ねている。
 一人は陸を。一人は水を。
 どちらも制覇した肩を並べる二人の勇姿は、実に壮観である。






「よっす」


 ある総合スポーツセンターのグランドに、一人の男が立っていた。練習を終えたチームメンバーは既に撤収作業を始めており、彼だけまだなにかを待っているようだった。
 日は落ちて、辺りはすっかり夜空に包まれている。


「今日は早かったじゃん」
「いつもより練習が早く終わったんです」


 ぱたぱたと駆けて来る、まだ少しだけ髪の毛が湿っている青年。
 どうやら、二人はここで待ち合わせていたらしい。


「まったく、夜宮さんも大変だな。育ててる教え子が、突然陸上もやっていいかなんて」
「うーん……そうですね、かなり無理させました。スケジュール的な意味で。でも、練習の合間に走ると気分転換になって楽しいんです。スタミナ作りにも最適」
「そりゃ嬉しいわ。……あっ!」


 特に目的地を指すのでもなく、二人はトラックに向かって歩いていた。
 突然、大きな声を上げて立ち止まるので、青年は目を丸くして振り向く。隣を歩いていた男は、青年の靴をまじまじと観察し、「うんうん」と独りでにぼやいていた。


「これ、夜宮さんがアンバサダーやってるブランドの最新モデル……?」
「気付きました?」
「うへぇ~~~、やべえぇ~~ッかっけえー!!!」
「いります? 多分、夜宮さんのことだから、喜んでくれると思いますけど」
「えぇ、いいのぉ? いや、でも、いちファンとしてダメな気が……」


「なんだそりゃ」と、軽快に笑う青年は、小気味よく歩くテンポを早めた。先に待つスタートラインに恋焦がれてやまないのだ。
 二人は、たどり着いた白線の手前に立った。各々、好きなように準備運動をして身体を伸ばしている。


「今日は、勝てるかな?」
「もちろん。その景色を見るために、来てるんです」


 クラウチングの動作に入り、揃って息を吐く。
 一瞬の隙間を縫うように、頬を掠めた秋風が二人の背を追い立てる。


――ピッ!!


 セットしていたタイマーが鳴り、二人は同時に走り出した。