「予選?」
「歩が良ければ来てくれないかなーって」
二学期を迎えた汎敷高校の昼休み。学期はじめも相まって、校内の売店は多くの生徒でごった返していた。廊下まで伸びる長蛇の列を横目に、中庭を抜けると図書室が見えてくる。
この高校の図書室は独立した一つの建物になっていて、外の壁面に沿うようにベンチが幾つか設置してある。向かいに職員棟があるだけで本校舎からは離れているため、静かに休めるところとして知られる名スポットだ。そこでも特に人目につかないのが、更に裏手に回った通学路しか見えないスペース。
ここに一人、いや新学期から二人に増えて、昼休みを過ごす者がいた。
「とりあえず県大会があるんだよね。ってか、水泳もそういうもんでしょ?」
「まあ、そうですね」
「あ、その目もしかしてシードばっかで予選のことなんて眼中にないって言ってるな」
「そうでもないですよ。俺、学校じゃなくて個人として水泳やってるので」
〝個人〟という言葉に改めて感心する。しかし、せっかく学生の特権を持っていながら、学校というチームに属していないのは少々寂しい。
秀輝は、歩が今の高校に飽きて、またどこかに行くのではと眉を下げた。
「とにかく! 来週の土曜日、忘れないでくれよー」
「分かりました」
「ありがとな。じゃあ、また」
手を合わせて、ごちそうさまを一つ。弁当を話し終わりと同時に計算よく食べ終わる秀輝と、数分前から既に完食してしまってコンビニの袋にひとまとめにしている歩。
最近になって導入された紺色のポロシャツを身軽に纏っている秀輝は、空いているほうの手を振りながら建物の影へ消えていった。貴重な昼食の時間を共に潰してくれることが、未だに歩の中で気がかりである。彼は、高校入学以降はじめて着ることに慣れた白い夏制服の通気性の悪さに、短く息を吐いていた。
会場の熱気が外まで漏れていたおかげで、すぐに目的地にたどり着いた。何校か集まっているらしく、会場では運動場の他に、開けた駐車場横の空きスペースで準備運動をしているチームが見られる。
歩は、秀輝以外の顔を知らないので、彼らの様子など特に目もくれない。だからといって、試合前に差し入れを渡しに行くほど図々しくもなれない。どこかのタイミングでもしかしたら会えることが叶うのでは、と一縷の希望を胸にコンビニであれこれ悩み抜いて買ってきたエナジーゼリーやスポーツドリンクを片手に提げ、会場内をうろついていた。
「……はぁ」
そもそも、今日の試合にどれだけの人数が出るのかすら把握していない。漸く腰を落ち着けた高校といえど、いちいち各部活動の人員など知る必要がないのだ。袋の中で汗をかき始めているペットボトルたちを見下ろして、しばしば肩を落とす。
「海虎ー!! 歩ー!!」
突如、聞き覚えのある名前が背後から聞こえた。反射で壁に隠れて音の主をこっそり覗くと、ウェーブのかかった亜麻色の髪をポニーテールに結い上げた可愛らしい後ろ姿が見える。遠目でも分かるその存在感は、まさに美の暴力そのもの。更に歩の気持ちが後退していくのも時間の問題だった。
「おっす、真帆」
「おはよー」
「おはよっ。もー走ってきたよー、はいこれ! 差し入れ、部の皆で分けてね」
「うおーっ!! 相変わらず気が利く」
段々とテンションが上っていく海虎は嬉々として、すぐ近くに置いてあった荷物群からクーラーボックスをせかせか持ち出していた。彼らのバスケチームは保護者などからの支援も手厚いのか、ウォータージャグやひとまとめにされた塩分チャージのタブレットも一緒に置かれているようだ。
自分の出る幕ではない。そう悟って、歩は、その場から立ち去ろうとしていた。
しかし、ある力に邪魔されて出来なかった。
「歩!」
「先輩……」
「良かったー! 人違いじゃなくて」
「……」
歩は、「この人からは一生逃げられない」と、ほとほと観念する。掴まれている左腕を振り払えず、素直に彼のほうを向いた。
「ちゃんと来てくれたんだ」
「来たら駄目でした?」
「ううん、嬉しいよ。……って、俺が誘った側なのに、なに言ってんだか」
オレンジ色のユニフォームの上から半袖の練習着を纏っている彼は、気恥ずかしそうに襟ぐりをパタパタとはためかせた。今更ながら、歩が秀輝のバスケ姿を見るのは、今日が初めてである。バッシュと靴下は同じブランドのもので固めてあり、彼のこだわりが垣間見えた。膝が微かに覗くほどの丈のパンツには、数字の5が印字されている。
「ユニフォーム、カッコイイですね」
「えっ、歩もそう思う?! うわ~嬉し」
「オレンジって見つけやすくて、良いと思います」
「そこなんだよ。俺もさ、ユニフォームがカッコよくてバスケ部に入部したくらいで」
「え、そうだったんですか?」
「まぁ、嘘なんだけど」
頬を膨れさせて、拗ねる歩に大変愉快そうに秀輝は笑った。人付き合いが苦手なせいで、友人の嘘にはころっと騙されてしまうところが最近の彼の悩みであり、秀輝のツボである。
少しでも抵抗の意を見せるべく、歩は、掴まれたままだった腕を振り払った。
「俺、そろそろ行きます」
「えぇ、早くない?」
「良い席で見たいんです。……バスケのことなにも知りませんし」
「めっちゃ嬉しいこと言ってくれるじゃん」
目を丸くして呆けられると、むしろこそばゆい。いよいよ、歩の辛抱も我慢の限界なことに気付いた秀輝は、バチン、と手を合わせた。
「……っし。歩!!」
「は、はい」
「絶対勝つから、絶対見ていてくれ」
「っ!」
思い切り叩いたヒリヒリする右手のひらを見せて、口端を上げた。戦いに行く前の勇ましさを拵えた風貌に、思わず息を呑む。秀輝の目には、きっともう、ゴールが見えているのだろう。
「はいっ……!」
彼の期待に目一杯の鼓舞と有り余る力で応えた。歩の拳は、秀輝の手のひらに受け止められて、確かな成長を称え合っている。
開放されきった通り口から、不意に爽風が二人の間を駆け巡った。
――試合開始まで、あともう少しだ。
「――両チームの選手はコート中央に整列してください」
体育館の床を擦るバッシュの音。一面モップがかけられ、より一層艶めき天井のライトを照り返している。
二階の観客席最前に座った歩は、そわそわしてさきほどから何回も座り直している。
「ただいまより、――県大会、第二試合――対、対汎敷高校の試合を開始いたします」
審判の合図で、両チームメンバーは深く頭を下げた。オレンジ色のユニフォームの汎敷。青色のユニフォームの相手。やがて、ジャンプボールの配置へ、センターサークルにつき始める。部内で身長が最も高く、センターの海虎は前へ出た。
両者睨み合い、対峙する緊張の瞬間。遂に、審判がボールをトスアップする。
動き出すタイマー。海虎と相手センターが飛び上がったのは、ほぼ同時。どちらが先にボールに触れるか互角の勝負だ。四人のスターティングメンバーも息を呑んで、今か今かと相手を牽制し合っている。
「……ッ!」
ボールを先に掠めたのは、海虎だった。相手の指先が触れるほんの僅かなタイミングのズレ。コンマ数秒の世界を彼は奪い取ったのだ。
海虎の背後へ飛んでいったボールを背番号5の背中――秀輝がすかさず掴み取った。
これより、試合開始――。
「はぁぁ……」
また一つ、シュートが入って会場内が歓声で湧き上がる。汎敷高校の点が入っても、相手校の点が入っても一喜一憂が止まらない。いくら、スポーツ大会に選手として出場経験がある歩でも、観客としてまともに応援したことはないので、その一体感にすっかり体力を消耗していた。
現在、第2クォーター終了を知らせるタイマーが鳴り響いたばかり。点差は、汎敷高校が32点。相手校が28点と僅差でせめぎ合っている。
チーム内で最も足が速く、俊敏さを求められているポイントガードの秀輝は、第1クォーター終了後すぐにベンチに下がって温存中だ。キャプテンの海虎が2クォーター分も続いて、広いコート内を何度も何度も往復している姿に、歩はしばし言葉を失っていた。
ハーフタイムに入り、各チームがコーチから指導を受けている真っ最中。無意識のうちに声を出していたらしい歩は、喉が酷く乾いていることを漸く自覚した。とはいえ、自分用に買った飲料水は既に空。あるものとすれば、秀輝に渡し忘れた差し入れくらい。
「うわ、やべ」
今更、ぬるくなった飲料を渡されても困らせるだけだと思っていた束の間。袋から無造作に取り出したペットボトルの結露がズボンにかかった。適当に手で拭きながら、周囲の様子を観察してみる。
「あ……」
特徴的な亜麻色の髪が揺れているのを見つけた。彼女――真帆は、歩と同様に最前で一人、コートの様子を真剣に見守っているようだった。彼女の凛とした睫毛とくっきりした目鼻立ちは、近くで見れば見るほど吸い込まれるなにかがある。もはや、集中しすぎて睨みつけるような表情になってしまっているが、海虎曰く、「これくらいが丁度いい」のだそう。
真帆がどんな人物なのかも知らない歩は、彼女のような澄ました麗人でもバスケの試合に直接足を運んで応援に来ていることに少々興味が湧いた。
彼女は、ある一点を見つめて呆然と手すりに凭れている。そっと視線の先を伺えば、汎敷高校のバスケ部員がシュート練習をしていた。秀輝の姿は見当たらず、よくよく探してみれば、コーチと深く話し込んでいる様子だ。真帆は、イマイチ気が乗らないのか、手すりの上から腕を伸ばしていた。
「集合!!!!!!!」
力強い声がコート内に轟いた。号令をかけたのは、今しがた長い休憩を終えて戻ってきた海虎だ。散らばっていた部員たちは、潮の如く押し寄せ、コーチのもとへ集まった。皆、キャプテンの一声にすっかりスイッチが入った顔をしている。
「は~~~……良かったぁ……」
安堵した彼女の長い嘆息は、重たくもあっという間に霧散した。「なるほど」と歩は、あることを思い出す。試合前に海虎と仲睦まじく話していた様子や、連戦続きで携帯酸素缶を吸っていた彼のことを。情がなければ、チームではなく、いち個人にこれほど喜憂できるものでもない。だから、彼女は、さきほどまでイマイチ気分が乗れていなかったのだ。
――ビーーッ!!!!
「……!」
タイマーが鳴ったと同時に、各部員が交互のポゼッション位置に入る。いよいよ、第3クォーターが開始するのだ。
秀輝が出場メンバーにいるのを見つけて、思わず背筋を伸ばす。歩も歩で、無意識に秀輝という、いち個人に喜憂している同じ穴の狢だった。
「ファイトォ!!!!!! 秀輝ぃー!!!!」
海虎がベンチに入ったにもかかわらず、彼女は腰を上げて、大切な友人に向けて声援を送っていた。数分前まで見ていた姿と打って変わって、熱いなにかをその目に映している凛々しい眼差しは、観客席をも一気に飲み込む覇気がある。
彼女の応援を皮切りに、どっと一斉にボルテージが上がる会場。
歩は、このライブ感を噛み締める。懐かしむように、そして忘れたくなくて、負けじと立ち上がるのだ。彼の久しぶりに出す、張り裂けんばかりの声援は、体育館をこだまする。
第3クォーターに出場する汎敷メンバーは、背番号5、8、11、14、15番で攻撃重視。
対する相手は、背番号4、6、7、9、12番と主力寄りの守備固め。
「ナイッシュー!!」
息を切らしながらでも、その声だけは絶やさせない。ベンチや観客席でエールを送り続けてくれている彼らのためにも。その熱を、終わらせてはいけないのだ。
シュートが入れば、すぐに攻守交代に入る。忙しなく、コート内二八メートルもの長さを全速力で駆け上がる選手たちの姿は、まさに獅子奮迅そのもの。次々と展開していく、シュートのみならずパスの軌道一つで流れを変えてしまう試合状況は、第3クォーターだからこその緊迫感だ。皆が、次なる最終クォーターにいかに繋げるかを、火花を散らすかの如く睨み合っている。
「っ……!」
夢中になっていた歩は、さきほどまで開封するのを躊躇っていた飲料水をいつの間にか飲んでいた。隣でこれでもかと声を張り上げる真帆に奮い立たせられたのだ。
会場内はアドレナリンで溢れかえっているため、なにもストレスを感じない空間だった。自分が観られる側でないこと、誰かを応援すること、声を張り上げること。全ての関係から、縁を断ってきた彼にとって、今この瞬間は未知でワクワクして、黙ってなどいられないのだろう。もとより、歩だって仲間とスポーツを愛していた純粋な子供に過ぎないのだから。
彼は、本来持ち得たはずの捨ててきたものを、漸くかき集め始めたのだろう。
――ピッ!!!
「チャージング!!」
流れは、そう上手く自分たちのものにできない。何度だって汎敷の行く手は、阻まれ続けた。
審判による公正な裁きがゆっくりと下ろされる。
たった今、リバウンドを取った汎敷の8番が速攻でレイアップを決めたところだった。相手ゴール下に人が集中していたから、その隙を狙ったのだろう。しかし、相手チームのシューティングガードが一枚上手だったようだ。いつ、攻守交代しても対応できるように高めに位置を取っていた彼は、レイアップを狙う8番をブロックにかかった。
そして、なにがなんでも点に繋げたかった8番の彼は、その壁を無理に突き破る。シュートは入ったものの、審判はその強情を絶対に見逃さない。8番によって確実に身体が押されたディフェンスのフラつきを認め、瞬時チャージングを下した。結果、得点は無効。
「ドンマイ!!」
秀輝は、副キャプテンとして、より一層チームの背中を叩いた。いくら攻撃重視とはいえ、切り替えが遅ければ発揮されない。あっという間に、あちら側の仕組まれたディフェンスが形成されて一網打尽にされるだろう。
現在、試合開始からかなり進み、点差は汎敷39点、相手41点。逆転されてもなおタイムアウトが挟まれないのは、策があってのこと。
秀輝の脳内で、さきほどのハーフタイムでコーチと話したある作戦が過る。
「リバウンドーッ!!!!」
相手ゴール下でリバウンドを奪い取った秀輝は走り出す。これ以上、点差を開かれては、作戦が水の泡になってしまうのだ。
しかし、何十分も戦い続けているのだから、相手も既に学習済みだ。パスが回らないよう、高めにディフェンスを配置している。
トップで完全に足止めされた秀輝は、チラリとタイマーを流し見た。刻々と零に近づく数字を見て、薄ら笑うように息をつく。
「……」
秀輝は、左手で拳を作り、天へ掲げた。その合図を見たオフェンス側に立つ皆は、確かにその目で頷く。相手も、新たな汎敷の挙動に固唾を呑んで、更に眼前に迫った。
警戒しているせいで、目の前のディフェンスは秀輝のことしか見えていない。だからこそ、その視野の狭くなった瞬間が狙い時なのだ。
「ッ!!!」
秀輝は、左方向へドライブする動きを見せた。守る相手の4番は、即座に反応し、彼の道を阻む――つもりだった。秀輝の動きは見事にフェイントとして成功し、反対の中央右を割り開くように彼は走り出した。そう簡単には行かせんと4番は、軸を戻して秀樹の邪魔をするように追いかける。
しかし、あらゆる策が張り巡らされるバスケでは、裏をかくことなど造作もない。パワーフォワードの位置にいた汎敷14番はすかさず4番の進路を塞ぐようにスクリーンをかけていたのだ。
「ッ!」
一瞬だけ与えられたフリーを無駄にしない。S字をかくようにスネークドリブルで中央へ、秀輝の猛進は止まらない。もう、ゴールは目前だ。
だが、相手4番は、そう簡単に逃してくれないらしい。たった一度のスクリーンぐらいで距離を離すなど言語道断。14番のスクリーンを躱して、軽い身のこなしのまま、秀輝の俊敏さに追いついてくるのだ。
では、相手が守りを堅くすることに徹底するならば、こちらは、守りの攻めに尽力するのみ。センターの汎敷15番は、すかさず4番のバックスクリーンに入った。
再びフリーとなった秀輝は、中央のペイントエリアへぐんぐん踏み込んでいく。
――見えた、ゴール下。
待ち構えるヘルプに入った相手のセンターは、試合開始時に海虎と並び立った長身の男だ。下手に立ち止まっても、上からボールを力づくで奪い取ってくるに違いない。だからといって、無理にシュートを打とうとしても弾かれて、流れをリセットされるだろう。
彼らは今、守ることに精一杯だ。だから、それを有益に使うだけ。
秀輝は、一度減速し怯んだ。「シメた」とばかりに、大きな男が、更に大きく両手を構える。コンマ数秒、センターの彼がブロックのため跳んだ。遂に、それを認めた秀輝は、ドリブルの手を止める。そこからシュートが入ることなど、無謀だと分かっていながら。
「――秀輝には苦労をかけるが、それでもこの作戦をやらないといけない状況が来たら、迷わずにやれ」
「突っ走ってもいいってことですか」
「はは、強気だな。今、勝ってるからって余裕こくなよ?」
「大丈夫ですよ。俺、走ってなんでも解決してきたんで!」
それは、ハーフタイムに話した作戦のこと。コーチである櫛田は、自分の愛するチームの練習着を纏って、腕を組んでいた。練習期間は、酷く疲れた顔をしていたものの、三年生最後の勇姿を見届けられる大会のためか、意気揚々としていて実に大きな背中を見せていた。
「そうかそうか、そりゃ期待しないとな」
「任せてくださいよ」
「……あぁ、そうだな。ほんと、良かったよ。秀輝」
「?」
急にしんみりとした雰囲気になる櫛田に、水筒を飲んでいた手を止めた。
背後では、シュート練習をしている部員たちが和気あいあいとしていて、実に賑やかだ。
「フリースローが治って良かった」
「……! そうですね、迷惑かけました。大切な時期に」
「別に怒っていたわけじゃ――」
「でも!! まだ、治ったかなんて分かりません」
「そ、そうか? 十分、シュートは安定していたようだが」
頭を振って、水筒を左右に揺らした。中で溶け切っていない氷と水がぶつかって、カランと響く。
秀輝は、誇らしげに胸を張って櫛田の不安を薙ぎ払わんと言い放った。
「治ったか、治っていないかは、このあと、お見せしますよ」
――ピーーーッ!!!!
「ディフェンス、ファウル!!!! 青12!!」
「……は」
青のユニフォームを纏う相手センター12番は、瞠って立ち尽くしていた。それは、自分の中では判断できない数秒の出来事。
彼は、ついさきほどまでの、相手の巧妙な罠に見事に嵌ったとも気付かないで、記憶を巡らせていた。
それは、秀輝が12番を前にドリブルをやめる挙動をした瞬間のこと。
彼が見せた〝怯み〟こそ計算されたソレの一つ。12番は、無謀なことをしようとする自分よりも小さな選手を前に、跳び上がり、容赦なく右腕を振り下ろしていく。
秀輝は、「今だ」と眼光を研ぎ澄ませ、シュートモーションを大きく取った。12番の体のほうへ踏み込むように、そして、降りてくる大きな体に接触する形で。
すると、タイミングよく落ちてきた12番の腕が、秀輝のシュートを構える腕に強くぶつかった。まもなく、空中で二人の体が衝突する。秀輝は、わざと体勢を崩した上で、ボールをリング方向へ放ったのだ。実に、したたかに。
12番が、いくら「触っていない」と抗議するも、審判は聞く耳を持たない。
そして、やっと待ちに待った作戦成功の狼煙が上げられる。
「ツーショット!!!!」
体勢を戻した秀輝は、一度ユニフォームで顔の汗を拭いきって息をつく。そして、自ら歩み出て、その線――フリースローラインに立った。
バスケの試合中、最も静かになる場面と言われたら、「まさに今」と彼らは答えるだろう。どよめくことすら禁じられた、緊張と張り詰める集中の渦中。止められたタイマーは、残り数秒の世界であることを指し示している。
何度か屈伸をして、その場所を己に知らしめる。審判からパスを受け取る秀輝の様子を、歩は焦れったくも険しく見守っていた。
『アイツのフリースローが、悪くなってる』
なにを怖がる必要があるのだろう。
『あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ』
歩が、不安がることでもない。
『――大事なものから逃げて、失って、取り戻そうとしなかった俺を変えさせてくれた。俺は、お前に沢山のことを教えてもらった』
なぜなら、きっと、今の秀輝なら、笑って乗り越えてみせるに決まっているから。
『絶対勝つから、絶対見ていてくれ』
歩は、両手を力強く繋いで、希う。何度と見てきた背中。今日は、幾つもの思いが込められた秀輝の努力と確かな生き様が数字として映し出されて、ますます逞しかった。
「あれだけ数字を嫌っていたのに」なんて、皮肉にも彼の持つ偉大な説得力に苦笑が漏れる。
秀輝は、フリースローのルーティンに入っていた。二回バウンドして、深呼吸。最後に、構え。ゆっくりと下がっていく重心。もう後戻りなど出来ない。ボールを掴む両手の感覚も、開いた足の幅も、下げる腰のタイミングも、何一つ問題ない。
一同が息を呑む、一本目。
(――この一球で、今後の試合を掌握してみせる)
跳んだ。するりと、解けていく手首の力から放たれるボールは、高く伸びて弧を描く。下で構える一つのリング。秀輝の身体は、真っ直ぐと地上へ戻ってくる。
(――証明するんだ)
ポスッ、とネットが揺れた。一度、空中で受け止められたボールは、宥められるようにネットを掻い潜って、ゆっくりと落ちる。
「ナイッシュー!!!!!!!」
会場全体が、声援で揺れていた。もう黙ってなどいられないのだ。彼の勇姿を直接目にし、感動に浸っているある者を除いては。
続く二本目も、問題なく点へ繋げた。流れは、完全に秀輝が掠め取ったともいえよう。
現在の点数は41対41。
「さあ、これからだ」と、秀輝の双眸には、青く鮮やかな炎が揺らめく。
――ビーーッ!!!!
そのタイマーの音は、クォーターの終わりを知らせるのではなく、決戦の合図だと言わんばかりにコート内を轟かせるのだった。
「一回戦お疲れ様です、先輩」
「ぅお! あゆむー、ありがとなあ」
その日の試合は既に全て終えて、皆が帰る身支度をしていた。各チームの反省会も終わったらしく、解放されたように学生たちがはしゃぎ回っている。
「ほんとカッコよかったです。なにもかも」
「あはは、嬉しいなあ。バスケ楽しんでもらえて」
「はい! 凄く、久しぶりに、なにかを見て感動しました」
「まじ」
ここまで前のめりに鼻息を荒くするとは思っていなかった。歩からストレートにバスケのことで褒められて、秀輝は、気恥ずかしそうに腕を擦った。いつもは、彼のほうから歩の泳ぎを褒めていたから、余計にむず痒かったのだ
「まだ試合はあるんですよね」
「そうだな、明日の日曜に続きがある。そこで、勝ったら来週」
「ほんと凄いですね。あんなに走ってたのに、まだ走るなんて」
「そうだねえ。でも、これが普通になっちゃってて、どうもキツくないんだよ……むしろ気持ちいーって思う」
「やっぱ先輩って、自分にとことん鬼なんですね」
なんとなく、秀輝の掴めない性格が分かってきたようだった。彼が、自分に鞭を打ち続けるのは、好きに真っ直ぐでひたむきでありたい気持ちの表れなのだろう。
「……あの、先輩。これ、もう、ぬるくなってて美味しくないと思うんですが」
「んー? あ! いいの?」
「いや、だから、ぬるくなってて……」
「いいんだよ!! その気持が嬉しいんだからさ」
朝より軽くなったコンビニの袋を持ち出すと、楽しそうに物色されて居た堪れない。火照った運動後の身体になにが効くのだろうと首をひねった。
「こういうのはさ、帰って冷凍庫に入れておくのが一番なんだよ」
「氷にしちゃうんですか?」
「そーそー、そしたら次の日、一日中冷たさと美味しさを保ってくれる。一石二鳥だろ?」
「まあ、それで先輩が助かるなら……」
「大助かりだよ! 今日だけで差し入れ分の飲料すっからかんになったからさ」
「それに……」と、まだ氷にもなっていないのに、生温いペットボトルを頬に当てて爽快に笑った。
「水分補給の度に、歩の応援貰ってるーって思う、マジ絶対頑張れる」
つむじのてっぺんから汗でびしょびしょになってしまっても、秀輝の煌めきは流せない。試合の喝として、念入りにセットされたセンターパートもまだ元気に立ち上がったままで、丸い額を見せている。
「秀輝ー送迎のお時間ですよーっと、あら歩くんご無沙汰」
「海虎さん、お疲れ様です」
「おつかれー、来てたんだね。……あ、見た? コイツのフリースロー」
「はい、もちろん」
振り返れば、歩に秀輝の変化を最初から知らせてくれていたのは、紛れもなく海虎という存在のおかげだった。「俺の話はいいから」と唇を尖らせる秀輝の肩に手を置いて、早速茶化し合う姿に微笑む。
「そもそもなぁ、歩くんは知らないと思うけど、フリースローってジャンプしなくてもいいんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「あー!! ちょっと、それ」
「そうそう、秀輝さぁ、バスケ始めたの高一からだから、最初マジでシュート下手くそだったんだよ。だから、ジャンプしてみたら? って」
「そしたら、届いたんですね」
「う”わー!! もう、やめろー!!!」
フリースローのやり方に厳しいルールはない。ジャンプをしてもしなくても、なにも問題はないのだ。しかし、ジャンプをするリスキーさを彼らは知っている。
「フリースローには、ラインがあってね。そこを少しでも超えちゃったら点とっても無効になる。だから、秀輝のフリースローの乱れは直さないといけない課題だったんだ」
「……そうだよ。今更、染み付いたフォームを変えられるほど楽じゃないんだ」
「でも、治してみせたじゃねえか。点も繋いだ。それだけで万々歳じゃんな」
海虎は、秀輝の背後に回り両腕を掴んで持ち上げた。「わーい」と勝手にセリフを付けられて、なすがままの彼は完全に諦めモードである。
「俺だけの力じゃないよ。そりゃ、もちろん俺も頑張った自覚はちゃんとしてるけど、でも……歩と海虎にはもっと支えてもらったから」
項垂れていた姿勢を戻して、海虎の厄介を静止した。
「一人じゃ、こんな景色、絶対見られなかった」
腹の底から湧き上がる言葉では説明できない感情が、その顔に滲む。珍しく、海虎も照れて、ぶっきらぼうに秀輝の肩を揺すっていた。歩は、彼らに向けて親指を立てて、その手を伸ばした。
「ナイスチーム!!! ですっ」
「歩が良ければ来てくれないかなーって」
二学期を迎えた汎敷高校の昼休み。学期はじめも相まって、校内の売店は多くの生徒でごった返していた。廊下まで伸びる長蛇の列を横目に、中庭を抜けると図書室が見えてくる。
この高校の図書室は独立した一つの建物になっていて、外の壁面に沿うようにベンチが幾つか設置してある。向かいに職員棟があるだけで本校舎からは離れているため、静かに休めるところとして知られる名スポットだ。そこでも特に人目につかないのが、更に裏手に回った通学路しか見えないスペース。
ここに一人、いや新学期から二人に増えて、昼休みを過ごす者がいた。
「とりあえず県大会があるんだよね。ってか、水泳もそういうもんでしょ?」
「まあ、そうですね」
「あ、その目もしかしてシードばっかで予選のことなんて眼中にないって言ってるな」
「そうでもないですよ。俺、学校じゃなくて個人として水泳やってるので」
〝個人〟という言葉に改めて感心する。しかし、せっかく学生の特権を持っていながら、学校というチームに属していないのは少々寂しい。
秀輝は、歩が今の高校に飽きて、またどこかに行くのではと眉を下げた。
「とにかく! 来週の土曜日、忘れないでくれよー」
「分かりました」
「ありがとな。じゃあ、また」
手を合わせて、ごちそうさまを一つ。弁当を話し終わりと同時に計算よく食べ終わる秀輝と、数分前から既に完食してしまってコンビニの袋にひとまとめにしている歩。
最近になって導入された紺色のポロシャツを身軽に纏っている秀輝は、空いているほうの手を振りながら建物の影へ消えていった。貴重な昼食の時間を共に潰してくれることが、未だに歩の中で気がかりである。彼は、高校入学以降はじめて着ることに慣れた白い夏制服の通気性の悪さに、短く息を吐いていた。
会場の熱気が外まで漏れていたおかげで、すぐに目的地にたどり着いた。何校か集まっているらしく、会場では運動場の他に、開けた駐車場横の空きスペースで準備運動をしているチームが見られる。
歩は、秀輝以外の顔を知らないので、彼らの様子など特に目もくれない。だからといって、試合前に差し入れを渡しに行くほど図々しくもなれない。どこかのタイミングでもしかしたら会えることが叶うのでは、と一縷の希望を胸にコンビニであれこれ悩み抜いて買ってきたエナジーゼリーやスポーツドリンクを片手に提げ、会場内をうろついていた。
「……はぁ」
そもそも、今日の試合にどれだけの人数が出るのかすら把握していない。漸く腰を落ち着けた高校といえど、いちいち各部活動の人員など知る必要がないのだ。袋の中で汗をかき始めているペットボトルたちを見下ろして、しばしば肩を落とす。
「海虎ー!! 歩ー!!」
突如、聞き覚えのある名前が背後から聞こえた。反射で壁に隠れて音の主をこっそり覗くと、ウェーブのかかった亜麻色の髪をポニーテールに結い上げた可愛らしい後ろ姿が見える。遠目でも分かるその存在感は、まさに美の暴力そのもの。更に歩の気持ちが後退していくのも時間の問題だった。
「おっす、真帆」
「おはよー」
「おはよっ。もー走ってきたよー、はいこれ! 差し入れ、部の皆で分けてね」
「うおーっ!! 相変わらず気が利く」
段々とテンションが上っていく海虎は嬉々として、すぐ近くに置いてあった荷物群からクーラーボックスをせかせか持ち出していた。彼らのバスケチームは保護者などからの支援も手厚いのか、ウォータージャグやひとまとめにされた塩分チャージのタブレットも一緒に置かれているようだ。
自分の出る幕ではない。そう悟って、歩は、その場から立ち去ろうとしていた。
しかし、ある力に邪魔されて出来なかった。
「歩!」
「先輩……」
「良かったー! 人違いじゃなくて」
「……」
歩は、「この人からは一生逃げられない」と、ほとほと観念する。掴まれている左腕を振り払えず、素直に彼のほうを向いた。
「ちゃんと来てくれたんだ」
「来たら駄目でした?」
「ううん、嬉しいよ。……って、俺が誘った側なのに、なに言ってんだか」
オレンジ色のユニフォームの上から半袖の練習着を纏っている彼は、気恥ずかしそうに襟ぐりをパタパタとはためかせた。今更ながら、歩が秀輝のバスケ姿を見るのは、今日が初めてである。バッシュと靴下は同じブランドのもので固めてあり、彼のこだわりが垣間見えた。膝が微かに覗くほどの丈のパンツには、数字の5が印字されている。
「ユニフォーム、カッコイイですね」
「えっ、歩もそう思う?! うわ~嬉し」
「オレンジって見つけやすくて、良いと思います」
「そこなんだよ。俺もさ、ユニフォームがカッコよくてバスケ部に入部したくらいで」
「え、そうだったんですか?」
「まぁ、嘘なんだけど」
頬を膨れさせて、拗ねる歩に大変愉快そうに秀輝は笑った。人付き合いが苦手なせいで、友人の嘘にはころっと騙されてしまうところが最近の彼の悩みであり、秀輝のツボである。
少しでも抵抗の意を見せるべく、歩は、掴まれたままだった腕を振り払った。
「俺、そろそろ行きます」
「えぇ、早くない?」
「良い席で見たいんです。……バスケのことなにも知りませんし」
「めっちゃ嬉しいこと言ってくれるじゃん」
目を丸くして呆けられると、むしろこそばゆい。いよいよ、歩の辛抱も我慢の限界なことに気付いた秀輝は、バチン、と手を合わせた。
「……っし。歩!!」
「は、はい」
「絶対勝つから、絶対見ていてくれ」
「っ!」
思い切り叩いたヒリヒリする右手のひらを見せて、口端を上げた。戦いに行く前の勇ましさを拵えた風貌に、思わず息を呑む。秀輝の目には、きっともう、ゴールが見えているのだろう。
「はいっ……!」
彼の期待に目一杯の鼓舞と有り余る力で応えた。歩の拳は、秀輝の手のひらに受け止められて、確かな成長を称え合っている。
開放されきった通り口から、不意に爽風が二人の間を駆け巡った。
――試合開始まで、あともう少しだ。
「――両チームの選手はコート中央に整列してください」
体育館の床を擦るバッシュの音。一面モップがかけられ、より一層艶めき天井のライトを照り返している。
二階の観客席最前に座った歩は、そわそわしてさきほどから何回も座り直している。
「ただいまより、――県大会、第二試合――対、対汎敷高校の試合を開始いたします」
審判の合図で、両チームメンバーは深く頭を下げた。オレンジ色のユニフォームの汎敷。青色のユニフォームの相手。やがて、ジャンプボールの配置へ、センターサークルにつき始める。部内で身長が最も高く、センターの海虎は前へ出た。
両者睨み合い、対峙する緊張の瞬間。遂に、審判がボールをトスアップする。
動き出すタイマー。海虎と相手センターが飛び上がったのは、ほぼ同時。どちらが先にボールに触れるか互角の勝負だ。四人のスターティングメンバーも息を呑んで、今か今かと相手を牽制し合っている。
「……ッ!」
ボールを先に掠めたのは、海虎だった。相手の指先が触れるほんの僅かなタイミングのズレ。コンマ数秒の世界を彼は奪い取ったのだ。
海虎の背後へ飛んでいったボールを背番号5の背中――秀輝がすかさず掴み取った。
これより、試合開始――。
「はぁぁ……」
また一つ、シュートが入って会場内が歓声で湧き上がる。汎敷高校の点が入っても、相手校の点が入っても一喜一憂が止まらない。いくら、スポーツ大会に選手として出場経験がある歩でも、観客としてまともに応援したことはないので、その一体感にすっかり体力を消耗していた。
現在、第2クォーター終了を知らせるタイマーが鳴り響いたばかり。点差は、汎敷高校が32点。相手校が28点と僅差でせめぎ合っている。
チーム内で最も足が速く、俊敏さを求められているポイントガードの秀輝は、第1クォーター終了後すぐにベンチに下がって温存中だ。キャプテンの海虎が2クォーター分も続いて、広いコート内を何度も何度も往復している姿に、歩はしばし言葉を失っていた。
ハーフタイムに入り、各チームがコーチから指導を受けている真っ最中。無意識のうちに声を出していたらしい歩は、喉が酷く乾いていることを漸く自覚した。とはいえ、自分用に買った飲料水は既に空。あるものとすれば、秀輝に渡し忘れた差し入れくらい。
「うわ、やべ」
今更、ぬるくなった飲料を渡されても困らせるだけだと思っていた束の間。袋から無造作に取り出したペットボトルの結露がズボンにかかった。適当に手で拭きながら、周囲の様子を観察してみる。
「あ……」
特徴的な亜麻色の髪が揺れているのを見つけた。彼女――真帆は、歩と同様に最前で一人、コートの様子を真剣に見守っているようだった。彼女の凛とした睫毛とくっきりした目鼻立ちは、近くで見れば見るほど吸い込まれるなにかがある。もはや、集中しすぎて睨みつけるような表情になってしまっているが、海虎曰く、「これくらいが丁度いい」のだそう。
真帆がどんな人物なのかも知らない歩は、彼女のような澄ました麗人でもバスケの試合に直接足を運んで応援に来ていることに少々興味が湧いた。
彼女は、ある一点を見つめて呆然と手すりに凭れている。そっと視線の先を伺えば、汎敷高校のバスケ部員がシュート練習をしていた。秀輝の姿は見当たらず、よくよく探してみれば、コーチと深く話し込んでいる様子だ。真帆は、イマイチ気が乗らないのか、手すりの上から腕を伸ばしていた。
「集合!!!!!!!」
力強い声がコート内に轟いた。号令をかけたのは、今しがた長い休憩を終えて戻ってきた海虎だ。散らばっていた部員たちは、潮の如く押し寄せ、コーチのもとへ集まった。皆、キャプテンの一声にすっかりスイッチが入った顔をしている。
「は~~~……良かったぁ……」
安堵した彼女の長い嘆息は、重たくもあっという間に霧散した。「なるほど」と歩は、あることを思い出す。試合前に海虎と仲睦まじく話していた様子や、連戦続きで携帯酸素缶を吸っていた彼のことを。情がなければ、チームではなく、いち個人にこれほど喜憂できるものでもない。だから、彼女は、さきほどまでイマイチ気分が乗れていなかったのだ。
――ビーーッ!!!!
「……!」
タイマーが鳴ったと同時に、各部員が交互のポゼッション位置に入る。いよいよ、第3クォーターが開始するのだ。
秀輝が出場メンバーにいるのを見つけて、思わず背筋を伸ばす。歩も歩で、無意識に秀輝という、いち個人に喜憂している同じ穴の狢だった。
「ファイトォ!!!!!! 秀輝ぃー!!!!」
海虎がベンチに入ったにもかかわらず、彼女は腰を上げて、大切な友人に向けて声援を送っていた。数分前まで見ていた姿と打って変わって、熱いなにかをその目に映している凛々しい眼差しは、観客席をも一気に飲み込む覇気がある。
彼女の応援を皮切りに、どっと一斉にボルテージが上がる会場。
歩は、このライブ感を噛み締める。懐かしむように、そして忘れたくなくて、負けじと立ち上がるのだ。彼の久しぶりに出す、張り裂けんばかりの声援は、体育館をこだまする。
第3クォーターに出場する汎敷メンバーは、背番号5、8、11、14、15番で攻撃重視。
対する相手は、背番号4、6、7、9、12番と主力寄りの守備固め。
「ナイッシュー!!」
息を切らしながらでも、その声だけは絶やさせない。ベンチや観客席でエールを送り続けてくれている彼らのためにも。その熱を、終わらせてはいけないのだ。
シュートが入れば、すぐに攻守交代に入る。忙しなく、コート内二八メートルもの長さを全速力で駆け上がる選手たちの姿は、まさに獅子奮迅そのもの。次々と展開していく、シュートのみならずパスの軌道一つで流れを変えてしまう試合状況は、第3クォーターだからこその緊迫感だ。皆が、次なる最終クォーターにいかに繋げるかを、火花を散らすかの如く睨み合っている。
「っ……!」
夢中になっていた歩は、さきほどまで開封するのを躊躇っていた飲料水をいつの間にか飲んでいた。隣でこれでもかと声を張り上げる真帆に奮い立たせられたのだ。
会場内はアドレナリンで溢れかえっているため、なにもストレスを感じない空間だった。自分が観られる側でないこと、誰かを応援すること、声を張り上げること。全ての関係から、縁を断ってきた彼にとって、今この瞬間は未知でワクワクして、黙ってなどいられないのだろう。もとより、歩だって仲間とスポーツを愛していた純粋な子供に過ぎないのだから。
彼は、本来持ち得たはずの捨ててきたものを、漸くかき集め始めたのだろう。
――ピッ!!!
「チャージング!!」
流れは、そう上手く自分たちのものにできない。何度だって汎敷の行く手は、阻まれ続けた。
審判による公正な裁きがゆっくりと下ろされる。
たった今、リバウンドを取った汎敷の8番が速攻でレイアップを決めたところだった。相手ゴール下に人が集中していたから、その隙を狙ったのだろう。しかし、相手チームのシューティングガードが一枚上手だったようだ。いつ、攻守交代しても対応できるように高めに位置を取っていた彼は、レイアップを狙う8番をブロックにかかった。
そして、なにがなんでも点に繋げたかった8番の彼は、その壁を無理に突き破る。シュートは入ったものの、審判はその強情を絶対に見逃さない。8番によって確実に身体が押されたディフェンスのフラつきを認め、瞬時チャージングを下した。結果、得点は無効。
「ドンマイ!!」
秀輝は、副キャプテンとして、より一層チームの背中を叩いた。いくら攻撃重視とはいえ、切り替えが遅ければ発揮されない。あっという間に、あちら側の仕組まれたディフェンスが形成されて一網打尽にされるだろう。
現在、試合開始からかなり進み、点差は汎敷39点、相手41点。逆転されてもなおタイムアウトが挟まれないのは、策があってのこと。
秀輝の脳内で、さきほどのハーフタイムでコーチと話したある作戦が過る。
「リバウンドーッ!!!!」
相手ゴール下でリバウンドを奪い取った秀輝は走り出す。これ以上、点差を開かれては、作戦が水の泡になってしまうのだ。
しかし、何十分も戦い続けているのだから、相手も既に学習済みだ。パスが回らないよう、高めにディフェンスを配置している。
トップで完全に足止めされた秀輝は、チラリとタイマーを流し見た。刻々と零に近づく数字を見て、薄ら笑うように息をつく。
「……」
秀輝は、左手で拳を作り、天へ掲げた。その合図を見たオフェンス側に立つ皆は、確かにその目で頷く。相手も、新たな汎敷の挙動に固唾を呑んで、更に眼前に迫った。
警戒しているせいで、目の前のディフェンスは秀輝のことしか見えていない。だからこそ、その視野の狭くなった瞬間が狙い時なのだ。
「ッ!!!」
秀輝は、左方向へドライブする動きを見せた。守る相手の4番は、即座に反応し、彼の道を阻む――つもりだった。秀輝の動きは見事にフェイントとして成功し、反対の中央右を割り開くように彼は走り出した。そう簡単には行かせんと4番は、軸を戻して秀樹の邪魔をするように追いかける。
しかし、あらゆる策が張り巡らされるバスケでは、裏をかくことなど造作もない。パワーフォワードの位置にいた汎敷14番はすかさず4番の進路を塞ぐようにスクリーンをかけていたのだ。
「ッ!」
一瞬だけ与えられたフリーを無駄にしない。S字をかくようにスネークドリブルで中央へ、秀輝の猛進は止まらない。もう、ゴールは目前だ。
だが、相手4番は、そう簡単に逃してくれないらしい。たった一度のスクリーンぐらいで距離を離すなど言語道断。14番のスクリーンを躱して、軽い身のこなしのまま、秀輝の俊敏さに追いついてくるのだ。
では、相手が守りを堅くすることに徹底するならば、こちらは、守りの攻めに尽力するのみ。センターの汎敷15番は、すかさず4番のバックスクリーンに入った。
再びフリーとなった秀輝は、中央のペイントエリアへぐんぐん踏み込んでいく。
――見えた、ゴール下。
待ち構えるヘルプに入った相手のセンターは、試合開始時に海虎と並び立った長身の男だ。下手に立ち止まっても、上からボールを力づくで奪い取ってくるに違いない。だからといって、無理にシュートを打とうとしても弾かれて、流れをリセットされるだろう。
彼らは今、守ることに精一杯だ。だから、それを有益に使うだけ。
秀輝は、一度減速し怯んだ。「シメた」とばかりに、大きな男が、更に大きく両手を構える。コンマ数秒、センターの彼がブロックのため跳んだ。遂に、それを認めた秀輝は、ドリブルの手を止める。そこからシュートが入ることなど、無謀だと分かっていながら。
「――秀輝には苦労をかけるが、それでもこの作戦をやらないといけない状況が来たら、迷わずにやれ」
「突っ走ってもいいってことですか」
「はは、強気だな。今、勝ってるからって余裕こくなよ?」
「大丈夫ですよ。俺、走ってなんでも解決してきたんで!」
それは、ハーフタイムに話した作戦のこと。コーチである櫛田は、自分の愛するチームの練習着を纏って、腕を組んでいた。練習期間は、酷く疲れた顔をしていたものの、三年生最後の勇姿を見届けられる大会のためか、意気揚々としていて実に大きな背中を見せていた。
「そうかそうか、そりゃ期待しないとな」
「任せてくださいよ」
「……あぁ、そうだな。ほんと、良かったよ。秀輝」
「?」
急にしんみりとした雰囲気になる櫛田に、水筒を飲んでいた手を止めた。
背後では、シュート練習をしている部員たちが和気あいあいとしていて、実に賑やかだ。
「フリースローが治って良かった」
「……! そうですね、迷惑かけました。大切な時期に」
「別に怒っていたわけじゃ――」
「でも!! まだ、治ったかなんて分かりません」
「そ、そうか? 十分、シュートは安定していたようだが」
頭を振って、水筒を左右に揺らした。中で溶け切っていない氷と水がぶつかって、カランと響く。
秀輝は、誇らしげに胸を張って櫛田の不安を薙ぎ払わんと言い放った。
「治ったか、治っていないかは、このあと、お見せしますよ」
――ピーーーッ!!!!
「ディフェンス、ファウル!!!! 青12!!」
「……は」
青のユニフォームを纏う相手センター12番は、瞠って立ち尽くしていた。それは、自分の中では判断できない数秒の出来事。
彼は、ついさきほどまでの、相手の巧妙な罠に見事に嵌ったとも気付かないで、記憶を巡らせていた。
それは、秀輝が12番を前にドリブルをやめる挙動をした瞬間のこと。
彼が見せた〝怯み〟こそ計算されたソレの一つ。12番は、無謀なことをしようとする自分よりも小さな選手を前に、跳び上がり、容赦なく右腕を振り下ろしていく。
秀輝は、「今だ」と眼光を研ぎ澄ませ、シュートモーションを大きく取った。12番の体のほうへ踏み込むように、そして、降りてくる大きな体に接触する形で。
すると、タイミングよく落ちてきた12番の腕が、秀輝のシュートを構える腕に強くぶつかった。まもなく、空中で二人の体が衝突する。秀輝は、わざと体勢を崩した上で、ボールをリング方向へ放ったのだ。実に、したたかに。
12番が、いくら「触っていない」と抗議するも、審判は聞く耳を持たない。
そして、やっと待ちに待った作戦成功の狼煙が上げられる。
「ツーショット!!!!」
体勢を戻した秀輝は、一度ユニフォームで顔の汗を拭いきって息をつく。そして、自ら歩み出て、その線――フリースローラインに立った。
バスケの試合中、最も静かになる場面と言われたら、「まさに今」と彼らは答えるだろう。どよめくことすら禁じられた、緊張と張り詰める集中の渦中。止められたタイマーは、残り数秒の世界であることを指し示している。
何度か屈伸をして、その場所を己に知らしめる。審判からパスを受け取る秀輝の様子を、歩は焦れったくも険しく見守っていた。
『アイツのフリースローが、悪くなってる』
なにを怖がる必要があるのだろう。
『あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ』
歩が、不安がることでもない。
『――大事なものから逃げて、失って、取り戻そうとしなかった俺を変えさせてくれた。俺は、お前に沢山のことを教えてもらった』
なぜなら、きっと、今の秀輝なら、笑って乗り越えてみせるに決まっているから。
『絶対勝つから、絶対見ていてくれ』
歩は、両手を力強く繋いで、希う。何度と見てきた背中。今日は、幾つもの思いが込められた秀輝の努力と確かな生き様が数字として映し出されて、ますます逞しかった。
「あれだけ数字を嫌っていたのに」なんて、皮肉にも彼の持つ偉大な説得力に苦笑が漏れる。
秀輝は、フリースローのルーティンに入っていた。二回バウンドして、深呼吸。最後に、構え。ゆっくりと下がっていく重心。もう後戻りなど出来ない。ボールを掴む両手の感覚も、開いた足の幅も、下げる腰のタイミングも、何一つ問題ない。
一同が息を呑む、一本目。
(――この一球で、今後の試合を掌握してみせる)
跳んだ。するりと、解けていく手首の力から放たれるボールは、高く伸びて弧を描く。下で構える一つのリング。秀輝の身体は、真っ直ぐと地上へ戻ってくる。
(――証明するんだ)
ポスッ、とネットが揺れた。一度、空中で受け止められたボールは、宥められるようにネットを掻い潜って、ゆっくりと落ちる。
「ナイッシュー!!!!!!!」
会場全体が、声援で揺れていた。もう黙ってなどいられないのだ。彼の勇姿を直接目にし、感動に浸っているある者を除いては。
続く二本目も、問題なく点へ繋げた。流れは、完全に秀輝が掠め取ったともいえよう。
現在の点数は41対41。
「さあ、これからだ」と、秀輝の双眸には、青く鮮やかな炎が揺らめく。
――ビーーッ!!!!
そのタイマーの音は、クォーターの終わりを知らせるのではなく、決戦の合図だと言わんばかりにコート内を轟かせるのだった。
「一回戦お疲れ様です、先輩」
「ぅお! あゆむー、ありがとなあ」
その日の試合は既に全て終えて、皆が帰る身支度をしていた。各チームの反省会も終わったらしく、解放されたように学生たちがはしゃぎ回っている。
「ほんとカッコよかったです。なにもかも」
「あはは、嬉しいなあ。バスケ楽しんでもらえて」
「はい! 凄く、久しぶりに、なにかを見て感動しました」
「まじ」
ここまで前のめりに鼻息を荒くするとは思っていなかった。歩からストレートにバスケのことで褒められて、秀輝は、気恥ずかしそうに腕を擦った。いつもは、彼のほうから歩の泳ぎを褒めていたから、余計にむず痒かったのだ
「まだ試合はあるんですよね」
「そうだな、明日の日曜に続きがある。そこで、勝ったら来週」
「ほんと凄いですね。あんなに走ってたのに、まだ走るなんて」
「そうだねえ。でも、これが普通になっちゃってて、どうもキツくないんだよ……むしろ気持ちいーって思う」
「やっぱ先輩って、自分にとことん鬼なんですね」
なんとなく、秀輝の掴めない性格が分かってきたようだった。彼が、自分に鞭を打ち続けるのは、好きに真っ直ぐでひたむきでありたい気持ちの表れなのだろう。
「……あの、先輩。これ、もう、ぬるくなってて美味しくないと思うんですが」
「んー? あ! いいの?」
「いや、だから、ぬるくなってて……」
「いいんだよ!! その気持が嬉しいんだからさ」
朝より軽くなったコンビニの袋を持ち出すと、楽しそうに物色されて居た堪れない。火照った運動後の身体になにが効くのだろうと首をひねった。
「こういうのはさ、帰って冷凍庫に入れておくのが一番なんだよ」
「氷にしちゃうんですか?」
「そーそー、そしたら次の日、一日中冷たさと美味しさを保ってくれる。一石二鳥だろ?」
「まあ、それで先輩が助かるなら……」
「大助かりだよ! 今日だけで差し入れ分の飲料すっからかんになったからさ」
「それに……」と、まだ氷にもなっていないのに、生温いペットボトルを頬に当てて爽快に笑った。
「水分補給の度に、歩の応援貰ってるーって思う、マジ絶対頑張れる」
つむじのてっぺんから汗でびしょびしょになってしまっても、秀輝の煌めきは流せない。試合の喝として、念入りにセットされたセンターパートもまだ元気に立ち上がったままで、丸い額を見せている。
「秀輝ー送迎のお時間ですよーっと、あら歩くんご無沙汰」
「海虎さん、お疲れ様です」
「おつかれー、来てたんだね。……あ、見た? コイツのフリースロー」
「はい、もちろん」
振り返れば、歩に秀輝の変化を最初から知らせてくれていたのは、紛れもなく海虎という存在のおかげだった。「俺の話はいいから」と唇を尖らせる秀輝の肩に手を置いて、早速茶化し合う姿に微笑む。
「そもそもなぁ、歩くんは知らないと思うけど、フリースローってジャンプしなくてもいいんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「あー!! ちょっと、それ」
「そうそう、秀輝さぁ、バスケ始めたの高一からだから、最初マジでシュート下手くそだったんだよ。だから、ジャンプしてみたら? って」
「そしたら、届いたんですね」
「う”わー!! もう、やめろー!!!」
フリースローのやり方に厳しいルールはない。ジャンプをしてもしなくても、なにも問題はないのだ。しかし、ジャンプをするリスキーさを彼らは知っている。
「フリースローには、ラインがあってね。そこを少しでも超えちゃったら点とっても無効になる。だから、秀輝のフリースローの乱れは直さないといけない課題だったんだ」
「……そうだよ。今更、染み付いたフォームを変えられるほど楽じゃないんだ」
「でも、治してみせたじゃねえか。点も繋いだ。それだけで万々歳じゃんな」
海虎は、秀輝の背後に回り両腕を掴んで持ち上げた。「わーい」と勝手にセリフを付けられて、なすがままの彼は完全に諦めモードである。
「俺だけの力じゃないよ。そりゃ、もちろん俺も頑張った自覚はちゃんとしてるけど、でも……歩と海虎にはもっと支えてもらったから」
項垂れていた姿勢を戻して、海虎の厄介を静止した。
「一人じゃ、こんな景色、絶対見られなかった」
腹の底から湧き上がる言葉では説明できない感情が、その顔に滲む。珍しく、海虎も照れて、ぶっきらぼうに秀輝の肩を揺すっていた。歩は、彼らに向けて親指を立てて、その手を伸ばした。
「ナイスチーム!!! ですっ」
