海獣だって走りたい

「俺、小さいときは陸上がてんでだめで……そこで出会ったのが、水泳だったんです」


 潮が届かない乾いた砂の上で、二人は腰を落ち着けた。キメの細かいさらさらとした手触りは、ほどよく表面に熱を浮かべている。肌を押し付けてみると、奥底に隠された微かな冷気を見つけた。
 ずぶ濡れになった二人の靴は傍らで放置されて、アリエルに遊ばれている。乾いてこびりついた砂を取り去るのも億劫で、素足のまま爪先を丸めた。


「親に頼み込んでスイミング教室に通い始めました」
「へぇ、良い両親だね」
「……ふ。……自由に水の中で泳ぎ回って、生きた心地がしたんです。そこに行けば、気の合う仲間も沢山いて……」


 目の前に広がる水平線を一望して歩は、「今が夏で良かった」と胸中で安堵した。まだまだ居座ってくれる太陽のおかげで、綺麗な夕焼けを秀輝と共に長く浸れるのだ。
 歩は、その燦然たる海から目を離さない。秀輝も同様で、胡座をかいていた足を伸ばし、うんと大きく深呼吸をした。


「水泳は、こんな俺でも唯一、誰かと対話ができる手段でした」


 それは、彼――比企田歩が侵略者になるまでのお話。






「おはようございます。あなたが、比企田歩くんですね」
「……? おはようございます。比企田です」
「良かった、会いたかったのよ」


 中学に上がり、大会出場実績を着々と重ね始めていた矢先のこと。機は突然訪れた。
 いつもの決まった時間にプールの受付にやって来る歩に声をかけたのは、見知らぬ女性だった。下ろし立てのレディーススーツに身を包み、セミロングほどの黒髪を上品に巻いている姿は、まさにキャリアウーマンと称されるだろう。理知的な目つきをしているものの、中学生を相手に屈み込んで笑顔を振る舞う様子に、思春期男子はまんまと乗せられている様子だ。


「おはよう、歩!」
「コーチ! おはようございます」


 大人の女性を前に石化していた歩に助け舟を出したのは、小学生から彼の泳ぎを見ているコーチだった。女性とは知り合いだったらしく、歩でも分かるような社交辞令で簡単に挨拶をこなしている。
 そんな大人たちの会話から聞こえてくる共通の話題は、歩のことばかり。頭上で繰り出される自分の名前にばつが悪くなり、二人の間をくぐり抜けて立ち去ろうとしていた。しかし、呆気なくコーチに掴まれ、すぐに体ごと元いた場所に戻されてしまう。


 こうして流れに逆らえず、施設内にある会議室まで半強制的にやってきた。


「初めまして、夜宮水月と言います」
「あ、あなたが……夜宮選手……」
「んはは」


 第一印象は、なにがおかしくて笑っているのだろうと不思議な気持ちにさせられていた。引退して数年ぶりに見るアスリートの姿は、想像していたよりも劣りが無かったのだ。むしろ、ただの会議室だというのにテレビの取材でも来ているのかと思わせるほど、入っている(・・・・)と感じた。それは、水月がお忍び用に纏う真っ黒なジャージとマスクでは隠しきれていないくらいに。
 大人同士の形式的な礼儀を聞き流しながら室内を見渡すも、特に目立つカメラなどは見受けられなかった。もとより、出入り口からプールまでの道順しか知らない歩にとって、会議室の普段の姿など分かるはずもない。


「それにしても、凄いですね。受付に飾ってあったトロフィーや賞状の数……中々の名コーチだとお見受けしました」
「いえ、あれは全てうちの生徒たちが、自分の力で努力して勝ち取ったものですから」
「……子供たちも素敵なコーチを持たれてさぞ幸せでしょう。……特に、比企田くん。君の名前が多く残ってた」


 話の焦点を自然と本題のほうへと合わせていく巧みな話術。地元では目にかかれない美しい女性を前に、頬杖をついて呆けていた歩はぎくりと目を瞠った。


「ぁ、……ありがとうございます。コーチのおかげなので……」
「はぇ~、立派だね」
「い、いえ! あれこれと直すところがいっぱいで、まだまだです」


 尻すぼみになっていく声に、最後まで水月は相槌を打ち続けている。隣に座る女性とは対照的に、身を乗り出してまで聞きたい話題だろうか。歩は、未だに自分がいる状況が掴めず首をひねった。


「比企田くんはさ」
「……はい」
「これから、もっと大きくなれるって言ったら、どう思うかな」
「大きくなれる……ですか」


 それは、歩の出す日々の記録が如実に世界に届きつつあることを仄めかしていた。
 歩は、「あぁ」と悟る。ジュニア部門にしては驚異的な記録を樹立し続ける彼を見つけて、水月はここまで足を運んだのだろうと。つまり、大いに期待と成果を求められている。
 たとえ、水月の本音はそうでなかったにしろ、成長期の歩にとって度重なる変化を現在進行系で経験する身では、そうとしか考えられなかった。
 だから、好奇心はムキへ形を変えて、まんまと口車に乗ってしまうのだろう。


「そうですね。……きっと、今よりもっと水の中で生きたいたくなると思います」
「……。君は、人魚の道を選ぶ?」
「……世界がそれを望むなら」


 両拳を膝の上に置いて背筋を伸ばすと、水月の濃紺色の瞳を凝視した。
 変化する自分を受け入れんとする狭間にいた小さな子供の眼差し。水泳を、水の世界を、仲間を愛しているから、そのどれもを捨てたくなんかなかった。しかし、今より更に水のことを理解できるようになれるのであれば、止まっている場合ではない。歩にとって、水の世界を認めることは、己を認識することと同義なのだから。


「これから比企田くんが歩む人生を、……自由を守るために俺はここに来たんだ」
「……自由を」
「だから、きっとしてみせるよ。人魚でもイルカでもペンギンでも、なーんでも。君が自由だと思う姿に」


 無知な子供は、自由を求めてその手を取った。かつて、自由と称された人魚の手を。
――やがて、いとも簡単に蝕まれてしまうのも知らないで。




「凄いよ、比企田くん! また新記録だって」
「金メダルいーなー」
「あの子、まだ中学生なんでしょう? 将来が楽しみねえ」


 水月が歩のコーチに就任したことで、生活は一気に激変した。世界に注目された一流選手という肩書きを背負った水月の影響力は絶大で、いくら忍んでも悪い噂と週刊誌の目は避けられない。彼の隣に座っていた女性はマネージャーだったらしく、兼任で歩の周辺スケジュール管理も徹底的に行われるようになった。人の多い時間にプールは使えないので、完全に貸し切ってほぼマンツーマンでの練習を余儀なくし、仲間との時間も削減されていく。


 あるとき、歩は母と衝突した。


「歩、あなたまるでなってないじゃない」
「……今更、口を出すの?」
「夜宮さんも言っていたじゃない。癖が抜けてないって。あなたの強情なところが悪さして、記録が伸びなくなったらどうするの」
「……ッ!! あんたには、知ったこっちゃないだろ!!!」


 リビングのテーブルを叩いて怒声を張り上げる母は、顔を酷く歪めていた。歩を別の誰かだと錯覚しているのか、息子と親としての距離感を感じる態度ではない。
 それは紛れもなく否定。目の前にいる歩のことを一突きで殺すに値する。


「なんでもかんでも楽しいとか、好きとかで解決する話じゃないのよ」
「分かってるよ……! 分かってて頑張って、毎日毎日練習してんだろ!!!」
「またそうやって反抗する。だから、あなたは夜宮さんになりきれないのよ。水泳しか出来ないだけの、ただの子供なの」
「っ……、別に好きで夜宮さんになろうと思ってやってない」


 吐き捨てて、歩は観念した。きっと、目の前に立つ大人になにを言っても一蹴されるに決まっている。母は、今日はじめて歩の練習を見ただけの他人なのだから。
 でも、歩のことを母よりも知らない部外者などごまんと溢れている。これからは、そんな大人たちの言葉をもっともっと浴びるのだから、諦めることを学んでしまったのだ。

 こうして、歩にとって誰かと対話するためにあった水泳は、対話を断ち切るための手段としてすげ替えられていった。




 閉じこもるように水の中で生きる時間が増えていく。潜っても、どれだけ深く潜っても、周囲の視線は痛いほど重く伸し掛かってきた。粗末に荒々しい波飛沫を立てて隠れても無駄。彼が塞ぎ込み、言葉を紡ぐこともやめたのも、この頃だった。


「……もう、終わろう。俺が君をここまでしたんだ。やっぱり、水の中に自由なんて――」
「ありましたよ。漸く俺分かったんです。おかげで、あの頃の夜宮さんの記録だって、抜いてみせました。そう……全てを忘れて、水の中に潜ること。それが自由だったんですよ」
「ッ……そう、だね、歩」


 水の中へまた戻ってしまった小さな子供の影を掴めなかった。水月は、すっかり自分自身の模造品になってしまった歩の泳ぎを見て、悲しげに微笑んでいる。
 どうすれば、偶像の神輿を作らずに、比企田歩というただ一人の人間を世界に見つけてもらえるのだろうか。未来ある子供の自由を奪わせないために、メディアの視線を自分だけに集め、出来る手は尽くしてきた。電撃引退だって計算された一つ。現役を退いても、芸能を磨くことで更に知名度を集めてきた。そうして、パブリックイメージを何年も積み重ねて、形成したというのに。やはり、世間はついて回る。いとも容易く踏み込んできた無知な外野は、次に水月の名声すらも拝借して歩を利用し始めるのだ。
 水月は、それでもお茶の間を彩る画面の中の存在であり続けた。悲しくも、単純にそのようにしか生きられないから。
 彼もまた素顔を奪われ、作り変えられた人間の一人なのだ。


「歩の目覚ましい成長と実績に目をつけたのは、否定しない。……でも、それ以上に俺は君の泳ぎそのものに惚れて、未来を見てみたくなったんだ」


 おぼろげになるシルエットを見やって、ぽつりぽつりと独りごちる。手中には決して収めてはいけない、守らなければいけない大人びた子供。水月は、差し込む月明かりを雄大なプールでただ一人浴び続けている歩を憂いた。
 皮肉にも影のもとで、新作のブランドシューズを履いて練習に臨んでいる水月の足元に光は到底届かないだろう。もう取り戻せない青に縋って、彼はその飛沫に手を伸ばし渇望した。


「約束を守ろう。君が、なにかになるために自分を殺すなら、俺も自分を殺し続ける。……だから、遠慮なく歩の住む水の世界を、見せつけてやるんだ」


 前に進むには、持ち物が多すぎた。
 だから、取捨選択をしたのだ。そうすれば、身軽になって、もっともっと速くなれるのだから。




 ある日の練習の折、歩を呼び止めたのは週刊誌でも取材のカメラでもなく――以前まで、共に泳いでいた友人だった。密かに居残りをしては、歩の練習時間を把握していたのだという。わざわざ、水月の到着していない早い時間を狙うほど綿密に。
 それも全て、チームメイトとして隣に並び立つために。


「歩! 俺だって最近記録が伸び始めたんだ」
「そう」
「そう! だから一緒に泳ごうぜ、勝負だ勝負」


 年端もいかない子供でありながら、妬み嫉みにうんざりしていた気苦労の多い今日この頃。久方ぶりに話すチームメイトの存在は、歩に一筋の淡い期待を手向けることとなる。


「……いいよ」
「よっしゃ! ぜってー負けないから」
「俺だって、ガチでやるよ」


 歩は浮足立っていた。準備運動中、友人による情報提供で最近のスクールや仲間のことをやっと知ったのだ。なにより、彼こそ歩のことを知る数少ない友人である。思い出話に花が咲くのも当然で、歩はいつの間にか笑顔を浮かべていた。


「たまにはスクールにも来いよな。お前に会いたいってガキどもが増えて大変なんだ」
「……、ごめんね」
「いいよ。俺に勝ってからじゃねえと会えないって言ってるから」


 やはり、比企田歩という人間そのものを見てくれるのは、彼のことをよく知るチームメイトしかいなかった。
 しかし、歩は対話を忘れてしまった子供のまま。言葉を探すことに必死で、先のことも考えない。


 だから、迂闊に近づいてはいけなかった。






「はぁ……は”ぁ、っ、……つえぇなあ」
「っ……ギリギリだったよ」
「うっせー……っ、げほっ、まだ足りてないだけだ」
「……大丈夫?」


 スタート位置に既に戻っていた歩に追いつくなり、少年は息を切らしながら未だ冷めぬ対抗心を現してきた。五十メートル自由形を一本泳いだだけだというのに、呼吸を異常なほど荒げている様子に眉を顰める。背を擦ろうと伸ばした腕は、少年が突然身を屈めたことで空振った。


「っがはっ!! げほッ! ゲホッ!!」
「ねぇ、本当にさ、上がろう? もう終わったんだからさ」
「っ……! ま”――」


 少年を抱えあげるべく、歩が先にへりまで乗り上げた矢先のこと。無理に少年の身体を引っ張り上げたせいか、段差でもたついた彼は突然全身を硬直させた。
 覗き込むと、血の気が引いた青白い顔をしていて、さきほどより更に呼吸を荒げ始めている。それも、過呼吸に近い、浅く微かなもの。


「……っ、はッ、……ハッ」
「上げるよ? いい?」
「ぁ、……ま”、は……ッ!!!」


 救出された少年は、すかさず床に転がり身を丸めてしまった。苦痛に顔を歪めて終始、脚全体を両手で擦っている。気付いた頃には、もう手遅れだった。


「つったんだね。いい? 三、二、一で戻すよ」
「くうぅ”ぅ……う”ぅぅぅっ」


 少しでも今後の練習に支障をきたさないために、応急処置は必須。歩は、這いつくばる彼のもとへしゃがみ込んで、守るように覆われていた両手を力強く払い除けた。


「いやだいやだ、やだ、やだ」


 その声は、歩の耳を劈いて、際限なく弾ける。なにも聞こえないふりをして、庇われていた左脚を掴み上げ爪先を握り込んだ。これは、少年のこれからの水泳人生を思ってのこと。悪いことをしているわけではない。人生の延命をしているだけなのだ。
 元気な右脚に腕と胴を蹴られて痛かった。この痛みは、目の前で咽び泣き懇願する少年よりも軽い痛みなのだろう。


「いやだあぁ、いやだぁ」


 子供らしく痛みに素直で無垢に涙を流す彼に、死刑宣告をしている気分だった。歩は、握り込んだ爪先と、かかとを支えて残酷に合図を言い放つ。


「あぁ”っ!!! 大丈夫っ、ほんと、に、いいから!! ゲホッ」


――三。


「は”なせっ、はなせぇ!!!! なんとかするっ、できる」


――二。


「ほっ、ほんとにッ、は”あっ、なぁッ!! くっ、歩!!!」


――一。


 骨と筋肉を曲げる確かな感触。音もなくぐにゃりと逆方向へ押し込む容赦ない力。苛烈な痛みを飲み込んでいく小さな身体は、やがて反抗する気も失せて、ぐったりと弛緩する。声も上げずに喉で叫びを張り裂けた少年は、焦点の合っていない眼を浮かべていた。
 嵐は過ぎ去り、静寂が訪れる。さきほどから、彼の悲鳴が呪いのようについて回って、脳内をかき乱していた。苦虫を噛み潰したように歯を食いしばり、彼のゆるみきった脚を手放す。
 ふらふらと立ち上がって、無惨に打ち上げられた一人の人間を見下ろす。


「ごめん……俺と泳いだから……俺のせいだ……」


 歩は、自分が巻き込んだ側であると考え始めて止まらなかった。きっと、歩がこのスイミングスクールに通っていなければ、彼と友人でなければ、こんな未来は辿らなかったはず。彼が苦しむ必要なんて無かったのに。
 重苦しい息を吐き、歩の瞳からハイライトは白煙のように忽ち消えていく。日の届かない影で覆われた小さな頭は、怪物めいていた。


「……水の中で息ができないくらいなら、やめなよ」


 その瞬間、歩という人間は彼ら(・・)の世界から完全に切り離された。いや、自ら切り離したのだ。まるで、自分とお前では、住む世界も成れる姿も違うのだと言わしめるように。


「大人の人、呼んでくる」


 少年が最後にどんな面をしていたのか、歩はいつまでも知ることは叶わないだろう。
 伸びた前髪からボタボタと落ちる雫が目に入っても、微塵も痛まない。ずぶ濡れの身体に纏わりつく水気は、大人に見つかるまで拭き上げられずにプールまでの足跡として残されたのだった。
 それ以来、歩の中で仲間・友達という存在がどんどん薄れていった。そんなものを作っても無駄なのだ。


 高校入学を視野に入れ始めた頃のこと。あの時勝負をした少年が、実は足を以前から捻挫していて、突然重症化したため、そのままスイミングスクールをやめていたという話を施設の人から聞いた。
――いよいよ、誰かの人生を殺したのだと悟った瞬間である。彼の水の中に対する死生観が形成されたとも言えよう。
 そして、自嘲するように彼は自らを『侵略者』と揶揄した。


 つまり、彼を最も「侵略者」だと罵り始めたのは、紛れもなく歩本人であり、決して誰かが悪意を持って付けた異名などでは無かったのだ。


 個人選手という枠に自らなっても、夜宮水月という実状のコーチを隠すために、スイミングスクールには名前を残し続けていた。彼が、高校を一つに留めず転々と練習場所を変えていたのも、全ては水月の跡をメディアにつかれないようにするため。馴れ合いを断ち切った歩にとっては、むしろ好都合であった。
 ただ『侵略者』とはいえ、歩も歩でれっきとした人間。遂に訪れる――スランプが。
 初めての経験に戸惑いを隠せなかった。対処法を教えてくれるような大人も同い年も、どこにもいない。頼れるのは、ただ一人の水月のみ。
 しかし、高校生で反抗期に差し掛かっていた歩は酷く不安定になっていて、不要に苛烈さが増していた。今まで以上に自分を殺すように、水月の鏡になるように、水の中での生き方を変えていったのだ。
 だというのに、成績は伸びる気配を見せない。彼は、身勝手な絶望と大人からの裏切りという思い込みに苛まれた挙句、問題行動が頻発した。


 もう、限界だった。


 水月が怒り心頭に歩を叱ったのは、その日が初めてであり、最後だろう。練習を放棄する彼の態度に、無慈悲に言い放ったのだ。


「いやでも親元に帰るんだ。このままじゃ、きっと、俺よりも酷い死に方をする」


 コーチの辞任を天秤にかけられてしまっては諦めるしかない。水月の手配により、幸運にもすぐ入学をさせて貰えることとなった高校に歩は身を落ち着かせていた。
 とはいえ久しぶりに帰ってきた地元の雰囲気は、あいも変わらず平凡そのもの。海に面しているという利点しか感じられない。ただ、知名度のある歩がプール施設を借りるより目立たない方法で水に近づくには、最適な環境だということに間違いはない。
 だから、入り浸っていたのだ。


 秀輝と出会った、あの海岸で。






「俺が水泳を続ければ、きっと沢山の人が犠牲になる。アイツ(・・・)みたいに水の世界から追いやられて、行き場を失うんです」


 偶然見つけた小枝で砂の上に線を引いて、ぺしゃりとへし折る。過去を他人に明かすなんて初めてで、前髪越しに西日で焼かれていた額が変に熱く感じた。


「そう、思っていました。……先輩に出会うまでは」


 三角座りをする自身の膝に頭を乗せて、隣で相槌を打ち続けてくれていた彼を見つめた。テディベアのように足を伸ばして、絶えず応える秀輝の声色は、子供を宥めるような優しさを孕んでいる。


「先輩に出会わなければとも思いました。……でも、もう遅いんですよ」


 靴遊びに飽きたアリエルは、歩の隣で腹ばいになっている。温かな夕焼けを一心に浴びると、黒い羽が橙色に染められてしまう。
 彼の姿は、歩が幼少期に読んだ『オレンジいろのペンギン』という絵本に出てくる主人公のようだった。愛おしくて、堪らず素手のまま背を撫でる。
 歩は、すっかり顔を綻ばせていた。


「俺……先輩のせいで、もう一回、自分なりに生きてみたくなっちゃった」


 毒気の抜けた哀愁漂う睫毛は、歩の目元で垂れるように流れる。また新しい彼の表情を見つけて、聞き呆けていた秀輝は嬉しさと相まって勢いよく背を伸ばした。


「きっと、大丈夫だよ。お前は、もっと沢山の人にただのスポーツマン『比企田歩』として見つけてもらえるはずだから」


 気持ちよさそうに息を吐き、間髪をいれず歩の背を叩いて笑ってみせる。不思議な造語に思わず、「なんですかそれ」と口元を隠す彼は、あどけなく破顔した。


「俺が保証する! なぜなら俺は、陸に愛された人間だからな」
「あははっ、謎理論~。……でも、そうですね」


 体勢を変えて秀輝のほうへ身体を向ける。まじまじと改めて二人の視線が絡まった。


「陸に戻れば、いつでも先輩が待ってるって思うと、余計に生きて帰らなきゃって思います」


 歩の艷やかな前髪は、潮風に揺れて隠していたものを曝け出す。プールじゃ水泳帽を被っているから、彼の表情なんていつでも丸見えで分かってしまう。
 だから、ハンデのない、ただの素の状態である彼の無防備な表情は、宝石箱のように大切に感じる。それがあまりにも美しいから、珍しく秀輝のほうから目を細めていた。


「まるで戦場だな」
「んはは! それが、スポーツってやつですよ」


 二人は、落ちていく夕日を眺めていた。もう沈んでしまうのかと同じ気持ちを抱いて、伸びた自分たちの日陰を名残り惜しく撫でる。


 ふと、アリエルがぺたぺたと駆け出していた。
 向かう先は、海一直線。
 慌てて腰を上げた二人は、素足のまま追いかけるのだ。




 八月某日。日暮れ頃、二人の男子高校生は無邪気に走り回る。
 彼らは、生きる場所を取り戻した、似た者同士。
 もう後少しで、夏休みは終幕を迎える。