黄昏時を迎えた海岸線。茜色に染められた海原は、かくも泰然と構えて人々の営みと同居している。あいも変わらず、人気のない岩場は一ヶ月まるまる封鎖されていたようだ。そこに、一人と一匹分の影がゆるりと伸びて海面に漂っている。
三角座りな歩の傍ら、大人しくアリエルは首を沈めて休んでいた。静寂に包まれたこことは打って変わって、遠くから若者や親子らの賑わう声が聞こえてくる。まるで、八月のはじまりとなんら代わり映えのしない、時の止まった空間にいるようだ。
穏やかなさざ波は、今の歩の耳にも心にも一切届かない。潮風に囃し立てられるヤシの木々の葉の声が、ざわざわと野次を飛ばす。耳を塞いでも、こびりついた残響が喧騒と化し貫くのをやめない。不快極まりなく、次第にノイローゼとなりつつあった。
――うんざりだ。
どこまで行っても音はついてくる。たとえ、水の世界だったとしても、沈黙は与えてくれなかった。
俯きざまに、視界の隅を掠めた白いモヤを追いかける。
「お前たちも、まだここにいたのか」
ぷかぷかと他所には目もくれないクラゲたち。なにを思って、ここに留まるのか。生物学的な理由を除いて、同情する余地を見出そうと眺めていた。彼の双眸に、鬱々とした鈍色の海が捉えられる。もはや、クラゲのような生き物ですら純白の眩さに見紛い、いつまでも目を細めているばかり。歩は、三角座りを崩すと、熱されたコンクリートに躊躇わず両手を這いつくばった。じわじわと伝わる焦げていく感覚を気にも留めないで、前のめりに眼前へ海面に近付いていた。彼の中に、落下する恐怖心は露ほどもない。
「……っ」
海面を揺蕩う白いモヤの隣に、己の白い顔が映り込む。妙に幼くて幻覚を疑った。
両目を強く擦り、ぱちぱちと瞬きをしてみる。
「!!」
それは、海面に突如として現れた。正しくは、反射する歩の姿と共にソレも映り込んでいた。
倉庫で見たひしゃげた白い足。凡そ普通ではあり得ない方向へ曲がり、骨を歪めさせている片方の脚は、忌々しそうに歩の隣で立ち尽くしている。
「……は」
首を動かし周りを見渡したが、足の主はいるはずもない。アリエルだけが、隣にいてくれているのみ。意を決し、視線を戻すも依然として、白い足は海面越しに歩を睨みつけていた。
焦燥感に駆られ、吐く息の量が増えていく。激しくなる動悸を抑え込むこともできないで、脳みそにガンガンと響き蓄積される苦痛。さきほどから音は、より一層喧しく鼓膜を突き破る勢いで膨れ上がっていた。
誰かの叫びか。誰かの喚きか。誰かの怒りか。不明瞭なノイズは、歩の思考能力をぐちゃぐちゃにかき混ぜて崩落させた。
「……っく、ぅ……」
咳き込みながら、それでも無我夢中で手を伸ばす。彼は、その白い足の未来を知っているから。
虚像を映す水面へ手を伸ばしたところで、なにが変わるのだろう。先で待つ絶望に既に打ちひしがれているというのに。
海面を指先が掠めて波紋が広がる。白いモヤに触れる寸前だった。
――ぃた”いぃ。いたいぃ。
どこからともなく過った幼い子供の泣き声は、他の不協和音を一瞬にして打ち消した。鼓膜に張り付いた余韻が淡い耳鳴りとして響く。苦悶を噛み締めて正気を保つことに必死だった。
「ぁ……」
反射越しに見る白い足は前触れもなく、一歩一歩前へ進み始める。痛々しい足を引きずってまで、それは海を目掛けて近こうというのだ。きっと、まともに泳ぐことすら出来ないだろうに。足取りから一切の躊躇を感じられなかった。だから、歩は止めもしないで、むしろ自身から道連れになろうと掴みにかかるのだ。まるで、「俺もそこへ連れて行ってくれ」とでも言いたげな顔色で。
瞬く間に白い足は、垂直に落下する。スローモーションもかからない無慈悲な身投げ。歩の手は空を切り、軸が崩れた身体はいとも簡単によろめく。頭が重くて体勢を持ち直すことなんて手遅れだった。
(あぁ、落ちる。落ちていく)
彼と一緒に沈むことを、歩は静かに享受した。
――いよいよ本当に水に迎えられた、と心底憔悴しきって、唇を震わせて。
「……っ」
ざっと荒々しい波がコンクリートにぶつかって返される音と泡立つ飛沫。顔にぶつかるのは、冷たい海水――ではなく、頬を撫でるような穏やかな潮風。
左肩にみしりと伝わる痛いほどの熱に目を見開いた。
「ッバカやろォ!!!! そんなに海に殺されたいのか!!!」
背後から湧いた怒号は、彼を飛び越えて水面を揺らす。解けない力強さの中で、歩の手は小さく震えていた。腕を掴まれたまま、呆然と固まってしまった彼に痺れを切らし、無遠慮に引っ張り上げてくれる確かな温もり。
「っ! せ、んぱい」
「……」
歩は、鋭い眼光に捉えられる。曖昧な重心に、身体が言うことを聞かない。なすがまま引かれる力に頼って後ろへ倒れ込んだ。
迷わずに、歩の身体は受け止められる。離すまいと両肩を掴み、器用に反転させて。
「見つけた」
頭に響いていた喧騒は鳴り止む。彼の暖かな陽の目に溶かされて、綺麗さっぱり消え去ってしまったのだ。歩は、そんな間近にある優しさに思わず苦笑を漏らした。
「どうして、あなたが泣きそうなんですか」
「……るせえよ」
ぱちぱちと煌めく、西日の儚さを映した星空色の瞳。
歩は、やっと秀輝の目を見られた気がした。
「巻き込まれるかもしれなかったのに……どうして、そこまでして俺に構うんです」
二人と一匹は、人気もまばらになりつつある砂浜を歩いていた。せっかくのお気に入りのスニーカーに、容赦なく砂が入り込んでくるのも厭わずに。
「友達だから、じゃだめか?」
「その友達のために、ここまでするもんですか」
一歩遅れて後ろを歩いていた歩は、足を止めた。彼の頭の中は、初対面の頃とさきほどの秀輝の行動のギャップでこんがらがっているようだった。なにせこれまでの人生で保身に走ってきたという彼が、歩のことを守ろうと身を挺したのだ。それも、〝友達〟という理由だけで。理屈では考えられない行動に、歩は理解が追いついていなかった。
「するよ。絶対に、する」
なぜ、秀輝の口から出る〝友達〟という言葉に絆されるのだろう。恥ずかしげもなく微笑む彼から、やはり顔を逸らしてしまう。視線を落とすと、足の間からアリエルが顔を覗かせていた。歩を見つめる真っ黒な瞳は、平時よりまんまるとしていて水晶のように美しい。
言葉を見失う彼に、なおも秀輝は語りかける。
「歩が教えてくれたんだ。水の中の生き方を。……だから、怖くない」
「……」
冷たい海水は足首まで飛びかかってきた。波打ち際で立ち尽くしていたのだから自業自得だろう。ひゃは、と愉快にスニーカーと靴下を一気に脱ぎ始めた秀輝は、海に襲われたというのに少しも怖がっていなかった。
「だからさ、恩返しみたいなもんだよ。大事なものから逃げて、失って、取り戻そうとしなかった俺を変えさせてくれた。……俺は、お前に沢山のことを教えてもらった」
「……ふっ、なんだ、それ」
「はは、そうだな。……ほら、これが証明」
片手に靴を持って、秀輝は空いたほうの手を歩の前へ翳した。ぴくりとも震えていない大きな手。水かきは未発達でも、バスケの練習をこなしただけ、凸凹と筋肉と骨の隆起がよく目立っている。
八月のはじめに歩が見た、まっさらな中に弱さを隠した傷だらけの臆病さは、もうどこにもいなかった。
「……ずるいんですよ、先輩は」
握った拳を秀輝の手のひらにぶつける。逸らされた歩の顔は、秀輝からじゃ全く見えなかった。でも、無理に見る必要も、知る必要もない。全てを覗くことが、通じ合うことに繋がるわけがないのだから。
アリエルは、降り注ぐしょっぱい潮風に頭を振った。彼の足元で、砂はぽつりぽつりと色を変え、やがて波にかき消される。
最後まで素直になりきれない不器用な拳を、その手はいつまでも離してくれなかった。
三角座りな歩の傍ら、大人しくアリエルは首を沈めて休んでいた。静寂に包まれたこことは打って変わって、遠くから若者や親子らの賑わう声が聞こえてくる。まるで、八月のはじまりとなんら代わり映えのしない、時の止まった空間にいるようだ。
穏やかなさざ波は、今の歩の耳にも心にも一切届かない。潮風に囃し立てられるヤシの木々の葉の声が、ざわざわと野次を飛ばす。耳を塞いでも、こびりついた残響が喧騒と化し貫くのをやめない。不快極まりなく、次第にノイローゼとなりつつあった。
――うんざりだ。
どこまで行っても音はついてくる。たとえ、水の世界だったとしても、沈黙は与えてくれなかった。
俯きざまに、視界の隅を掠めた白いモヤを追いかける。
「お前たちも、まだここにいたのか」
ぷかぷかと他所には目もくれないクラゲたち。なにを思って、ここに留まるのか。生物学的な理由を除いて、同情する余地を見出そうと眺めていた。彼の双眸に、鬱々とした鈍色の海が捉えられる。もはや、クラゲのような生き物ですら純白の眩さに見紛い、いつまでも目を細めているばかり。歩は、三角座りを崩すと、熱されたコンクリートに躊躇わず両手を這いつくばった。じわじわと伝わる焦げていく感覚を気にも留めないで、前のめりに眼前へ海面に近付いていた。彼の中に、落下する恐怖心は露ほどもない。
「……っ」
海面を揺蕩う白いモヤの隣に、己の白い顔が映り込む。妙に幼くて幻覚を疑った。
両目を強く擦り、ぱちぱちと瞬きをしてみる。
「!!」
それは、海面に突如として現れた。正しくは、反射する歩の姿と共にソレも映り込んでいた。
倉庫で見たひしゃげた白い足。凡そ普通ではあり得ない方向へ曲がり、骨を歪めさせている片方の脚は、忌々しそうに歩の隣で立ち尽くしている。
「……は」
首を動かし周りを見渡したが、足の主はいるはずもない。アリエルだけが、隣にいてくれているのみ。意を決し、視線を戻すも依然として、白い足は海面越しに歩を睨みつけていた。
焦燥感に駆られ、吐く息の量が増えていく。激しくなる動悸を抑え込むこともできないで、脳みそにガンガンと響き蓄積される苦痛。さきほどから音は、より一層喧しく鼓膜を突き破る勢いで膨れ上がっていた。
誰かの叫びか。誰かの喚きか。誰かの怒りか。不明瞭なノイズは、歩の思考能力をぐちゃぐちゃにかき混ぜて崩落させた。
「……っく、ぅ……」
咳き込みながら、それでも無我夢中で手を伸ばす。彼は、その白い足の未来を知っているから。
虚像を映す水面へ手を伸ばしたところで、なにが変わるのだろう。先で待つ絶望に既に打ちひしがれているというのに。
海面を指先が掠めて波紋が広がる。白いモヤに触れる寸前だった。
――ぃた”いぃ。いたいぃ。
どこからともなく過った幼い子供の泣き声は、他の不協和音を一瞬にして打ち消した。鼓膜に張り付いた余韻が淡い耳鳴りとして響く。苦悶を噛み締めて正気を保つことに必死だった。
「ぁ……」
反射越しに見る白い足は前触れもなく、一歩一歩前へ進み始める。痛々しい足を引きずってまで、それは海を目掛けて近こうというのだ。きっと、まともに泳ぐことすら出来ないだろうに。足取りから一切の躊躇を感じられなかった。だから、歩は止めもしないで、むしろ自身から道連れになろうと掴みにかかるのだ。まるで、「俺もそこへ連れて行ってくれ」とでも言いたげな顔色で。
瞬く間に白い足は、垂直に落下する。スローモーションもかからない無慈悲な身投げ。歩の手は空を切り、軸が崩れた身体はいとも簡単によろめく。頭が重くて体勢を持ち直すことなんて手遅れだった。
(あぁ、落ちる。落ちていく)
彼と一緒に沈むことを、歩は静かに享受した。
――いよいよ本当に水に迎えられた、と心底憔悴しきって、唇を震わせて。
「……っ」
ざっと荒々しい波がコンクリートにぶつかって返される音と泡立つ飛沫。顔にぶつかるのは、冷たい海水――ではなく、頬を撫でるような穏やかな潮風。
左肩にみしりと伝わる痛いほどの熱に目を見開いた。
「ッバカやろォ!!!! そんなに海に殺されたいのか!!!」
背後から湧いた怒号は、彼を飛び越えて水面を揺らす。解けない力強さの中で、歩の手は小さく震えていた。腕を掴まれたまま、呆然と固まってしまった彼に痺れを切らし、無遠慮に引っ張り上げてくれる確かな温もり。
「っ! せ、んぱい」
「……」
歩は、鋭い眼光に捉えられる。曖昧な重心に、身体が言うことを聞かない。なすがまま引かれる力に頼って後ろへ倒れ込んだ。
迷わずに、歩の身体は受け止められる。離すまいと両肩を掴み、器用に反転させて。
「見つけた」
頭に響いていた喧騒は鳴り止む。彼の暖かな陽の目に溶かされて、綺麗さっぱり消え去ってしまったのだ。歩は、そんな間近にある優しさに思わず苦笑を漏らした。
「どうして、あなたが泣きそうなんですか」
「……るせえよ」
ぱちぱちと煌めく、西日の儚さを映した星空色の瞳。
歩は、やっと秀輝の目を見られた気がした。
「巻き込まれるかもしれなかったのに……どうして、そこまでして俺に構うんです」
二人と一匹は、人気もまばらになりつつある砂浜を歩いていた。せっかくのお気に入りのスニーカーに、容赦なく砂が入り込んでくるのも厭わずに。
「友達だから、じゃだめか?」
「その友達のために、ここまでするもんですか」
一歩遅れて後ろを歩いていた歩は、足を止めた。彼の頭の中は、初対面の頃とさきほどの秀輝の行動のギャップでこんがらがっているようだった。なにせこれまでの人生で保身に走ってきたという彼が、歩のことを守ろうと身を挺したのだ。それも、〝友達〟という理由だけで。理屈では考えられない行動に、歩は理解が追いついていなかった。
「するよ。絶対に、する」
なぜ、秀輝の口から出る〝友達〟という言葉に絆されるのだろう。恥ずかしげもなく微笑む彼から、やはり顔を逸らしてしまう。視線を落とすと、足の間からアリエルが顔を覗かせていた。歩を見つめる真っ黒な瞳は、平時よりまんまるとしていて水晶のように美しい。
言葉を見失う彼に、なおも秀輝は語りかける。
「歩が教えてくれたんだ。水の中の生き方を。……だから、怖くない」
「……」
冷たい海水は足首まで飛びかかってきた。波打ち際で立ち尽くしていたのだから自業自得だろう。ひゃは、と愉快にスニーカーと靴下を一気に脱ぎ始めた秀輝は、海に襲われたというのに少しも怖がっていなかった。
「だからさ、恩返しみたいなもんだよ。大事なものから逃げて、失って、取り戻そうとしなかった俺を変えさせてくれた。……俺は、お前に沢山のことを教えてもらった」
「……ふっ、なんだ、それ」
「はは、そうだな。……ほら、これが証明」
片手に靴を持って、秀輝は空いたほうの手を歩の前へ翳した。ぴくりとも震えていない大きな手。水かきは未発達でも、バスケの練習をこなしただけ、凸凹と筋肉と骨の隆起がよく目立っている。
八月のはじめに歩が見た、まっさらな中に弱さを隠した傷だらけの臆病さは、もうどこにもいなかった。
「……ずるいんですよ、先輩は」
握った拳を秀輝の手のひらにぶつける。逸らされた歩の顔は、秀輝からじゃ全く見えなかった。でも、無理に見る必要も、知る必要もない。全てを覗くことが、通じ合うことに繋がるわけがないのだから。
アリエルは、降り注ぐしょっぱい潮風に頭を振った。彼の足元で、砂はぽつりぽつりと色を変え、やがて波にかき消される。
最後まで素直になりきれない不器用な拳を、その手はいつまでも離してくれなかった。
