海獣だって走りたい

 秀輝が倒れて以来、歩は一切の連絡を返さない。
 八月もいよいよ終わる目前。秀輝は、すっかりバスケに戻っていた。
 フリースローのフォームが勝手に改善されているわけもなく。治る兆しの見えない中でボールを打つという動作は、途方もなく単純作業をやるのと一緒だった。
 当の秀輝は、上の空で考え事ばかり。フリースローの個人練習になった途端、ポッカリとなにかが抜け落ちた顔をするのだ。
 病院での一件から、たまにプールを覗きに行ってみたが、歩の姿などどこにもないし、現れる気配すら感じられない。気がかりなことに秀輝は、自分の身勝手が歩のなにかを刺激したと罪悪感を覚えつつあった。だから、フリースローという己と対話する瞬間は、却って注意散漫になり、改善される余地がないのだ。
 所謂、地に足がついていないとは、今の秀輝のことを言うのだろう。


「そんなに水が恋しいか」


 見かねた海虎は、練習時間を過ぎても一人で居残り続ける秀輝に制止の声をかけた。だというのに秀輝は、彼の声も聞かずにフリースローの動作を止めない。心ここにあらずで聞いていないのではなく、図星だったから聞こえていないフリをしているのだ。
 海虎の〝水〟という含みのある広義的な言葉をまんまと理解して、秀輝はほくそ笑む。


「フリースローも入れられない。フォームも治らない。結局秀輝は、変わったって言い聞かせてるだけ」
「……」
「なにも解決してない。違うか?」


 秀輝は、胸中で己に毒づく。
――全ては、お前の身勝手な思い込みが原因じゃないかと。


 最後に一球だけ投げ込んで手を止めた。当然、ボールはリングすら触れずにゴール下を掠めて落ちる。


「俺は、まだ水を怖がっているのかもな。歩に近付けたと思ってたけど、あいつの本当の部分は水の中にあって、俺はそれを見つけきれてない」
「秀輝は、十分頑張ってる」
「まだだ。足りやしない。きっと、陸しか知らない俺が歩を追いかけても見失うだけ」


 少しでも歩のことを理解したくて。心を掴みたくて。肩を並べたくて――その一心で水泳にひたむきになって、水に慣れようとした。
 あの雨の日、掴んだと予感したのに、勘違いだったのだろうか。プールの中で一緒に笑いあった彼は、歩の他に誰がいるというのか。
 秀輝は、募るモヤを追い払うように、汗で張り付いた前髪をぐちゃぐちゃと掻き上げた。いくら、あらゆる方法を思案しても、歩を見つけることは出来ないと諦めている自分がいることに憤慨寸前なのだ。
 メールは、いつだって秀輝からの一方通行。なにかするときは決まって、秀輝が言い出しっぺ。悲しくも、自分は身勝手だと自嘲した。
 そして、はたと気付く。


「俺、歩のこと追いかけてると思ってた、けど違う。置いてけぼりにしてたんだ……前に前にって突き進んで、自分のことばっかりで」
「そうか」
「俺だったんだ。俺が、歩を水の中に放置したんだ。陸でしか生きられないから」


 秀輝は、苦虫を噛み潰したように眉根にシワを寄せた。爪が食い込むほど両手を握りしめ、自身の過ちを誰ともなく懺悔する。
 突然、海虎がゴール下に転がされたままだったボールを拾い上げた。


「俺は、秀輝のそういうとこは、凄いことだって思ってるな」
「水を怖がることが?」
「いいや。……お前、言われたんだろ?」


『――ありがとう。歩のこと見つけてくれて』


「それってさ、裏を返せば水に入らずとも、もう既に歩くんの本当の姿を見抜いてたってことじゃない?」
「……そうなのかな」
「そう。凄えじゃねえか、秀輝。お前にしか出来ない、お前だから出来たことだ」


 海虎は、回収したボールを秀輝へパスした。
 先日の出来事が脳裏をよぎる。続けざまに、秀輝は苦笑を漏らして項を撫でた。
――歩に「隣で走ってくれたから」なんて言ったのは紛れもなく彼自身のこと。これまでの人生で沢山の分岐点を無理に進もうとせず、諦めて投げ出して、身の丈にあった道を進んできた秀輝が、思いのままに言葉にしたのだ。
 彼は、変わりたいと願って、変わるために努力を惜しまなかった。なのになぜ、今更後悔をしているのか。迷っているのか。
 否、確信したあの日の自分自身を裏切ってしまったら、もう二度と変わることなんて出来ない。友達である彼らは、最初から〝一緒に並ぶ〟ことを選べたはずだったのだ。


「俺、バカだな。大事なことをずっと忘れてた」


 ボールを両手で抱え込む秀輝の背を叩いた。体育館には二人しかいないから、海虎の快活な笑い声は平時より大きく反響している。


「思い出したんなら、やれるだろ」
「どうかな」
「やってみる価値ある。な、秀輝。俺と本気でフリースロー勝負をやろう」


 バッシュの靴紐を堅く結び直して、海虎は立ち上がる。即答してくれない秀輝から意地悪く、ボールを奪い取った。


「取り返してみせろ。話はそっからだ」
「あぁ、やろう」


 秀輝は、好戦的な目つきで親友を見上げた。対峙する海虎も、久しぶりに心の底から燃え上がる喜びと興奮を顔に浮かべている。ひょうきんで元気が取り柄の彼だが、結局親友がいないと寂しい、ただの普通の男子高校生に変わりないのだ。


「俺から点を先に取れ。それだけだ。簡単だろ?」
「言ってくれる。今の俺の状況を知ってるくせに」
「あぁ。でも、これくらいどうってことないはずだ」
「うん。俺は、もう逃げないって決めたんだ」


「その意気だ」と、ボールを返した海虎は退く。彼の身体に隠されていたリングは、再び秀輝の前に姿を現した。
 まずは、秀輝から一本。緊迫した状態で改めて掴むボールの硬さは、夏季試合を思い出す。あの時、手に伝わっていた感覚を確かに取り戻し始めていた。
 しかし、そう簡単には入ってくれない。ボールが落ちる様は、一体何百回見たことだろう。続く海虎だが、彼も緊張しているらしい。真剣な眼差しでリングとの距離感と力加減を調整していた。珍しく、一発でそのシュートは入らなかった。再度、秀輝の手に戻ってくるボール。感覚は戻りつつあるものの、やはり二本目もそう上手くはいってくれない。海虎も同様に、ボールがくるりとリングの縁を回って跳ね除けられた。


 集中させる――今よりも、もっと視野を広げるのだ。ボールのことだけじゃなく、リングしか見ないのではなく。ここは広い体育館であること。そして、海虎という親友と真っ向から勝負をしていること。
 今まで打ち込んできたバスケ、陸上人生。逃げるためにしてきた、いくつもの言い訳の数。水からも陸からも生きる場所を奪われた秀輝にとって、取り返すことは容易ではなかった。でも、夏休みを通して乗り越えようと、遂に変わろうと踏み出したのだ。
 全ては、海虎という大切な仲間や、歩のように一緒に肩を並べてゴールを目指す友達がいたおかげであることに間違いなどない。


「……っ」


 秀輝は、脚全体にかけていた重心を解き放った。ふわりと浮く身体に惑わされることなく、ゴール目掛けてシュートを打つ。放たれたボールは、弧を描いてリングへ迎えられていった。すっぽりとネットを通り抜けて、軽快な音を立てながら床を跳ねる。その間、地上へ降りた秀輝のフォームに狂いはなく、美しさを保たれた姿勢のままだった。
 きっと、誰が見ても完璧なフリースローだと称するだろう。


「立てた……」
「言ったろ? 秀輝は、最初から頑張ってたって。逃げてなんかない。俺は、ちゃんとそれを見てたし、信じていたくて、ここまで来たんだ」
「海虎、……ごめん」


 入ることが分かっていたのか、海虎はいつの間にか秀輝のすぐ隣に立っていた。肩に腕を回して、いつになく楽しそうに頬を緩ませている。


「ありがとうだろ、バーカ。なに副キャプテンがしけた面してんの」


 未使用のタオルを鞄から取り出して秀輝に投げつける。白い歯を見せる海虎の首筋には、汗が滲み始めていた。


「もう怖くない、だろ?」


 こくりと力強く頷いた秀輝の澄んだ双眼に、海虎は口端を上げた。
 思いは、もう届いている。だから、秀輝はまた一歩変わるために走り出すのだ。


――歩を見つけるために。




「渡しそびれちゃった~」


 ひょっこりと海虎の背後から真帆が顔を覗かせる。手には、買ってきたばかりのスポーツドリンクを二本持っていた。海虎に一本渡して、二人は慣れた手つきで乾杯の動作をする。
「えい」と油断をしている首元を目掛けて、真帆はハンドタオルを当てつけた。


「秋予選までに吹っ切れそう?」
「うん、大丈夫だよ。陸に愛されたアイツにしか見せられない景色があること、俺は知ってるから」
「そっか、……じゃ~、二人がバスケ部引退したら、また三人で遊びに行こっか!」


 仲睦まじく二人は、秀輝の遠のいていく背中を見守っていた。






「……ここも外れ」


 学校プールにもいない。近くの市民プールもまわったが、歩の姿は無かった。個人練習の場所を聞いておくべきだったと舌打ちを繰り返している。
 彼は、どうしてあそこまで水の中での生き死にに執着するのか。それを早くから聞いておける余裕が無かったことを今更悔やんでいても遅い。
 突然スマホから鳴り響いた、幾重もの通知が秀輝の逸る気持ちを軽く宥めた。


『君を頼ってしまうのを許してほしい。お願い、歩を見つけて。あの子、うちのアリエルと出かけたきり練習にも来ないんだ。僕も、いま全力で探してる』


 それは水月が歩のスマホを通して連絡しているものだった。


「アイツ、携帯も置いてったのか……ッ」


 連絡手段すら持ち合わせていない彼に、ますます危機感が募っていく。
 秀輝は、アリエルという情報から、ある場所へ走り出した。