「やっぱり、来るんじゃなかった」
鳶巣秀輝は、真夏の最中で決して座り心地の快くないだろうコンクリートに三角座りをして長嘆を繰り返していた。
顔がすっかり青ざめて、大粒の汗をこめかみや首筋から流している。しかし、それらは夏の与える刺激によって生成された疲労ではなかった。
「全然集中できなかった……いや、前より駄目になったんじゃ」
彼がいる、ここ――海岸は、県で最も大型の水族館が構えられており、数多くの生き物が飼育されていることで有名な観光地である。
そんな場所へ姉家族の同伴として、半強制的に連れてこられたと秀輝は、胸中で文句を垂れているところ。ただ彼は、インドア派だとか、人混みを毛嫌いしているような性格ではない。だというのに、なぜここまで気分を害しているのかと言うと、全く別の問題を抱えているからだ。
「怖ぇ〜……」
秀輝は、極度の海洋恐怖症だった。
海洋恐怖症とは、海や大きな水域(湖や川など)に対し、極度の不安や恐怖を抱く症状のことを指す。また、解釈の次第によって「大量の水」そのものや、海や水に連想されるようなモノすらも恐怖の対象になっている。主な症状では、海や川などのように〝果てしなく水〟に覆い尽くされた世界を前にしたとき、パニックを起こす、また吐き気や息切れがするなどが挙げられる。軽度から重度まで個人差はあるものの、決して油断してはならない精神疾患の一種だ。
秀輝の症状を一を軽度とした十段階で診断するなら、大体半分をちょっと超えた五、六の反復横跳びあたりだろう。
そこまでの症状を抱えていながら、秀輝が水族館、ましてや海岸まで足を運ばざるを得なかったのは、紛れもなく姉家族のご機嫌取りのため。姉弟仲が悪いわけではない。どちらかと言うと思春期真っ只中の男子高校生にしては、随分と落ち着いた家族仲である。もちろん、姉が家庭を持つほどに年齢差が開いているところも大きいだろう。
最も、秀輝の性格上これまでの一七年の人生で、家族や友達と大きな諍いを起こしたことがないのが関係していた。
なので、のらりくらりと上手に対人関係を構築してきた彼にとって、今回の水族館同伴も断る理由がなかった。
最初こそ涼しい顔をして共に館内を回っていたが、想像を遥かに上回る豊富な海洋生物の数と圧倒的スケールの水槽に恐怖症が刺激されてしまったというのが事の顛末。
流石に姉の息子は、まだまだ幼く、やっと物心がついたほどに小さい。子供の楽しみを年上が台無しには出来まいと、秀輝は一人になる理由を適当に付けて姉家族のもとから離れた。
そんな彼を待ち受けていたのは、疲弊した身体に容赦なく追い打ちをかけてくる外の海岸エリア。日除けとなるものは一切ない。安易に項垂れれば、ジリジリと灼熱の太陽で焼かれてしまう。皮肉なことに足場と目の先は一面の海のおかげで、適度に涼めていることも事実。
秀輝は、飲みきったとも言い切れない微妙な量の飲料水が、どんどんと熱を持っていく様をペットボトル越しに呆然と見続けていた。
「ママっー! ペンギンさんだよー」
「ちっちゃーい!! 可愛い~」
「ペンギンさん達には、触らないようにお願いしま〜す!」
潮風に乗せられて、沢山の賑わう声が届く。秀輝は、微動だにしていなかった首をやっと動かし声のする場所を探した。なにやら、砂浜に人だかりが出来ている。
海岸エリアに面する利点を活かして多種多様な展示が見られることも、この水族館きっての醍醐味。その中でも、特に目玉イベントと言われるペンギンのお散歩は、広いビーチを完全に貸し切った状態でペンギンたちが闊歩する様子を見られる自由観覧型の催しだ。自然界ではないが、外界に放たれたペンギンの自由な生活を観察出来る貴重な体験コーナーでもある。接触禁止だが、分厚いガラスも高い柵も立てられていない。あくまで、動物にストレスのないスペース作りを徹底しているのも、飼育員たちの熱意を感じさせる環境だった。
〝お散歩〟を満喫するのは、ペンギンの種の一つであるフンボルトペンギン。日本の動物園や水族館で最も見られるペンギンで、くちばしの付け根にあるピンク色の皮膚が非常に愛らしい。
彼らは、スペース内で自由に遊び回ったり、寝転んだり、時には飼育員さんに餌をせがみに行ったり、観客の目などまるで気にしていない自然体そのものだった。
「いいなぁ……」
なんとはなしに、こぼれ出た。
その一言は、様々な感情を言い表せる便利な単語だが、発した本人である秀輝自身は、目を細めたまま、ピクリとも表情を動かさなかった。
彼は、足元に転がっていた小石を摘み、目の前に広がる海を目掛けて投げ入れ始めた。ぽちゃん、ぴちゃん、と粗末な水飛沫が上がるだけで、あとは虚しく落っこちていく。たまに、カランカラン、と乾いた音が鳴るのは、彼のいるエリアに張られた規制用のロープに下げられた看板に石が当たっているからだった。
現在、秀輝が座り込んでいる周辺は全く人の気配が無い。普段ならば、蟹や小魚を見られる場所として釣りが賑わうはずの人気スポットなのにだ。
どうやら、今年は諸般の事情で閉鎖されているらしい。避暑地でもなければ、暑さを凌ぐものもない。人が来ないのも頷けたし、彼自身、一人になりたくてここを選んだのだから、気にする必要はなかった。
「高校三年にもなって、海でやることがこれかよ」
遠くから聞こえてくる盛況と彼を取り巻く湿った虚無が、同じ世界に共存しているとは思えないほどにアンバランスさを醸し出している。
今更になって、「半強制的につれてこられたなんて文句言ってごめん」と、心の中で勝手に姉に謝罪をする始末。
もともと、俺が恐怖症を持ってなければ。
そもそも、断ることが出来ていれば。
湧き出る卑屈は、留まるところを知らない。
これも彼の個性であり、性格の一つだ。かと言って秀輝は、決して自己評価が低かったり、ネガティブな考えを持ったりする人間ではない。
ただ、軸があやふやなだけなのだ。分かりやすいほどに男子高校生らしい、とも世間は考えるだろう。
「入っちゃ駄目だよ」
摘みかけた小石を不意に落とした。ころころと転がっていくソレは、蛍光色の映えるビーチサンダルにぶつかって止まる。小さく綺麗に整えられた爪先が二つ並んで海のほうを向いていた。
「……?」
顔を上げると、思っていたよりも近いところに見知らぬ少年がしゃがみ込んでいた。少年は、顔にはてなマークを浮かべていて、じっと水面を凝視している。てっきり、秀輝に話しかけたのかと思われたが、別段こちらを気にしているような素振りは一切無かった。
これには、秀輝も同様にはてなマークを浮かべざるを得ない。そもそも、子供が近くまで来ていたのに、気配にすら気付けないほど自分は疲弊していたのかと、首をひねった。小学校低学年くらいの子供が、一人でこのような規制エリアに来ていいものでもない。おおかた、秀輝が座り込んでいるのを見つけて、興味本位で近付いただけだろう。つまり、彼は、年上として悪い見本になってしまったわけだ。
しかし、好奇心で寄ってきたにしては、妙に少年は静かで落ち着いていて、先程の言葉以外はなにも発さない。秀輝も秀輝である。数秒前までの卑屈が尾を引いて、終始無言のまま。結局二人になっても、やることはただ水面を眺めるという行為だけ。秀輝が一人で座っていたときと、なんら代わり映えのしない光景のままだった。
「……? ぅわ、……」
もぞもぞと音がするほうを見れば、少年が更に前のめりに水面へと顔を近付けて、ゆらゆら身体を揺らしている。前傾姿勢だから、足が痺れてしまわないよう、少年なりの工夫なのだろう。見ていて不安は拭えない。なぜか秀輝のほうが緊張していて、小石を投げる一方で少年から目を離せなくなっていた。
一瞬、周囲を見渡してみるも、保護者らしき人影は一切見当たらない。
背後をどんどんとせり上がってくる不安と妙な罪悪感。忘れていたはずの冷や汗が、汗腺の無いところから突然伝うような錯覚。それは、明らかな動揺。
秀輝は、少年をわざわざこのエリアから引き剥がしてまで、人のいるところに連れて行くべきか悩みあぐねていた。
受付カウンターか無料の案内所にでも行けば、この問題は解決するだろう。だが、子供の好奇心を、よく知らない赤の他人が制止しても良いのだろうか。第一の前提として、親が子供から目を離している状況が大問題なのだ。
秀輝は、今までで最も大きな石を見つけ、「勘弁してくれ」と嘆息混じりに強く海へ投げつけた。
ぼちゃん。
水にぶつかったにしては鈍い飛沫。波紋が広がって、秀輝のいる足場まで波がやってきた。
それにしても、少年も少年で中々の強情。今もゆらゆらと身体を揺らすだけで、なに一つアクションを起こさない。じっと、ただじっと規制ロープの先の海を覗き込んでいた。声を聞いただけで、顔はずっと半分しか見えていない。秀輝の隣にいる彼は、一体どんな顔をして、どんな眼で、底のない真っ青な海を見つめているのだろう。子供の無垢ほど計り知れないものはない。
丸めていた背を正して秀輝は、少年の視線の先を追いかけた。
「……ぅわ……そういうこと……」
水面をゆらゆらと漂う真っ白なモヤ。いくつか散らばって、ふわりと扇のようにはためく。
好奇心の的――正体は、クラゲ。
規制されていたことに合点がいった。ただ、抱えていた不安や恐怖の種は、明瞭な認識によって色濃く精神を侵食し始めた。本当に単なる漠然とした不安だ。ただ、その実体のない説明のしようがない事象こそが、彼の持つ恐怖症を刺激するのに容易いのだ。
例えば、一般人がクラゲを見たときに抱く感想として「綺麗」「可愛い」「不思議」などがおおかた占めることは周知の事実。実際、クラゲのみに特化した水族館だって全国的に広がっており、その人気は右肩上がり。ニュースやテレビ番組でも特集が組まれたり、現地でリポーターが楽しそうにクラゲを愛でたりする様子も頻繁に放送されている。
なにより、クラゲという種の持つ摩訶不思議な構造こそ、人々を惹きつける最も大きな特徴だ。一個の水槽に群集したクラゲたちが、色鮮やかにライティングされ、暗闇をスポットライトで照らすかのように展示される様はまさにアートそのもの。そんな光景を前にした人々は、大半が「感動」するに違いない。
秀輝はその真逆で、クラゲのような生き物は、恐怖の対象そのものとして認識している。もちろん、海洋生物だからという理由。ただ、クラゲはその中でも群を抜いて「海」を想起させるのだ。
それは、クラゲならではの身近さが悪さをしているのだろう。実際、このように秀輝と少年のすぐ目の前に姿を現しているのだから。
(見れば見るほど、ただのゴミ袋……でも、全部クラゲ……)
〝ゴミ袋〟と言われる当のクラゲたちは、今も水面で穏やかに浮かんでいる。それこそが、秀輝の恐怖心に拍車をかけていた。
今、彼の心境を言語化するなら、「落ちたら確実に死ぬ」で間違いない。
ときに、クラゲの持つ毒には、軽度の痛み・痒みから死に至るまで様々な症状が挙げられている。とはいえ、普段は観光客が押し寄せる海岸エリアだ。死亡者が出てしまうほどの猛毒な触手を持つクラゲが生息していたら、まず大事になっているに違いない。少なくとも、秀輝の住まう地元で、クラゲ被害により人が死んだというニュースは見たこと無いため、ただの風物詩だと思えば楽なもの。
でも、〝その程度〟を自分の死にまで結びつけてしまうのが、海洋恐怖症の恐ろしい症例の一つ。見たところ、ほんの二、三匹しか浮かんでいないのに、あっという間に秀輝は顔を青くしている。呼吸もどんどんと落ち着きがなくなっていて、浅い息継ぎを繰り返していた。指先は震えて、小石すら摘める余裕もない。
どうして彼は、そこまで怯えているのか。ただクラゲが浮かんでいるだけなら、すぐに立ち去れば良いものを。
否、それは出来なかった。
紛れもなく、少年の存在が気がかりだったからである。
ゆらゆら揺れ続けていた少年は、足を抱えたまま、もっともっとと言わんばかりにクラゲを求めている。まだ成長期にも入っていないだろう軽く小さな身体は、少しでも力を後ろから加えれば、きっと頭から水面に落ちていくに違いない。爪先を浮かせてかかとへ重心を変える。次は、かかとを浮かせて爪先に重心を。胸と肩を容赦なく使って体全体を振り子のようにする少年は、クラゲを模しているのだろうか。
目に毒。
その光景は、秀輝にとって精神的に良くないものとして毒となり、じわじわと作用し始めていた。
「……ッ……は」
乱暴に好奇心を振りまいていたソレは、突如として、ぴた、と止まった。
微動だにしない少年の背中は、未だに不気味さを纏っていて、海を眼前にしていることに変わりない。
束の間の静寂と小休止に秀輝は、胸をなでおろし息を大きく吸っている。せっかく作り上げられた完璧な立ち上がりのセンターパートも、汗を吸い過ぎたために横たえ、不格好なつむじを見せつける有様だ。
眩しいけれど、それでも無性に太陽を求めて天を仰ぐ。一瞬、ほんの一瞬だけでも良いから、瞼の裏にこびりついた真っ黒な臆病者を真夏の日差しで突き差してほしかった。
指の隙間から覗く毒の塊。太陽の光が視界の隅を掠めているからおぼろげだった。
炎天下が邪魔をして、思考は完全に鈍っていたのだろう。
脳裏を過ぎる最悪な選択肢は、既に彼に結末を突きつけているというのに。
一、少年を海から引き剥がす。
二、少年が海に落ちないように引き止める。
答えはとっくの昔に出ていた。だが、二つのどれでもない。
まず、今しがた身を乗り出し空中に浮く少年の投げ出された手を、秀輝は掴めやしない。おまけに人が落ちる時は、本当にスローモーションにかけられるのかと、傍観者であることを徹底しているのだ。
掴めば落ちる。
掴まなくとも落ちる。
頭から、脳天から、猛毒の蔦に絡まって、きっと死ぬのだ。
そして、底なしの暗所へ落ちていく――もがく暇なく。
――ばしゃん!
目の前で噴き上がる水の飛沫。打ち上げられた雫は、パラパラと小雨となり、水面で陽気に踊り跳ねる。重力に任された身体を受け止めた水は想像以上に砕けた。衝撃と共にそこかしこの岩やコンクリートにぶつかって押し返す波。もちろん、秀輝のすぐ足元にも届く距離。数秒もすれば、あっという間に自然界の起こした音として、脳内を過ぎ去るのだ。
じわじわ、じりじり。焼き尽くしたと思われていた臆病者は、焼けただれて、焦げて、こびりついてしまったらしい。もっと真っ黒に、真っ暗闇に。
さきほどの選択肢の答えには、三つ目がある。
――なにも出来ない。
秀輝は、呆然と眺める他無かった。
バシャバシャと水面を叩き、声も出せずに大量の海水を飲み込んで、えずいて、酸素を求める姿を。
すぐ近くを漂っていた白いモヤは、まるで、知っていたかのように刻一刻と差し迫る。小さな頭は、いとも簡単に覆われてしまった。
水面から這い出ていた両手が、だんだんと力を失い弱々しく、ちゃぷちゃぷと手招きをする。緩慢に関節を動かして、やがて沈み始めた。
モヤの奥では、一体どんな顔をしているのだろうか。大口を開いて、眼球をこれでもかと血走らせて瞠っているのだろうか。それは、覗き込む秀輝の顔を恨めしそうに、憎しみを込めて、死ねと、お前も落ちろ、と鬼の形相をしているかもしれない。それとも、すんなり死を受け入れて、穏やかに眠るような顔をしているのだろうか。
いいや、それは無い。秀輝には、確信があった。
「ぁ……あぁ……」
体感的に述べると三十秒ほどだろうか。長いようで短い。だが、考え方によってはそれだけという認識だって容易になる。なぜなら、ここは水の世界。
たった、それだけ。
ほんの少しだけ。
こうして、子供は静かに溺れる。
秀輝は、白いモヤに絡まれて水底へ落ちていく影を見つめていた。
まだ息はあるだろうに、顔にかかる白は打ち覆いを彷彿とさせる。まるで、死ぬことが明らかだと海に見せられているようなもの。気泡に乗せられて、ゆらりと揺蕩う白布は、焦らされていた少年の顔を漸く明かす。怖いもの見たさなのか、はたまた罪悪感からなのか。
秀輝は、さきほどまで少年がやっていたのと全く同じ姿勢で海を凝視していた。
あとすこし。
もうすこし。
あといっぽ。
「――海に殺されるよ」
真上で水風船が割れるように、その声は、酷く乾ききった秀輝の脳みそをさました。
海のさざめきも、風に撫でられるヤシの木の葉の音も、遠くから聞こえてくる観光客の声も、次第に戻ってくる。息の出来なかった真っ暗な世界が、突如として日の目を浴びた。
「……?」
秀輝が見上げた先には、一人の青年が少年を抱えて立っていた。
腕の中でじたばたと暴れる少年の爪先から、転げ落ちた蛍光色のビーチサンダル。それは、ついさきほどまで秀輝の隣にいたはずのモノ。
そして、隣から前へ、海へ、と落ちていった。かのように見えていたモノ。
全て、秀輝の見ていた恐怖症による幻覚に過ぎなかったのだ。
「は! な! せぇ!」
「……」
そんな秀輝のことなんて露知らず。少年は、やいのやいのと青年の腕なり足を蹴ったり叩いたりして、まるで別人。海に落ちるかもしれなかったところを見知らぬ人に助けてもらったという自覚は無いらしい。ヘビのように身体を滑らせて抜け出すなり、脱兎のごとく砂浜のほうへ駆け出していってしまった。
「行っちゃった……まあいいか、大人が見つけてくれるよ。あれだけ自由なら目立つ」
秀輝と顔を合わせないものの、会話はしているらしい。彼は、乱れた前髪を整えながら、ペンギンのお散歩を見ていた。
「ぃ……っ」
どうやら無意識のうちに尻餅をついて、手のひらをコンクリートに擦っていたらしい。今の秀輝にとって、手はなくてはならない大切な逃げ道だ。不安げに眉を下げて意味もなく、ぬるまったペットボトルを当てた。
青年は、肩を落としている秀輝の姿になにを思ったのか間近に屈んだ。突然、名も知らない同い年くらいの男の顔面が背後に忍び寄ったことにぎょっとして、秀輝はまた仰け反りかける。真っ赤にした両の手のひらが宙を掻き、ガコン、とペットボトルは落とされた。軽快に転がって、幸いにもコンクリートの縁で思いとどまってくれる。
「ぅわ!!」
青年は、目の前で暴れる秀輝の手のひらがコンクリートに叩きつけられる前に、するりと掴み取っていた。それだけで、並外れた動体視力の持ち主であることが一目瞭然だった。
とはいえ秀輝自身は、がしりと両手首を掴まれたまま、その後をどうすれば良いのか固まってしまっている。
挙句の果てには、「もう、わからん……」と久しぶりに嘆息をこぼす始末。
「あー……その、ありがとう……一人で立てるから、離してくれない?」
「うん」
意外にもあっさりと、青年は手を離した。きっと、湧いて出た行動だったのだろう。
秀輝は、ゆっくりと脚に力を込めて立ち上がった。少々、熱気でバテているのも相まって眩んでしまったが、一時的なものだから心配はいらない。
「じゃ、……な。ほんと、ありがと」
「はぁ」
お得意の愛想笑いを浮かべたまま秀輝は、尻すぼみに小さく会釈をした。青年の目も見ず。
そして、すぐに背を向けて駆け出していた。ただ、こんなときでも秀輝の頭の中は忙しない。ぐちゃぐちゃと起きたことの収拾を付けることで精一杯だった。
「……っ!! やっぱり来るんじゃなかった!!!!」
彼の心からの嘆きは、誰の耳にも届かない。
まさに、お天道様のみぞ知る。
砂浜のほうへ駆け出していく、手のひらを真っ赤にした男の背中を見つめていた。
青年――比企田歩は、秀輝の忘れていったペットボトルを拾い上げる。さっさと飲みきってしまえばいいものを、わずか二、三口ほどの量を残しているのは、彼のポリシーなのだろうか。
飲み残された水越しに水平線を一望する。当然、澄み切った世界が見えるはずもなく、質の悪くなった他人の飲みかけを観察する羽目になった。全くもって自業自得。
歩は、改めて秀輝の座っていたコンクリートへ腰を下ろした。そして、同じように前に屈んで、海へ顔を近づけるのだ。
クラゲは、もういなくなっていた。
反射する己の顔を見つめていると、なんら代わり映えのしない青々とした海が、あいも変わらずそこにあるのだと感じさせられる。
「こんなんで、死ぬわけない」
吐き捨てられた一言は、誰に向けたものなのか。
足元に転がっていた小石を適当に、水面に反射する己の顔面に目掛けて投げ込んだ。
ポチャッ、と波紋を広げて渦を巻く。
海を眺めていたら、じわじわと手のひらがコンクリートに焼かれ始めていることに気付いた。
ゆっくりと体勢を戻して空を仰ぐ。そうして、空へ手を伸ばすのだ。
掴めもしない、届きもしない、その場所へ。
八月の夏休み某日。暮れなずむ頃、二人の男子高校生は出会った。
一人は、水が嫌いな、とある男。
一人は、水へ自ら近づく、とある男。
これは、壮大でもない。立派な冒険譚でもない。
取り零してしまった青春を見つけるための、ちょっとした人生の物語である。
鳶巣秀輝は、真夏の最中で決して座り心地の快くないだろうコンクリートに三角座りをして長嘆を繰り返していた。
顔がすっかり青ざめて、大粒の汗をこめかみや首筋から流している。しかし、それらは夏の与える刺激によって生成された疲労ではなかった。
「全然集中できなかった……いや、前より駄目になったんじゃ」
彼がいる、ここ――海岸は、県で最も大型の水族館が構えられており、数多くの生き物が飼育されていることで有名な観光地である。
そんな場所へ姉家族の同伴として、半強制的に連れてこられたと秀輝は、胸中で文句を垂れているところ。ただ彼は、インドア派だとか、人混みを毛嫌いしているような性格ではない。だというのに、なぜここまで気分を害しているのかと言うと、全く別の問題を抱えているからだ。
「怖ぇ〜……」
秀輝は、極度の海洋恐怖症だった。
海洋恐怖症とは、海や大きな水域(湖や川など)に対し、極度の不安や恐怖を抱く症状のことを指す。また、解釈の次第によって「大量の水」そのものや、海や水に連想されるようなモノすらも恐怖の対象になっている。主な症状では、海や川などのように〝果てしなく水〟に覆い尽くされた世界を前にしたとき、パニックを起こす、また吐き気や息切れがするなどが挙げられる。軽度から重度まで個人差はあるものの、決して油断してはならない精神疾患の一種だ。
秀輝の症状を一を軽度とした十段階で診断するなら、大体半分をちょっと超えた五、六の反復横跳びあたりだろう。
そこまでの症状を抱えていながら、秀輝が水族館、ましてや海岸まで足を運ばざるを得なかったのは、紛れもなく姉家族のご機嫌取りのため。姉弟仲が悪いわけではない。どちらかと言うと思春期真っ只中の男子高校生にしては、随分と落ち着いた家族仲である。もちろん、姉が家庭を持つほどに年齢差が開いているところも大きいだろう。
最も、秀輝の性格上これまでの一七年の人生で、家族や友達と大きな諍いを起こしたことがないのが関係していた。
なので、のらりくらりと上手に対人関係を構築してきた彼にとって、今回の水族館同伴も断る理由がなかった。
最初こそ涼しい顔をして共に館内を回っていたが、想像を遥かに上回る豊富な海洋生物の数と圧倒的スケールの水槽に恐怖症が刺激されてしまったというのが事の顛末。
流石に姉の息子は、まだまだ幼く、やっと物心がついたほどに小さい。子供の楽しみを年上が台無しには出来まいと、秀輝は一人になる理由を適当に付けて姉家族のもとから離れた。
そんな彼を待ち受けていたのは、疲弊した身体に容赦なく追い打ちをかけてくる外の海岸エリア。日除けとなるものは一切ない。安易に項垂れれば、ジリジリと灼熱の太陽で焼かれてしまう。皮肉なことに足場と目の先は一面の海のおかげで、適度に涼めていることも事実。
秀輝は、飲みきったとも言い切れない微妙な量の飲料水が、どんどんと熱を持っていく様をペットボトル越しに呆然と見続けていた。
「ママっー! ペンギンさんだよー」
「ちっちゃーい!! 可愛い~」
「ペンギンさん達には、触らないようにお願いしま〜す!」
潮風に乗せられて、沢山の賑わう声が届く。秀輝は、微動だにしていなかった首をやっと動かし声のする場所を探した。なにやら、砂浜に人だかりが出来ている。
海岸エリアに面する利点を活かして多種多様な展示が見られることも、この水族館きっての醍醐味。その中でも、特に目玉イベントと言われるペンギンのお散歩は、広いビーチを完全に貸し切った状態でペンギンたちが闊歩する様子を見られる自由観覧型の催しだ。自然界ではないが、外界に放たれたペンギンの自由な生活を観察出来る貴重な体験コーナーでもある。接触禁止だが、分厚いガラスも高い柵も立てられていない。あくまで、動物にストレスのないスペース作りを徹底しているのも、飼育員たちの熱意を感じさせる環境だった。
〝お散歩〟を満喫するのは、ペンギンの種の一つであるフンボルトペンギン。日本の動物園や水族館で最も見られるペンギンで、くちばしの付け根にあるピンク色の皮膚が非常に愛らしい。
彼らは、スペース内で自由に遊び回ったり、寝転んだり、時には飼育員さんに餌をせがみに行ったり、観客の目などまるで気にしていない自然体そのものだった。
「いいなぁ……」
なんとはなしに、こぼれ出た。
その一言は、様々な感情を言い表せる便利な単語だが、発した本人である秀輝自身は、目を細めたまま、ピクリとも表情を動かさなかった。
彼は、足元に転がっていた小石を摘み、目の前に広がる海を目掛けて投げ入れ始めた。ぽちゃん、ぴちゃん、と粗末な水飛沫が上がるだけで、あとは虚しく落っこちていく。たまに、カランカラン、と乾いた音が鳴るのは、彼のいるエリアに張られた規制用のロープに下げられた看板に石が当たっているからだった。
現在、秀輝が座り込んでいる周辺は全く人の気配が無い。普段ならば、蟹や小魚を見られる場所として釣りが賑わうはずの人気スポットなのにだ。
どうやら、今年は諸般の事情で閉鎖されているらしい。避暑地でもなければ、暑さを凌ぐものもない。人が来ないのも頷けたし、彼自身、一人になりたくてここを選んだのだから、気にする必要はなかった。
「高校三年にもなって、海でやることがこれかよ」
遠くから聞こえてくる盛況と彼を取り巻く湿った虚無が、同じ世界に共存しているとは思えないほどにアンバランスさを醸し出している。
今更になって、「半強制的につれてこられたなんて文句言ってごめん」と、心の中で勝手に姉に謝罪をする始末。
もともと、俺が恐怖症を持ってなければ。
そもそも、断ることが出来ていれば。
湧き出る卑屈は、留まるところを知らない。
これも彼の個性であり、性格の一つだ。かと言って秀輝は、決して自己評価が低かったり、ネガティブな考えを持ったりする人間ではない。
ただ、軸があやふやなだけなのだ。分かりやすいほどに男子高校生らしい、とも世間は考えるだろう。
「入っちゃ駄目だよ」
摘みかけた小石を不意に落とした。ころころと転がっていくソレは、蛍光色の映えるビーチサンダルにぶつかって止まる。小さく綺麗に整えられた爪先が二つ並んで海のほうを向いていた。
「……?」
顔を上げると、思っていたよりも近いところに見知らぬ少年がしゃがみ込んでいた。少年は、顔にはてなマークを浮かべていて、じっと水面を凝視している。てっきり、秀輝に話しかけたのかと思われたが、別段こちらを気にしているような素振りは一切無かった。
これには、秀輝も同様にはてなマークを浮かべざるを得ない。そもそも、子供が近くまで来ていたのに、気配にすら気付けないほど自分は疲弊していたのかと、首をひねった。小学校低学年くらいの子供が、一人でこのような規制エリアに来ていいものでもない。おおかた、秀輝が座り込んでいるのを見つけて、興味本位で近付いただけだろう。つまり、彼は、年上として悪い見本になってしまったわけだ。
しかし、好奇心で寄ってきたにしては、妙に少年は静かで落ち着いていて、先程の言葉以外はなにも発さない。秀輝も秀輝である。数秒前までの卑屈が尾を引いて、終始無言のまま。結局二人になっても、やることはただ水面を眺めるという行為だけ。秀輝が一人で座っていたときと、なんら代わり映えのしない光景のままだった。
「……? ぅわ、……」
もぞもぞと音がするほうを見れば、少年が更に前のめりに水面へと顔を近付けて、ゆらゆら身体を揺らしている。前傾姿勢だから、足が痺れてしまわないよう、少年なりの工夫なのだろう。見ていて不安は拭えない。なぜか秀輝のほうが緊張していて、小石を投げる一方で少年から目を離せなくなっていた。
一瞬、周囲を見渡してみるも、保護者らしき人影は一切見当たらない。
背後をどんどんとせり上がってくる不安と妙な罪悪感。忘れていたはずの冷や汗が、汗腺の無いところから突然伝うような錯覚。それは、明らかな動揺。
秀輝は、少年をわざわざこのエリアから引き剥がしてまで、人のいるところに連れて行くべきか悩みあぐねていた。
受付カウンターか無料の案内所にでも行けば、この問題は解決するだろう。だが、子供の好奇心を、よく知らない赤の他人が制止しても良いのだろうか。第一の前提として、親が子供から目を離している状況が大問題なのだ。
秀輝は、今までで最も大きな石を見つけ、「勘弁してくれ」と嘆息混じりに強く海へ投げつけた。
ぼちゃん。
水にぶつかったにしては鈍い飛沫。波紋が広がって、秀輝のいる足場まで波がやってきた。
それにしても、少年も少年で中々の強情。今もゆらゆらと身体を揺らすだけで、なに一つアクションを起こさない。じっと、ただじっと規制ロープの先の海を覗き込んでいた。声を聞いただけで、顔はずっと半分しか見えていない。秀輝の隣にいる彼は、一体どんな顔をして、どんな眼で、底のない真っ青な海を見つめているのだろう。子供の無垢ほど計り知れないものはない。
丸めていた背を正して秀輝は、少年の視線の先を追いかけた。
「……ぅわ……そういうこと……」
水面をゆらゆらと漂う真っ白なモヤ。いくつか散らばって、ふわりと扇のようにはためく。
好奇心の的――正体は、クラゲ。
規制されていたことに合点がいった。ただ、抱えていた不安や恐怖の種は、明瞭な認識によって色濃く精神を侵食し始めた。本当に単なる漠然とした不安だ。ただ、その実体のない説明のしようがない事象こそが、彼の持つ恐怖症を刺激するのに容易いのだ。
例えば、一般人がクラゲを見たときに抱く感想として「綺麗」「可愛い」「不思議」などがおおかた占めることは周知の事実。実際、クラゲのみに特化した水族館だって全国的に広がっており、その人気は右肩上がり。ニュースやテレビ番組でも特集が組まれたり、現地でリポーターが楽しそうにクラゲを愛でたりする様子も頻繁に放送されている。
なにより、クラゲという種の持つ摩訶不思議な構造こそ、人々を惹きつける最も大きな特徴だ。一個の水槽に群集したクラゲたちが、色鮮やかにライティングされ、暗闇をスポットライトで照らすかのように展示される様はまさにアートそのもの。そんな光景を前にした人々は、大半が「感動」するに違いない。
秀輝はその真逆で、クラゲのような生き物は、恐怖の対象そのものとして認識している。もちろん、海洋生物だからという理由。ただ、クラゲはその中でも群を抜いて「海」を想起させるのだ。
それは、クラゲならではの身近さが悪さをしているのだろう。実際、このように秀輝と少年のすぐ目の前に姿を現しているのだから。
(見れば見るほど、ただのゴミ袋……でも、全部クラゲ……)
〝ゴミ袋〟と言われる当のクラゲたちは、今も水面で穏やかに浮かんでいる。それこそが、秀輝の恐怖心に拍車をかけていた。
今、彼の心境を言語化するなら、「落ちたら確実に死ぬ」で間違いない。
ときに、クラゲの持つ毒には、軽度の痛み・痒みから死に至るまで様々な症状が挙げられている。とはいえ、普段は観光客が押し寄せる海岸エリアだ。死亡者が出てしまうほどの猛毒な触手を持つクラゲが生息していたら、まず大事になっているに違いない。少なくとも、秀輝の住まう地元で、クラゲ被害により人が死んだというニュースは見たこと無いため、ただの風物詩だと思えば楽なもの。
でも、〝その程度〟を自分の死にまで結びつけてしまうのが、海洋恐怖症の恐ろしい症例の一つ。見たところ、ほんの二、三匹しか浮かんでいないのに、あっという間に秀輝は顔を青くしている。呼吸もどんどんと落ち着きがなくなっていて、浅い息継ぎを繰り返していた。指先は震えて、小石すら摘める余裕もない。
どうして彼は、そこまで怯えているのか。ただクラゲが浮かんでいるだけなら、すぐに立ち去れば良いものを。
否、それは出来なかった。
紛れもなく、少年の存在が気がかりだったからである。
ゆらゆら揺れ続けていた少年は、足を抱えたまま、もっともっとと言わんばかりにクラゲを求めている。まだ成長期にも入っていないだろう軽く小さな身体は、少しでも力を後ろから加えれば、きっと頭から水面に落ちていくに違いない。爪先を浮かせてかかとへ重心を変える。次は、かかとを浮かせて爪先に重心を。胸と肩を容赦なく使って体全体を振り子のようにする少年は、クラゲを模しているのだろうか。
目に毒。
その光景は、秀輝にとって精神的に良くないものとして毒となり、じわじわと作用し始めていた。
「……ッ……は」
乱暴に好奇心を振りまいていたソレは、突如として、ぴた、と止まった。
微動だにしない少年の背中は、未だに不気味さを纏っていて、海を眼前にしていることに変わりない。
束の間の静寂と小休止に秀輝は、胸をなでおろし息を大きく吸っている。せっかく作り上げられた完璧な立ち上がりのセンターパートも、汗を吸い過ぎたために横たえ、不格好なつむじを見せつける有様だ。
眩しいけれど、それでも無性に太陽を求めて天を仰ぐ。一瞬、ほんの一瞬だけでも良いから、瞼の裏にこびりついた真っ黒な臆病者を真夏の日差しで突き差してほしかった。
指の隙間から覗く毒の塊。太陽の光が視界の隅を掠めているからおぼろげだった。
炎天下が邪魔をして、思考は完全に鈍っていたのだろう。
脳裏を過ぎる最悪な選択肢は、既に彼に結末を突きつけているというのに。
一、少年を海から引き剥がす。
二、少年が海に落ちないように引き止める。
答えはとっくの昔に出ていた。だが、二つのどれでもない。
まず、今しがた身を乗り出し空中に浮く少年の投げ出された手を、秀輝は掴めやしない。おまけに人が落ちる時は、本当にスローモーションにかけられるのかと、傍観者であることを徹底しているのだ。
掴めば落ちる。
掴まなくとも落ちる。
頭から、脳天から、猛毒の蔦に絡まって、きっと死ぬのだ。
そして、底なしの暗所へ落ちていく――もがく暇なく。
――ばしゃん!
目の前で噴き上がる水の飛沫。打ち上げられた雫は、パラパラと小雨となり、水面で陽気に踊り跳ねる。重力に任された身体を受け止めた水は想像以上に砕けた。衝撃と共にそこかしこの岩やコンクリートにぶつかって押し返す波。もちろん、秀輝のすぐ足元にも届く距離。数秒もすれば、あっという間に自然界の起こした音として、脳内を過ぎ去るのだ。
じわじわ、じりじり。焼き尽くしたと思われていた臆病者は、焼けただれて、焦げて、こびりついてしまったらしい。もっと真っ黒に、真っ暗闇に。
さきほどの選択肢の答えには、三つ目がある。
――なにも出来ない。
秀輝は、呆然と眺める他無かった。
バシャバシャと水面を叩き、声も出せずに大量の海水を飲み込んで、えずいて、酸素を求める姿を。
すぐ近くを漂っていた白いモヤは、まるで、知っていたかのように刻一刻と差し迫る。小さな頭は、いとも簡単に覆われてしまった。
水面から這い出ていた両手が、だんだんと力を失い弱々しく、ちゃぷちゃぷと手招きをする。緩慢に関節を動かして、やがて沈み始めた。
モヤの奥では、一体どんな顔をしているのだろうか。大口を開いて、眼球をこれでもかと血走らせて瞠っているのだろうか。それは、覗き込む秀輝の顔を恨めしそうに、憎しみを込めて、死ねと、お前も落ちろ、と鬼の形相をしているかもしれない。それとも、すんなり死を受け入れて、穏やかに眠るような顔をしているのだろうか。
いいや、それは無い。秀輝には、確信があった。
「ぁ……あぁ……」
体感的に述べると三十秒ほどだろうか。長いようで短い。だが、考え方によってはそれだけという認識だって容易になる。なぜなら、ここは水の世界。
たった、それだけ。
ほんの少しだけ。
こうして、子供は静かに溺れる。
秀輝は、白いモヤに絡まれて水底へ落ちていく影を見つめていた。
まだ息はあるだろうに、顔にかかる白は打ち覆いを彷彿とさせる。まるで、死ぬことが明らかだと海に見せられているようなもの。気泡に乗せられて、ゆらりと揺蕩う白布は、焦らされていた少年の顔を漸く明かす。怖いもの見たさなのか、はたまた罪悪感からなのか。
秀輝は、さきほどまで少年がやっていたのと全く同じ姿勢で海を凝視していた。
あとすこし。
もうすこし。
あといっぽ。
「――海に殺されるよ」
真上で水風船が割れるように、その声は、酷く乾ききった秀輝の脳みそをさました。
海のさざめきも、風に撫でられるヤシの木の葉の音も、遠くから聞こえてくる観光客の声も、次第に戻ってくる。息の出来なかった真っ暗な世界が、突如として日の目を浴びた。
「……?」
秀輝が見上げた先には、一人の青年が少年を抱えて立っていた。
腕の中でじたばたと暴れる少年の爪先から、転げ落ちた蛍光色のビーチサンダル。それは、ついさきほどまで秀輝の隣にいたはずのモノ。
そして、隣から前へ、海へ、と落ちていった。かのように見えていたモノ。
全て、秀輝の見ていた恐怖症による幻覚に過ぎなかったのだ。
「は! な! せぇ!」
「……」
そんな秀輝のことなんて露知らず。少年は、やいのやいのと青年の腕なり足を蹴ったり叩いたりして、まるで別人。海に落ちるかもしれなかったところを見知らぬ人に助けてもらったという自覚は無いらしい。ヘビのように身体を滑らせて抜け出すなり、脱兎のごとく砂浜のほうへ駆け出していってしまった。
「行っちゃった……まあいいか、大人が見つけてくれるよ。あれだけ自由なら目立つ」
秀輝と顔を合わせないものの、会話はしているらしい。彼は、乱れた前髪を整えながら、ペンギンのお散歩を見ていた。
「ぃ……っ」
どうやら無意識のうちに尻餅をついて、手のひらをコンクリートに擦っていたらしい。今の秀輝にとって、手はなくてはならない大切な逃げ道だ。不安げに眉を下げて意味もなく、ぬるまったペットボトルを当てた。
青年は、肩を落としている秀輝の姿になにを思ったのか間近に屈んだ。突然、名も知らない同い年くらいの男の顔面が背後に忍び寄ったことにぎょっとして、秀輝はまた仰け反りかける。真っ赤にした両の手のひらが宙を掻き、ガコン、とペットボトルは落とされた。軽快に転がって、幸いにもコンクリートの縁で思いとどまってくれる。
「ぅわ!!」
青年は、目の前で暴れる秀輝の手のひらがコンクリートに叩きつけられる前に、するりと掴み取っていた。それだけで、並外れた動体視力の持ち主であることが一目瞭然だった。
とはいえ秀輝自身は、がしりと両手首を掴まれたまま、その後をどうすれば良いのか固まってしまっている。
挙句の果てには、「もう、わからん……」と久しぶりに嘆息をこぼす始末。
「あー……その、ありがとう……一人で立てるから、離してくれない?」
「うん」
意外にもあっさりと、青年は手を離した。きっと、湧いて出た行動だったのだろう。
秀輝は、ゆっくりと脚に力を込めて立ち上がった。少々、熱気でバテているのも相まって眩んでしまったが、一時的なものだから心配はいらない。
「じゃ、……な。ほんと、ありがと」
「はぁ」
お得意の愛想笑いを浮かべたまま秀輝は、尻すぼみに小さく会釈をした。青年の目も見ず。
そして、すぐに背を向けて駆け出していた。ただ、こんなときでも秀輝の頭の中は忙しない。ぐちゃぐちゃと起きたことの収拾を付けることで精一杯だった。
「……っ!! やっぱり来るんじゃなかった!!!!」
彼の心からの嘆きは、誰の耳にも届かない。
まさに、お天道様のみぞ知る。
砂浜のほうへ駆け出していく、手のひらを真っ赤にした男の背中を見つめていた。
青年――比企田歩は、秀輝の忘れていったペットボトルを拾い上げる。さっさと飲みきってしまえばいいものを、わずか二、三口ほどの量を残しているのは、彼のポリシーなのだろうか。
飲み残された水越しに水平線を一望する。当然、澄み切った世界が見えるはずもなく、質の悪くなった他人の飲みかけを観察する羽目になった。全くもって自業自得。
歩は、改めて秀輝の座っていたコンクリートへ腰を下ろした。そして、同じように前に屈んで、海へ顔を近づけるのだ。
クラゲは、もういなくなっていた。
反射する己の顔を見つめていると、なんら代わり映えのしない青々とした海が、あいも変わらずそこにあるのだと感じさせられる。
「こんなんで、死ぬわけない」
吐き捨てられた一言は、誰に向けたものなのか。
足元に転がっていた小石を適当に、水面に反射する己の顔面に目掛けて投げ込んだ。
ポチャッ、と波紋を広げて渦を巻く。
海を眺めていたら、じわじわと手のひらがコンクリートに焼かれ始めていることに気付いた。
ゆっくりと体勢を戻して空を仰ぐ。そうして、空へ手を伸ばすのだ。
掴めもしない、届きもしない、その場所へ。
八月の夏休み某日。暮れなずむ頃、二人の男子高校生は出会った。
一人は、水が嫌いな、とある男。
一人は、水へ自ら近づく、とある男。
これは、壮大でもない。立派な冒険譚でもない。
取り零してしまった青春を見つけるための、ちょっとした人生の物語である。
