カガミ

第五章
 目を覚まして最初に思ったのは背中の痛みだった。固いフローリングの上で敷物なしに眠ったからだろう。横を見ると和が眠っていた。長い前髪の奥で瞼を赤く腫らしている。和は疲労が溜まっているのかまだ目を覚ましそうにない。
 かけられていたタオルケットをどかして起き上がり伸びをする。身体中からバキバキと音が鳴るが、胸の痛みはすっかり無くなっていた。立ち上がり、台所で水を飲んでいると布が擦れる音が聞こえる。
「おはよう、和」
 声をかけてみる。和は髪の左側が跳ねており、ぼんやりとこちらを見つめていた。
「……おはよう、司」
 ぼそぼそとまではいかないが小さな声だった。しかし聞き返す必要はない。
「よく眠れたか」
「身体は痛いけど頭はすっきりしているよ」
 ぎこちない笑みを浮かべる。昨日のように自然に口角をあげる感じではないが今の方が自然に見えた。
「それは良かった。マッサージしてやろうか」
「ベッドの下の本みたいに?」
「お前、それを出すのは卑怯だろう!」
「ふへへ」
 顔に血が巡るのが分かると同時に彼が冗談を言えるほど戻ったことに安堵する。そしてそれは昨日の事も覚えていることを意味していた。
「あのさ、まだ時間ある?」
「あるよ」
「カガミの事、改めて相談していいか」
 少し間をおいてからいいよ、という返事があった。
「……やっぱり消した方が良いと思う。自分で書いておいてなんだけど危ないよ」
「そういえばカガミの儀式の後って実際はどういう感じだったんだ?傍から見るととりつかれたように見えたけど」
「どっちかって言うと嫌な自分を追い出した、が近いね。例えば緊張する理由って相手が偉い人とか色々あるけど僕の場合はうっかり迷惑をかけていないかなとかがあるんだ。でもあの儀式の後からそういう不安が全部消えて——全能感とでも言うのかな、なんでも出来ると思えるようになったんだ」
「なるほど」
失敗したから追い出された和にとっての嫌な部分がこちらに入り込んで来たって訳か。しかしそれが事実なら万が一儀式に成功していたらその和はどこに行ってしまうのだろうか。今になってぞっとする。
「そう思うと司のお金持ちになりたいは成功していたとしても叶うものだったのかな」
「なんとなくだけどそれは叶わなかった気がする。この儀式って自分を定義する事に特化しているように見えるんだよな」
「どういう事?」
「例えばお参りする時に宝くじが当たりますようにって願ったとしても当たる人はほとんどいないと思うんだよ。でもそのお願いする人が仮に社長でこの事業をこういう風に成功させたいって願ったら案外叶っている気がするんだ」
「うーん……もう少しだけ分かりやすくしてもらえるかな」
「悪い、悪い。要は目的だけ願うのは叶わないけど、こうなるって手順まで考えていたら叶うって事。俺の場合、ただ金持ちになりたいって言ったけど働くのか、宝くじを買うのかも決めていない」
「それなら僕も司になりたいって目的だけ言っているよ」
「言わなかったけど内心は自分のこの部分が無くなれば俺っぽくなれると思っていたんだろう。平たく言えばそれも手順に入る」
「そうするとますます消さなきゃいけないんじゃないかな。再現率が高過ぎる」
「消せるのか」
「削除キーがあれば。でも作ったのは前だから覚えてないし……」
和はぶつぶつと削除する方法を考えている。しかし自分の意見は違う。
「正直に言うと俺は消さなくていいと思っている」
その言葉を聞いて金髪の男は驚いた表情で顔を上げる。
「何言っているの。僕の変化見たでしょう」
「見た、けど消すは違う気がする。残した上でやらない事を伝えるんだ」
「そんなの第二の司がやるに決まっているよ」
「おお、言うな。でもこれは反省の意味もある。俺は今まで都市伝説で痛い目にあった事がない。だから面白半分でずかずかと儀式を試せた。人間って痛い目を見るまで怖い物知らずなんだよ」
脳裏に中学生時代の記憶が蘇る。
「危ないけどやりたい奴は勝手にやらせればいい。自己責任だ。ただ注意書きは増やそう。結果的にやる人数が増えてもそれはそれで俺達の責任じゃない」
「……司、少し薄情になった?」
「中学時代から俺は薄情だよ。和の憧れる俺じゃ無くなっているんだ。ごめんな」
和は前髪を耳にかけながら考える素振りを見せる。
「ううん、こっちこそ司のイメージを勝手に押し付けていた。ごめん」
「じゃあこれで仲直りって事で」
「喧嘩していたっけ」
「細かい事はいいんだよ」
張り詰めていた空気がようやく少しずつほどけていく。昨日の夜からずっと息を詰めていたのだと今さら気づいた。
「じゃあ、追記するか」
ノートパソコンを開くと、昨日閉じられたままだったココアサの画面が表示された。アサガオの配信は途中で止まっている。昨日の騒動は現実だったのだと改めて思い知らされた。
ブックマークからカガミのスレッドを開き文章を読み直すと昨日まで不気味だったものが少し違って見える。キーボードを叩き文章を作り上げる。そして完成したところで和に振り返る。
「……こんな感じでどうだ」

【追記】
カガミを試しました。
結論を言うと失敗しました。
この儀式はおすすめしません。
この儀式は自分がどうなりたいのかを強く決めつけてしまうものです。
試さないでください。
ただし、もし試してしまった場合は最後にお礼を忘れないでください。
誰かになろうとしないでください。

「……都市伝説風」
「都市伝説なんだよ」
「そうだった、いいと思う。でも少し追加してもいいかな」
和は屈むとキーボードで文字を入力する。
『相手のことをちゃんと見てください』
それだけ打つと身体を起こした。未だ前髪がかかったままだが顔の影が消えている気がする。
「これでよし。後はアップするだけだね」
「そうだな」
マウスを操作してアップロードボタンを押す。するとカガミのスレッドには続きが出来た。
「……これで終わった、かな」
「いや、俺はまだやる事がある」
スマートフォンを取り出してメッセージを作る。相手はアサガオだ。事の顛末とスレッドに新しい文章をあげた事を短く報告するとすぐに電話がかかってきた。
「こんにちは、司くん。お元気そうで何よりです」
後ろでマウスを押す音が聞こえる。
「おかげさまで」
「司、誰」
和は小声で尋ねてきた。パソコンを操作してココアサの画面にして指を指す。驚いた顔をされた。
「このまま電話を続けても大丈夫ですか」
和に目配せをして了解を得たので返事をした。
「まずお疲れ様でした。無事解決出来たようですね」
「アサガオさんのおかげです」
「私が祓ったわけではありません。司くんが和くんと向き合った結果です」
返す言葉が見つからないでいるとアサガオは会話を続ける。
「ところで記事の件ですが今日の追記を踏まえて大幅に書き直しています。勿論個人情報に当たる所は書いていないのでご安心を」
「……なんかすみません」
「棘のある言い方に聞こえたら申し訳ない。むしろ貴重な実例を提供頂き感謝します」
「こちらこそ相談に乗っていただきありがとうございます」
思わず電話越しの男にお辞儀をする。和も真似して頭を下げるのが少しおかしくて肩の力が抜ける。
「また都市伝説に足を突っ込んだら今度は料金を頂戴するので」
アサガオなりの釘の刺し方だった。
「その時はしっかり稼いでおきます」
「反省しなさいと言っているんです」
反射的に笑ってしまったが、すぐに背筋を伸ばす。
「すみません」
普通なら怒るだろうが彼は大人だった。
「笑えるくらいには戻ったんですね。それなら良かった。後は和くんと仲良くしてください」
それだけ告げると電話は切れた。
「……すごい人だね」
「そうだろう」
「司が興味を持つ理由が分かる」
「話が面白いのもあるけど、真面目に話を聞いてくれるんだよ」
何に引っかかったのか分からないが和は真顔になる。そして上半身を深く倒す。床と水平になっている最敬礼だ。
「司、ごめんっ」
「おい、どうした。やめてくれ」
いきなり本気の謝罪をされても困る。
「沢山迷惑かけた。ストーカーみたいな事もした。でも司に嫌われたくない」
和は顔を下に向けたまま胸中を吐き出す。突拍子のない行動だが、今までの和と違い自分の感情を出せていた。
「……自分の事は嫌いか」
 尋ねてみると和は肩をぴくりと震わせる。そして上半身を起こして口を開く。視線は横に向けられている。
「正直に言うと完全に好きとは言えない……でも昨日までみたいにいなくなればいいとは思わなくなったよ」
「そこまで言えるならもう平気だな」
 顔をのぞき込むと和は目を見開き一歩引く。
「なんで顔が赤いんだよ」
「顔が近いからだよ」
「昨日、お前も結構近かったぞ」
「そんなことない」
 何を必死に否定しているか分からないが、揶揄いすぎても気の毒だ。
「ところでこれからどうするんだ。まだ東京にいるんだろう」
「そうだね。実質旅行とはいえ就活準備を何もしないのも悪いからオフィス街とか国会図書館とか行ってみようかな」
「おお、日本一大きい図書館じゃないか。楽しいらしいから良かったら一緒に行こうぜ」
「来てくれるの?」
「俺も夏休みで暇だし」
 ふと思いついたことがあり付け足す。
「でもホラーの資料ばかり探さなくていいからな」
「どうして分かったの」
「今までの流れで分からない方が無理だろ」
 和は少しだけ困った顔をした。
「じゃあ、司対策じゃない本を探す」
「何だよ、司対策って」
「司と話すために読む本」
「ホラーの事そういう風に見ていたのか」
「うん。あ、好きだよ。面白いとは思っている」
「うんって。俺関係なしに好きなものはないのか。小学生の頃読書好きだっただろう」
「覚えていたんだ」
「シンプルな趣味を忘れる方が難しいだろう」
「……実は最近パソコンに興味があるんだよね」
「組み立てる方?」
「それも気になるけど開発って言うのかな?ゲームだけじゃなくてシステムとか作れたらかっこいいなって思っているんだ」
「すごくいいじゃん。ハマったらとんでもないもの作りそう」
 和はみるみるうちに嬉しそうな顔をする。
「じゃあすぐに行こう」
「まずは朝食だ。そのあとは和の部屋だろう。荷解きは全部終わっているのか?」
「散らかしているけど段ボールから全部出している」
「数日で散らかすな。片付け手伝ってやるから今日は図書館諦めろ」
「家に来るの?」
「泊まりでな」
 揶揄い半分のつもりで言ったが和はむしろ喜んでいるようだ。今日も買い出ししなきゃとか早くも色々な心配をしている。
「酒は買わないからな」
「え、どうして」
「休肝日だからだよ」
 額を指で小突く。これくらいがちょうどいい。和は額を押さえながら、少しだけ不満そうにこちらを見る。けれどすぐに笑った。その笑い方は、昨日の作り物めいた明るさではなく、昔の図書室で聞いた空気の漏れるような笑い方に近かった。
 完全に戻った訳ではない。たぶん、自分も和も戻る場所なんてない。それでも、今ここにいる二人でまた始めればいい。夏休みは始まったばかりだ。ふと窓を見ると二人の姿が反射していた。どちらも明るい表情だった。