カガミ

第四章
 電車に乗っている間、アサガオとの会話を反芻する。
和はカガミにとりつかれていた訳ではなく、都市伝説を作った張本人かもしれない。
こんな話、信じられるだろうか。正直信じられない。何故なら都市伝説を見つけたのは自分だからだ。百歩譲って和が作り上げたものだとして、何故和自身に異変が起こっているのだ。万が一異変が起こるとすれば儀式で礼を言わなかった自分の方ではないのか。
……何度この流れを繰り返しただろうか。アサガオとも話して、この問題を解決するのは自分しかいないという結論になった。
もう少し分かりやすい答えを教えてくれても良いじゃないか。相談に乗ってくれた恩人にケチつけたくなるくらいには混乱していた。
気がつくと家に着いていた。いつの間に乗り換えたとか、途中何があったとかほとんど覚えていない。玄関を開けるとこもっていた熱気がまとわりつく。冷房に電源を入れつつ着替えを済ませると、パソコンの前に座った頃には適温になっていた。そしてパソコンを起動させると同時にスマートフォンを見つめる。どうしようか。そう考えていた時、不意に着信音が鳴った。画面にはメッセージが表示されていた。
『今日はありがとう』
送り主を確認する。和だ。その瞬間背筋が冷える。なんて返事をする?無事家に着いたか?それともお疲れ様とでも言っておくか?返事を迷っていると続けて連絡が入る。
『久しぶりに会えて嬉しかった』
その言葉を見て無意識のうちに画面のロックを解除する。そしてメッセージアプリを開くと既読がついた。もう無視はできない。
『こちらこそ。もう落ち着いたか?』
『今時のマンションは家具もついてくるんだね。知らなかった。流石に炊事洗濯は自分でやらなきゃいけないけどホテルみたい。むしろホテルより落ち着くかも』
それはいつも通りの和で怪しい事を考えているとは思えなかった。
『そんなにすごいんだ?』
『写真送るよ』
しばらくすると写真がアップされる。フローリングの床にシングルベッドが置かれ、一人用の机と椅子がその横にセッティングされていた。モデルルームで紹介される部屋そのままだった。しかしよく見ると写真の四隅に衣服が写り込んでいる。さらに窓には室内が反射し、段ボールが積まれているのが見えた。
『隠しているけど丸見え』
『どういう事?』
しばらくして気がついたのか『あ』とだけ書いて沈黙する。こんな抜け方をしている人物が都市伝説なんて作れるだろうか。昼の違和感は久しぶりの再会で緊張していたのかもしれない。だが本当にそう決めて良いのだろうか。
おかしいと思ったから藁にもすがる思いでアサガオに相談した。少なくともあの時の自分はそれが最善の策だと思った。その判断を見逃したままで良いのだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが今はまさにその状態ではないか?
『写真消せない。こうなったら司の部屋も見せて』
落ち着いたのか和が会話に戻ってきた。疑心暗鬼の思考が中断される。スマートフォンを手に取りカメラを起動するが、ある考えが頭をよぎり中断する。そして再びメッセージアプリに戻り文字を打ち込んだ。
『良かったら家に来ない?せっかくだからスーパーで惣菜でも買ってパーティでもしようぜ』
『いいの?』
『もちろん』
『でも遅くなったら帰れるかな』
『その時はうちに泊まればいいよ』
送ってからすぐに後悔する。何を言っているんだろう。疑っている相手に泊まればいいなんて。我ながらどうかしている。あれだけ警戒しておいて最も安全な家に呼ぼうとしているのだ。いや、違う。儀式自体はこの家で行ったからむしろ最も安全ではないのかもしれない。
『ありがとう。司の部屋見てみたかったんだ。一人暮らし長いんでしょ?参考になると思う』
『部屋汚いから期待するな。あと掃除するから明日でいいか?』
『どれだけ綺麗になっているか楽しみにしている』
 生意気な事を言うなと思いつつ、猶予が出来た事に安堵する。彼を信じたい気持ちが大きいが、なんだかんだで緊張しているらしい。友人を初めて自宅に招くからか、和だから緊張しているのか。深く考えても答えは見つからない。
 とりあえず部屋を片付ける事にする。机の上には飲みかけのペットボトル、床には脱ぎっぱなしの服が乱雑に置かれていた。他人に見られないと思うとこんなに適当に生活できるんだと改めて考える。
まずは分かりやすいゴミから処分する事にした。ペットボトルの中身を捨ててラベルを剥がす。古雑誌を紐で束ねてまとめる。それだけで少し部屋が綺麗になるが、人を呼ぶにはまだ遠い。
次は本棚を確認する。基本的に参考書と気に入っているホラー小説が並べられているが、いくつか見られては困るものもある。木を隠すなら森という言葉もあるが、ある程度整合性の取れた中で急に趣味に走ったカラフルな本が出てきたら冷や汗が止まらない。
どこに隠そうかと思考を巡らせるが結局ベッドの下が最も安全だと判断した。ドラマでは見つかるまでがあるあるだが、初めて部屋に遊びに来る相手がいきなりベッド下を漁る事もないだろう。隠すついでにベッド周りを軽く整理した。使えない古いドライヤーがあったが、燃えないゴミの日はまだ先だ。これもベッド下に隠しておこう。元々物が多い方では無いので見える所は大体片付いてきた。後はクローゼットの中など確認して問題が無ければ完璧だ。隠すべき所を全て隠した最後に机の引き出しを開ける。
そこには手鏡が仕舞われていた。儀式のために百均で購入したプラスチック製の安っぽい物だ。裏面には何の作品か分からない謎のキャラクターが描かれている。百均特有のどこかで見たことあるようなないような顔だ。
持ち手を掴んで裏返すと天井の照明を反射した。眩しいと思いながら自身の顔を見るとその表情に目が離せなくなる。
眉を下げてどこか自信を無くし、不安を隠せない表情だった。そんな顔をしている自覚は無かった。
何故?和が来るからか?彼が来るのが嫌なら呼ばなければ良い。頭を振ってもう一度鏡を見る。そこにはいつもの自分がいた。なんだか不気味だ。捨ててしまおうか?
……いや駄目だ。この鏡を使って儀式を行った。もしかしたら解決の糸口に繋がるかもしれないのだ。ひとまず裏返して机の上に置くがキャラクターと目が合う。それすらも気になって引き出しに戻した。
これで一通り掃除が終わった。カフェ以降食事はしていないがまだ腹は空かない。スマートフォンを起動してカガミの儀式を行った人がいないか検索をかけてみるがヒットしない。ノートパソコンを開いてネットサーフィンをすることにした。何か気が紛れると思ったが結局オカルト掲示板に辿り着いてしまう。いくつか新しいスレッドはあるがめぼしいものはない。改めてカガミのスレッドを見に行くも新しい投稿はないので最初に投稿された文を読み直すことにする。
見直して思ったが、なんとも適当な手順である。
アサガオの指摘も今なら頷ける。本当に成功する儀式ならもっと条件が厳しいだろう。例えるなら人参もジャガイモも肉もまとめて鍋に突っ込んだらカレーが出来ますと言っているくらい適当だ。得られるものがあるとすれば料理をしている感だけだ。出来上がったものはとてもじゃないが食べられない。
だが自分はその何かをしている感が欲しかった。この儀式を行えば何かが本当に起こるんじゃないかという期待があった。
「……ん?」
 そういえばこの都市伝説は二人でやる事に意味があると言っていた。度々強調されているからそこに今更違和感はない。ただ大声でなくてもいいから相手に聞こえるように願いを言う箇所が気になった。普通ここまで書くだろうか。そこに初めて和と通話したときの言葉が蘇る。
『ぼそぼそ話して聞き取りづらいし、話すのに変な間が出来る』
 まさか本当にそうなのか。しかしそれなら辻褄が合う。慎重だが妙なところで抜けている。鏡を使った儀式なのに実際の主体はカガミではなく二人という点。願いを言う相手もカガミではなく目の前の相手だ。
 和ならこの文章を書いてもおかしくない。
 スマートフォンを取り出してメッセージアプリを起動する。
『先ほどはありがとうございました。やっぱりカガミは和が書いたかもしれません』
 見ていないと思ったがすぐに返事が来た。
『確証を得たんですね』
『はい。あと和を家に呼ぶ事になりました。その時に確認してみようと思います』
『ずいぶん急ですね。いい心がけですがそこは慎重になった方がいい』
『気を付けるつもりですけど注意点はありますか』
『まずいきなりカガミを書いたか尋ねるのはNGです。隠している以上無理強いをして良いことはない』
『他にはありますか』
『あとは和くんを否定しすぎない事です。発言もそうですが、今の彼も前の彼も』
『否定をするつもりはありません。でも違和感は本当なんです』
『あくまでも司くんから見たらでしょう。決めつけは相手を拘束します』
 彼の言葉は強いが正論である。続けてメッセージが送られてきた。
『説教臭くなってしまいましたが最後に注意するとすれば、危険になったらとにかく逃げてください。部屋の中だったら外へ、外にいたらどこかの建物に逃げ込む』
『失礼ですがカガミはでっち上げという結論ではなかったですか?本物だと思うだけでそこまで危険になるのでしょうか』
『手順はめちゃくちゃでしたが儀式自体を甘く見ない方がいい。下手に確立されていないものが厄介だったりします』
『……それこのまま俺一人で大丈夫なんでしょうか』
『除霊師は万能ではないです。霊がいなければ祓えないので』
『今のどういう意味ですか』
 最後の最後で気になる文言を吐くが返事は来なかった。意図的に返信を入れないようにしているようだ。いや、むしろ彼なりのヒントなのではないだろうか。和が来るまでまだ時間はある。それまでの間、どうしたらいいか考えることにした。

 翌日になっても完璧な解決策は思い浮かばなかった。そもそも和がとりつかれているというのはこちらの感覚でしかない。今さらと言えば今さらだが、これまでの自分から脱却して変身したいなんて誰にでもあることだ。別におかしい事じゃない。
 何度もこの考えを繰り返しているが放っておくのはまずいという結論に至る。どうまずいかも未だに分からない。
 時計を見ると待ち合わせの時間に近づいていたので荷物を鞄に詰め込み外に出る。夕方近くなっても相変わらず外は灼熱地獄だった。出来るだけ日陰を通りながら駅まで歩くと予定より早く辿り着く。辺りを見回すが和の姿は見当たらない。到着したことだけ伝えようとスマートフォンを取り出すと肩を叩かれる。振り返るとそこには自分より背の高い金髪の男が立っていた。しかし一瞬知らない人物に見えてしまった。
「司」
長い前髪を横に流し顔がはっきり見えていた。声や背格好で和だと分かるがこんなに印象が違うものだろうか。顔を知らなかったわけではない。けれど、前髪がなくなると印象がまるで違った。釣り目で口が大きく、目立つ目鼻立ちだった。言ってしまえばイケメンの部類に入る。
「待たせたかな」
 ぼそぼそとしたどもりがない。メールで想像するテンポと同じ速さで話す。服装はジーンズにシャツとあまり変わらないが背筋が伸びているだけで見栄えが良くなっている。身長は近いと思っていたが実際は百八十近くあるだろう。
「どうしたの。疲れた?待たせすぎちゃった?」
「いや、予定より早いし俺もさっき来たとこ」
 たった一日で雰囲気がここまで変わるのか。平静を装って返事をすると和は笑みを浮かべる。
「良かった」
 その自然な笑顔が眩しい。本当に今まで通話をしていた和なのかと疑いたくなる。
「先に寄っておきたい店はあるか?なければスーパーに行こう。そろそろタイムセールの時間だから今日は豪華だぞ」
「司はすごいね。なんでも知っているんだ」
「一人暮らしをしていたら地元のスーパーの特売情報ぐらいすぐ覚えるって」
「じゃあ僕も覚えないと」
「二週間だけだと覚える前に帰りそうだよな」
「覚えた直後に帰りそう」
 他愛のない話に吹き出す。和も同じだ。楽しい。昨晩不安だったのが嘘みたいだ。話をしながら駅前のスーパーに移動すると籠を取る。
「うちには調味料はあるけどこれと言った食材はほとんどないな。炊けばごはんがあるくらい」
「食材を無駄なく使えているんだね」
「自炊をほとんどしていないだけだよ」
 実際そうである。一人分の食事を作るくらいなら総菜を買った方が早くて安い。
「参考にさせてもらいます」
「なんで敬語なんだよ」
「一人暮らしの先輩なので」
「言ったな」
 導線に沿って食材を見ていく。全てがそうなのかは分からないが大抵のスーパーは野菜売り場が最初にある。
「そういえばパーティをするって言っていたけど何か作る?片付けとか考えたら出来合いのものを買った方がいいかな」
「そういえばどうしようかな」
 当初はいくつか菓子と総菜を買えばいいと思っていたが、それだといつも通りで味気ない。せっかく二人いるのだから一人ではできないものを作るのも手ではないだろうか。
「せっかくだからお好み焼きでも作るか。本当はパーティと言えばたこ焼きなんだろうけどうちにたこ焼き器ないからな」
「それいいね。キャベツあるか見てくる」
「じゃあ俺は肉見てくるよ。道なりに歩けばすぐ分かるから」
 和はその場に残り自分は先を歩いた。普段とあまり変わらない買い物のはずなのに楽しいではないか。キャンプに行く直前のような高揚感とでも言えばいいのだろうか。和がすぐに戻ってきたので飲み物や菓子の棚に移動する。
「コーラにする?」
「それもいいけど酒も買おう。飲み会っぽい」
「司ってお酒飲めたっけ」
「飲めるよ」
「いつもあんまり飲んでいる印象がないから飲めないんだと思っていた」
 そこは気がついていたのか。しかし自分でもよく分からない見栄が働く。
「そりゃあストロング缶が何本でも飲める和よりは飲めないかもしれないけど、飲めないわけじゃない。宅飲みなら潰れても平気だし飲んでやるよ」
「無理はしないでね」
 和は眉を下げて心配してくる。その顔はいつもの彼だった。
「ありがとう。でも心配するなって」
 口の端を上げれば納得したのか和はロング缶を何本も籠に入れてくる。全てアルコール度数が十パーセント近くあるストロング系だ。
「司ならこの辺好きだと思うんだ」
「ちょっと待て、何本買うつもりだ」
「ああごめん。いろんな味を試したかった?じゃあこの小さい方にして全種類……」
「多いって言っているんだよ!」
 こいつはカガミより前にアルコール依存を心配した方がいい。普段から飲んでいるから平気という話には肝が冷えたが、どうにか数本に抑える事には成功した。五本以上購入するのが普通かどうかは別だが。
「そういえば司は総菜を推しているみたいだけどそんなに美味しいの?」
「そうだよ。なんでも美味いけど玉子焼きが特に好きだ。お好み焼きと被るかもしれないけどこれだけは食べてほしい」
「そういえば出汁が入った玉子焼き好きだって言っていたもんね。これもそうなんだ」
 いつそんな話をしただろうか。
「味付けの好みなんて教えていたか?」
「小学生の頃に教えてくれたじゃない。せっかくだしご相伴にあずかろうかな」
 一瞬戸惑うが流石にそれで不安に思うのは警戒しすぎだろう。時々思うが和は難しい言葉を普通に使う。社会人になったら一般的かもしれないがそういう言葉が自然に出てくる時点で教養があるのだろう。
「これで必要なものは全部入れたかな。さっさと会計を済ませて家に帰ろう」
 レジを済ませると袋は腕を引きちぎるような重さになった。キャベツも重いが酒が多すぎる。
「……このアル中め」
「ひどいよ司。ちゃんと休肝日も作っているのに」
「休肝日とか言っている時点で中毒一歩手前だ」
 納得いかない様子で和は首をかしげる。
「それよりその袋、僕が持つよ」
「いいって大体同じ重さだ」
「ううん、多分僕の方が軽い。それに重くなったのは缶のせいでしょう。沢山飲む方が持つのは当然だって」
「お前また飲む気で……」
「いいから」
 半ば強引に袋を取られる。何も持たないのは気が引けたので奪い返そうとするが中身を抜かれて軽くなった袋を渡された。
「家に呼んでもらっているんだからこれくらいはしないと」
 微笑みながら話す姿はさぞかしモテそうだと思ったが、同時にかつての和はそこまでスマートに出来たろうかとも考える。気を使ってくれるのは変わらないが、もっと不器用だったはずだ。
 家までは十五分もかからない。間もなく辿り着き玄関を開けると冷気が迎えに来る。すぐに戻ってくると判断して冷房をつけっぱなしにしていた。
「お邪魔します」
「もっと気軽にしろよ」
 和は律儀に一礼してから家の中に入る。短い廊下を抜けて扉を開けると部屋をきょろきょろと見回す。
「ここが司の部屋なんだ」
「どうだ、綺麗だろう」
「頑張って掃除したんだね」
「もともと綺麗だって」
「そうなんだ……参考書と小説が綺麗に並べられている。漫画は読まないの?」
「俺は電子派だな」
「ああ、僕もそうしようかな。最近置き場所に困っているんだよね」
「絶対そうした方がいい。下手したら漫画だけで一部屋埋まるからな」
「紙は捨てがたいけど、やっぱり移行しないとダメかな……」
 エロ本を真っ先に隠して良かった。そのままにしていたら一発で見つかるところだった。
「でもちゃんと管理しているから部屋がこんなに整頓されているんだね。多分普段はここに座っているんでしょう」
 彼が指さす先にはゲーミングチェアとノートパソコンが置かれたテーブルがあった。
「その通り」
「うん、当たり前だけどモニター越しと同じ景色だ」
 和はノートパソコンの近くに立つと、パソコンを背にして部屋を眺める。
「本棚と壁は見えていたんだけどベッドがある事には気が付かなかったな」
「何に気がついているんだよ。それより腹は減っているか?良ければもうお好み焼き作り始めようか」
 金髪の男は頷く。袋から酒缶を取り出し冷蔵庫で冷やしてから調理に入る。
「和、千切り得意か?」
「一センチ幅で良ければいけるよ」
「それは千切りではないな。とりあえずできるだけ細くやってみるしかないか……」
 料理はいくらでもサボれるが、いざ誰かがいると練習しておけば良かったと思う。
「二人で切れば早い。普通の包丁と果物包丁どっちがいい?」
「キャベツを切るのに果物包丁は小さいでしょう」
「一人暮らしの大学生の家に包丁が二本あっただけいいと思え」
「分かった、司の方が使い慣れているだろうから普通の包丁を使って」
「じゃあこのまな板も持ってリビングで切ってくれ。床に切れ端落としてもいいから」
「並んで切ればいいじゃない」
「この広さでいけると思うか?」
 ここは一人暮らし用のワンルームだ。一応キッチンはついているが、まな板は縦にしか置けないし、流しも小さい。この構造は料理離れの一因でもある。
「なるほど、理解した。できるだけ汚さないようにするから」
 そう話すと和は半分に切ったキャベツと調理器具一式を持ってリビングに向かう。部屋の中央には折り畳み式の机を出しており、その上で野菜を切り始めた。正座しながら切る姿はなぜか可笑しく見える。
 こちらも見ている場合じゃないと切り始めるが、いかんせん慣れてないので時間がかかる。千切りって何ミリから千切りなんだ、とかとんかつ屋の千切りキャベツは業務用なんだろうかとか考えていながら切っていると背後に人の立つ気配がする。
振り返ると和が立っていた。
「どうしたんだよ」
「切り終わったよ」
「早いな」
 時計を見ると五分かかっていなかった。料理をあまりしたことがない割には上出来だ。
「お手並み拝見……ってみじん切りじゃん」
 まな板の上にはみじん切りのキャベツが盛られていた。
「千切りって言っただろう」
「刃渡り十センチしかないナイフで酷な事言わないでよ。それに思ったんだ。結局火が通りやすければいいんだから切り方なんてなんでもいいって」
「お前、自由だな」
「発想の転換だよ。良ければ残り切ろうか?」
「いい。自分の分は自分でやる」
「そう言って実はみじん切りが得意じゃなかったりする?」
 和は更に近づくと背後から手を伸ばす。そして有無を言わせず両手を握りしめ身体を密着させた。背中から体温が伝わってくる。その瞬間包丁を握る手に力が入った。
「猫の手って言うでしょう。左手を伸ばしていたら指を切って危ないよ。あと最初から小さく切ろうとせずにざく切りにするぐらいの気持ちで切った方が均等に切れるし、それに……」
「待て待て待て」
 左手を振り上げることで和の拘束から脱した。彼は驚いた表情を浮かべていた。
「いきなり動いたら危ないよ、包丁を持っているんだから」
「それはこっちの台詞だ。いきなり抱き着くなんて何を考えているんだ」
「え……嘘、ごめん。そうなっていた?」
 口元に手を寄せ先ほどの行為を思い出しているらしい。そして客観的に見たらどうなるか気が付いたのか驚くほど顔を赤くした。
「ご、ごめん。良かれと思っただけで……」
「……いや、こちらこそ危なっかしかったな。とりあえず残りは俺がやるから和は粉を混ぜておいてくれ」
 なんだ、この空気は。本当に和なのか。下手に嫌悪感を抱いていない分、気まずくなってしまう。何とも言えない空気を払拭するかのように和は粉と水をかき混ぜている。こちらはこちらで更に時間をかけてキャベツを切ってようやく全ての具材が揃う。途中まで気まずかったがコンロに火をかけてからはそうも言っていられなくなった。
 混ぜた生地をフライパンに入れるが、何よりも最初にバラ肉を焼くべきだと気が付いた時には片面がしっかり焼けていた。では次に焼けばいいと生の生地の上に置くものだから悲惨なものである。案の定中途半端な生焼けになり、じゃあもっと焼けばいいとその部分を再加熱すれば香ばしい匂いを通り越して炭のような匂いになった。
「和、急げ!」
「小さい皿しかないんだけど」
 大きな皿はあるにはあるが食器棚の奥深くだ。焦っている今は探している余裕はない。
「縁に乗ればセーフだから」
「そんな無茶な」
 和が見つけた皿は茶碗よりも一回り程大きいスープ皿だ。だが焦げるよりマシだと無理やり乗せれば皿に蓋をするような形になった。
「これで一枚目は完成だな」
「次焼く前に皿を探そう。このままじゃ全部焦がす」
 それは当然の提案だった。コンロの火を止めると食器棚の前に立ち皿を探す。
「多分この辺だったはずだけど」
「ないの?」
「絶対このコップの後ろにあると思ったんだけどな」
 想像していた場所に大きな平皿はなかった。
「ちょっと見てもいい?」
 不意に和の顔が近づく。あと少しでも近寄れば頬が触れるほどの近さに思わず身を引いてしまう。
「確かにないね。でもお好み焼きが乗りそうだって思うほど大きな皿ならそうそう無くさないはずだよ。多分いつもと違う場所にしまっているんじゃないかな」
「割ってないからそうだろうけどさ」
「……あ、これじゃない?」
 そう呟いた和は上の段から皿を取り出す。それは探していた大皿だった。
「それだよ。どこにあった?」
「司が見ていた段の一つ上。ついでに言うとその奥の方に入っていた」
 いつも同じ場所にしまうはずなのに何故そんな変なところに入れたのだろうか。
「我ながら理解できない」
「司のことだから別の皿を取りたかったんじゃないかな。並べ方を見ると手前に使用頻度の高い小皿やコップを置いて奥側にあんまり使わないものを置く癖があるよね。奥側も一枚だけで置く訳じゃないから、その時欲しかった皿の上とかにあって、邪魔だから上の棚に置いてそのまま——って所じゃないかな」
 あまりに完璧な分析に感嘆を通り越して血の気が引く。確かにその通りだ。いつかは覚えていないが和の言う通りほしい皿の上に今回の大皿があった。大皿は使用頻度が低いので邪魔だと思ったとき、当時上の段には食器がほとんどなかったため無意識のうちにそこへしまったのだ。
「……よく分かったな」
「司の事は分かるよ」
 和はにこりと微笑む。しかし素直に笑うことが出来なかった。
「……どうしたの。焦がしたの、そんなに嫌だった?」
 いや、そこなのか。こちらの異変はすぐに察知するが相変わらず天然なのか分からない心配をする。そこは和なのだ。
「……いいや、焦がしたのは気にしていない」
「そうなんだ。てっきりショックを受けているかと思った」
「言うほどショックは受けてないよ。全部炭になった訳じゃないし」
「良かった」
 和が少しだけ笑った。その笑い方は先ほどまでの妙に整った笑顔ではなく、通話越しに聞いた空気の漏れるような笑い方に近かった。
「それより、俺の皿の置き方を分析するな。怖いぞ」
「ごめん。見たら分かっちゃって」
「分かっちゃって、じゃないんだよ。観察力凄いな」
「一応ミステリー小説も読んでいるから推理力がついたのかな……」
 テンポこそ早いが独特の返しはいつもの和だ。
「それより残りの生地を焼こう。冷めたら電子レンジを使って再加熱すればいいし」
「今度はバラ肉からちゃんと焼こうね」
 肉を最初に焼くという事を頭に入れて焼くと残りのものは全てきつね色のいい色合いに焼けた。最初の焦げも含めて全部で四枚のお好み焼きが完成する。大皿は一枚しかないので全てをパンケーキのように重ねてリビングまで運んだ。
「とりあえず食べるか」
 取り皿や箸を用意していよいよ夕食にありつこうとすると和は「待って」と止めに入る。
「どうしたんだよ」
「本当にこれ食べるの」
 片面が炭化し真っ黒になった物体を指さす。
「食べ物を粗末にできないだろう。ソースをかければ平気だって」
「司はそういうところあるよね」
「お前も半分食べるんだぞ」
 和は珍しくひきつった笑みを浮かべる。
「焦げを食べるとガンになるって聞いたことがある」
「それは確か丼一杯分食べたらって話のはずだ。二人で食べたら余裕だって」
 和は目を閉じて瞑想する。そして覚悟を決めたのか眉間にしわを寄せ、瞼を開ける。
「よし、食べよう」
「どうせソースをかけたら味なんて変わらないさ」
 準備していたソースを上からまんべんなくかける。更にマヨネーズを格子状にかければ見た目は良い感じのお好み焼きが完成した。
「じゃあ分けるからな」
 真ん中に箸を入れる。パリンと到底お好み焼きでは聞こえる事のないはずの音が鳴る。
「これ音がおかしいよ」
「大丈夫、クリスピーお好み焼きなんだ」
「聞いたことない」
「今作ったからな。はい、どうぞ」
 和の皿の上に物体が乗せられる。そして自身の皿の上にもお好み焼きらしき物体を乗せ口に運ぶ。
「……っ」
 最初にソースの味がした。そしてマヨネーズの酸味が広がり旨味のマリアージュが広がろうとした所で炭が調和を叩き壊す。
和はちらりとこちらに視線を向けるが、箸を持っている姿を見ていよいよ観念したらしい。渋々と箸を持ち、一枚目を口に運んだ。その直後固まっている様子を見ると同じ感想を抱いているのだろう。
「どうだ」
「司こそどうなの」
「……二口目は厳しいな」
「同意見だよ」
 一枚目は食材に謝罪しながら残す事にした。
「勿体ない事したな」
「二人とも初心者だったのが災いしたね」
「簡単に作れるからって油断したのが原因か」
「二枚目はどうだろう」
 きつね色に焼けた二枚目の上にソースをかけ箸を入れてみる。焼いてしばらく経っているので乾いた音はしないが、代わりにパンケーキのような柔らかい手ごたえがある。生地を口に運んでみるとソースの旨味が広がり、キャベツが小気味のいい音を立てる。
「これは美味い」
「肉もカリカリでいい味出している」
 一枚目は一口食べるだけで多くの時間がかかったが、二枚目は止まることなく一瞬で食べきった。
「材料が全く同じとは思えない出来だった」
「やっぱり手順通りにやる事が大事だね」
 手順という言葉に箸が止まる。儀式の手順が頭に浮かび、最後に礼が言えなかった事まで思い出される。だから和はそのようになってしまったのか?
「そういえば玉子焼き買っていたよね」
 話しかけられることで悪循環となりつつあった思考を停止する。
「そうだ、忘れていた。ついでに酒も出すか」
 スーパーの袋から総菜を、冷蔵庫からストロング缶を取り出して机の上に持っていく。
「普通の玉子焼きだけどすごく美味しいんだ」
「へえ、楽しみ……そういえばストローってある?良ければ貰ってもいいかな」
「そういえばいつもストローで酒を飲んでいたよな。酔いやすいって聞くけど平気なのか」
「摂取アルコール量は変わらないから迷信だと思うんだよね。コップ出さなくていいから洗い物減るし、個人的にはストロー推奨派」
「ビールもストロー?」
「泡の美味しさが分からないから缶のお酒は全部そうかも。でもチューハイの方が甘くて好き」
「度数は甘くないけどな」
「言うね」
 笑いながら玉子焼きに手を伸ばす。パックのまま出すのがいかにも宅飲み感を演出している。
「本当だ、美味しい。出汁が効いていて塩分もしょっぱすぎない」
「そうなんだよ。ほのかに甘いのも絶妙だよな」
「さすが司だね」
「すごいのはスーパーの店員だろう」
「見つけるセンスが凄いんだよ」
 和は缶を開けると慣れた手つきでストローを挿す。いつも通話で飲んでいるスタイルだ。
「司はどれ飲みたい?甘めが好きならブドウで、辛口よりが好きならレモンかな」
「じゃあ間を取ってオレンジかな」
「ひどい。でも好きな味がそれならしょうがないね」
 実際は唯一、三百五十ミリリットルの缶だから選んだ。本当は三パーセント以上の酒は飲んだことがないが、見栄で言うことができなかった。だが飲んで気分が悪くなったことはないし、少しずつ飲めばいけないこともないだろう。
和の真似をしてストローを挿して吸ってみる。最初は人工的なオレンジの甘い香りが広がり、直後にアルコール特有の匂いが頭を直撃する。
「なんかこれコップで飲むよりガツンと来るぞ」
「ええ、そうかな」
 和は分からないと言った様子でこちらを見つめる。ストローの色から進行形で酒を飲んでいることが分かる。この酒飲みが、と内心罵りたくなる。
「無理しない方がいいよ」
「無理じゃない」
 変なスイッチが入ってしまった。酒が飲める事が偉い訳ではないのに飲めないのが悔しく感じてしまう。アルコール特有の苦みを感じる前に飲んでしまえばいいと考え、一気に吸い上げるが直後ふわりとした感覚に見舞われる。倒れるわけではない。だが急に座る事すら面倒くさくなった。肘をついたつもりだったが身体はそのまま横に傾いた。フローリングが頬にあたって冷たい。
「司?」
 名前を呼ばれるが返事する気力もない。そのまま瞼を閉じてしまった。

 目を開けると部屋の照明が少し落とされていた。フローリングに直接寝ていたはずなのにいつの間にかベッドの上で横になっていた。身体にはタオルケットもかかっている。机の上は綺麗に片付いていて焦げて残していた一枚目の皿も消えていた。
「起きた?」
 声の方を見ると和がキッチンからやってきた。手を拭いている様子を見ると後片付けをしてくれたのだろうか。
「悪い、寝ていた」
「いや、止めなかった僕が悪い。頭は痛くない?水でも飲む?」
「……痛くはない。でも水は欲しいかも。水道水でいいからくれないか」
「分かった。すぐに持ってくるね」
 和は食器棚からコップを取り出すと蛇口をひねって水を出した。そしてこちらに持ってきてくれたので、礼を言って受け取ると一気に飲み干す。想像以上に渇いていたようで隅々に水分が行き渡る感覚があった。
「ところで今何時なんだ。どれくらい寝ていた?」
「そうだね……十一時前かな」
「は?」
 慌てて時計を見る。彼の言う通りあと数分で二十三時になろうとしていた。
「待て、終電大丈夫なのか」
「正直間に合わないかも。乗り換えがギリギリでミスしたらそこでアウト」
 放って帰れば良かったと言おうとするが飲み込む。急性アルコール中毒にしか見えない友人を置いて帰る程和は非情じゃない。明らかにこちらの落ち度だ。
「悪い、今日は泊まっていってくれ」
「ありがとう、でも着替え持ってきてないし」
「下着なら未使用があるから使ってくれ。服は貸すよ」
「……ありがとう。迷惑かけるね」
「迷惑をかけているのはこっちだよ」
 勝手に怯えて、勝手に誘って、勝手に倒れてどれだけ自分勝手なのかと思ってしまう。だがここで落ち込んではまた彼の気を使わせてしまうだけだ。
「そういえば和はココアサって生で聞いたことあるか?今日丁度配信日なんだよ」
「へえ、いつなの」
「二十三時半。三十分後だ」
「それなら先に風呂入りなよ。危ないからシャワーだけにしてね」
「片付けしなきゃ」
「全部終わらせているから安心して。分別が分からないものだけ外に出しているからそれだけ見てほしい」
 和はそう言うが、寝起きの頭では意味が追いつかなかった。そして改めて部屋を見回す。
 その言葉の通り、部屋は整っていた。さっきまで机の上を埋めていた皿や箸、空き缶、ソースの容器、焦げたお好み焼きの残骸が跡形もない。折り畳み机の上には布巾がきれいに畳まれて置かれ、床には水滴一つ落ちていなかった。
「本当に全部やったのか」
「うん。できる範囲だけどね」
 できる範囲だけという割には完璧だった。
 キッチンを覗くと、流しの横には洗われた皿が伏せられている。フライパンには水が張られ、焦げをふやかしているらしい。使った菜箸やボールも洗ってあった。普段の自分なら翌朝まで放置して乾いた生地にうんざりしながら洗っていたに違いない。
「フライパンを洗うの大変じゃなかったか。焦げていただろう」
「確かにね。でも擦ると傷がつきそうだったから水につけておいた」
「ありがとう。よく分かったな」
「なんとなくね。焦げってすぐ擦るより、置いた方が取れそうじゃない?」
 料理ができるわけではないと言っていた割に的確な判断だった。そもそも料理ができることと片付けができることは別か。それにしても手際がいい。
 空き缶はシンクの端に並べられていた。軽く水ですすいだのか、中から酒の匂いはほとんどしない。ラベル付きのペットボトルはラベルを剥がされ、キャップも外されている。燃えるごみ、プラスチック、缶、よく分からないもの。その四つに分けて袋が置かれていた。
「分別も完璧じゃないか」
「大体は。分からないものだけそっちに置いた」
 和が指差したのは、台所の隅に寄せられた小さな袋だった。中にはソースの空き容器や、焦げを拭いたキッチンペーパー、何に分類するべきか微妙な包装材が入っている。自分でも一瞬迷う。
「……これ、俺でも悩むやつだな」
「じゃあ残しておいて良かった」
 和は得意そうに笑った。その笑い方は、昨日駅で会った時のような爽やかな笑みではない。口元だけが緩む、普段の彼に近い笑い方だった。
「でも、どうしてここまでやってくれたんだよ。俺が起きてから一緒にやれば良かったのに」
「無理に起こしたら危ないかなって」
「……それは悪かった」
「それより早く風呂に入って。」
「ありがとう。お言葉に甘えて先にシャワー使うよ」
「そもそも家主は司なんだから遠慮しないで」
 促されるまま風呂場に入りシャワーを浴びる。飲んでいる時よりマシだがまだ酔いが残っている感覚がある。手短に済ませると和はもう出てきたのかと尋ねてきた。
「ちゃんと洗わないとだめだよ」
「烏の行水だからな」
「髪はちゃんと乾かしてね」
 和はドライヤーを差し出してくる。家の勝手知ったると言ったところか。そこである事に気が付く。
「このドライヤーどこで見つけた」
 普段使っているひとつ前のものだ。燃えないゴミで捨てようと思いながら後回しにしてしまった代物だ。
「……ベッド下」
 和は分かりやすく目を逸らす。その反応は他の物を見つけた事を意味していた。
「ちょっ、何見てんだ!」
「何も見ていない、僕は何も見ていないよ」
「見ていないんだったらどうしてベッド下なんか見るんだ」
「ほら、ベッドの下はデッドスペースだから効率のいい司なら有効活用するかなって」
「最初から探す気で見ただろう!」
 思わず叫んでしまう。見なくても顔が赤くなるのが分かる。
「ほら、もうちょっとでココアサの時間だよ」
「話を逸らすな」
「ファンなら開始五分前には待機していなきゃ」
 和は半ば強引にパソコンの前に座らせる。
「髪乾かしてない」
「ドライヤー持ってくるよ。どこにあったかな」
「……洗面台の下のとこ」
 焦りと恥ずかしさで情緒がめちゃくちゃである。渡されるまま髪を乾かし終わるといよいよ配信時間になった。手早くパソコンを起動しチャンネル画面に移ると既に最初の挨拶が始まっていた。
『こんばんは。古今東西アサガオさん、略してココアサです。この番組はオカルトについて話します』
「喋り方うまいね、プロ?」
「本職は除霊師だってさ」
「除霊師って本当にいるんだ」
 こちらが話している間もアサガオの話が続く。
『今日のお題は作り話です。まただいぶ適当なくくりだと思われた視聴者の方も多いでしょう。しかしこれくらい緩い方が話も続くのでご愛嬌という事で』
「本当に大まかなくくりだね」
「アサガオさんは前からこんな感じで決まったテーマの方が珍しいからな」
「大ファンじゃん」
 否定はできない。アサガオの話は続く。
『例えば私が実は女性だと話して信じる人はどれくらいいるでしょう。おそらくほとんど信じないと思います。なぜなら聞こえる声は男性だからです。ボイスチェンジャーを使用しているというのも考えられますが、ほぼあり得ないと思うのが一般的です』
「突拍子がないね」
「これがいいんだよ」
「ふうん」
 和はハマりきれていないといった面持ちだ。
『では私が身長百五十センチだと話したら何人が信じるでしょうか。想像ですが半々だと思います。なぜなら声で男性であることは分かっても、外見を知らない以上は私の発言を信じるしかないからです』
「百五十か、微妙だな。百センチって言われたら流石に嘘かと思うけど、いなくもない身長だから」
「堂々と嘘ついているな」
「分かるの?」
「あの人すごくでかいよ。多分二メートルくらいある」
「見た事があるような物言いだね」
 和の言葉に口が滑ったことに気が付く。顔を向けるとじっとこちらを見つめていた。
『このままいくと私はおそらく身長百五十センチの男性というイメージがつきます。それ自体は構わないのでひとまず置いておきますが、何が話したかったかと言うと作り物でも本物になるということです』
 ここにきて昨日話したカガミの話が浮上する。相変わらず和はこちらに視線を向けている。
『童話でもおとぎ話でも空想上の生き物はごまんといます。いないと分かっていても人々はそれに魅了され、銅像を作ったり新たな物語を作ったりする。そういう創作は大好きです。好きなだけ作ればいいと思います』
 アサガオに会った事は話していない。別に話しても問題ないはずだ。だが、それはカガミの投稿者が和でなかった場合だ。
「司はアサガオさんに会ったの?」
『おや、また脱線してしまいました。作り物が本物にという話でしたね。個人的には何でも一番初めに語る者がいて、その時は斬新だ、偽物だととやかく言われると思うんです』
 答えられない。
『ですがどこかで信じられる。そして次第に偶然も重なって本物になっていくと考えられます』
「ねえ」
 どうしたらいい。
『え、抽象的すぎる?仕方ないでしょう。なんでも具体例をあげることはできません。話が難しくてつまらないというのであれば睡眠導入剤としての視聴をおすすめします』
 アサガオのトークとは反対に緊迫した空気が広がる。だが嘘をついてどうする。もしくは会った事は話して内容を誤魔化すか。……それも駄目だ。なんのために相談したというのだ。和を助けたいから相談したのではないのか。だったら話すべきだ。いざとなれば逃げればいい。
「ああ、会ったよ」
「どうして、いつ、どこで」
「昨日和と別れた後、喫茶店で会ったんだ」
「約束していたの」
「ほとんど偶然だ。俺がSNSでカガミの儀式をやったのを知ってメッセージが送られてきたんだ。実はライターもやっていて、タイミングがいいからそのまま取材を受けたんだよ」
「どういう話をしたの」
 和からの質問が止まらない。
「掲示板に書いてある通りの儀式をやったって伝えたよ」
「願いも教えたの?」
 その言葉に黙ってしまう。勝手に他人の願いを教えるのはあまり良くない。だが黙った時点で答えたようなものだった。
「……金持ちになりたいとは言ったよ」
「司の願いをアサガオさんは知っているんだ」
 和は前髪をいじり始める。上げていた髪は徐々にぼさぼさになり、顔を隠し始めた。そして何かに気が付いたようにノートパソコンを閉じる。
「和」
「配信、切っちゃってごめんね。でも司の話を聞きたくて」
 長い前髪の奥からこちらを覗いてくる。駅で出会った明るい彼ではない、儀式直後のビー玉のような目をした彼だった。
「多分僕の願いも教えたんだよね。でもそれはいいよ。掲示板には他人に教えるなって書いてなかったし」
 ぶつぶつと聞こえないくらいの声で何かを呟く。
「でも司の願いをアサガオさんが知っているのは違うと思うな。何も叶えられないのに」
「どういう意味だよ」
「それよりアサガオさんは司の何を知っているの」
「何ってなんだよ」
「好きなものとか昔はこうだったとか全部だよ」
 顔が近づいてくる。逃げるべきでない。ここは彼と向き合わなければならないのだ。
「……教えたさ、小学生の頃の話とか」
「カガミの話のはずなのにそんな昔まで遡るんだね」
 和は椅子のひじ掛けに手を乗せこちらを見下ろす。実質逃げ出すことは不可能だ。
「他には?アサガオさんに教えられるなら僕にも教えられるよね」
 和は中学生時代を知らない。知らないからこそ普通に話せた。
「……友達だからこそ話したくない」
「アサガオさんには話せたのに?」
 和は椅子から離れる。ぐるぐるとその場を回りながら頭をかく。
「どうして、どうして」
 落ち着けというのは簡単だ。だが彼はそんな言葉を求めていない。
「和、お前は俺の何を知りたかったんだ」
 ぴたりと和の動きが止まる。そしてゆっくりと口を開いた。
「最初はね、本当に偶然だったんだ」
「何が偶然なんだ」
「司のSNSのアカウントだよ。ホラーの話をしていて最初は興味がないって思っていたんだ。でも虫の知らせって言うのかな。前の投稿を見てみようと思ったんだ。そしたら司だって分かる発言がいくつも出てきたんだ」
 アサガオも軽く見ただけで中学前後で雰囲気が違うことを見抜いていた。本名や住所を書いていなくても分かるものには分かるようだ。
「最初はすぐに話しかけようと思った。でも怖かったからできなかった」
「何が怖いんだ」
「司が覚えていなかったらどうしようって。一年も一緒にいなかったんだよ。しかも小学生の頃だ。そんな同級生なんて普通は忘れるでしょ。僕だけ覚えていたら、気持ち悪がられると思った」
 自身を卑下する和の表情は影を帯びていく。
「だから、司が好きそうなものを探したんだ」
「それがホラーか」
「そう。ホラー好きだって分かったからいろいろ調べた。映画や小説、動画に掲示板も徹底的に。それで調べていくうちに司が特にネット都市伝説に興味がある事に気が付いたんだ」
 和の話は続く。
「これはいいって思った。話のきっかけになるに違いないって」
「……それでカガミを書いたのか」
 尋ねるとそれまで話していた和は黙り込む。そして観念したかのように口を開いた。
「そうだよ。カガミは僕が書いたんだ」
 どこかでこの推理が外れてくれればと思っていた。だが事実は目の前にある。
「でも最初は本当にただの作り話だったんだ。司が見つけてくれたらいいなって思っただけ。司が面白いって思ってくれたら、また話せるかもしれないって」
「俺と二人でやるために?」
 和は答えなかった。それが答えだった。
「じゃあ、カガミは本当にただの作り話だったんだな」
 和は小さく頷いた。
「少なくとも僕が書いた時はそうだったよ」
「書いた時は?」
「本当に何かが起こるなんて思ってなかった。司と話せたらいいって、それだけだったんだ」
 それだけのためにホラーを調べ、掲示板に都市伝説を書き、正体を隠して近づいた。それを「それだけ」と呼ぶには重い。
「じゃあなんでお前は変わったんだ」
 和は首をかしげる。
「……司から見ても変わった?」
「変わったよ」
「でも悪いことじゃないでしょう」
 今の彼も前の彼も否定しすぎない事。アサガオのメッセージが蘇る。
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、どうしてそんな顔をするの」
「無理しているように見えるからだよ」
 和は口角を上げる。前髪の奥の目は少しも笑っていなかった。
「無理じゃないよ」
「和」
「だって、司みたいになれたんだから」
 アサガオの予想は当たりだった。和は小学生の頃の司になろうとしている。
「お前は俺そのものになっている訳じゃない。和が覚えている俺になろうとしているんだ」
「何が違うの。同じでしょう」
 違うという言葉が出かけるが飲み込む。
「俺はそんなに明るくない」
「嘘だ。だって誰とでも仲良くなれたじゃない」
 和の中の俺はいつまでもあの頃のままなのか。
「司は司だよ」
「俺はそんなに明るくない。誰とでも仲良くなれるわけじゃない。困っている人間を見つけたら迷わず手を伸ばせるような、そんな人間でもない」
「そんな訳ない」
「でも、あの頃の俺が嘘だったわけでもない」
 その言葉を聞いて和は笑みを浮かべる。
「ならいいじゃない。司になれるんだから」
「良くない」
「どうして?」
「お前が和じゃなくなるからだよ」
 ようやく分かった。自分に似てくるのが怖いのではなく、友人の和がいなくなりそうだったから怖かったのだ。しかしその言葉は届いていないらしい。
「それなら良かった。僕は自分が嫌いなんだ」
 満面の笑みで話していた。何故笑顔でそんなことを話せる。すぐに言葉を返すことが出来なかった。
「……何を言っているんだ」
 かろうじて言葉を絞り出すがそれ以上は言えない。
「そのままだよ。僕はずっと自分が好きじゃなかった」
 長い前髪を耳にかけようとするがすぐに落ちて瞳を隠す。
「何を話しても間ができるし、声は小さい。転校してばかりで友達もまともにできやしなかった。できてもまたすぐ離れる。だったら最初から誰とも仲良くしない方が楽だって思っていたんだ」
 家庭の事情は人それぞれだ。転校がいいパターンもあるが、和の場合あまりいい影響ではなかったらしい。
「でも司は僕に話しかけてくれた。僕のことを覚えてくれていた。僕みたいな人間をちゃんと見つけてくれる。やっぱり司はすごいんだ」
 途中の理論は飛躍している。それでも和が本気でそう思っている事は伝わってしまった。
「だから俺になりたいのか」
「そうだよ」
「それは駄目だ」
「……どうして?さっきから同じ話をしているようだけど司にとって何の問題があるの。話しやすいし、良いことしかないじゃない」
「俺になる事と、和が消えることは違う」
「消えて何が悪いの」
 その瞬間心臓を掴まれたような痛みが走った。内側から悲鳴をあげるような痛みだった。和の言葉に傷ついたのは自分だが痛みの質が違う。うまく言えないが、自分以外の誰かが抵抗したようだった。
「本当に消えたいのか」
「そう言っているでしょう」
 再び胸が痛む。友人が自分自身の事を否定する姿も辛いが、それ以外に誰かが違うと叫んでいる気がした。
 和は儀式に成功してなりたい自分になった。しかし儀式自体は失敗している。では失敗しているとすればどこだ?
「あ……」
 そこまで考えて一つの答えが浮かぶ。何の脈絡もない突拍子のない答えだ。だがもしもこれが合っているとすれば和を救えるかもしれない。
「和」
「どうしたの」
「お前、本当は消えたいわけじゃないだろ」
「何を言っているの」
 和は前髪をいじりながら続ける。
「そんな訳ないじゃない」
「俺は和に消えてほしくない」
 その時和の動きが止まる。わずかに揺れて動揺していることが分かる。
「何言っているのさ。僕は存在が消えるわけじゃなくて生まれ変わるんだよ。みんなに好かれるんだ」
 再び胸中が痛む。徐々にこの痛みの正体が分かってきた。
「俺じゃなくて和のままでもいいだろう」
「和は駄目だよ。好かれる性格じゃないから」
 ギリギリと痛みを訴える者が限界の悲鳴を上げる。
「……和はカガミの儀式を成功したと思っているか。それとも失敗したと思っているか」
「いきなりどうしたの。でも成功だと思っているよ。だって明るくなれたんだから。ぼそぼそ喋る事も緊張する事もなくなったんだ」
「俺はあの儀式でお礼を言っていないんだ」
「だから何」
「失敗しているんだよ、カガミは」
 和は固まる。しかしすぐに笑みを浮かべると反論をしてくる。
「礼を言っていないから何。司がお金持ちになれていないから失敗って事?」
「俺の中に和がいるよ」
 断定して話す。驚くほど胸の内がすっきりしている様子から本当にいるのだろう。反対に和は取り乱していた。その場に座り込み髪を掴む。
「やめてよ、そんなこと言わないで」
 椅子から立ち上がり彼のもとに向かうとズボンの裾を掴んでくる。
「僕はちゃんと司になれたんだ」
「和」
 屈んで目線を合わせる。
「失敗していない」
「和」
 顔に手を伸ばす。
「あの頃の和なんてもういないんだ」
「和、俺は今のお前も昔のお前も否定しない。だから自分を否定しないでくれ」
 前髪を手で上げ視線を合わせる。激しく動揺した、だがビー玉ではない瞳と目が合った。
「もう一回だけカガミをやろう。今度はちゃんとお礼を言う」
「……やってどうするの」
「そこでも司になりたいって言うならそうすればいい、でも」
「でも?」
「その時は俺が和になりたいって言う」
 眉を下げ、目を見開く。意味が分からないという表情だった。
「どうして、嫌だよ。司は司でいてよ」
「お前が俺になりたいって言ったんだから、俺が和になりたいって言ってもいいだろ」
「違う。司は僕みたいになっちゃ駄目だ」
「司は二人もいらないだろう。俺は和の事、結構気に入っているんだ。だから和自身がいらないって言うなら俺が和になる」
「意味が分からない」
「俺も分からなくなってきた。でも和が自分を嫌いだって言い続けているよりはいい気がする」
 立ち上がって引き出しを開ける。そこから百均で買った安っぽい手鏡を取り出した。
「手鏡は一個しかないからスマホのインカメを鏡代わりにしよう」
「……僕が司になりたいって言ったら本当に和になるっていう訳?」
「そうだな。前回は俺から願いを言ったけど、今回は和から頼むぞ」
「そんな軽いノリでいいの」
「軽く見えるか?……見えるか。前の俺は人類皆仲良し、話せば分かりあえるって本気で思っていたからな」
「違うの?」
「さすがに成長してそんなの無理だって分かっているさ。でもできるだけ分かり合えたらいいと思っているのは変わらない」
「……」
 返事はない。和の前には土台用の本に立てかけた手鏡を置いた。自分の前にはインカメを起動したスマートフォンを置く。黒い画面の中に少し青白い自分の顔が映っていた。
 今度は遊びではない。
「じゃあ和から頼む」
「……『カガミさん、カガミさん、いらっしゃいますか。いたらお返事ください』」
「『カガミさん、カガミさん、いらっしゃいますか。いたらお返事ください』」
 胸の内で和がざわめく。
「『カガミさん、カガミさん、なりたい自分にならせてください』」
「『カガミさん、カガミさん、なりたい自分にならせてください』」
 緊張が走る。
「『カガミさん、カガミさん……僕は……僕を嫌いなままでも、司の隣にいられる自分になりたい……させてください』」
 最後は涙声だった。
「『カガミさん、カガミさん、和と友達でいさせてください』」
 こっぱずかしい台詞だ。でもこれははっきり言わなければならない。
「……『カガミさん、カガミさん、ありがとうございました』」
「『カガミさん、カガミさん、ありがとうございました』」
 これで儀式は終わった。胸の痛みはなくなり部屋には和のすすり泣きが響いている。落ち着くまで彼の背中を撫で続けた。