カガミ

第二章
 カガミの儀式を行った一週間後、約束の時間より少し早く駅に着いた。
 夏休みが始まってすぐということもあってか、人の流れは普段よりも少ない。通勤や通学の人々がいないからだ。改札近くにいればかろうじて涼しいが日なたに出た瞬間汗が噴き出す。
 スマートフォンの画面を確認すると和からの通知はまだ来ていない。着いたら連絡をくれるとのことだ。改札の柱にもたれかかりながら周囲を見渡すが目当ての男はいない。そういえば彼は今どれくらいの身長なのだろう。画面越し、しかも座りっぱなしなので想像がつかない。一瞬見つけられるか不安になる。
 確か小学生の頃は自分より少し背が高かったはずだ。今でも身長は高いほうなのだろうか。
「司?」
 不意に名前を呼ばれる。振り向いた瞬間、少しだけ反応が遅れた。
「……和?」
 そこに立っていたのは和だった。
 肩にかかる金髪の根本は相変わらず染まっていない黒髪だ。背は自分より少し高いくらいで想像の範囲内である。
「久しぶり」
 だが声が違った。別人の声というわけではない。あくまでも声は和なのだがいつも通話越しに聞いていたあの抑えた調子ではなく、はきはきとした声だった。
 それ以上に表情が異なっていた。口角が上がっている。普段のニヤリと笑うような笑みではなく、さわやかな笑みという言葉があっているような表情だ。
「……ほんとに和か?」
「なにそれ」
 彼は軽く笑う。そんな笑い方をしただろうか。
「いや、だって」
 言葉を探すも違和感の正体をうまく掴めない。
「思ったより……元気そうで」
「元気だよ」
 迷いなく返事がある。別におかしくはない。はきはきとしているだけで——こんな返し方をするやつだっただろうか。
「東京は暑いね」
 和は周囲を見回しながら言う。
「大体一緒だろう。そっちはどうなんだよ」
「言われると同じくらいかも。でも人が多いせいか楽しいよ」
 人が多くて楽しい。その言葉に引っかかる。彼は人見知りだったはずだ。
「へえ」
 相槌を打ちながら和の顔を改めて見る。見た目は変わっていない。だがうまく説明できないが何か違う。例えるなら雰囲気だ。雰囲気が違う。どこかじっとりとしてこの世の陰鬱をため込んだような気配が感じられない。
「どうしたの」
「いや、なんでもない」
 思わず視線を逸らす。気のせいだろう。ネットと現実に会った印象が違うなんていくらでもある。それにこの世の陰鬱をため込んだなんて我ながら失礼ではないだろうか。
「とりあえず外出るか。昼飯まだだろう」
「うん」
 並んで歩き出す。いつの間にか和が自然にこちらの歩幅に合わせてきた。
「司ってさ」
 歩きながら、和が口を開く。
「こういうとき、車道側歩くよね」
「は?」
 思わず足を止める。
「なんだよそれ」
「ほら、前もそうだったし」
 彼と並んで歩いたのは小学生以来だ。そんな細かいことよく覚えているものだ。
「……よく覚えているな」
「司のことだからね」
 軽く言われる。自身が薄情なのだろうか。
「まあいいや。昼どうする?」
「なんでもいいよ」
「なんでもって一番困るやつだな」
「じゃあ司のオススメ教えて。もっと知りたいんだ」
 それは東京のことだよな?という言葉が出かかってやめる。自意識過剰にもほどがあるだろう。
「……適当に入るか」
「うん、司がいいならそれでいい」
 実際に彼と会うのは十年ぶりだ。印象なんていくらでも変わる。気にしすぎだ。そう考えながらどこの店に入るか考えているとスマートフォンの着信音が鳴った。ポケットから取り出して画面を見ると知らないアカウントからの通知があった。詐欺かと思ったがリンクさえ踏まなければセーフだと思いながら操作すると一言だけメッセージが送られていた。
『カガミの件、詳しく聞かせてください』
 送信者名はアサガオだった。その変わった名前に一人の人物が思い浮かぶ。お気に入りのポッドキャスト番組の配信者、アサガオだ。自称除霊師の彼が何故。
「どうしたの?」
 和が覗き込んで来たので咄嗟に画面を隠した。
「いや、なんでもない」
 芸能人の名前を騙って詐欺に巻き込むなどよくある話だ。これもそうに違いない。だが一週間前の掲示板の書き込みにこのSNSへのダイレクトメッセージは本当に無関係なのだろうか。
 メッセージを削除するのは後にすることにした。
歩いていると汗がだらだらと垂れてくる。
 夏休みが始まったばかりとはいえ、昼前のアスファルトは既に太陽によって焼けている。ビルの壁に反射した光が眩しく思わず目を細めた。駅前の植え込みでは蝉が鳴いている。まだ夏の始まりだというのに随分気が早い。そう思って足元を見ると、歩道の端に仰向けになった蝉が一匹転がっていた。
 脚を縮め、腹を見せている。死んでいるのかと思ったが、こちらの足音に反応したのか羽を震わせた。
 ジジ、と短い音が鳴る。
 まだ生きている。
「司?」
 声をかけられて顔を上げると和がこちらを覗き込んでいた。口元には笑みが浮かんでいる。
「どうしたの」
「いや、蝉がいてさ」
「蝉?」
 和は足元を見る。仰向けになった蝉はもう動かない。さっき鳴いたのが嘘みたいに、ただの死骸として転がっていた。
「死んでいるね」
「さっき動いた」
「この時期にしては早いけど、蝉ってそういうものじゃない?」
「まあ、そうだけど」
 そういうものだ。
 夏になれば蝉は鳴くし、地面に落ちる。落ちた蝉は死んでいると思わせて急に暴れる。子供の頃なら騒いだかもしれないが、今さら怖がるようなものではない。
 それなのに今日は頭に残る。
 死んでいるようで生きている。動かないと思った瞬間に動き出す。ただの蝉なのに、そんなふうに考えてしまう。
「やっぱり。司はこっちの道に行くと思った」
 和が急に話し始めるので意識が現実に戻る。蝉相手に何を考えているんだ。
「やっぱりってなんだよ。俺の歩く道順を予想していたのか」
今いる場所は駅前の大通りではなく少し細い裏道の方だった。和は頷く。
「そうだよ。だって日陰が多いから」
 確かにこの道は最短ルートではないが日陰は多い。
「なんで急に予想を始めた」
「あれ、昔こんな感じの遊び無かったっけ」
「ないよ」
 一蹴すると和は食い下がる。
「じゃあ今作ったってことにするから、司がこれからどの道を当てるか予想するね」
「どんだけ俺の予想したいんだよ」
「この前カガミやったでしょう。なんていうのかな。その時に司パワーが降ってきたっていうか司の考えていることが分かるようになったんだ」
 急にスピリチュアルな話をされても困る。
「いきなりいろんな要素をぶっこむな。それに俺の考えが分かる?冗談じゃない。そんな簡単に分かってたまるか」
「でも道順は合っていたよ」
「後出しならいくらでも言えるからな」
「ひどい」
「この話はここまで。司パワーを証明できなくて残念だったな」
 和はむくれるが、実際信じられる要素がない。しばらく歩くと再び和が口を開く。
「それにしても東京ってやっぱり人が多いね」
「この時間はまだ少ない方だよ。通勤時間にかぶったら地獄だぞ」
「でも楽しそう」
「人混みが?冗談だろう」
「うん。いろんな人がいるし」
 和は通り過ぎる人々を見る。サラリーマン、旅行客らしき親子、制服姿の高校生など様々だ。だが誰もこちらを気にかける様子はない。
 人が多いことを楽しそうと言う和に違和感を覚える。今までの彼なら人混みは苦手だと言いそうだった。誰かにぶつからないか、道を間違えないか、迷惑をかけないか。そんなことばかり考えそうな男だった。
「人混み平気だったっけ」
「前は苦手だったかも」
「今は?」
「大丈夫。だって誰も僕のことなんて見てないでしょ」
 明るい声で話すが内容は少しも明るくない。返事に困っていると、和はすぐに笑う。
「変な意味じゃないよ。気にしなくていいって思えるようになっただけ」
「……そっか」
 以前は他人の目を気にするタイプだったが克服したようだ。いい変化なのに怪しんでしまった自分が恥ずかしい。
「司は見てくれるし」
 さらりと言われ足を止めそうになる。
 今のはどういう意味だ。尋ねようとするが、答えを聞いてもまともに返せる気がせずそのまま歩く。
 裏道には小さな飲食店がいくつも並んでいる。打ち水をしたのか濡れた地面からむわっとした熱気があがる。これで本当に涼めるのだろうか。
「そういえばファミレスに向かっているんだよね」
 ゾッとした。
「なんでそう思う」
「最初は東京名物のお店かなと思ったんだけど、ここってそういう雰囲気の街じゃないでしょ。じゃあどういう視点で店を選ぶのかなって考えた時、長居できる店を選ぶんじゃないかなって思ったんだ。涼しくて長居しても怒られなさそうなところって言ったら多分ファミレスかなって」
 推理におかしなところはない。しかし的確に当てられ内心動揺する。
「それが司パワーか?」
「これは違うよ。司が分かりやすいだけ」
 褒められているのか馬鹿にされているのか分からない。だが悪意があるようには見えない。だからこそ少し恐怖を感じた。
 ファミレスに入ると冷房の空気がまともに身体へ当たった。汗が一気に冷える。席に案内され向かい合って座るとメニューを開く。
「何にする?」
「司と同じでいいよ」
「俺が連れてきてなんだけどそれはないだろ」
「じゃあおすすめ教えて」
 ここは地域密着ではなく彼の地元にもありそうな大手ファミレスだ。ご当地メニューなんてものもない。
「この店そっちにもありそうだけど」
「あったけど入ったことないし、純粋に司の好みも知りたいし。いつも何頼んでいるの」
 まただ。
 こちらの好みを知りたい。司ならどうするか知りたい。そういう言葉が、会話の隙間に何度も入ってくる。
「俺は……そうだな、この時間ならランチセットAにすることが多いかな。でも気分によってから揚げ定食にすることもある」
「ハンバーグかから揚げか……分かった、司が選ばなかった方を僕がとるよ」
「いや好きなもの選べよ」
「司が選ぶものならなんでも美味しそうだもん」
 別におかしくない。おかしいと思う方がおかしい。だがなんだこの違和感は。
「和、本当に食べたいものにしろよ」
「司が選ばなかった方を食べたいよ」
 独特な言い回しが違和感を加速させる。
「それはから揚げじゃなくてもいいってことだろ」
 和は目を丸くした。そしてなぜか嬉しそうに笑う。
「そういうところ変わらないね」
「何が」
「ちゃんと聞いてくれるところ」
 意味が分からなかった。ただメニューを選ばせようとしているだけだ。そんな大層な話ではない。注文を済ませ、ドリンクバーを取りに行く。グラスに氷を入れる音がやけに大きく聞こえた。
 なんとなくメロンソーダをコップに注ぐ。
 普通の光景だ。
 しかし普段は気にしないのに緑色が鮮やかで、美味しくなさそうに見えた。好きなはずの甘い匂いも鼻につく。
「司、昔それ好きだったよね。今でも好きなんだ」
 背後から声がして肩が跳ねる。和がいつの間にか隣に立っていた。手には烏龍茶のグラスがある。
「和」
「スーパー前の自販機で炭酸買っていたよね。覚えているよ」
「そんな細かいとこまで?」
「細かいかなぁ」
 和は不思議そうに首をかしげる。確かにメロンソーダが好きなのは変わっていない。だがそれは和に限らずあまり周囲には自分から公表していない。隠している訳ではなくタイミングがないからだが——おそらく偶然購入していたであろう一回を彼は忘れずに覚えているというのか。
小学生時代の記憶なんて、こちらからすれば穴だらけだ。だが和の中では鮮明に残っているらしい。
「とりあえず席に戻ろうよ。座って話そう」
 笑顔で提案され二人で席に戻る。和は向かい側に座り、ストローを使わずに烏龍茶を飲んでいた。そういえば通話ではロング缶にストローを差して飲んでいた。あの飲み方を今日はしないのかと思う。
「司っていつからホラー好きなんだっけ。中学生?」
「そうだけど、話したことあったか」
「ううん、小学生の頃は興味なさそうだったし、なんとなく」
「でも高校生の可能性があるだろう」
「中二病を発病したとか」
「おお、言うな」
 話を始めると先ほどまでの違和感が嘘のように盛り上がる。現金な奴だと思われるだろうが楽しいのは事実だった。和の返事は早く、こちらの軽口にもすぐ反応する。通話で時々できていた沈黙がない。話題が途切れない。普通なら良いことのはずだ。
 だが、あまりにも滑らかすぎる。
「司は今の僕の方が話しやすい?」
 不意に聞かれた。心臓が少し跳ねる。
「今のって何だよ……そりゃあ、話しやすいけど」
「良かった」
 和は嬉しそうに笑う。その顔を見て胸の奥がざわついた。
 話しやすい。確かにそうだ。だがそれを肯定していいのか分からなかった。
 窓の外で、さっきの蝉とは別の蝉が鳴いている。ジジ、と短く、もう少しでこと切れそうだった。
 店内は涼しい。料理の匂いもする。向かいには久しぶりに会った友人がいる。
 それなのに、足元にまだあの仰向けの蝉が転がっているような気がした。
「おいしそう」
 和の声で顔を上げる。いつの間にか料理が運ばれていた。鉄板の上でハンバーグのソースが跳ね、から揚げの衣から湯気が立っている。
 ありふれたファミレスの昼食だ。
 それでも、目の前の和だけがどうしても昨日までの和と繋がらなかった。
「司はどっちにする」
「好きな方選べよ」
「じゃあから揚げにしよう。一個あげるね」
「じゃあ俺もハンバーグ少しあげるわ」
「ありがとう、それじゃあいただきます」
 箸をとって食事を始める。ありきたりなチェーン店の味だが、学食以外で外食できる貴重な場所だ。
「司、あのさ」
 しばらく食事を続けていると和が話し始める。
「カガミの儀式覚えている?」
「ああ、もちろん。何もなかったけどな」
「そうかもしれないけど、お金持ちになりたいの?」
「うーん、まあ金があって困ることはないだろう」
「司はそんな願いじゃないと思う」
 不意を突かれる。
「は?」
「司はもっとすごいんだよ。僕が想像できないくらいすごい願いがあるはずなんだ」
「待て、待て」
 言葉を遮る。いくらなんでもおかしい。こんなに踏み込んでくる男だっただろうか。
まるで本当の願いを知っているようだ。
「ああ、ごめん。興奮しすぎた。少し顔洗って落ち着いてくる」
 和はそう話すと席を立ちあがる。その姿を見送った後すかさずスマートフォンを取り出した。偽物でも本物でもどっちでもいい。そう考えながらダイレクトメッセージに返信を入れる。
『カガミについて何か知っているんですか』
 一刻も早くこの違和感をどうにかしたかった。
 それから間もなく和が帰ってきた。
「そろそろ出るか」
 本当はまだいてもいい時間だが提案してみる。彼は否定せず頷く。その様子はいつもの和だ。会計を済ませて店を出ると外の熱気が一気に押し寄せてきた。
「このあとどうする?」
「一回部屋戻ろうかな。荷物整理したいし」
「そっか」
「また連絡するね」
「ああ」
 短く言葉を交わし、その場で別れた。和の背中を見送り、彼の姿が見えなくなったところで——走った。
 彼は何も悪くない。普段と少し違うだけ。だがその違いがそのうち限界点を超えそうで、その恐怖から逃げ出すために走り続けた。
 どれくらい走っただろうか。
 太陽は肌を焦がすし、熱気は肺を焼き尽くす。それでも止まれなくて、膝も震えて、太ももは感覚がなくなってきて、心臓は止まりそうだった。それでも限界がきてようやく足を止める。息ができない。空気を吸っても酸素が足りない。だが倒れるわけにはいかない。
 気合というもので日陰にたどり着いたころには隣駅まで走っていた。冷静な頭なら電車に乗ればいいと考えただろうが、あの時は走ることこそ最善だと思った。
 吹き出す汗が止まらず倒れそうだったが気にせずスマートフォンを取り出す。そこには新たなメッセージが表示されていた。
『私はライターをしています。あなたが儀式を行っているという投稿を読んだのでメッセージを入れました。可能であればインタビューをしたいです。勿論謝礼もいたします』
 ライター?
『あなたはポッドキャスト配信者のアサガオではないのですか』
 額から汗が落ちて目に染みる。すぐに返信が入った。
『番組をご存じのようで嬉しいです。配信者のアサガオで間違いありません。実はライターも兼任しておりまして都市伝説の記事を書きたいと思い声をかけた次第です』
『いつ頃お会いできますか』
『早ければ今日にでもインタビューのセッティングをいたします。ご希望の通話アプリがあれば対応いたしますのでご連絡いただければ幸いです』
『直接お会いすることはできませんか』
 それまで即時あった返信が初めて止まる。そしてしばらくして次のメッセージが届いた。
『何かあったのですか』
『アサガオさんは除霊師で霊が見えるんですよね?友人がとりつかれたかもしれません。相談させてください』
『その友人は近くにいるんですか』
『今は用があるって言って別れています。ただできれば早めに相談したいです』
『流石に直接見ないと、とりつかれているかはまでは分かりません。しかし声掛けしたのはこちらからなのでインタビューも兼ねてお会いすることは可能です』
 その後いくつか集合場所を提案される。そしてここから一番近い場所を答えると三十分後に会う約束を取り付けた。その間必要最低限の服装と現在地情報を提供した。
 メッセージを送り終えた途端、手の力が抜けた。
 スマートフォンを落としかけたので慌てて両手で持ち直す。画面にはアサガオとのやり取りが残っていた。友人がとりつかれたかもしれません。自分で打った文字なのに、改めて見ると随分大袈裟に見える。
 友人がとりつかれた。
 そんな言葉を本気で使う日が来るとは思わなかった。……本気でそう思っているのだろうか。
 和は何かをしたわけではない。暴れたわけでも、こちらを責めたわけでもない。ただ明るくなっただけだ。会話が滑らかになり、昔のことをよく覚えていて、こちらの選択を少し先回りしただけ。それをとりつかれたと表現するのは、ひどい決めつけではないのか。
そこまで考えて和の声が蘇る。
『司は見てくれるし』
 あれはどういう意味だったのだろう。何気ない言葉にしては重く聞こえた。
 見る事自体は悪いことではない。むしろ友人としては褒められたと喜ぶべきなのかもしれない。だが少し怖かった。
 信号機の音が遠くで鳴っている。青を機械の声が告げる。横断歩道を渡る人々が一斉に動き出し、自分だけが取り残された様に日陰に立っていた。汗が首筋を流れる。シャツが背中に張りついて気持ち悪い。呼吸は落ち着いてきたが心臓の動きはまだ早い。
 近くの自動販売機で水を買うことにした。硬貨を入れる手が少し震えている。ボタンを押すと鈍い音を立ててペットボトルが落ちてきた。取り出した水は冷たく痛いほどだった。
 一口飲むと冷たさが喉を通り、胃の中に落ちていく。その感覚にようやく自分が生きていることを思い出した。
「……何やっているんだろうな」
 呟いても誰も反応しない。通り過ぎる人々はそれぞれの目的地へ向かっている。こちらの事情なんて知らないし、知る必要もない。知らない人間ばかりの街は今はありがたかった。誰も友人を怖がって逃げたことを責めない。けれどその事実だけは自分の中に残っている。
 スマートフォンが震える。アサガオからだ。
『指定した喫茶店は何店舗かあるので出口の間違いがないよう注意してください』
 直後店のリンクが送られてくる。
『分かりました。なるべく早く伺います』
 そうは書いたが小さな公園を見つけると中に入り木陰にあるベンチで休む。急に疲れが溜まった。除霊師に会える安心感が疲労を思い出させたのだろう。目の前の景色を見ると滑り台だけがあった。夏の日差しを受けた滑り台は触れば火傷しそうで、誰も遊んでいなかった。
 ふと視線を下に向けるとベンチの下に蝉の抜け殻が落ちていた。背中が割れて、中身だけがどこかへ行ってしまっている。形は残っているのに、そこにいたものはもういない。
 何故か和みたいだと思ってしまい、慌てて視線を逸らした。
 我ながらいくらなんでもひどい連想だ。
 彼は生きている。目の前で笑い、生き生きと話しかける彼になんてことを考えるのだ。
 だが胸の奥では別の声がする。本当にそうか。あれは本当に、昨日まで通話していた和だったか。
 ポケットからスマートフォンを取り出すと黒い画面に自分の顔が映る。汗で前髪が額に貼りつき、目元は落ち着きがない。何かに怯えている。友人に対して怯えている。情けない顔だった。
 画面を点けると、通知欄に和からのメッセージはなかった。それに安心してしまう自分が嫌だった。
 本当は連絡が来てほしかったのではないか。
 何もなかったように「今日はありがとう」と送ってきてくれれば、それで気のせいだったと思えるかもしれない。逆に「どうして走ったの」と送られてきたら、すべて終わる気もする。どちらも怖かった。
 アサガオとの待ち合わせまでもう少し時間がある。
 だがこのまま座っていると、余計なことばかり考えてしまいそうだった。立ち上がり駅へ向かう。身体は重いが、先ほどより呼吸は楽になっていた。
 改札を通る直前、もう一度スマートフォンを見てみるが和からの通知はない。
 アサガオからは喫茶店の場所が送られている。地図アプリを開くと、目的地までの経路が青い線で表示された。自分が進むべき道を機械が示してくれる。何も考えなくても、線の通りに歩けば着く。
 その単純さがありがたかった。
 電車に乗ると、冷房の風が汗を冷やした。車内は空いている。夏休みとはいえ平日の昼間だからか、学生よりも買い物帰りらしい人や、スーツ姿の人が目立つ。吊り革が揺れ、窓に自分の姿が薄く映る。その奥で景色が後ろへ流れていく。
 和は今頃どうしているのだろう。
 ウィークリーマンションに戻っているのか。荷物を整理しているのか。それとも、自分と同じようにスマートフォンを見つめているのか。
 想像した和はなぜか笑っていた。駅で会った時のような晴れやかな笑顔だった。
 それが怖くて、すぐに考えるのをやめる。
 ところでアサガオは本当に来るのだろうか。
 ネットで知った配信者が偶然こちらの投稿を見つけライターとして接触してきた。冷静に考えれば、それも十分怪しい。しかも除霊師だ。詐欺だと言われても仕方がない。だが今はそれでも良かった。人間ならまだ話が通じるかもしれない。
 いや、何を考えているのだろう。
 人間不信を拗らせてホラーに逃げたくせに、最後はよく知らない人間に頼ろうとしている。自分でも笑ってしまうくらい矛盾している。それでも、今頼れるのはアサガオしかいなかった。
 突如電車が大きく揺れ、吊り革が一斉に鳴る。
 間もなく新宿駅に着いた。
 ホームに降りた瞬間、空気が変わる。地下にこもった湿気と、人の匂いと、どこかから漂ってくる食べ物の匂いが混ざっていた。案内表示に従って歩く。人の流れは複雑なのに、誰も迷っていないように見える。自分だけが目的地も理由も曖昧なまま歩いているようだった。
 地上に出ると、また熱気が襲ってきた。
 ビルの影を選んで進む。地図アプリの青い点は少しずつ目的地へ近づいていく。
ゴール地点にはよく見る喫茶店の看板が置かれていた。一度も入ったことはないが、新宿以外にも繁華街ではよく見かけるから繁盛しているのだろう。中に入ると店員が声をかけてきた。待ち合わせの旨を伝えると奥の席を案内される。
 そこには眼鏡の男が座っていた。
 前髪はセンター分けにしており、癖毛の黒髪は耳を隠している。真夏であるにも関わらず首元まで詰まったシャツの上にジャケットを羽織っており文筆家らしい雰囲気が漂っていた。ここだけの話、もっと数珠をジャラジャラとつけたいかにもな除霊師の姿を想像していたので安心する。
「君が司くんですか」
 その声は度々ポッドキャストで聞いた男の声だった。年齢は二十代後半から三十代前半と言ったところだろう。
「そうです……あなたがアサガオさんですか」
 こちらの名前はあらかじめ教えておいた。本名じゃなくてもいいとのことだが、本名の方が霊絡みの場合対策しやすいとの事だった。フルネームは流石に不安なので控えさせてもらう。
「その通りです。疲れたでしょう、座ってください」
 促されるまま向かいの席に座るとアサガオはメニューを差し出す。
「おごりです。好きなものを頼んでください」
「悪いですよ。直接会いたいって言ったのはこっちなのに」
「取材をしたいと言ったのは私です。お気になさらず」
 彼はすでに注文していたカップを空にするとコーヒーを注文する。同じタイミングでアイスティーを注文すると改めて男と向き直る。
「まずは自己紹介をしましょう。私はスガノアサガオ。ライター兼除霊師です。趣味でポッドキャストの配信もしています。ちなみに今回はオカルト雑誌に寄稿するための記事の取材です」
 名刺を差し出され受け取ると「菅野蕣」と書かれていた。これでアサガオと読むのかと思った。
「……除霊師は副業なんですか」
「本業は除霊師ですけど世知辛い世の中ですからね。ライターで稼ぐことも多々あります。あとメールに書いてあった霊は見えるのかという質問ですが、いれば見えます。ただそもそもこの件に霊が絡んでいるか確認しないといけないので……ボイスレコーダーを使ってもいいですか。個人情報にかかるところは全て伏せますし、原稿も完成したらお見せします」
 肩書がライターだけ表記された名刺も受け取るが除霊師の有無以外差はない。男は手持ちの機器を操作しながら思い出したように「そういえば」と呟く。
「今回の取材についてですが、報酬を渡さない代わりに除霊師として相談を受け付けます。ただし、あくまで相談です。実際に現場に向かったり除霊したりするのは別料金がかかりますのでご注意を」
「ちなみにおいくらくらいですか」
「内容次第ですが、そうですね。少なくともこれくらいはかかると思ってもらえれば」
 そう話しながら男は指を三本挙げる。三千円な訳ないだろうから……いざとなればバイトを頑張るしかない。アサガオは指を下げると録音ボタンを押す。
「それでは本題ですが今回の記事では新しい都市伝説の実態を調べることが目的です。その新しい都市伝説とは『カガミ』の事です。まずカガミをどこで知りましたか」
「ネット掲示板で……これです」
 手元のスマートフォンを操作し画面を見せると男は身を乗り出し表示されている文字を読もうとしている。
「ああ、このスレッドですか。やっぱり発祥はここで間違いなさそうですね。いつ儀式を行いましたか」
「一週間前です」
 アサガオはジャケットから取り出したメモ帳に投稿日と実施日を記入する。
「投稿されてから約半年……新しいと言って間違いないですね。どうしてカガミの儀式を行おうと?」
「どうしてって……面白そうだったから」
「他には?」
 そう聞かれても困る。なりたい自分になれたらいいという子供みたいな発想でやったなんて伝えたら呆れられるのではないかと思った。
「来年から就活なんですけど大体自己分析しろって言われるんですよ。将来こうなりたいとか、そのための目標とか。正直今から何者になろうなんて分からないです。それでカガミを思い出してせっかくだからやってみようって」
 メモには就活、自己分析などの単語がピックアップされている。
「分かりました。では次に確認したいのは儀式を行う条件です。掲示板に書いてありますが把握されていましたか」
「はい……ただ、独自解釈した所はありましたけど」
「例えば?」
「なるべく大きい鏡って書いてあるんですけど、手鏡くらいのサイズを用意しました」
「なるほど。他には?」
「二人で向かい合ってのところ、実際は画面越しで行いました」
 アサガオはペンを口元に充てる。
「他に記載されている内容と異なる事を行った箇所はありますか」
「……最後にお礼を言えませんでした」
「何故言わなかったのですか。忘れていたとか」
「忘れていたわけじゃありません。ただ突拍子がなかったって言うか……」
「それはどんな出来事ですか」
 男はメモ帳に顔を向けたまま視線だけこちらに向ける。切れ長の瞳が眼鏡の奥から覗き凄味があった。
「……俺みたいになりたいって言ってきたんです」
「誰が?」
「友人……今回一緒にカガミをやった相手です」
「それで司くんはどうなりたいって言ったんですか」
「俺は金持ちになりたいって言っただけです。その直後にそんなこと言われるから面食らって」
「流れとしては司くんが先に話して、後から友人が復唱する形ですね。理解しました」
 一通り書き終えた男は顔を上げこちらを見つめる。空気が変わったことが分かった。
「どうして友人はとりつかれたと思ったのですか?」
 ここからは除霊師としての領域なのだろう。メモを置き、こちらから視線を離さないようにしている。
「なんか違うんです。うまく言えないけど、こんなに明るかったっけ?とか、喋るの上手いな、とか、そんな前の事よく覚えているな、とか……」
 最後はしどろもどろになる。自分で話して気が付くが違和感というには根拠が薄いのではないか。
「見た目の変化はありましたか。話を聞いていると行動の変化だけのように見えますが」
「特段変わった様子はないです」
「本当ですか。よく見たらクマが増えているとか」
「そういえば逆はあったかもしれないです。あいつ……友人とはいつも夜遅くにオンライン通話をするんですけど画角のせいかクマが出来ているように見えるんですよ。前髪長いし。たださっき会ったときは全く見えませんでした」
「儀式を行ったのは一週間前。仮にクマがあっても一週間まともに睡眠をとれば無くなっても不思議ではないですね。ところで聞きそびれていましたがその友人は同級生ですか」
「そうです」
「昔からの知り合いですか」
「……まあ。知り合ったのは小学生の時ですけど、いろいろあって再会したのは半年くらい前です。ちなみにネット上です」
「ふむ」
 アサガオは考え込む。何か引っかかっているが掴み切れていない様子だ。
「正直に言うと私には司くんの話した事のどこに違和感があるか分かりません。これは司くんだから分かる違和感だと思います。そこを深堀してもいいですか」
 それは更に個人情報を開示することになる。しかし和の異変が自分のせいだとしたら取り返しがつかない。妙に引っかかることもある。確かめるためには洗いざらい話すのが正解かもしれない。
「分かりました。できるだけ詳しく話します。ただ」
 ちらりとボイスレコーダーを見る。
「そうですね。ここからは記事とは関係ありません。ですが使えそうであればその時に確認して録音を再開する方向でいいですか」
 その発言になんとなく信じてもいいような気がした。そして和との出会いについて話し始めた。