朝が来た。八時。学校に行く気にはならなかった。四時四十四分まであと大体九時間。「凪!朝ごはんそろそろ食べないと本当に遅れるわよ。」お母さんが階下から大きな声で呼んでいるのが聞こえる。仕方なく降りていく。「ごめん、今日学校いいや。」俺の言葉に母も父も、時間が止まったかのようにフリーズした。「どうしたの。」「大丈夫か。」当たり前だった。幼馴染を失ってからなお気丈にふるまい、特に辛そうな様子も見せず、学校に行き続けていた息子が急に休むと言い始めたのだから。下手に言い訳してもしょうがないと思って「なんか疲れたから。」とだけ言った。「おお、そうか、ゆっくり休めよ。」「お弁当置いていくからちゃんと食べるのよ。」二人の言葉を背に浴びながら、また自分の部屋へと戻った。
「凪、休めそう?」「うん、ばっちり。」「いぇ~い」明人とハイタッチして、音は鳴ることなくスカッと手を通り抜ける。最後の日くらい、一日くらい休んだっていいんじゃないか、明人にそう相談した時、「いやいや、学校は行きなよ。」と馬鹿真面目に言ってきたのだが、「これは忌引きと同じだ。」「もし俺が学校に行ったら、最後の日に話せるのは一時間だぞ。」「ほぼパーフェクトに近く学校に行ってるんだから、たまには休んでも許されるだろう」と必死に説得して、休む許可をもらったのだった。「何する?」明人はよほど嬉しいのか、それとも、最後の幽霊の体を楽しもうと思っているのか、天井の近くでくるくると回っている。「とりあえず、午前中は家の外出てみようぜ。」「いいね!」「最後に外の世界に繰り出す。」「ナイス提案です!」「今までは、もし見つかって、何か騒ぎになって七不思議討伐の弊害になったらと思うと、怖くて昼間外に出られなかったから。」「だろうな。お前にしてはおとなしくしてると思ってた。」明人はでしょう?なんて笑いながら、行きたいところをピックアップし始めた。「川のところでしょ、あと、昼の学校も外からもう一回見ておきたいし、僕の家の中も最後に見てくるね、あとは……」すべてが“最後に”だった。文字どおり本当の最後なのだった。いや、最期だった。「いい?凪」少しぼーっとしてしまっていた俺に許可を取ってくる明人。「もちろん、全部ついて行く。」「ありがと」
九時を回り、俺の両親も明人の両親も仕事に出かけた。明人はまず初めに自分の家に入っていった。どこから入ったのかはよくわからないが、すり抜けたり、かと思えば物は持てたり、人間の世界の常識や重力法則が幽霊にも当てはまると考えるほうがおかしいと、ここ数日で学んだのだった。内側から鍵を開けてくれたので、俺は堂々と明人の家に玄関から入る。久しぶりだった。明人は俺を手招きしてリビングに連れてくる。明人の仏壇がそこにはあった。「この写真、良くない?」明人は遺影をひどく気に入ったようだ。それは俺が撮った写真だった。去年の運動会の時に取った青空が背景の写真。「背景処理をしなくても遺影みたいだったのよ、このために撮られたみたいで笑っちゃった。」明人の母親が、通夜でそう言ってきたのを思い出す。確か、佐々山か加納かの写真を撮っていた時に、明人に後ろから呼ばれて、そのまま振り返ったら、なぜかシャッターボタンが押されてたみたいな経緯の写真だった気がする。その晩に「よくわかんないけど、めちゃいい写真取れてたから」と明人に送った。写真の中の明人は、満面の笑みを浮かべていて、とても楽しそうだった。それから俺らはアルバムをめくった。アルバムというものの存在を知っていながら今まで、それを見て感傷的になったり、思い出を楽しむことはなかったので、新鮮だった。「この時さあ、凪が、どんぐり落としてそれを僕が踏んでさあ」「なんでそんな覚えてるんだよ」「だってビデオあるもん」幼稚園の時の遠足の写真。俺の右手に握られたどんぐりが、この後地面に落ちて、それを明人が踏んで、二人で大泣きしたという。「いやあ、これ熱かったね」「これは熱かった。」「マジで、泣いたもんな。」「小6にもなってね。」小学校の運動会、リレーのアンカーで走っている写真。明人が俺のすぐ前を必死に走っている。俺は明人を抜かしてヒーローになりたいと思ったが、結局その差が開くことも縮まることもなくゴールした。悔しくて泣いた。「ねえ、凪、これ、笑ってよ」「高校生にもなって、親に写真撮られるときこんなに笑顔になるのも、珍しいけどな。」高校の入学式。年を経るにつれてだんだんと写真の枚数はだんだんと減っていて、アルバムに収められているのはそれが最後だった。
次に俺らは川へ行った。山に入ってすぐのところに流れている小さな川。膝までしかなく、たいして流れもないちょろちょろとした小川は、小さい時から二人で遊ぶ時の鉄板の場所だった。「ここに、ビニールシート掛けて、秘密基地にしたよね」明人が一本の木に腰かけながら言う。あの頃は、この小川を知っているのは俺らだけだと信じていたし、秘密基地は誰にも見つかっていないと思っていた。楽しかった。もうすぐ十二時になる。お昼を回ると、下校してくる小学生などでなんやかんや人通りは増える。「そろそろ帰ろう。」「そうだね。」
最後に俺らの学校の前を通った。今日学校を休んでいる身としては少しひやひやしたのだが、明人がどうしてもと言うのでついて行った。登校時にも下校時にも見ているはずなのに、日の光が当たっている校舎はなぜか新鮮な気がした。最近記憶の中の校舎は夜の暗くて、月の光でぬらぬらと光っている校舎だったから。「楽しかったな~高校生も。」明人は呑気にそう呟いてから、「じゃあ、帰ろう。」と飛んで行ってしまった。
それから俺は昼ご飯を食べて、二人で俺の部屋でダラダラした。久しぶりにゆっくり話したような気がした。どうでもいいこと、きっと明日には忘れているような他愛もない話。今までと同じようなただの雑談。しかし、今日の会話を忘れることは一生来ないだろうなと思った。どれだけどうでもいい内容でも、面白くて、そして少し苦かった。どれだけどうでもいいような内容でも、俺の心の中に染みついてずっと残り続けるんだろうなと思った。
そして時刻はもう四時になった。あっという間だった。「そろそろ行こう。」切り出したのは明人だった。さっきまで、アルバムを見たことで思い出した、小学校の時の癖の強い先生の物まねをしていたのに、時間はしっかり確認しているようだった。俺は内心、時間なんて忘れて、気が付いたら四時四十四分を過ぎていて、それで二人でびっくりして、明日に延期されないかななんて思っていた。「いいよ。」俺はしぶしぶ腰を浮かした。「こういうのはなるはやでやらないと、どんどんできなくなってくるからね。」明人は、幽霊になってから勘が鋭くなったように思える。俺の考えていることはすべて見えているんじゃないか、幽霊ってテレパスも使えるのか?なんて何回も驚いた。
二人でいつもの道を歩いた。明人の頬に午後の光が透けていた。「その透けてるの最高に綺麗だな。」「そう?透けた甲斐があるよ。」明人は嬉しそうに微笑んだ。正門から学校に入る、俺は靴を履き替えるために玄関へ、明人は見つからないように屋上から願いの鏡の前へ直接向かうようだった。「おう、大野。大丈夫か。」間が悪いことに担任の先生に玄関で見つかった。「あ、大丈夫です。」会釈をして、「ちょっと明日の課題に必要な教科書忘れてきたので、取りに来ました。」と言い訳をする。さっきから口の中で練習していた言い訳だった。「そうか、気をつけて帰れよ、明日も無理せずだぞ」優しい言葉にもう一度会釈をして、階段を登った。
3Aがある三階を通り過ぎてさらに上へ。屋上に上ることなんてないので、この階段を使うのはほぼ初めてだった。滅多に人が通らないし、そのせいで掃除もおざなりにされているので埃っぽい。一歩一歩歩くたびに埃が舞い上がって、夕日を受けてちらちらと輝いた。明人はもう願いの大鏡の前で待っていた。屋上を覗ける小窓が夕日を少し取り込んでいた。願いの大鏡の前に立つと、明人が横に並んでくる。鏡に映っているのは俺一人だった。鏡の中のたった一人の俺は、少し寂しそうで、心細そうな顔をしていた。「凪、僕と並んでないと変な感じ。」明人が言ってくる。隣を見ると確かにそこにいる。同じくらいの身長で確かに並んでいる。それでも鏡には映っていなかった。「なんか、バランス悪いよな。」明人が隣にいない俺は、世界に対して少し居心地が悪そうだった。それがなぜなのかはあまりよくわからなかった。
四時三十分を回った。「あと少しだ。」明人は緊張したようにつぶやく。緊張した明人を見たのは初めてといっても過言ではなかった。いつもひょうひょうとしている明人が、落ち着かない様子で手を揉んでいるのを見て、こちらも落ち着かない気持ちになった。「凪」明人に名前を呼ばれる。「何?」「ありがとね。」「何がよ。」「全部全部。」明人は人生の締めくくりに入り始めたようだった。「本当にごめんね。」「それは俺も、というか、俺がだろ。」「事故って言ってんじゃん。」「そうだけどさ。」明人は少し困ったように眉を下げた。最後の表情が困り顔は耐えられない。「ありがとう、俺も。」そう伝えると、嬉しそうにふんわりと微笑んだ。夕日を受けて彼の頬は赤く染まり始めていた。「凪いなかったら、成仏できないところだった。」「俺がいなかったら死んでないだろ。」明人はまた困り顔に戻った。「僕の人生、凪が多すぎて、凪いなかったら僕じゃないと思うから、だから、死んでないとかいう以前に生まれてないのかも。」明人はその言葉をこれから明人なしで生きる俺に言う残酷さに気が付いていないようだった。「俺も明人いなかったら俺じゃないよ。」声が潤む。まだ間に合う。四時三十八分。俺の言葉を受け取ることもなく明人はいつもの満面の笑みを浮かべた。「凪のこと、ずっと見守ってるからね。天国でもずっと見守ってるからね。」うつむいた俺の視界が揺れた。涙と、そして、俺にのめりこむように抱き着いている明人のせいだった。
四時四十四分。明人が俺から離れて、「お願い。」と呟いた。願いの大鏡に向き合うと、俺の隣に明人が映っていることに気が付いた。生前の透けてない明人だった。夕焼けが眩しいほどに差し込んできて、俺と明人の頬を真っ赤に染めている。「明人を……成仏させてあげてください。」声を絞り出した、喉のあたりが苦しかった。涙交じりの声で、か細く揺れてしまったが、願いの大鏡には届いたようだった。鏡の中の明人は、さっきの姿もつかの間、透けた姿でこちらを見ていた。鏡の中からこちらを覗いていた。赤い首輪もない、ただ透けているただ幽霊の明人。「今までありがとう、大好きだよ、凪。」明人の口がそう動いて、そして消えていった。隣を見ると明人はもういなかった、当たり前だった、俺が消したのだった。太陽はどんどん傾いて山の影に入っていき、屋上からは夕方の紫が流れ込んできた。
つま先を見るように俯きながら家に帰った。明人が浮かんでいないなら、前なんて見る気にもならなかった。家に入ると、お母さんがもう帰っていた。「もう大丈夫なの?」その言葉に返事をする気も起こらず、自分の部屋に入った。
テーブルの上には手紙が置いてあった。メッセージカードくらいの大きさで、ルーズリーフを破ったものだった。「心の底から僕の成仏を、僕の幸せを願ってくれてありがとう 明人。」少しでもほかの気持ちがあれば、その願いは届くことなく、鏡の中の誰かがあなたのことを鏡の中に引きずり込んでくる。願いの鏡の噂を今になって思い出した。彼のメッセージを胸に当てて、安堵の息をついた。俺は心の底から明人の幸せを願うことができたのだった。俺は心の底から明人のことを思うことができたのだった。それだけがずっと不安だったことを今思い出した、そして、小さな声を上げながら涙を流した。
「凪、休めそう?」「うん、ばっちり。」「いぇ~い」明人とハイタッチして、音は鳴ることなくスカッと手を通り抜ける。最後の日くらい、一日くらい休んだっていいんじゃないか、明人にそう相談した時、「いやいや、学校は行きなよ。」と馬鹿真面目に言ってきたのだが、「これは忌引きと同じだ。」「もし俺が学校に行ったら、最後の日に話せるのは一時間だぞ。」「ほぼパーフェクトに近く学校に行ってるんだから、たまには休んでも許されるだろう」と必死に説得して、休む許可をもらったのだった。「何する?」明人はよほど嬉しいのか、それとも、最後の幽霊の体を楽しもうと思っているのか、天井の近くでくるくると回っている。「とりあえず、午前中は家の外出てみようぜ。」「いいね!」「最後に外の世界に繰り出す。」「ナイス提案です!」「今までは、もし見つかって、何か騒ぎになって七不思議討伐の弊害になったらと思うと、怖くて昼間外に出られなかったから。」「だろうな。お前にしてはおとなしくしてると思ってた。」明人はでしょう?なんて笑いながら、行きたいところをピックアップし始めた。「川のところでしょ、あと、昼の学校も外からもう一回見ておきたいし、僕の家の中も最後に見てくるね、あとは……」すべてが“最後に”だった。文字どおり本当の最後なのだった。いや、最期だった。「いい?凪」少しぼーっとしてしまっていた俺に許可を取ってくる明人。「もちろん、全部ついて行く。」「ありがと」
九時を回り、俺の両親も明人の両親も仕事に出かけた。明人はまず初めに自分の家に入っていった。どこから入ったのかはよくわからないが、すり抜けたり、かと思えば物は持てたり、人間の世界の常識や重力法則が幽霊にも当てはまると考えるほうがおかしいと、ここ数日で学んだのだった。内側から鍵を開けてくれたので、俺は堂々と明人の家に玄関から入る。久しぶりだった。明人は俺を手招きしてリビングに連れてくる。明人の仏壇がそこにはあった。「この写真、良くない?」明人は遺影をひどく気に入ったようだ。それは俺が撮った写真だった。去年の運動会の時に取った青空が背景の写真。「背景処理をしなくても遺影みたいだったのよ、このために撮られたみたいで笑っちゃった。」明人の母親が、通夜でそう言ってきたのを思い出す。確か、佐々山か加納かの写真を撮っていた時に、明人に後ろから呼ばれて、そのまま振り返ったら、なぜかシャッターボタンが押されてたみたいな経緯の写真だった気がする。その晩に「よくわかんないけど、めちゃいい写真取れてたから」と明人に送った。写真の中の明人は、満面の笑みを浮かべていて、とても楽しそうだった。それから俺らはアルバムをめくった。アルバムというものの存在を知っていながら今まで、それを見て感傷的になったり、思い出を楽しむことはなかったので、新鮮だった。「この時さあ、凪が、どんぐり落としてそれを僕が踏んでさあ」「なんでそんな覚えてるんだよ」「だってビデオあるもん」幼稚園の時の遠足の写真。俺の右手に握られたどんぐりが、この後地面に落ちて、それを明人が踏んで、二人で大泣きしたという。「いやあ、これ熱かったね」「これは熱かった。」「マジで、泣いたもんな。」「小6にもなってね。」小学校の運動会、リレーのアンカーで走っている写真。明人が俺のすぐ前を必死に走っている。俺は明人を抜かしてヒーローになりたいと思ったが、結局その差が開くことも縮まることもなくゴールした。悔しくて泣いた。「ねえ、凪、これ、笑ってよ」「高校生にもなって、親に写真撮られるときこんなに笑顔になるのも、珍しいけどな。」高校の入学式。年を経るにつれてだんだんと写真の枚数はだんだんと減っていて、アルバムに収められているのはそれが最後だった。
次に俺らは川へ行った。山に入ってすぐのところに流れている小さな川。膝までしかなく、たいして流れもないちょろちょろとした小川は、小さい時から二人で遊ぶ時の鉄板の場所だった。「ここに、ビニールシート掛けて、秘密基地にしたよね」明人が一本の木に腰かけながら言う。あの頃は、この小川を知っているのは俺らだけだと信じていたし、秘密基地は誰にも見つかっていないと思っていた。楽しかった。もうすぐ十二時になる。お昼を回ると、下校してくる小学生などでなんやかんや人通りは増える。「そろそろ帰ろう。」「そうだね。」
最後に俺らの学校の前を通った。今日学校を休んでいる身としては少しひやひやしたのだが、明人がどうしてもと言うのでついて行った。登校時にも下校時にも見ているはずなのに、日の光が当たっている校舎はなぜか新鮮な気がした。最近記憶の中の校舎は夜の暗くて、月の光でぬらぬらと光っている校舎だったから。「楽しかったな~高校生も。」明人は呑気にそう呟いてから、「じゃあ、帰ろう。」と飛んで行ってしまった。
それから俺は昼ご飯を食べて、二人で俺の部屋でダラダラした。久しぶりにゆっくり話したような気がした。どうでもいいこと、きっと明日には忘れているような他愛もない話。今までと同じようなただの雑談。しかし、今日の会話を忘れることは一生来ないだろうなと思った。どれだけどうでもいい内容でも、面白くて、そして少し苦かった。どれだけどうでもいいような内容でも、俺の心の中に染みついてずっと残り続けるんだろうなと思った。
そして時刻はもう四時になった。あっという間だった。「そろそろ行こう。」切り出したのは明人だった。さっきまで、アルバムを見たことで思い出した、小学校の時の癖の強い先生の物まねをしていたのに、時間はしっかり確認しているようだった。俺は内心、時間なんて忘れて、気が付いたら四時四十四分を過ぎていて、それで二人でびっくりして、明日に延期されないかななんて思っていた。「いいよ。」俺はしぶしぶ腰を浮かした。「こういうのはなるはやでやらないと、どんどんできなくなってくるからね。」明人は、幽霊になってから勘が鋭くなったように思える。俺の考えていることはすべて見えているんじゃないか、幽霊ってテレパスも使えるのか?なんて何回も驚いた。
二人でいつもの道を歩いた。明人の頬に午後の光が透けていた。「その透けてるの最高に綺麗だな。」「そう?透けた甲斐があるよ。」明人は嬉しそうに微笑んだ。正門から学校に入る、俺は靴を履き替えるために玄関へ、明人は見つからないように屋上から願いの鏡の前へ直接向かうようだった。「おう、大野。大丈夫か。」間が悪いことに担任の先生に玄関で見つかった。「あ、大丈夫です。」会釈をして、「ちょっと明日の課題に必要な教科書忘れてきたので、取りに来ました。」と言い訳をする。さっきから口の中で練習していた言い訳だった。「そうか、気をつけて帰れよ、明日も無理せずだぞ」優しい言葉にもう一度会釈をして、階段を登った。
3Aがある三階を通り過ぎてさらに上へ。屋上に上ることなんてないので、この階段を使うのはほぼ初めてだった。滅多に人が通らないし、そのせいで掃除もおざなりにされているので埃っぽい。一歩一歩歩くたびに埃が舞い上がって、夕日を受けてちらちらと輝いた。明人はもう願いの大鏡の前で待っていた。屋上を覗ける小窓が夕日を少し取り込んでいた。願いの大鏡の前に立つと、明人が横に並んでくる。鏡に映っているのは俺一人だった。鏡の中のたった一人の俺は、少し寂しそうで、心細そうな顔をしていた。「凪、僕と並んでないと変な感じ。」明人が言ってくる。隣を見ると確かにそこにいる。同じくらいの身長で確かに並んでいる。それでも鏡には映っていなかった。「なんか、バランス悪いよな。」明人が隣にいない俺は、世界に対して少し居心地が悪そうだった。それがなぜなのかはあまりよくわからなかった。
四時三十分を回った。「あと少しだ。」明人は緊張したようにつぶやく。緊張した明人を見たのは初めてといっても過言ではなかった。いつもひょうひょうとしている明人が、落ち着かない様子で手を揉んでいるのを見て、こちらも落ち着かない気持ちになった。「凪」明人に名前を呼ばれる。「何?」「ありがとね。」「何がよ。」「全部全部。」明人は人生の締めくくりに入り始めたようだった。「本当にごめんね。」「それは俺も、というか、俺がだろ。」「事故って言ってんじゃん。」「そうだけどさ。」明人は少し困ったように眉を下げた。最後の表情が困り顔は耐えられない。「ありがとう、俺も。」そう伝えると、嬉しそうにふんわりと微笑んだ。夕日を受けて彼の頬は赤く染まり始めていた。「凪いなかったら、成仏できないところだった。」「俺がいなかったら死んでないだろ。」明人はまた困り顔に戻った。「僕の人生、凪が多すぎて、凪いなかったら僕じゃないと思うから、だから、死んでないとかいう以前に生まれてないのかも。」明人はその言葉をこれから明人なしで生きる俺に言う残酷さに気が付いていないようだった。「俺も明人いなかったら俺じゃないよ。」声が潤む。まだ間に合う。四時三十八分。俺の言葉を受け取ることもなく明人はいつもの満面の笑みを浮かべた。「凪のこと、ずっと見守ってるからね。天国でもずっと見守ってるからね。」うつむいた俺の視界が揺れた。涙と、そして、俺にのめりこむように抱き着いている明人のせいだった。
四時四十四分。明人が俺から離れて、「お願い。」と呟いた。願いの大鏡に向き合うと、俺の隣に明人が映っていることに気が付いた。生前の透けてない明人だった。夕焼けが眩しいほどに差し込んできて、俺と明人の頬を真っ赤に染めている。「明人を……成仏させてあげてください。」声を絞り出した、喉のあたりが苦しかった。涙交じりの声で、か細く揺れてしまったが、願いの大鏡には届いたようだった。鏡の中の明人は、さっきの姿もつかの間、透けた姿でこちらを見ていた。鏡の中からこちらを覗いていた。赤い首輪もない、ただ透けているただ幽霊の明人。「今までありがとう、大好きだよ、凪。」明人の口がそう動いて、そして消えていった。隣を見ると明人はもういなかった、当たり前だった、俺が消したのだった。太陽はどんどん傾いて山の影に入っていき、屋上からは夕方の紫が流れ込んできた。
つま先を見るように俯きながら家に帰った。明人が浮かんでいないなら、前なんて見る気にもならなかった。家に入ると、お母さんがもう帰っていた。「もう大丈夫なの?」その言葉に返事をする気も起こらず、自分の部屋に入った。
テーブルの上には手紙が置いてあった。メッセージカードくらいの大きさで、ルーズリーフを破ったものだった。「心の底から僕の成仏を、僕の幸せを願ってくれてありがとう 明人。」少しでもほかの気持ちがあれば、その願いは届くことなく、鏡の中の誰かがあなたのことを鏡の中に引きずり込んでくる。願いの鏡の噂を今になって思い出した。彼のメッセージを胸に当てて、安堵の息をついた。俺は心の底から明人の幸せを願うことができたのだった。俺は心の底から明人のことを思うことができたのだった。それだけがずっと不安だったことを今思い出した、そして、小さな声を上げながら涙を流した。
