揺らぐ月に君は凪ぐ

睡眠は貯められない。現代に生きる忙しい高校生として非常に重要な知見を得た。昨日の五時間のお昼寝も、夜の動きが良くなっただけで、睡眠不足対策には何も貢献してくれなかった。眠い目をこすりながら朝登校すると、後ろから佐々山が抱きついてくる。「おい~、昨日も寝れなかったのかよ~」口調とスキンシップ、勢いこそいつも通りだが、こちらを気遣っているのがわかる。つくづくといいやつだなと思うと同時に、少しの罪悪感も芽生えてきた。「大丈夫、お昼寝はできたから」佐々山は、そっかと小さい声で呟いて、「まあ今日も無理せずいこーぜ」と背中を叩いた。居心地が悪い。

数学の授業は面白いが、ますます高度なものとなってきて手に負えなくなりそうなのが怖い。「三角関数は式変形が命です」黒板の前でぼそぼそと呟くように授業する先生の声に眠くなる。声が小さいことと、板書が壊滅的に斜めっていて汚いことを除けば、最高の先生である金田先生の授業は面白い。「今日は新しい式変形の公式を教えます。三角関数は高度なものになるほど、完成形を思い描き、自分の都合の良い形に変形することが求められるのは、前回の授業から問題演習をしてくださった生徒はもう分かることでしょう。一昨日授業をした二倍角の公式を変形して、三倍角の公式を導くことは可能ですが、時間内に解き切るということを考えると、こちらも暗記してしまうのがよいかと思います。」先生のチョークの音が教室に響く。先生の呟く声は、チョークの音にかき消されてしまうため、生徒たっての願いで、話すパートと板書パートは厳格に分けられているのだと先生は言っていた。『cos3θ=3cosθ+4cos^3θ』「コサイン3シータはイコール、3コサインシータ足すところの4コサイン三乗シータ、これがコサインの三倍角の公式です。」隣の席の佐々山をちらりと伺うと、頭の後ろで手を組んで、難しい顔をして黒板をにらんでいる。数学が苦手な佐々山は、新しい公式が登場すると仲良くなるまでに時間がかかるらしいのだ。「この公式はもちろん先ほども言ったとおりに覚えてもらいたいのですが、ただ覚えるとなると、間違える可能性が高くなります。ここはひとつ語呂合わせを。」「お」小さく呟いて佐々山が前のめりになる。「花子さん、坊さん、コスプレしに四国に参上」生徒がみな頭の中にその語呂合わせの情景を思い浮かべる。トイレの花子さんと、お坊さんが二人仲良くコスプレ衣装を持って新幹線に乗り込んでいる映像。語呂合わせの中ではかなり芸術点が高く、生徒の口角はにやにやと上がっていた。「語呂合わせは面白がるだけじゃなくて、きちんとどの単語がどの数、どの記号を意味しているのかを意識しながら何回も反芻したり、紙に書いたり、問題に使わないと身につきませんから、各々研鑽するように。」先生の口癖「各々研鑽するように」が出たところで教室のにやにやは最高潮になった。

家に帰ると、明人が待っている。「こうやってお帰りって言うと一緒に住んでいるみたいじゃない?」機嫌がいいのか、くるくると文字通りの宙返りを繰り返す明人。彼の透けた髪が、夕日を反射して小さくちらちらと輝いている。昨日の夜の明人は、このまま夜に溶けて消えてしまいそうな感じがした。彼の雰囲気のせいだけじゃないのかもしれない、俺も昨日はなんだか少しおかしくなってしまっていたような気もする。少なくとも俺の目を通して見た明人は、なんだか今すぐにでも死んでしまいそうに見えた。「ご機嫌じゃん」今日一日、俺が学校に行っていた間に何があったのかはわからないが、気を取り直しご機嫌になった彼にこちらも嬉しくなる。鏡の前の定位置にリュックを置いて、クッションに座ると、明人もベッドに座って話し始めた。「いや、それがさあ、今日実は学校僕も行ったんだよ」ええ?思わず声が出る。彼が学校でいろいろ調べたりしているのは知っているが、それはわざわざ言ってくることじゃない。きっと、学校に“ついてきた“という表現のほうが正しいのだろう。「凪のことずっと見てたよ!」本当のお化けのようなことを言う明人。「普通に怖いから。」「天井裏で静かにしてれば、少しくらい顔がのぞいてたりしても誰にも気づかれないってことに気が付いたんだ。」「次の目標は凪と授業中に話すこと」授業中に話すなんて、中学校一年生で同じクラスになった時以来だし、そういう風に出来たらどんなに楽しいかなんて俺も思うけど、でも。「俺は不思議ちゃんキャラでは売ってないからだめ」「いいじゃ~ん、虚空に向かって「明人、俺もそう思う」とか話す凪、面白いと思うんだよね?」「マジで心配されるからやめろ」確かに少し面白いとは思うものの、いたずらに周りの人に気を遣わせるのは大罪だ。「今だったら何でも許されるよ?」明人は楽し気に話すのをやめない。「許されてるんじゃない。心配されてんの」「いつもだったら、多分、頭がおかしくなったと思われてお友達いなくなっちゃうけど、今なら許されるよ?」「俺が虚空に向かって明人の名前呼んだら、マジでそういう風になっちゃったと思われるから。ぜ~ったいやりません!」明人は、つまんないの~と唇を尖らせる。「ま、明日もついていくね!明日はもう少し攻めたい」こうなったら明人は絶対についてくるだろう、彼の言う通り少し攻めて。「いいけど、ほどほどにしろよ。あと、俺は相手しないから。」「いぇ~い!明日も数学の授業あるよね?僕、結構金田先生ツボだからさ~」「今日も面白かったよな」中学二年生のクラス替えからは、幼馴染でくっつけるとお互いしかしゃべらなくなりそうだから、という理由で同じクラスになることはなかった。同じ授業を受けて、今日の話で盛り上がるなんて久しぶりで、悪くない気分ではあった。

暗闇の中を二人で歩く。月は雲に隠れてしまった。「雲隠れにし、夜はの月かな」「それって、天つ風?」「違う。巡りあいて」「ああ、めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな、か。」明人の朗々とした声。「覚えてんじゃん」「最初聞けばわかるよ、そりゃあ」「まあ、そうか」「なに?僕への嫌味?」驚いて明人を見ると、冗談半分の顔をしていて安心する。その目はきちんといたずらっぽく光っていた。「月が綺麗だから、思いついただけ。」「それは僕への告白?」「それも違うだろ。」俺の返答に「ナイスツッコミです」と楽しそうに笑う明人。十一時以降に外に出ても、意外と補導はされないし、月のおかげで意外と暗くはないって、死んでから初めて知ったよと明人は呟いた。びくびくすることもなくなり、だんだん夜の散歩にも慣れてきた俺らは、歩きなれた通学路を話しながら進んでいく。明人の寝坊で走ってもいない、早起きが憂鬱で黙りこくってもいない、暗い暗い学校への道は奇妙なものだった。久しぶりに再び会ったのに、本当にあなたかどうかもわからないうちにあわただしく帰って行ってしまいましたね。まるで、雲に隠れてしまった夜中の月のように。明人は明人だ。幽霊……なんて本物に遭うまで信じていなかったが、それでも明人のことはわかる。幽霊だろうが人間だろうが彼は彼で、本当にあなたかどうかわからないなんてことないんだから。

「どうぞ?」明人の時間管理も慣れたもので、俺も寸分疑わずにさっと裏門脇から校内に入る。どの資料をどのように拝見し、どう参照にしたのかわからないが、それはそれとして、見たい人が見たいように見れる監視システムで大丈夫なのかと少し心配になる。勿論幽霊になっていない生徒はどう頑張っても見れないようになっているのだと思うけれど。

祠に昨日まで通り手を合わせて、立ち上がると明人が話しかけてくる。「でもさあ、今や祠が一番謎だよね」明人の言葉に、うなずく。「祠だけ消えてない、どうやって消えるのか見当はつくけど確かじゃない。」「どうする?この桜が急に襲ってきたら。」明人のささやきになんだか急に背筋がぞっとして、こちらを見つめている桜を見上げる。「まさか。」花脈一つ一つの赤い血による脈動が、木全体を揺らしているように見える。脈動に合わせて、木そのものがドクンドクンと脈打っているような、木が脈動に合わせて呼吸しているようなそんな錯覚を覚えて息をのんだ。「木が、息してる。みたいに見える。」明人も同じことを感じたのか、小さな声で呟く。「大丈夫だよ、明人は。俺と違って、吸い取られる生気はないんだから。」木に聞かれるのを恐れて、俺も囁くように言った。こちらを見つめてちっとも動かないただのお狐さんが、なぜかこの夜の学校だと逆に恐ろしかった。動かない分、何かがあるような気がして見えてしまった。

「今日はここ」明人は赤い足かせを指さして言う。「今日も張り切ってレッツゴー」明人はその赤い糸の上を歩きながら校舎内へ進んでいった。玄関から中に入り、昨日進んだのは右手側だった。今日は左手側だ。職員室の前で明人は立ち止まる。足から伸びる赤い糸は、職員室の中へ伸びていた。高校生にもなると、中学生や小学生のころと比べて、職員室に行く機会はめっきり減った。委員会を熱心にしている人や、部活で役職についている人は、何かと先生と連絡を取る機会が多く職員室に出入りしているのを見かけるが、俺はそうではない。職員室の間取りはいまだによくわからないし、職員室という場所自体、なんとなく入ってはいけないところというイメージを捨てきれずにいた。「しゃれこうべ先生、です。」明人が言う。七不思議の中で一番怪異感がある御仁。七不思議の中で一番怖いイメージがある怪異に少し及び腰になっている自分がいた。「ちょっと怖いんだけど……」明人は、何一つ包み隠さず呟く。思わず人差し指を立てて。し~っと明人に忠告した。「聞こえたらどうするんだ。」「大丈夫だよ、こんなことで怒らないって」「怒ったらどうするんだ。怖いだろ。」その時、職員室の中で、カタン、と物音がした気がしてびくりと肩が跳ねる。明人も固まって、職員室の扉をじっと見つめていた。「なあ、今、物音したよな。」「うん、しゃれこうべ先生かも」「もしかして、ここでうじうじ話してるほうが気に入らないって、説はある?」「そうかも。」俺たちは目を合わせて、それから恐る恐る職員室のほうへ向き直る。二人でえい!と職員室の引き戸を大きく開けた。

職員室の机には、うわさに聞いた通り骸骨が一人座っていて、紙とペンの音をさせながら一心不乱に仕事をしていた。という光景を期待していた。勇気を絞り出して開けた扉の向こうの職員室は、ただがらんとして暗いだけのただの夜の職員室だった。「あ、あれ?」明人が頭を掻きながら中へ入っていく。恐る恐る中に踏み込んでも、昼間の普通の職員室と何一つ変わらない職員室であることが確認できただけだった。「コロナ感染症対策のために、手洗いうがいをこころがけましょう」という、数年前から張りっぱなしで少しあせた地方自治体のポスター。「今日の予定 特になし 副校長田山が丘高校出張」かすれたホワイトボードマーカーで書かれた昨日の日付の連絡事項。何一つ変わらない。明人がぐるっと職員室を飛び回り、「何も変わらないよ、おかしいな」と困惑した声を上げる。月明かりがないから、昨日のようには視界が良くない。パチン、と間抜けな音を立てて電気をつけた。

電気をつけても、何も変わらない。ただ、うちの学校の職員室がそこにあるだけだ。「なら、さっきの音は、なんだった?」俺のつぶやきに明人は「それは、これだと思う。」と窓際へ飛んで行った。窓は喚起のために少し空いていて、たぶん窓際に立てかけられて乾燥されていたのであろうお弁当箱が、シンクに落ちている。「なんだ、これが落ちた音か。」幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉も、この状況だと馬鹿にできない。そもそも、幽霊がいることが前提でことが進んでいるんだ。過剰反応したってしょうがないだろう、と心の中で何かに向かって言い訳をした。「ええ、本当にここだと思うんだけど。」明人は、自分の足首に結んである赤い糸を不思議そうに見つめながら、あるデスクの上まで飛んで行った。「ほら、ここ。ここから伸びてるでしょ?」赤い糸は、デスクの足元につながっている。確かに、この職員室、このデスクに違いはなかった。

「どうしよう。いったん祠まで戻って、ちゃんとお参りできてるか確認しようかな。」明人は眉を下げながら、来た道を逆走する。今まで本当に順調に進んでいたから、ここで躓くなんて思っていなかったらしい。俺は、むしろ、こんなに順調だなんて怖いと思っていたからよかったのだけれども。祠まで戻っても、桜の花は咲き誇っていたし、花弁はちらちらと舞っていて、昨日一昨日の様子と何一つ変わらなかった。「どうしようどうしよう。」明人がうろうろと飛び回る。「とりあえず、職員室戻ろうぜ。」戻ったところでどうなるか、てんで目星はついていないが、とりあえずその場にいたほうが何かしら手掛かりがつかめる気がした。

「一回、落ち着け。絶対大丈夫だから。」何が悲しくて、俺が明人の成仏を絶対大丈夫だからだなんて励まさないといけないんだ。心の中で自問自答しながらも、あまりにも落ち着きのない様子の明人を見ていると少し可哀想に思えてきて、思わず元気づけてしまう。「いったん、うわさを確認しよう。」俺はそう言って、明人をしゃれこうべ先生の席に座らせた。俺は、明人の隣の席に腰を掛けた。

「しゃれこうべ先生は、骸骨がスーツを着て仕事をしてるって噂。」俺がそういうと、明人は頷く。「僕の見たノートでは、一番目撃数が多いって書いてあった、だから、まさか出会えないなんてことはないと思ってたんだけど。」「俺もそれは聞いた。夜中の職員室って条件も一緒だし。」明人はう~ん、と唸って考え込む。今までの経験上、明人は黙って考え込むより、誰かと話しながらのほうが頭が働きやすい。俺は構わず話し続ける。「あとは、しゃれこうべ先生は優しい怪異。危害を与えられることはないけど、こちらから干渉することもできない。」明人は、「そう。前、クラスメイトが見たって言ってたけど、ただいるだけで何もしてこなかったって言ってた。」と返事をする。「しゃれこうべ先生の正体は何もわかってないっぽいけど、今それを突き止めたところで先生に出会えるとは思えないし、そもそも正体なんて知りっこない生徒たちが何人も出会ってるんだから、それは関係ないよな。」う~ん、俺も黙り込んでしまう。何がいけないんだ?何か条件があったりするのか。二人で顔を突き合わせて黙りこくっていても何も進まないのに、もう手掛かりが見つけられない気がして、言葉が出てこない。明人も暗い顔をして考え込んでいた。「残業が多い先生はほぼ遭遇している。」「特に疲れているとき」「生徒のほうが出会いやすい」「生徒の場合は疲れ関係なく。」「大体夜の九時以降。」「今の条件と同じ。」明人が見たノートというのはおそらく、オカ研会長のノートだ。机の中に入れっぱなしにしているのを拝借したのだろう。明人もこの学校の生徒だったわけだから、会長が熱心に七不思議についても調査していることは知っている。俺の情報の出どころは、三か月前に佐々山がしてくれた、オカ研のプレゼン。これももともとの情報ソースは会長のノートであるわけだから、俺らの情報は何一つ矛盾することなく一緒だった。少しの広がりもないのは少し残念だが。「明人、何か気づかない?」俺は明人に問いかける。俺よりもずっと勘がいい明人。最後には明人の勘にかけるのが、二人で山道で迷った時も、子供のころお母さんに怒られそうになって言い訳を考えたときも、正解だった。「う~ん、どちらかというと生徒の方が目撃情報が多いっていうのが気になってる。」「と、いうと?」叩けば出てくる彼のアイデア。「職員室は当然だけど先生のほうが出入りしているわけじゃん?先生の詰め所だから。だから、普通に考えたら先生からの目撃情報のほうが多くなるはずだと思うんだよ。」確かに、と納得しそうになって、いや待てよと突っ込む。「先生方は大人だから、お化けを見たなんて恥ずかしくて言わないだけなんじゃね?」「それは思ったよ?もちろんその可能性はある。」明人の話し方は次第に芯を持っていった。「でも、お化けを見たなんて授業前の雑談には最適な話題じゃん、みんなその噂を知ってるわけだし。それに、いくら大人だといえども、夜中の職員室で仕事している骸骨に出会ったら言いたくなるよ。でも、学校外の人に言ったら、変な顔をされる。頭がおかしくなったんじゃないかと思われる。よって、しゃれこうべ先生を見たら先生でも百パーセント学校内の誰か、先生か生徒かに言う、と仮定してよい。」「なるほど。」確かに明人の言うとおりだと思った。「事実先生方は、一定数しゃれこうべ先生の話を授業でしてるみたいだし、オカ研会長は、先生方にもかなり踏み込んで怪異のことを聞き取り調査しているみたいだから、この数は確かだといえると思う。」明人の話し方で、彼がいつものペースを取り戻し始めたのを感じる。「それで、そこから導き出される結論は?!」「先生より生徒のほうが、夜の職員室に行く回数が少ないのに、しゃれこうべ先生に出会う頻度、確率は高い!ここに何か手掛かりがある!」明人はそう言い切って、どや顔をする。しかし、すぐにその上がっていた眉はハの字に戻る。「で・・・・・・・?それが何を意味するかは分からない・・・・・・・」俺もガクッと肩を落とした。「確かにそれはかなり矛盾があるし、手掛かりはありそう。俺もそう思う。ちょっと考えよう。」状況はまた五分前に戻る。う~ん、う~ん、と考え込む唸り声が、夜の職員室に響く。明人は考えるときに歩き回る癖があったが、死んで幽霊になってからというもの、それは飛び回る癖になっていた。

考え込んでもう、十分の時間が経つ。「なにか思いついた?」明人が聞いてくる。「さっぱり、明人は?」「僕も。」何を考えればいいのかわからなかったさっきまでと比べると、よくなっているとはいえ、まだ何一つわからないのと変わらない。明人は、何を思ったのか「ちょっと、ショートコント、職員室。やってみるか」と言い始めた。「ショートコント?」「うん、ちょっと実際に職員室に入るときの真似しよう。」明人の発想はいつも突拍子もない。はあ、小さくため息をつくが、ただ考え込むだけ考え込んで何もせずこの職員室の机に座っていることがそれよりも得策だとは思えないので、いいよ、と返事をし、二人で廊下に出た。

「じゃあ、とりあえず、夜、仕事がたくさん残っている先生って設定でやってみよう。」明人は言う。俺にやらせるからか無茶苦茶で、どこか楽しそうだ。本当にこれ、なんかの手掛かりになるんだよな、からかわれてるだけじゃないよな、とイラつきながら、努めてファニーにショートコントを始めた。「あー仕事疲れたな~」独り言を言いながら、廊下を歩き職員室に入る。明人は楽しそうにそんな俺の頭上を飛んでいる。何も起こらない。ただ静かで暗いいつも通りの職員室がそこにあるだけだ。「もうちょっと心を込めて、感情を吹き込んで」「絶対関係ないって。」明人の無茶ぶりにため息をついて、職員室から出る。廊下を逆走して、少し離れたところからまた歩き始めた。「ああ、仕事疲れたなあ……」感情を込めながら、肩をぐるぐると回して、職員室に入る。何も起こらない。冷え冷えとした夜の職員室が、俺のことをあざ笑っている。「何も起こらないねえ」明人は、どこか満足げに言う。「なんだよ。」「いや?名コント」はあ、完全に面白がっている。「もう時間無くなるって。」少し苛立たしげな声で明人に訴えると、「ごめんごめん、じゃあ次は委員会で最後に鍵を戻しに来た生徒っていう設定でやってみよう。」と監督の指示。「まだ続けるのかよ」「いやいや、生徒のほうが遭遇率が高いんだから、こっちが本題でしょ」「じゃあこっち先にやればよかったんじゃないか?」「そしたら先生バージョンが見れないじゃん」「やっぱり面白がってるじゃねえか!」明人が生きているときならここでおふざけの取っ組み合いをしたものだが、明人の胸倉をつかもうとした手は、スカッと空気を切った。それでなんだか興ざめしてしまって、「わかった、やればいいんだろ?」と廊下に出て行った。

「ああ、委員会疲れたなあ~」鍵を持っているふりをしながら廊下を歩く。この学校のカギは、ホテルキーのように四角いキーホルダーが付いていて、きっと委員会が長引くに長引いた生徒はそこを持って、鍵をぶんぶん振り回しているに違いない。「いいよ、そんな感じそんな感じ」明人が情報から茶々を入れてくる。職員室の前に立って、ふと考える。自分が委員会が長引いた生徒だとしたら、先生は一人くらい校舎に残っていると考える。実際、職員室にはいなくとも、学校の中に生徒だけということはあり得ないのだから。自分が委員会が長引いた生徒だとしたら、ノックして職員室に入る。もう、一時間近くこの部屋の中で考え続けているからもはやホームのような安心感があるが、どちらかというと職員室は俺らにとって敵陣だ。こんこん、と小さくノックをして、職員室の扉を開けると、先ほどまで明人が座って考え込んでいた席に大きな頭をした骸骨、しゃれこうべ先生が座っていた。

明人が驚いて俺の頭上に落ちてくる。条件反射的に扉を閉めて、二人で高鳴りに高鳴った心臓を抑えた。「びっっくりしたあ……」「こええ……」廊下にしゃがみ込んではあ、はあ、と息を整える。本当にびっくりした。しゃれこうべ先生を見つけたいと試行錯誤していたとはいえ、本当に扉を開いたらそこにいるとは思わなかったから。「もう一回開けてみよう。」明人が震える声で言ってくる。ふうっと息をついて、覚悟を固めた後、もう一度俺は扉を開けた。

先ほどまでいた、立派な頭蓋骨をもった骸骨はそこにはいなかった。「あれ?……さっきみたいにやってみて?」明人の指示で、もう一度、ホテルのキーを振り回すところから始める。ノックをして、扉を開ける。職員室の真ん中のデスクには、真っ白でその成果ぼんやりと光っているように見える骸骨がいる。扉を閉める。明人は何かがわかったというような顔をして、こちらを見ている。アイコンタクトが交わされた。二人とも完全に理解した。ノックをすることがしゃれこうべ先生の発生条件だったんだ、と。「だから生徒のほうが多いのか。」「確かに先生はわざわざノックしないもんな」二人でなるほどなるほど、と頷きあう。「先生でも疲れているときに出会いやすいっていうのは?」明人の時に、推測で答える。「多分、疲れて扉におっと、って手をついたとか、いつもはしないノックをしたとか、そういう感じじゃね?」「これ、生徒で真夜中に職員室は言ってもしゃれこうべ先生になんて出会わなかったって言いふらしてるやつ、夜だからって、ノックもしないでいきなり職員室入ったってことか。」「暴きだしてしまったな。人狼ゲームじゃん」やっとしゃれこうべ先生に出会えたことでほっとした俺らは饒舌になる。明人はふよふよとしゃれこうべ先生のほうへ飛んでいき、彼の首に巻いてある赤いネクタイと自分の足首の糸がつながっていることを確認した。

スーツを着た骸骨は一心不乱に仕事を片付けていた。傍らに広げられているファイルには、指導方針とラベルがついていて、机に散らばったプリントは、契約書のようなものもあれば、授業内に配る補習用の問題が並べられているものもあった。「こんなん、してる人見たことないけどな」明人が指さしたのは、「補充問題:解説」と書かれたプリント。プリントの上部には「ファストステップ 単元3」と書かれている。今俺らが使っているものとバージョン違いだった。この問題集は、テスト前の課題として、定期試験前にどっさりと課題を出されるのだが、いかんせん解説が不十分で勉強しにくい。しゃれこうべ先生はその足りていない丁寧な解説を生徒のために作っているようだった。「うん。これ普通に欲しいかも。」簡単な式変形まで丁寧に書かれた途中式、使う公式は問題の最初にまとめられていて、解く上での考え方が青色で書かれている。パッと見ただけ一目で生徒の望む解説であることが分かった。「こんなことまでしてたら、そりゃあ真夜中まで働かないといけなくなるよな。」しゃれこうべ先生は、横で話す俺らをものともせず仕事を片付けている。きっと俺らの声は聞こえていない。死んでもなお、生徒のことだけを考えて仕事をしているのだった。

「これは、なんだろう。」明人が指さしたのは、事務的な書類だった。「不登校生徒について。」右上に描かれた日付は1985年5月24日となっている。「かなり昔の先生だったんだ。」「五十年前か、ざっくり。」だとすればしゃれこうべ先生は誰なのかが知られていないのも何一つ不思議じゃあない。その書類には、不登校生徒の対応についてがまとめられていた。「不登校生徒は何としてでも学校に連れてくることが必要であり、家庭と協力して生徒を学校へ連れてくること。その際には多少の罰も問わない。」書いてあることは無茶苦茶だった。「不登校になる原因が何であれ、精神的、または肉体的辛抱が本人に足りないのであり、その改善には長距離走や補講が効果的。」「不登校になる原因である学校内の問題について、家庭から改善を求められた場合、本人が学校に通うことができるようになってから対応すると伝えること。家庭も子供が学校に再び通えるようになれば何かを求めることはなくなるケースがほとんど。」1980年代は、まだ不登校の生徒が少なかったのだろう。理解が得られていないことは明らかだ。しかしそのプリントはそれだけではなかった。上から渡されたであろうその印刷物に、赤い鉛筆で線が引かれ、書き込みがされているのだ。「これ、しゃれこうべ先生の、だよね。」明人が聞いてくる。「多分……」何としてでも学校に連れてくることが必要、その部分に赤で下線が引かれ、「学校に通うことができなくても、自宅で自ら学習を進められる体制を学校は整えるべき」と書かれている。多少の罰も問わないというところに関しては、赤で横線が引かれ、「体罰はいかなる理由があろうとも禁止!」と書かれている。その文字は吹き出しで強調され、しゃれこうべ先生の意志の強さが感じられた。先生は残念ながら学校に通えなくなる生徒を、サポートすることにもその命を燃やしていたのだ。「いい先生だな……」思わずつぶやくと明人も「この先生なら、今の時代で教鞭をとっても何の問題もなさそうだな。」と同意した。

しゃれこうべ先生を照らしているパソコンは、青い光を放っている。その、パソコンを後ろから覗き込んで、しゃれこうべ先生の今作っている書類の内容をよく見ると、「3年A組生徒 菅原 千春の自死に関する訴訟について(草案)」と書かれている。「五月七日に自死をした、戸海高校三年A組の菅原千春の両親が起こした訴訟について、学校側に真摯に対応することを求める。菅原千春は、二年生の二学期より不登校となった。理由は以下のとおりである。Ⅰ、当時三年A組風紀担当であった加藤圭吾の激しい体罰。Ⅱ、当時三年A組風紀担当であった加藤圭吾による性的な嫌がらせ、性的な発言。Ⅲ、当時三年学年主任であった高橋夏美による脅し(加藤圭吾による数々の嫌がらせを口外した場合にあなたを殺すといった内容の脅し)このような内容が、菅原千春の遺書で判明したにもかかわらず、加藤圭吾、高橋夏美が今も変わらず勤務しているという事実、また、菅原千春の自死について理由を隠しているという事実について改善を求める。加えて、この事件によって、不登校生徒への学校からのバックアップが必要なことがわかる。これについて学校運営側の対応を求める」書きたいことが渋滞しているのだろう。その文章は公的なものとしては少し乱れていたし、感情が先走っているような感も否めなかった、しかし、彼が求めていることはわかった。「読んだ?読んでた?」明人が顔を覗き込んでくる。明人もパソコンの画面を読んでいたようだった。「読んだよ。」「わかったね、きっとしゃれこうべ先生は、この、菅原千春さんの自殺が原因で、これが解決できなかったことが心残りで成仏できないんだ。」俺もそう思う。うん、と頷いて、パソコンに向き直った。しゃれこうべ先生は、幽霊になっても、骸骨になっても、五十年の時を経て時代が令和となっても、変わらず立派で素晴らしい生徒思いの先生であったのだ。

「これをどうにかすれば、しゃれこうべ先生も消えるのかな。」明人は考え込んでいる、今までの怪異はどのようにすれば消えるのかがわかりやすかったし、そうでなくとも見当はついた。しゃれこうべ先生に関しては、今、それが何となく予想をたてられたばかりだ。「そうかも。資料かなんか探してみるか。」明人はちょっと待って、と机の上のプリントを荒らし始める。「なにしてんだ」しゃれこうべ先生が怒り始めたらどうする。仕事の邪魔をしないほうが賢明だ。「あった、田中 享有、しゃれこうべ先生の名前だ。」明人は一枚見つけた公的な書類を取り上げて、名前を読み上げた。確かに、名前さえわかればインターネットや何かでいくらでも調べられる。寝不足の俺よりも、寝る必要のなくなった明人のほうが頭がよく働いているのは確かだった。「今日はもう三時になっちゃったから、帰ろう。明日の昼間に先生について調べて、明日の夜、また何とかしよう。」明人の言葉に、うん、と返事をして、今日のところは二人で学校を後にした。

三時間で、月を覆っていた雲は薄くなっていて、おぼろ月といった感じに月はぼんやりと光っていた。「月に叢雲か」俺が呟くと、「月に叢雲花に風」と明人が付け加えている。「月に叢雲花に風、隣の明人はスケルトン」「確かにそれはもったいない。」「透けてないほうが確実にイケてる。」俺の言葉に楽しそうに笑う明人。「もう自分の顔なんて忘れちゃったよ。」冗談か本気かわからない言葉に、「明人はスケスケになっても男前だから気にしなくていい」と教えてあげた。「僕の人生良いこと続きすぎたから、邪魔が入ったのかな。」明人は少し寂しそうにつぶやく。そうかもしれない。明人は何でもできたし、順風満帆といった様子だった。何かが……神様がそんな人生を恨んで彼の人生を邪魔したのだ。「そう考えると、納得できる?」う~んと考えている俺の顔を覗き込んで、明人は聞いてきた。「い~や?別に死ななくていいと思うけどな。」納得できるわけない。もし本人が納得して天に召されようが成仏しようが俺はいつまででも明人が生きていた人生を夢見続けるつもりだ。

「そういえばさあ、気づいてた?」明人が話しかけてくる。何をか言ってくれないと気づくも何もわからないだろう。と思うが、そう思っている時点で俺は気づいていないのだろう。「気づいてない。」そう、答えると、明人はその半透明の指を軽く立てて、「あの部屋、しゃれこうべ先生が出現したとき、しゃれこうべ先生のデスク以外も全部、1985年のあの時に戻ってたみたいだよ。」明人の言葉に驚く。それは気づいていなかった。「凪は、しゃれこうべ先生のあの書類を見て、年代を特定したみたいだから気づいてないだろうなって思った。」明人の言葉に、自分がどれだけあのデスクに目を張り付かせていたのかを思い出す。あのデスクにはしゃれこうべ先生……田中先生の人となりを表しているようだった。あの素敵な先生、生徒思いの先生に心惹かれて、彼のしていること、考えていることを全て知りたいと思って、他によそ見なんてできなかったのだ。「凪がじっと書類読んでる間、結構きょろきょろしてみたんだけど、連絡用のホワイトボードはまだ黒板だったし、なんなら床も今とは違かったし、置かれてる新聞もその当時のものだったよ。結構何もかも違かった。」「え、ごめん。全然見てなかった。」明人は慌てて頭と手を振って、俺の謝罪を否定する。「いやいや、凪があの内容をじっくり読んでくれてなかったら、しゃれこうべ先生の未練はわからなかったし、僕一人だったら、多分書類一枚一枚に目を通さなかったと思うから、いいんだよ。ありがとう。」自分のことを話すときや、自分の興味を話すときには絶対に出ない彼の早口に噴き出す。こういうところ、何も変わらない。こういうところが好きだった。「でも、気づいてたなら言ってくれよ。」俺の言葉に明人は先ほどまでの優しさはどこへやら、「でも、最後に凪が時間を確認した時計も今使ってるやつと違う少し古臭いものだったし、流石に気付いたと思ったんだけどな~」とからかってくる。「悪かったな視界が狭くて」俺の拗ねた言葉に楽しそうに笑う明人。「最後に気づいたら面白いかなって思ったんだよ。気づいたら「ずっとこれだったけど、もしかして今まで気づいてなかった?」って言うつもりだったけど」「それも煽りじゃねえか」どうどう、と馬を落ち着かせるように言いながら、ぴょぴょ~いと上に飛んで行って逃げる明人。「明日もどうせしゃれこうべ先生には会うんだし、明日は職員室まるごと逆行するのも使っていろいろその当時の様子を調べたいなって思ってるから、その時のお楽しみに、ね?」確かにそれはナイスアイデアだ。わかったよ、なんて返事をして、二人で並んで帰った。

その日も三時半ごろにベッドに体を放り出し、明人と泥のように眠り、そして朝起きぬけた。いつも通りにきちんと学校に行き、流石に三時間睡眠は応えるので授業中うつらうつらし、そんな俺を叱る人もいないどころか心配をされた。そして母の作ってくれたお弁当を食べ、ぼんやりと授業を受けて、そして気づいたら家に帰ってきていた。最近は塾から部活まで、学校に行く以外の義務をすべてキャンセルしているから、今日の活動はここで終わりとなる。ここ数日、明人に再開してから、毎日がすこしぼんやりとしてきている。今までの生活と、今の生活がちょうど鏡写しになっているような。夜の学校での体験こそが現世で、昼の日常は夢の中のような。夕方から、日が沈み、だんだんと世界が藍色に染まってくるころ、俺はようやく世界の輪郭を発見する。少しシャープになった空気を吸うと、だんだんと寝ぼけた頭が夢から覚めるようにはっきりしてくるのだ。昼夜逆転なんかじゃない、強烈な違和感が俺を支配して、夜の学校から離れないように食い止めているようだ。夜の学校の墓場に骨をうずめているあの何百人もの人たちは、きっと、夜にとらわれて朝の眩しさに目がくらんでしまった人たちなんだろうと思う。そして、俺もこのままだとそうなってしまうのかもしれないとさえ思う。

今日は月明かりがない。昨日のように雲がかかっているわけではなく、新月なのだ。その分星が妙に明るく見えて、少し嬉しい気持ちになった。ここ最近、忙しさに空を見上げるなんてことを忘れていたが、星の名前がわからなくても、ただひときわ明るい星を見つけてそれを指さしたり、小さく光る星々の一つ一つが宇宙のどこかで燃え盛っていることを想像するのは楽しい。「僕、星って怖かったんだ。」あれ、多分一等星だよ!なんて先ほどまで星の光を反射させてキラキラと輝いた眼をしていた明人が言った。「いつのはなし?」「う~ん、小学生とか、それよりももっと前かもしれないけど。とにかく、星が何光年も何百光年も離れたところにいて、そのずっと昔に発された光が僕の目に届いているってことを知った時、すごく怖かった。」明人の横顔をちらりと見たが、小さな星々がその向こうに透けていることが確認できただけで、彼の表情からは何も読み取ることができない。「気が遠くなるじゃん。大きい数字って。」明人は繊細なところがある。俺も大概だと思われているだろうが、俺はどちらかというと神経質だ。「ずっとずっと光は宇宙を走り続けて、それからここにたどり着いて……ってこと?でしょ?ちょっと光が粒子だとか波だとか物理のことあんまりよくわからないけど。」今日は饒舌な明人。楽しく話しているときは、いつも終着点が見つかっているときだ。「しゃれこうべ先生も、このままだといつまでもいつまでも仕事をし続けるのかもしれない。僕だっていつまでもいつまでも学校にとらわれ続けるのは嫌だ。僕の目的のために先生のこと消そうと思ってたけど、巡り巡って誰のためとかないのかなとか思ったり思わなかったり?」明人は最後になって少し照れたようだ。小さく語尾が上がって、照れ隠しに上へ上へと昇っていく。ふと小学生の時、家族で行ったテーマパークで買ってもらった風船のひもを手放してしまった時を思い出した。すうっと空に昇っていって、すこし風で流れて、どこに行ったのかわからなくなっていってしまった。そんな俺の様子をよほどショックを受けているのかと勘違いした両親が、もう一つ新しいものを買ってくれたのだった。小さくなって、空に溶けそうなほど見えなくなった明人が「こんなこと手伝わせてごめんね、ありがとう」とお礼を言ってくる。明人の声はいつもの会話のそれと変わらない大きさだったと思うが、周りが静かで、俺は明人をじっと見つめていたからか、離れていてもよく聞き取れた。俺の方は少し声を張り上げて返事をする。「本当だよ、ばーか」「優しいよ凪は。」落下するように俺の隣に降りてきた明人は、「僕だって、幽霊の期間が一か月とか三か月とか決まってたらまあ頑張るんだけどな」なんて抜かす。「じゃあ、一か月後にしゃれこうべ先生消して、百合子さんも消して、願いの大鏡に、これで成仏させてくださいとか何とか言えばいいじゃん。」「駄目だよ。」「なんでだよ、いいじゃんそれで。」「そうはいかないよ、向こうは怪異だもん。」「そしたら、あと一か月一緒にいられるのにさ。」「そうだね。」明人の目は少し寂しそうにも見えたし、清々しくも見えた。

こんこん、ノックの音が廊下に響く。扉を開けるとしゃれこうべ先生が今日も一心不乱に仕事をしている。今まで通り裏門から校舎へ入り、祠にお参りも済ませた俺たちは、職員室の扉を開けた。床を見ると少し昔の樹脂張りの床になっていて、電気も蛍光灯、時計も今職員室で使用されているものより少し針の音が大きいもの、掲示物もすべて当時のものだったし、明人の言っていたことは確かに本当だったようだ。「マジで気づかなかったな。」悔しい。こんなにも何から何まで違うのにもかかわらず、そのうちの一つにも目がいかなかったのは、ただ自分の視野の狭さを恨むしかない。「でしょ、昔仕様……というか昔だよね?」「悔しいが、明人の視野の広さには負けた。」「いやあ、まあ、気づかないもんだね、うん。」明人の下手なフォローに苦笑いして、一度部屋を出た。廊下も昔のものになっていて、校舎も改修前の旧校舎のいでたちだ。明人も職員室から出てきたのを確認し、扉を閉めると、一瞬目がかすんだように世界が揺らいで、現代の、俺らが通っている校舎へとまた逆戻りした。「ノックして扉を開けると、昔になって、閉めると戻るっていう仕組みか。」「なんか花子さんみたいだね」「坊さん花子さんコスプレしに京都へ?」「トイレの花子さんね。」「トイレの花子さんってこんな感じだったっけ?」「もちろんちょっと違うけど、発動条件というか、現れるのにこちら側の一定の行動条件があるところはかなり花子さんじゃない?」「確かにな。」しゃれこうべ先生は出現と同時に学校全体を作り替える。とすると、彼は花子さんよりも強い霊なのかもしれないと考えた。

「じゃあ、とりあえず、夕方話した事故現場に向かおうか。」学校が終わり、俺らは部屋で菅原千春の自殺について、調べていた。古い校舎は、まだ西の一部が木造で、三年A組の前の廊下は、少しきしんだ音がした。

彼女の死は、センセーショナルなものだったらしい。セクハラ、パワハラという言葉がないその当時に、先生からの性的な暴力、言葉の暴力に耐えかね死ぬことを選んだ彼女は、世間に一石を投じたようだった。彼女の遺言は、ニュースでも取り上げられ、遺言の最後の言葉「私は私の意志を持って死を選びます。」という一行は、不謹慎にもミームのように広がり、一世を風靡した。しかし、彼女の死だけが、この遺言を世間に広めたのではない。彼女に寄り添い、加害者の先生と全面的に争っていた、田中先生……しゃれこうべ先生、が、生徒の死でさえも、もみ消そうとする学校、生徒の死があろうとも改善策を講じようとせず、加害者の先生を雇い続ける学校、そして、それに抗議する自分や被害者家族などを言葉で弾圧する学校のおかしさを世間に訴えるという形で、首つり自殺をしたのだ。この一連の事件によって、この学校は一時廃校寸前にまで追い込まれたらしい。しゃれこうべ先生の自殺がニュースで取り上げられ、「私は私の意志を持って死を選びます。」という言葉と、それと対照的な田中先生の遺言、「私は彼女の意志を持って死を選びます。」という言葉。その一連の流れが、この事件を広く世間に知らしめたらしかった。

三年A組に入ると、なんだか不思議な気分になる。昔の校舎といっても、同じ目的で使われている同じ場所にある同じ造りの教室が今のものとかけ離れているわけもなく、試しに、と自分の席の場所に座ってみた。「やっぱり、今と全然変わらないね」明人も同じ感想を抱いている。違うのは、窓際に黄色のテープが張られていること、KEEPOUTのテープが張られたコーンが立っていること、そして花束がたくさん置かれた机が一脚あることくらいだ。「菅原千春の席は探す必要なかったね。」花束で埋もれているこの席こそが、彼女の席だ。「確かに、しゃれこうべ先生の中では、彼女の死の原因となった先生方と戦っている当時のままだろうから、矛盾はないか。」「今も、三年A組の窓だけ格子がはめられててそれがこれのせいだとかなんとか言われてるけど、まさか、事故当時の様子が見られるなんてな。」ツンとしたユリの濃い香りが、夜の教室に充満していて、なんだか奇妙な感じがした。「なるほど、そうか、確かに、なんで今まで気づかなかったんだろう。」明人がブツブツと呟いていることに気づく。何がだ。「凪、格子窓がはめられてるのは昔の事故が原因って、何で知った?」「そりゃあ、佐々山の。」「佐々山君の発表だよね。でもそれってしゃれこうべ先生の内容じゃなくない?」あっ、小さな声が出る、すべてがぱちぱちとつながっていく気がする。確かに、俺らは昨日までしゃれこうべ先生の正体さえも知らなかった。しゃれこうべ先生が三年A組の担任であるから、ここに来たのであって、事故現場であることは、今日の調査で分かったことだけど、格子窓のことまでは知りえない。俺がこれを知ったのは、百合子さんの話を聞いていた時だった。「そういうことか。」俺のつぶやきに明人が頷く。「この百合の花をぼーっと見ててさ、ふと気づいたんだ。百合子さんって、生前の名前じゃないらしいし、じゃあ、なんなんだろうって思った時に、彼女の机に手向けられたたくさんの花は百合だったのかもしれないみたいな。」「こんなに百合ばっかりってことは、生きてた頃からこの花が好きだったんだろうな。」「そうだね、きっとみんなに愛されてた。」俺たちはどちらからともなく、その机に手を合わせた。

「しゃれこうべ先生に千春ちゃんを合わせてあげるか。」明人はおもむろに思いついたように言った。「どういうこと。」そんなこと、しようと思ってできるのか。大体、百合子さんがこのクラスに現れるという話だって、俺自身気づいたことも感じたこともないのに。明人は、「まあ、大丈夫。凪はいつも通りに過ごしてくれればいいだけだから。」と話を濁した。

「それさえ分かれば今日はもう何もすることないな、いったん職員室に戻って、それから家に帰ろう。」今日は明人に手綱を握られてばっかりだ。はーいと返事をして、階段を下る。職員室に戻ると、明人はしゃれこうべ先生のほうへ、飛んで行って、「明日、解放してあげるからね」なんて声をかけていた。明人が出てきて、職員室の扉を閉めて、そして、もう一度開けるともうしゃれこうべ先生はいない、いつも通りの職員室が広がっていた。「ちょっと確認したいから、もう一回三A行ってもいい?」明人が聞いてくる。時計を見てもまだ一時にもなっていない。「全然いいけど。」二人でまた階段を上って、俺の教室に入る。いつも通りの教室。真っ暗だけど、やっぱり居心地がよくて、ふうっと息をつきながら自分の席に座った。黒板の日直欄に俺の名前があるのを見て、明日日直だったことを思い出す。今、教室に戻ってきていなかったら普通に忘れていたかもしれない。明人は、窓の辺りを見て、百合子さんの机の上の一輪の百合を見て、そして「じゃあ、帰ろう」と言ってきた。