揺らぐ月に君は凪ぐ

「眠すぎる。死ぬ。」「凪も死んで僕たちで六番目と八番目の怪異になろう!」「最悪のなろう系」墓地が消えたところで、墓地にかかっていた霧が晴れ、校舎の時計が見えた。時計は三時を指していて、その時点で家にいったん帰ってきたのだ。「三時?!」「ええ?!」「こんな不思議なことばっか起きてなんで時の進み方はそのままなんだよ!」「普通こういう不思議な空間に入り込んだら、現実世界での時の流れは止まるでしょ!」「睡眠時間三時間は無理だって!」二人で悪態をつきながら家まで飛んで帰る。四時になると、新聞配達の人が働き始めてそんな時間にほぼパジャマみたいな格好でうろつくのはさすがにまずい。そーっと家に入ると、まだお父さんもお母さんもぐっすり寝ていて何とか大丈夫そうだった。二人でベッドにもぐりこみ、すぐに眠りに落ちる。明日は一時間目から実験だ。大丈夫か、俺。すうっと沈んでいく意識の中で、明人の泣き顔が見えた気がして少し心臓が跳ねた。

「凪~~~!今日も元気に七不思議討伐でしょ~!」「凪~~~~!今日も朝から晩まで働き詰めでしょ~!」「凪~~~~~!」朝の光にチャージされて元気いっぱいになった明人は、今日も容赦なく俺をたたき起こしてきた。数日前の土日、久しぶりに11時頃まで寝たときには、「ああ、こうやって休日にぐっすり昼間まで寝られるのも、明人がいないからなんだ」と少ししんみりしたのに、この様だ。むしろ、彼が生きていた時は、平日にたたき起こされることはなかったので、状況は俺にとって逆風かもしれなかった。休日朝の6時にこんな感じでたたき起こされたときは、うるせえ!休日くらい昼まで寝かせろ!と枕を振りかぶったものだ。四時間睡眠の俺にそんな元気もなく、そもそも枕を振りかぶったところで、幽霊の彼にそれが制裁として加えられるわけもなく、すごすごとうなだれながら体を起こした。「お前、まだ死んでから一週間経ってないのに、もう睡眠の大切さ忘れたのか」目をこすりながら悪態をついてみる。頭が痛くてかなわない。「僕もともと早起き得意なタイプだもん」煽るように語尾に音符をつけて明人は楽しそうにふわふわと飛び回った。「それはお前が小学生みたいな時間に寝るからだバカ。一回、三時睡眠してみろ、11時に起きるぞ」「もうできませ~ん」明人は心底楽しそうにけらけらと笑っている。昨日寝る前に見た彼の涙は、きっと見間違いか、あくびの後に滲んだものだったのだろうと結論付けた。

学校ではいつも通りをふるまっていたつもりだったが、横田さんにはバレてしまった。「今日は輪にかけて動きと頭の働きが鈍いけど。」とストレートに言われ俺は苦笑してしまう。「ちょっと睡眠不足で。」横田さんは、「あら」というように小さく口を開いて、「学校にも無理してこなくていいのよ」と囁いた。真面目な彼女にとっては犯罪教唆のようなものなのだろう。「誰も知らないと思うけど、実は学校って休んでいいの」といった調子だ。彼女の真面目腐った顔に少し救われ、少しおかしくなって、「ありがとう」と返す。「あと、睡眠外来っていうのも最近あるようだから、もし続くようだったら診察を受けるといいと思う」なるほど。「ありがとう、でも、明人がいなくなったことが悲しくて不眠になっているわけじゃないから大丈夫かな。」彼女は俺の精神状態を非常に心配してくれているらしい。睡眠不足の原因は実はそうではないんだ。くだんのかの明人様に明け方まで引きずり回されていたから睡眠不足なんだといったところで、誰も信じてはくれないと思うけれど。

結局俺は、四時間目の授業を受けたところで、正確には四時間目の古文の授業中に完全にノックアウトされて、昼で学校を早退した。睡眠不足による頭痛と眩暈、と早退届に書くと、付き添いの佐々山も、保健室の先生も腫れ物に触るような顔をして「昼でも夜でも寝られるときに寝るのが一番だから」とか「午後の授業のノートはちゃんと送ってやるから、とりあえず寝ろよ」とか優しい言葉をかけてくれた。自分が「幼馴染を失って、ナイーブになっている傷つきやすい少年」として扱われていることは、非常に遺憾であり、モノ申したい気持ちは誰かの一言一言でどんどん膨らんでいったが、本当のところを申し上げられるわけもなく、ただ少しむず痒い気持ちを抱えて、とぼとぼ家に帰った。

自分の部屋に入ると、明人はいなかった。学校で七不思議のことを調べているのか、それとも誰もいない時間帯に自分の家に帰って、思い出の品を見ているのかわからないが、とりあえずは、随分久しぶりのプライベートが得られたような気持ちがしてうれしかった。

一時ごろから、ぐっすり眠って四時ごろに目が覚めた。夢も見ずにただただ深い眠りに落ちていたようだった。明人はベッドの横でぼーっと天井を見上げていて、俺が起きたことに気が付くと「早退したの?」と話しかけてきた。「さすがに睡眠不足過ぎる。」「ごめん」「働き方改革が必要だと思う」「うん」明人はしおらしい様子で、俺があおむけに寝転がりながらでも話せるように、頭の上に浮かんでいた。「今日は……やめとく?」「今日は行く。三時までやったっていい。今日はお昼寝ができたから。」「ありがとう」なんだって、そんなに急いでいるんだ。いずれか七不思議すべての呪縛から解き放たれればいいんでしょう?ゆっくり解呪していけば、失敗することも危険な目に遭うこともない、俺は明人とより長く一緒にいられる。誰も損しないはずだ。そんなにも死に急ぐことないじゃないか。「まだ寝る。俺の靴があることに気が付いたお母さんが、部屋に入ってくるかもしれないから気を付けて」「わかってる」「おやすみ」「おやすみ」

夢をみた。嫌な夢だった。明人は彼に絡みついた赤いそれを、確かに糸だと言っていた。夢の中ではそれは血だった。確かに液体で、確かに赤黒く、いやな光を反射していた。夢の中で明人は、その血を滴らせながら立っていた。それだけの夢だったけれど、妙にリアルで妙に迫ってくるものがあった。自分が自分として明人を見ているのか、それとも夢特有の第三者視点で明人を眺めているのかさえも、はっきりとはしなかったけれど、明人の表情はよく見えた。夢では必要な情報だけがクローズアップされて知覚できることがよくある。現実でもそうだけれど。遠くに見える人影、から、ゆっくりとクローズアップしていって、だんだんとそれが明人であることがわかる。ずうっと一緒にいたんだ、ほかの人なら見分けられないくらいの距離でも彼だけは、体のアウトラインで見分けることができる。そして、明人に絡みついたものが見える。明人の血が見える。どろどろと脈打ちながら、明人に絡みつく血、滴り落ちながら明人を離さない血。ゆっくりゆっくりとしたクローズアップは、彼の表情がわかるほど近づいても止まることがなく、どんどん彼へ近づいていく。逃げたいと思っても、目を逸らそうと思っても、彼の目の引力に引き寄せられて逃げることはできない。怖い、初めてそれに恐怖を抱いた自分に気づく。夢の中の彼は、祠に寄り添うように生えている桜を見つめたときや、校庭に浮かんだ墓場へ足を踏み入れた時に感じた寒気を、覚えさせるものだった。視界いっぱいに彼の目が広がって、その時初めて彼を見つめる自分に気づく。目の中に映る自分自身と目が合う。自分もまた、彼と同じ、血を滴らせて、こちらを見つめていた。

はっ。はっ、はっ、はっ。そこで急に現実へと引き戻される。変な夢を見た。嫌な夢を見た。夢が単なる思考の整理なんだったら、もっと「明人に再会できてうれしい!」とか「明人が生き返った?!」とかそういうファニーな内容にしてくれないと困る。それはそれで寝起きの鬱感は酷そうだけれども。「おはよ~」明人が何気なく窓から入ってきたことに背中を震わせて驚いてしまう。赤い糸を纏っていない彼、何も変わっていないように見えるが、今も彼自身は絡みついてくる糸に不都合を感じているのだろう。「おはよう」平然を装って挨拶をする。ほとんど本能的に自分の手足を確認して、本当にあれが夢だったのか。本当に現実の自分には赤い糸が絡みついていないのかを確かめた。大丈夫、何も変わりはない。「どうしたの、汗びしょびしょ。怖い夢でも見た?」明人がぼーっと自分の手を見つめてしまっていた俺の目をのぞき込むように、話しかけてきた。「まあ、見た。変な夢」「なに?どんな夢?」別に言ってしまってもいいのだが、なんとなく口に出すと不吉な気がして黙ってしまう。「あのね、夢って口に出すと正夢にならないんだよ」「逆に?」「逆に。」その言説は本当に言われているものなのかどうなのか不明だが、明人の目が好奇心でいっぱいになってこちらを見つめていることは確かだ。こうなったら彼は知りたいことを知るまで引き下がらない。「明人に絡みついてる糸が、血だった、みたいな夢」自分にも血が絡みついていたことは、やっぱり口に出したら何か嫌な気がして言わなかった。「これ?」明人は自分の首元を引っ張りながら、聞いてくる。「まあ、今は見えないけどな?それ。」一昨日の時点ではそれが何を指すのかさえ分からなかったが、赤黒い彼の首輪を見た今ではわかる。「ふうん、まあ、糸だけどな」明人の言葉に「まあそうだよな」と相槌を打って、ほっと一息をついた。「凪は、僕が死んでも僕の夢を見続ける?」明人は急に真面目な顔になって、俺の前に胡坐をかく。「まあ、事実今日見たし。」「違う、僕が二回目、ちゃんと死んでも。」「え~……」二回死ぬという表現は「百回死んだ猫」みたいで滑稽だが、言いえて妙だと思う。今の彼を死んでいると定義するのは、なんというか、確かにそうなのだけれども、すこし直観に反するところがある、と俺も明人も感じているから。「見るのかな」「見ないの?」夢は思考の整理。今日会ったことや最近あったことが、脳の中で反芻される過程で意識下に浮かんでくるもの。そうなると、彼がきちんと死んでから、彼の夢をまざまざと見ることはあるのだろうか、例えば今日の夢みたいな。「見ないかも」日常を覆っていた彼の光が静かに消えて、彼のいない人生を歩み続ける自分は想像できないが、確かにそれはこれから続く時間軸に存在する。らしい。「見ない?」「見ない……多分」「見てよ」明人は今まで見たことのないような顔で言う。彼が死んで後に、彼の初めて見る表情を知るとは思ってもいなかった。「じゃあ見ようかな」「約束」夢なんて、見ようとして見たい夢が見れたら万々歳だ。そう都合よく自分の力で左右できるものではない。なのに、彼の気迫に押されるようにして自分は約束をしてしまった。「幽霊と約束をするとどうたらこうたらみたいなの無いよな?」彼の差し出してくる小指に自分の小指を絡ませながら、正確には空中に小指を軽く曲げて差し出しながら聞く。「し~らない。嘘ついたらハリセンボンのーます……嘘ついたら凪の夢に化けて出~るぞ!指切った!」明人は先ほどの表情の正反対に立って、楽しそうに言う。「どっちにしろ明人の夢見なきゃいけないわけ?」「そうだよ!」明人が化けて出てくる夢ならきっと楽しい夢だろう。楽しくて楽しくて夢から覚めたくなくなる夢に違いない。なら、そっちがいいな。明人が化けて出るほうが。ぼんやりとそう思う。きっと自分で見る明人の夢は、すべて悪夢になってしまうに違いないから。「ちなみに、ハリセンボンじゃないぜ、針!千本!」「ハリセンボンじゃないの?」「勘違いしてると思った。」

夜の十二時。家は寝静まり、聞こえるのはパン焼き機が動いている音だけ。足音を殺して家から出ようとすると、ウヌがにゃあんと話しかけてきた。しーっ、と指を一本立ててウヌに合図する。ウヌは明人がいるときには俺の部屋に入ってこない。自分にも明人自身も気づいていないが、おどろおどろしいものが彼から出ているのだろうか。明人は今、電信柱の上で待機している。だから話しかけてきたのだろう。ウヌの顔を見たのは久しぶりな感じがした。「行ってくるから。心配しないで」こんな時間に何してるんだ、というニュアンスをウヌの鳴き声から察した俺は、そう伝えて家を出た。

「木曜日は、偶数時の三十分から四十分の間の十分間が裏門脇の休憩時間。」明人の調査に従って、本日も恐る恐る入り込む。センサーは作動することなく、ホッと一息をついた。「凪?」「ん~?」「糸見える?」振り返ってもただの明人が立っているだけだ。「見えない。生きてるときみたいな明人」「透けてるけどね」「あれ、見えたほうがいいの?嫌なんだけど。」昨日は、びっくりしたものの、平気ではあったが、今となってはもうあまり見たくない。夢を思い出すのが嫌だ。「見えたほうがいい。あの糸は俺と七不思議を繋いでいるから、見えていたほうがいろいろと便利。」「わかったよ」彼は、祠のほうへふわふわと漂っていき、「はい、お参りお参り」と促してくる。「昨日、祠にお参りしたはずなのに、祠とつながってる糸が消えなかったのが不思議だったんだけど、もしかしたらそういうことなのかもって思って」「なるほど?」確かに、そういえば、彼とお参りした後、彼の糸が祠の真っ赤なご神体とつながっているのを確認したっけ。「うん、全部倒しきるまで毎回お参りしないといけないのかもって思ってね」彼は俺の生返事に補足説明を加えてくれた。祠に手を合わせて、小さく呟く。「今日も七不思議に逢いに来ました。」昨日と同じようにお狐さんの遠吠えが夜の闇に響くのと同時に、夜の学校はこの世あらざる者に変わり、明人は赤い糸にとらわれた姿へと変わった。

「今日はどうするわけ?」満開の桜に興味津々なご様子の明人に問いかける。ふわふわと浮かんで花をじっくりと観察している。「これなんかすごいよ」こちらの話が聞こえていなかったのか、少し興奮した様子で言ってくる明人に、そういえばこいつは理科の授業、生物の授業が好きだったな、なんて、忘れていないのに思いだした。「どうすごいの?」「なんか脈打ってる。」「ええ?」明人に触れることはできないが、桜には触れることができる。花壇の少しの段差に登り、桜の枝をつかんでじっくり見ると、確かに花の色が細かく揺らいでいるように見える。月の光にかざすと、花脈がはっきりと見えて、その一本一歩に血のように真っ赤な液体がどくんどくんと脈打ちながら走っているのがわかった。「本当だ。これは確かに。」「でしょ?」明人は俺がやったように、花弁を月にかざして驚いている。「これだけあれば、ってことなのかもね」校舎のほうを見て明人が呟く。「なにが?」「死体」「何が?」「お墓がたくさん、でしょ?」明人が見たいたのは校舎を超えて、校庭の墓地のほうだったようだ。もう消えてしまっているが。「なに、桜の木の下には死体が埋まっている、ってこと?」梶井基次郎の短編を思い出しながら聞いた。明人は人差し指を顎に当てながら「僕はその言葉知らないけど、でも、これ見るとそうなのかなって思う、よね?」「さあな」ありえないほど濃い色のその桜は、花脈を脈動させながらこちらを静かに見下ろしていた。

「今日はこれかな」お腹にぐるりと巻かれている赤い糸を手に取って、明人は言った。「行くか」二人で、その糸をたどるように歩いていく。ぐるりと校舎を表に回った。校庭には、昨日ずらりと並んでいた墓石たちがない。明人は立ち止まってぐるりと校庭を見回した。「やっぱり無くなってるね」明人はよし、と小さく呟いて、また進み始めた。赤い糸は、きちんと表門から校舎に入る。玄関にお情け程度に飾られている金魚の水槽と、月明かりしか自分たちを照らしているものはない。すうっと水槽の前を通ると金魚を見ている自分と目が合う。「綺麗」ぐっと近づいて金魚をよく見ている明人は、水槽に映っていない。「綺麗、だな。」彼が幽霊で、彼が人間でなくて、彼が生きていないという証拠をまざまざと見せつけられている気がして、「行くぞ」と促した。赤い糸に招かれて歩いて行った先は、あの事故現場だった。「異変の廊下。今日の討伐対象です」明人は楽しそうに言う。「あの天井がもう異常だけど」「残念ながらそれは現実」「それは本当に残念」

家庭科室の入り口あたりから廊下の雰囲気が変わったことに気が付く。なんというか、怪異の気配。ひんやりと冷たくて、現世のものにはどこかよそよそしいそんな気配。だが気配以上に、この空間自体が“怪異”となっていることが分かった。天井が壊れていないのだ。綺麗な天井、綺麗な廊下。これは異変だ。「あんま天井見ないほうが良い。」異変は三秒以上見つめると消える。佐々山のあの発表を思い出しながら、じっと天井を見つめていると三秒経たないうちに明人が俺の視界に入ってくる。「なんでよ」一つ一つ異変を消していかないといけないんじゃないのか。彼にピントを合わせると「いや、異変を消すのはいいんだけど、天井崩れてると危ないでしょ」確かに彼の言うとおりだ。楽に探索できない。「ナイス」崩れた天井をかき分けながら異変を探すのは、きっと危なすぎる。なら、このまま探して最後にもとに戻したほうが、賢いに違いない。トントントン、家庭科室から小さな音が聞こえてくる。「お、異変ですよ」明人がそっちにすうっと飛んでいきながら楽しそうな声を上げた。

家庭科室でひとりでに何かを刻んでいる包丁、美術室の自画像が勝手に俺の顔に代わっている。書道室の掲示物が俺の名前になっている、まだ一度も作品を完成させたことはないのに。技術室から聞こえてくるチェンソーを扱う音、石膏像がこちらを見てきてウィンク、書道室から漢詩を朗読する声。ありとあらゆる異変を消した。自由自在に飛び回れる明人と、いつもの視点で校舎を見られる俺によるダブルチェックはとても上手くいっていた。いくつの異変が隠れているかはわからないが、そろそろ大詰めだろう。「お、この異変、超いいじゃ~ん」明人の声が聞こえてきて、そちらへ向かう。明人は、家庭科室と書道室の間にある鏡を覗き込んでいる。「ん?」彼とともに鏡を見ると、鏡の中には生きているときと同じ、透けていない明人がいた。「あ……」明人は、呆然としている俺を、強い力で引っ張って自分のほうに向かせた。「何、どうしたの」彼の行動に、困惑するしかない。鏡の謎の引力に吸い寄せられるようじっと見つめてその目を離さない彼は、怖い顔をしていた。「そっか、こういう感じになってるわけね」明人は、自分の赤い糸たちを小さく引っ張りながら、呟いている。「透けてる。すげえ」ええ?俺が見たときは生きている姿だったけどな。確認しようと少し振り返ると、「やめて、凪。」固い声がすぐに飛んできて、俺は体を硬直させた。すぐに鏡に背を向けるように戻り、そして少し後ずさる。柔らかさを失った彼が怖かった。すぐに踵が壁について。鏡のひんやりとした感触が背中に伝わってくる。ぞくりと背筋が震えたのは、きっと物理的に体が冷やされたからだろう。「凪。まだ消さないで。」明人の声が少し揺らいでいるように聞こえて、ぎょっとする。明人はすうっと鏡に寄って、自分の姿をよく見ていた。彼の横顔を横目で見る。発達途上の精悍な横顔。まだまだ大人びて、格好良くなっていく途中だったのに。彼の目元に水膜が張っているのを発見して、居心地が悪くて目を逸らす。明人が自分の姿をこんなにも熱心に見つめているのは、単に今の幽霊の姿が面白いから、だけではないのだろう。見納めのつもりなのだろうか。じっと自分の姿を見つめる彼のことを静かに待っていることしかできなかった。

「残念無念、また来世!!!」気を取り直すように明人は自分の頬をぱんっ、と叩いて、そして「凪、消しちゃって~」と務めて明るく言ってくる。「わかった。」俺も見納めだな。三秒間、彼の生前の姿を目に焼き付ける。俺よりも少し日に焼けた健康的な首元から、白いシャツへ目線をずらしていく。最後、明人が小さく手を振り、鏡には俺だけになった。「明人?俺にはお前の生きてるときの姿が映ってたんだけど。」そう言おうとして、開いた口をまた閉じた。彼のあの時間が、自分の肉体とのお別れのつもりなら、きっと彼がもっと出会いたかったのは生きていた時の自分の姿だと思うから。鏡に映る俺は一人ぼっちでどこか寂しそうに見えた。

「お?書道室に異変?」彼は先ほどのしんみりとした雰囲気ごと、異変を消したかのようにぴょぴょ~い、と書道室に入っていく。書道室からは確かに墨の匂いがした。書道室に先ほどまでなかった書道セットが広げてあるのがわかる。明人の書道セットだった。「僕の書道セットじゃん」墨の匂いは、すずりになみなみと注がれた墨汁からだった。その真っ黒の墨汁が、月の光を受けて小さく赤色に揺らめいた気がして目をこする。匂いでもわかる、落ち着け、これはただの墨汁だ。ふうっと息をついて、その異変を見つめることにまた集中する。すずりの隣の筆おきに置かれた筆がすうっとひとりでに持ち上がって、丁寧に広げてある半紙に一筆目を下す。「なに?」急に声を上げた明人のほうをうっかり見てしまう。筆は動き続ける。カウントはまた初めから。「よ」なかなかに綺麗な字だ。消されることを知ってか知らぬか、筆の運びは速い。「う」「こ」……「そ」ようこそ?明人と顔を見合わせる。こちらに向かって言っているのだろうか。「ようこそって、どこに?」「いや、僕宛てだと思う。」「どこに?」「だから七不思議へようこそ」明人は平然と言ってのける。「そろそろ消してもいいよ」筆はその間も動き続けているようだ。小筆が小さな字で細かく「松原 明人」と名前を記した。「ほら、僕の名前だ」彼の声を聞きながらやっと三秒間見つめ続ける。名前がじゅんわりと赤色の血だまりに変化して、そして消えた。「いやあ、よかった。」明人は少しほっとした顔で、こちらに言ってくる。なんだか少し疲れた気がして、俺はそこの椅子に座った。「なにが?普通に怖かったし、別に何もよくないけど」明人は小さく自分の赤い糸たちをはじきながら言葉を続ける。「いやあ、正直なところ、僕を七不思議の六番目にしようとしてるって確証はなかったんだよね。引っ張られてる感じはあったし、この糸たちだし、まあそうだろうとは思ってたけどさ。だから、例えばこの糸たちが僕の味方で、例えば僕が地獄に落ちるのを引き留めてくれている、とかだとすると大変じゃん」地獄に落ちる?そんなわけがない。味方?そんな邪悪で嫌な色をした糸が?反論しようと口を開きかけた俺を片手で制して、明人は言葉をつづけた。「そうすると、僕は命綱を一本一本切ってることになるじゃん?でもそうじゃないってことがわかった。七不思議は俺を仲間に引き入れる気満々だ。だから、よかった。」うん、そうじゃないんだ。「このまま進んでいこう」明人は目に月の光を宿して、嬉しそうに言った。「このまま、進んでいこう」俺も合わせていって、二人はグータッチをする。進んでいく、その先は?彼の成仏だ。進んでいって、そして明人はまた死ぬ。

廊下は、教室の窓から採られた月光で静かに冷たく光っている。もう三周ほど四つの教室を見回っているが、おかしいところは見つけられそうにない。変な音もしない、今聞こえるのは俺が廊下を歩く足音のみ。変なにおいもしない。学校の香りがするだけだ。変な気配もしない。昼間と違って、若者たちの活気が失われた学校は、もぬけの殻、ただの入れ物に等しくなんの気配もしなかった。「もうなさそうじゃね?」ふわふわと漂い俯瞰視点から教室を見ていた明人に聞く。「うん、なんもないね」明人はすうっと下に降りてきて、頷いた。

俺らは廊下に出てきて最後の異変を消す。「多分全部消えたら、この糸も消えるはずだから。もし消えなかったら、また探そう。」確かに、そんな確認方法があるとは思いつかなかった。「オーケー」俺は廊下の天井をじっと見つめる。彼を埋めた天井を怒りを込めてじっと睨んだ。ゆっくり、ゆっくり天井が崩れ始める。頭の中で、急にあの時にピントが合った感じがした。あの時、俺が振り返ると、ここ一帯の天井が崩れてきていて、最初、小さなかけらがぽろぽろ落ちたのもつかの間、すぐにすべてが崩壊して。明人はその小さなかけらを不思議そうな顔で見つめていたのに、すぐに山の下へ見えなくなって。一瞬で全てが崩れたって聞いたけど、俺には一瞬に思えなかったことも、明人の頭に天井がぶつかる最後、おびえた表情で天井を見つめていたことさえもすべてを思い出した。一枚の膜をかぶり、最後のいくつかのピースを自分じゃない誰かが撮った写真で補ったような記憶ではなく、自分の生の記憶としてよみがえってきた。そうだあの時もこうやって、ゆっくり天井が落ちてくるように見えたんだっけ、だから助けられたかもしれないって思ったんだ。そこまですべてを思い出した。落ちてくる天井は俺を透けて下に積もる、地面に落ちたものからものとしての実態を取り戻しているようだった。「凪!!!!!!」明人の苦痛な悲鳴が聞こえる。三秒の時間が経って、すべてのがれきが足もとに積みあがってから、俺は振り返った。「どうした?」明人は、俺が事故当時に立っていたあたりに浮遊していた。「いや、何でもない。」明人のほうへ歩み寄る。確かにがれきがあるとあそこまで自由には間違い探しできなかっただろう。「どうした。なんでもなくないじゃん」明人の手をつかもうとする。「思ったよりも、怖い映像だったから。一瞬で天井が崩れ落ちてさ」明人は何でもないことのように言ったが、目には怯えと少しの罪悪感を浮かべたままだった。「思ってたよりも?当たり前じゃん」「当たり前か、なんか現実味なかったから。天井が崩れるなんて」「大丈夫か」「当事者意識が芽生えました」当事者も当事者、埋められた張本人は後ろめたそうに視線を逸らして「ごめんね、凪。」なんて謝ってきた。「ごめんね、凪。怖い思いさせて。」「そうだよ、幼馴染が生き埋めになるのって思ったよりも怖いぞ」「ごめんね」いつまでたっても苦々しい顔をした明人のお腹周りに巻き付いていた糸は、きちんと消えている。

「俺は大丈夫だから」浮かんで帰る気分じゃないのか、とぼとぼと歩きながら家に向かう明人を俺が引っ張っている、奇妙な二人組の影が、ひとつ月に照らされている。「大丈夫じゃないよ、あんなん」「正直なこと言うと、俺はあの時の様子今の今までちゃんと覚えてなかった。」「それは心を守ってたんだよ」「そう。で、今は思い出したけど、明人がいる。」「まあね」「俺はさっきのあれで、意外と埋められるときは一瞬なんだなってわかってよかったよ」明人はどういうこと?と顔を覗き込んできた。「あんまり記憶ないだろ?」「うん。気づいたら幽霊だったね」「ちゃんと即死?」「ちゃんと即死。」彼の言葉にまたほっとする。「よかった」明人が苦しんでいなくて。よかった、あの時咄嗟にがれきを掻き分けられたら明人が生きていた、とかじゃなくて。明人はすこし不思議そうな顔をしたまま、トボトボと歩き続けていた。