揺らぐ月に君は凪ぐ

「死んでんじゃねえよ」小さなつぶやきがポツリと夜に溶ける。暗くてどんよりとしたこの言葉が、このまま部屋中に拡散してしまうのが嫌で、それを吹き飛ばすようにため息をついた。時計の秒針の音、一階でお母さんが洗い物をしている音、頭の上でカーテンが揺れる音。静かにすると小さな音のすべてが耳につく。手持ち無沙汰に寝返りを打つと、窓の外のきれいな三日月と目があった。一人で何もせず自分の部屋でぼーっとするなんて、そんな退屈は小学生以来だ。あのころはとにかく時間が過ぎるのが遅くて遅くて、自分以外のすべてがスローモーションで動いているんじゃないかと思っていた。もちろん友達と遊んでいる時間はすぐに過ぎていったけれど。きっと一日二十四時間を遅く感じる時間と早く感じる時間でうまく収支を合わせているんだろう、なんて幼いころは遅く感じる時間で考えていたが、それじゃあ今、十七歳の僕の毎日は説明がつかなくなる。今の中高生はずっと忙しい。テニス部の練習から帰ってきたら必死で塾の宿題を済ませ、塾の授業に出て、22時過ぎには帰宅。疲れてへとへとになりながら風呂に入り、死んだように眠るのが現代学生スタンダード。週に一回、何の予定もない日があったが、その日は毎週明人と夕食までゲームをして、たまにどちらかの家に泊まって朝まで話していた。

まあ、そんな日はもう二度とこない。かち、かち、かち、秒針の音の煩さにむしゃくしゃして、ベッドサイドのティッシュボックスを投げる。洋服箪笥に、ぼしゃっと間抜けな音を立てながらぶつかった箱は、さっき脱ぎ捨てた制服の上に落ちた。はあ、もう一度ため息をついて、体を起こす。とりあえずコンタクトだけは取ろう。そうしないと眠れない。「凪―、今日お風呂入らないのー?」一階から母が大きな声で聞いてくる。ついさっきの葬式まであんなにボロボロ泣いていたのに、よくこんなに大声が出せるもんだ。「いい。」洗面所に向かうべく階段を下りながら、答えると、「そう、まあ、今日くらいは早く寝なさい。明日も学校行かなくたっていいし」なんて軽く返された。母の適当さが今日だけは少しありがたい。

若い人の葬式はこうも暗いのか、と、かなり当事者に近い立場なのに冷静に考えられる自分がいた。冷静な自分、通夜の会場のその場に立って、挨拶に忙しそうな明人のお母さんの代わりに出席者名簿を繰っている自分。そんな自分を上から見て、「よくそんなに冷静でいられるな」「幼馴染死んで悲しくないのか、涙一つ流さないで」と囁いてくる自分。明人の棺桶のほうをずっと見つめながら「なんで死んだんだよ」なんて、絶対に返ってこない問いを投げかけ続ける自分。幽体離脱のように何人もの自分がいた。こっちが幽霊になったみたいだ。若い人の葬式に参列する人は、みんなやるせない顔をして暗い雰囲気をまとって、実際に目からは流れていなくとも、涙をこぼしながらやってくることに気づく。僕が出たことがある葬式は、曾祖母と父方の祖父母のもので三回。幸せなことに大野は家系的に長寿が多い。長寿健康自慢で正月はもちきりになるのは、本当に幸せなことだ。普通は、どこそこが痛いだの、前の検査でどうだっただの病気自慢になるらしいから。そういうありがたい事情で三回とも大往生の末の葬式だった。雰囲気は比較的明るく、式の前には思い出話に花を咲かせ、式の後のお清めでは最期の時の話をして、あの人も最後まで立派に生きたもんだねなんて言いながら、大人はビールを、子供はオレンジジュースを飲む、そんな式がほとんどだった。今日の通夜はその反対といってもいいようなものだ。明日の式は、親戚だけで小ぢんまりとやるということで、逆に今日の通夜ではかなり幅広く彼の友達が来ていた。大体が僕の友達でもあったので、少し懐かしいような気持ちになったのは、お母さんに申し訳ないから秘密だ。もっとも、そんなことを言っても「凪も悲しくてわけがわからなくなっているのね」といわれるのが関の山だ。僕自身もそう思っている。幼稚園、小学校、中学校、高校の友達、習い事の仲間、お世話になった先生、最初から最後まで経緯を逐一話されたひと夏の元カノ。彼は明るくて、無邪気で天真爛漫で、周りの人みんなに好かれていた。行く人来る人みんな涙を流して、「いいやつだったのに」なんて言った。そして僕を見て「自殺すんじゃねえよ」「後追いしちゃだめだよ」と忠告してくるのだ。「うん、ありがとう」みんながみんな同じようなことを言ってくるので、しまいには条件反射のお礼をして、小さく眉を下げた。しないけど、多分。そんなに後追いしそうな顔しているのか?洗面所の鏡でコンタクトを取って、それから自分の顔をまじまじと見つめる。うーん、まあ明人に比べれば百倍死にそうな顔してるかもな。死に化粧を施された明人よりもずっと顔色は青白く、唇には生気がない。鏡で見てもそう思えるのだから、他人から見たらなおさらだろう。そんな自分がなんだか情けなくて、面白くて小さく笑う。笑顔になっても表情筋は強張っていて、目だけが哀れにこちらを見ている、確かに死にそうな顔だった。これは心配されるのも無理はない。いつも俺が学校に行っている間の眼鏡の休み場所である箱ティッシュの上に眼鏡は見当たらず、手探りで探す。顔をうんと近づけて、眼鏡が本当にそこにないのを確認した。そういえば、もし不覚にも号泣して、コンタクトなんかつけてられなくなった時のために、カバンに眼鏡を忍ばせていたのだった。カバンの中に入れっぱなしにしていたら、後でコンタクトを取った時に絶対忘れていると思って、そのあとベッドサイドに置いたのだが、それもまた忘れてしまっていた。暗い階段を眼鏡なしで登るのは思ったよりも危なっかしい。十年以上前におじいちゃんの介護のためにつけた階段の手すりをしっかり握って、自分の部屋まで戻った。

にゃあん、部屋では飼い猫のウヌがベッドの上で小さく鳴いている。黒い毛並みが夜の闇と同化していて、目が光っているのはぼんやりと分かるが、正直鳴き声を上げてくれなければ踏みつぶしていたかもしれない。心なしか悲しそうな鳴き声に聞こえるのは、人間のエゴで、ただ人間が動物に感情を投影しているというだけだろうか。そうじゃないと信じたい。ウヌは俺らが七歳の時に子猫で飼い始めて、それからずっと一緒に暮らしてきた。明人が死んだことまではわかっていなくとも、きっとここ数日の家の暗い雰囲気は感じ取っているだろう。ベッドサイドの眼鏡をかけて、ウヌを抱く。「ウヌ~?わかるか?明人はもういないんだって」にゃあん、ウヌの鳴き声は「わかった」、と解釈することも「ん~?」と解釈することもできて困ってしまった。家猫らしい綺麗な長い毛並みを手櫛で撫でながら、ウヌの温かさで少し心がほぐれてきている自分がいることに驚く。そして自分が緊張していたことも、疲れていたことも気づかずにここ数日過ごしてきていたことに驚いた。「ウヌ、悲しいなあ」自分の手によってきれいな艶が出たウヌの背中を大きく吸うと、いつも通りの太陽の匂いがした。「太陽みたいな子だった」って何人が言ったんだろうな。気を抜けばすぐに「終点:明人」の連想ゲームが始まる。棺桶の中でも少し楽し気な彼の口角が脳裏に浮かんで、涙が溢れだした。よかった、今まで泣かなかったのは、ただ心が張り詰めていただけだったからか。意外と人間らしいじゃん、俺。ぐずぐずと鼻をすすりながら、ウヌにしがみつくように抱きながら泣くと、ウヌは迷惑そうに低くにゃあんと鳴き声を上げた。

彼の事故現場を一番近くで見ていたのは俺だった。高校の芸術の選択授業、俺たちは二人で揃えたほうが何かと便利そうだからという理由で、書道をとった。入学前、先輩からのなんの情報もなくただ二人の好みで選んだその授業だったが、先生も放任主義でかなり楽な二時間を過ごせる。なんだか落ち着く墨の匂いと、朝九時十時の穏やかな日あたり。たまに先生が回ってきて、小さな声で自分たちの書にアドバイスをしてくれる。書道の授業はいわゆる当たりだったらしい。事故が起きたのは、明人の命日は、十月三日。まだ、その日からは四日しか経っていないのだが、もうかなり昔のことのように感じられる。その日も、ただ楽な授業をこなして、三時間目のために教室へ帰ろうとしていた。書道の授業は硬筆の時間と毛筆の時間で前半後半に分かれていて、秋の香りがしてきた前回の授業で初めて毛筆の課題が出されたのである。片付けが苦手な明人は、筆やらすずりやら、とにかく沢山の道具をカバンにしまい込むのにかなり時間がかかっていた。中学生の授業で書いた「希望の道」を練習した半紙が飛び出していて、「おい、こういうのは捨てて来いって」とその半紙を引っ張ると「正月の朝」なんて小学校の書初めで書かされた半紙が引きずられて出てくるようなやつなのだ。「おい、ここまで取っておいたら思い出じゃねえか」思わず笑ってしまう。とにかく前の授業が何だって次の授業の先生が遅刻を許してくれるわけじゃないし、こうしている間にも十分の休み時間はじりじりと削られている。「もう先行くぞ」と声をかけて廊下を歩き始めた。「待ってよ~、ほら入ったから!」彼の明るい声を聞いたのはこれが最後だった。「どうせ入ってないだろ?」と振り返ると同時に、自分の真ん前が土埃で真っ白になった。「あぶないっ!」と大きい声がして、条件反射で後ずさると、今まで聞いたことないような大きな音がして、目の前の天井が崩落した。なにが起こっているのかわからなかった。なんせ今までの人生で目の前の天井が落ちてきたことがないものだから。腰が抜けてその場でへたり込むと、技術室から音を聞いて飛び出してきた技術の先生が、俺を抱えて玄関のところまで走ってくれた。と思う。実のところその時のことは、後から聞かされた情報で、自分の記録は混乱していたからか、ぼんやりとしている。記憶が補填されている感じが拭えず、その記憶が本当に自分の目にしたものなのか、それとも人から聞いた話を自分で映像化したものなのかが、分からないのだ。危ない!という大きな声の主……二年生の女の子が、駆け付けた先生方に「一人、あの天井の下敷きになっている」と言ってくれたらしい。すぐに救急車と消防車が来て、警察がその五分後くらいに来た。警察に聞いた話だと、明人は即死で、消防が救助に来る前に先生方が天井を一生懸命どかしたときには、もう手遅れだったそうだ。救急車に運ばれる彼はブルーシートで隠されていたから、見られなかったけれど、「葬式場の人がとてもきれいに直してくれたから」「こんなにきれいな死に顔で」「ありがたいです、本当」と明人のお母さんは繰り返し言っていた。よほど凄惨な死体だったのだろう。天井の崩落は完全な事故とされた。確かに書道室前の廊下は大雨のたびに雨漏りしていたし、そこまでいかなくとも雨の日は壁や天井がしっとり湿っていた。予兆はあったといえばあった。校舎のあの部分は確かに弱くなってはいたのだろう。でも、外に見えるダメージがたったこれだけで、あんなに広範囲の天井が落ちてしまうというのは、宝くじが当たるよりもずっとずっと低い可能性で、様々な偶然が重ならないとこうはならない。さらに誰かが……明人が事故に遭うとすると、その可能性はもっともっと低くなり、天文学的な数字が分母に来る。俺たちが学校にいる時間の大体七時間中、廊下に出ているのはせいぜい一時間くらい。その時に人通りの特に少ない一階の奥の廊下にいる。単純に考えても、多く見積もっても、あり得ない話だ。大人には何度も何度も、「大野君のせいじゃない」「凪君は悪くない」と諭された。当たり前だろう。俺が悪かったとすれば、俺はどうすればよかったんだ、俺がどうすれば明人はまだ生きているんだ。俺が何か行動することで彼の死が止められたのなら、俺が一番そうしたいよ。自分でもしょうがなかったことは理解している。しかし、むしろ大人にそう言われることで、本当は責められてもおかしくないような状況なんじゃないか、と錯覚してしまっている気もする。

にゃあん、ウヌの鳴き声ではっと我に返る。フラッシュバック……というにはまだ日にちの経っていない、この記憶の整理は何回目だろうか。何度も思い出したところで、何も変わらない。少し鮮明になることはあれど、記憶がより深く思い出せたところで自分に良いことは何一つない。今までと違うのは、いつの間にか涙がまた頬を伝っていること。親指で自分の涙をぬぐって、眼鏡をかけなおした。「にゃあん、にゃあん」飼い主の俺に似て、いつもは無口なウヌが窓の外を見つめてしきりに鳴いている。一点を見つめて、まるでそこに何かがあるかのように。「なに?どうした?」とウヌに聞きながら、窓に寄って外を眺めようとすると、突然、一陣の風がレースの遮光カーテンをぶわりと膨らませた。おだやかな今日の気候に似合わない強い風と、その強い風よりも、もっと強いカーテンの勢いに押されて、眼鏡がずれる。何とかカーテンを全身でなだめて、端にまとめると「やあ!」と聞こえるわけのない声が聞こえた。え?視線を思いきり上にあげると、もともとかなりずれていた眼鏡が、遂につるだけで耳にしがみつく。「えーっと、久しぶり!」俺の太陽みたいな幼馴染は、半透明になって窓の外にふわふわと浮かんでいた。脳が理解するのを拒み、一切の思考が停止する。彼越しの月が、水面に映っているかのようにゆらゆらと揺らめいているのを、ぼーっと見つめていた。

「いや~お通夜どうだった?楽しかった?楽しくはないかぁ」明人は至極いつも通りに僕のベッドに胡坐をかいてニコニコしながらこちらに聞いてくる。「いや、まあほんの少しは。」「やっぱり?不謹慎だなあ。なんか、幼稚園の習い事の友達まで声かけたんだって?困るでしょ向こうも。」「う~ん、結構みんな覚えてるっぽかったよ。ちゃんと別れを惜しんでたし。」「ほんと?ならありがたいこっちゃだけどさ!」いつも通り。すこぶるいつも通り。最も、今まで僕たちは自分のお通夜についての感想を述べあったことはないのだが。「というか、眼鏡かけなよ」いつの間にかベッドの上に落ちていた眼鏡を明人が取り上げる。「はいどうぞ」「はいどうも。」軽く笑って眼鏡をかけると、それまで何の違和感も感じなかったが、裸眼でも彼のことだけは、眼鏡をかけたときのようにはっきり見えていたことに気が付く。「どう?幽霊の僕。はっきり見えた?」思い出したようにふわりと浮かんだ明人が頭上を飛び回りながら、スピッツの「空も飛べるはず」を口ずさむ。「なんかわかんないけど、眼鏡なくてもよく見えてた」「へえ、幽霊って便利~」ああ、彼はやっぱり怪異になったのだ。あまりにもいつも通りな雰囲気で明人が窓から入ってきて、あまりにもいつも通りな雰囲気で会話を始めたものだから、こちらも一旦いつも通りに会話をしてしまったが、そろそろ現実に戻ることにする。「幽霊……になったのは確か?」す~っと天井近くから降りてきた明人が「そう、幽霊。七不思議に赤い糸付けられちゃったからさ~」と、自分自身の首元や手首を指さしながら言う。「何も見えないけど」「え?嘘。まじ?僕これのせいでかなり困ってるんだけど?」参ったな~と頭をかこうとした明人の手が彼の頭をスカッと貫通しているのが少し面白くて、くふくふと笑う。「お、笑った。やっぱり笑顔がいいよ。そういえば、泣いてた?泣いてたよね?僕いなくて悲しい?」「まあ。」本当は「まあ」どころじゃないし、彼の棺桶の中の顔に向かって、心の中で「なんで置いてくんだよ、くそが」とか「来月の旅行の予定どうするんだよ」とか「死ぬなバカ」とか言ったのは確かだけど。それは面と向かって本人に言うことじゃない。「なんで今まで泣いてくれなかったのさ、僕、凪は僕がいなくなっても意外といけるんだって思ってちょっと悲しかったのに」「おい、いつから見てたんだよこの覗き魔。」「死んだ直後から幽霊にはなってたから、そこからかな。さすがにこれのせいで学校から離れすぎることはできないけど。」明人はまた彼の首元をいじりながら話す。親指と人差し指で首元をつまんで、パッと手を放していたそうな顔をした。「これ、って何なんだよ、見えねえし。なら、覗いてないで早く姿見せろよ。俺が明人がいなくなったのが悲しくて激重ポエムつづってたらどうするんだ」「いやあ~……僕、成仏したいからさ。式の前に、幽霊とはいえまだ現世にいることがわかったら、みんな止めてくるでしょ?僕はとにかくあの七不思議野郎らをやっつけて成仏したいからさ!」やっつけるのところでえいえい!とシャドーボクシングのそぶりをする明人。当たり前のように言ってくる話の内容は、さながら専門用語だらけの授業で何分か寝落ちてしまった時のようだ。「だから!その赤い糸?かなんかも、七不思議も成仏もなんもわかんねえんだよ!!!」久しぶりに大きな声を出した俺に目を丸くした明人は、静かにまた定位置のベッドの上に胡坐をかいて話し始めた。「そっか、なるほど。確かに。……じゃあ、この学校の七不思議って知ってる?」

「なにそれ、聞いたことないんだけど。」「七不思議知らねえの?!あんなに有名なのに?」「そんなに有名か?俺が知らないんだから、みんな知らねえだろ」「お前は、ゲームのことしか知らないだろって」佐々山が俺の後ろに、正確には俺の背中に乗っかるように体重をかけてきている加納の頭を叩こうとノートを丸め、振り、その手はスカッと空ぶって俺の頭が叩かれた。「ちょっと、別のところでやって。重いし」こっちは次の授業の冒頭で行われる単語テストに向けて最後に詰め込むのに必死なのだ。赤シートをずらしながら「steady……しっかりとした。Dull……だるい?……退屈させる、か。」とブツブツつぶやいている自分に注意を払うことなく、佐々山は僕の机に肘をつきながら、器用に椅子をウィリーさせて話しかけてくる。がやがやとうるさい教室、それ以上に騒がしいであろうセミの鳴き声。第2ボタンまで大胆に開かれたシャツから覗く、佐々山の小麦色の肌は夏の代名詞だ。「凪は?知らない?」顔を覗き込むように聞かれれば、「聞いたことはある。」と答えざるを得なくなる。結構有名だと思う。その噂を誰から聞いたのか忘れるくらいには、あちらこちらで耳にしている。「マジ?凪が知ってて俺が知らないうわさがあるの、ショックなんだけど!」「俺をなんだと思ってるんだ」後ろで加納がショックを受けてうなだれる。さらにズシリと彼の重さが背中に乗っかる。「それより重い」いい加減、背中の彼が腕を載せている部分が蒸れてきた気がするので勘弁してほしい。「おいおい、無知な加納君に、俺がプレゼンしてやるよ。今日、他校と交流会なんでね。」佐々山はルーズリーフを机から引っ張り出してきた。机の上に無造作においていたタブレットで、パワーポイントを立ち上げて、プレゼン資料らしきものをスライドショーに設定する。「なにそれ、お前、部活オカ研じゃないの」思わず興味がわいて聞いてしまう。彼、佐々山はオカ研……オカルト研究会の幽霊部員をしていたはずだ。オカルト研究会の対外交流?聞いたことない。なんだよ対外交流って。「それがさあ、田山が丘高校のオカルト研究部が、ウチの七不思議を調査しに来るらしい。」「マジ?すごくね?そういうのあるんだ」彼が出してきたのは、ここ、戸海高校から三キロほど離れたところにある同じく共学の高校の名前だった。俺の背中から離れた加納は、いつの間にか自分の席から椅子を持ってきていて、佐々山と同じように背もたれに肘を預けながら座っている。「あっちは部活ってだけあって、所属の名前が欲しいだけのウチのオカ研と違って週2でちゃんと活動してるらしいぜ。すげえよな。」確かにそれは本格的だ。佐々山の普段の様子から、うちのオカ研の緩さを実際に知っている自分たちは、仮に週に二回活動があったところで何をするのか見当もつかないけれど。「それ田山が丘は何してるんだ」自分の呟きに「よくぞ聞いてくれました!」と指を鳴らして佐々山がウィンクまで飛ばしてくる。にぎやかな奴だな、うざったい。「それが、部誌を二か月に一回発行しているらしくて、前回のテーマがUFO、今回のテーマが学校の七不思議なんだと。自分たちのところの七不思議だけ紹介してもページ数が埋まらないから、お隣の俺らの高校のも調査させてほしいって聞かれたわけ」胸を張る佐々山を「お前、幽霊部員の癖に」と小突く加納。加納のこぶしから逃げようとした佐々山の色素の薄い髪が、小さく跳ねる。「幽霊部員だったけどさあ、この学校の七不思議、結構おもしれえんだよ!それにオカ研なんて会長以外みんな幽霊部員だし。」幽霊好きのオカ研会長が幽霊たちを飼いならしている、というこの高校の鉄板ネタが頭をよぎる。「で、今日、ついに発表の場を得た、と。まあ、俺が調べたんじゃなくて会長がコツコツ集めてた情報をわかりや~すくざっくりまとめただけだけど。」会長の七不思議調査ノートは今月で10冊目に突入したらしい。「それでは発表を始めます。戸海高校二年、佐々山 悠佑です。お願いします。」佐々山の真面目腐った発表に、加納がぱちぱちと拍手をした。

「戸海の七不思議は、他校では聞かないものが多くあります。七不思議と言っても、実際に出回っているうわさが六つしかないのも特徴の一つです。これからその六つの伝承についてお話します。

一つ目は、はじまりの祠、と名付けられた怪異です。学校の裏庭の隅にある祠は、何を祭っているのか、誰にも知られていません。しかし、祠に寄り添うように咲いている桜は、この世のものとは思えないほど赤く、そして梅がほころび始めるくらいの気候から、周りの桜の葉が青々とする気候まで咲き続けます。そして祠も、年々どこか赤みがかっていっているというのが、会長の毎年の記録でわかっています。」
佐々山が「ほら、見てみ」とタブレットをこちらへ差し出してくる。二人でのぞき込むと、祠を毎年定点から撮った写真が三枚並んでいる。確かに心なしか赤みが強くなっていっているように見える。「この祠の定点撮影をこのオカルト研究会の伝統にしたいらしいぜ。来年の分はもうお願いされてる。」幽霊たちに伝統の継承ができるとは思えないが、とりあえずは「がんばれ」と返事をすることにしよう。「この祠は他の怪異と比べて、危険性はないとされていますが、この祠にお参りをしなければ他の七不思議には遭遇できません。正確には、祠にお参りする前に七不思議に遭遇してしまうと、大小問わずよくない……危険なことが起こるといわれています。怪異たちに連携という概念があるのかはわかりませんが、会長はこの祠を七不思議のボス的存在と定めています。」「ボスって。そんな仲良しグループみたいな感じなのかよ」加納が笑いながら突っ込みを入れる。「これは俺も笑った。たまに会長おもろいんよな」佐々山も笑った。「あと、お参りをすると祠のお狐さんが、コンと鳴くという話も出てきていますが、これについては“あまりにも面白みのない、ただ年々色が変わっていっているように見えるだけの祠“という伝承を少しでも怪異チックにしようと、付け加えられたものだと思われています。」「会長も認めたくはなさそうだったけど」と佐々山は付け加えた。

「二つ目は、墓場となる学校。これは他の学校でもよくみられる怪異の一つで、むしろこの高校では珍しいタイプの怪異となっています。夜、学校を裏側から覗き込むと、学校の校庭が墓場となっている、というものです。これは学校ごとに特色があり、「墓場となるだけでは収まらず、幽霊が出てくる」心霊タイプ、「墓石に全校生徒の名前が彫られていて、自分のものを見つけてしまうと死ぬ」という心霊よりもシステム的な側面が強いタイプ、「新月の晩だけ墓場が現れるというタイプ」条件発生タイプなど様々なものがあります。この学校の墓場は、正門の隙間から覗いたときには現れず、裏門から校庭を覗いたときにだけ、蜃気楼のような揺らめきの向こうにぼんやりと現れるというものだそうです。また、発生時間が夜の十二時ピッタリに固まっていることから、時間の指定もあるのではないかと考えられています。この怪異は他の怪異と比べて圧倒的に、学外の人からの情報提供が多いです。外から見られる怪異がこれくらいしかないというのはそうですが、むしろ、高校生は夜中に自由に家の外を出られないからという理由が大きく影響を与えているのではないか、と会長は考察しています。酔っ払いが学校の裏を通った時に、深夜まで仕事をした先生が疲れて帰るときに、夜の散歩で通りかかった近所の人が、ふと目をやった時に。みんなが口をそろえて「見間違いだったかもしれない」と供述するのも特徴の一つです。うちの高校の墓場は、ほかの学校のそれと比較しても、特に加害性が少ないです。現れるだけといっても過言ではないとされていますが、会長も実際に墓場に入ったり、自分の目でその現象を確認したことはないそうなので、真偽については不明とされています。」怪異というから、もっと怖い話がたくさん出てくるのかと思えば、今のところ危なくも、ぞっともしない話の二連続だ。確かに七不思議って、不思議だったらそれでいいからな。いや、校庭が墓場になるのはそこそこ怖いか。隣の加納の横顔をちらりと見ると、彼の少し退屈そうな顔で話を聞いているのがわかった。わかる、もっと刺激的な話が聞けると思ってたよな。

「三つめは異変の廊下。この怪異が発生するのは、一階の芸術系教室……美術室、家庭科室、技術室、そして書道室が集まっている奥の廊下です。廊下に展示されている作品の生徒の名前が、変わっている、または黒く塗りつぶされている。鏡に自分の顔が映らなかった、家庭科室から夜な夜な料理をする音が聞こえる、書道室から夜中に墨の匂いが香る。たくさんの事例が報告されています。また、この怪異は時間を問わず、昼下がりでも夕方でも夜中でも起こるのが特徴です。異変は気が付いたら放ったらかしにせずに、しっかりと消滅させることが推奨されています。特に現実世界の情報、名前や出席番号、鏡に映るこの世あらざるものについては、気づき次第それらをきちんと消滅させないと、dそれが現実になってしまだろう、ということも指摘されています。異変を消す方法は簡単で、その異変を三秒以上しっかりと見つめる、それだけです。じっと見ているとアハ体験のように、正常な状態へと戻っていくので、びっくりしても目を逸らしたりせずに見つめ続けましょう。」「いきなり怖い感じになってきたな。」加納が、さっきとは打って変わって楽しそうな顔つきになり、こちらに同意を求めてくる。うん、と頷いて俺も「確かにこれは七不思議っぽい。まあ、鏡に自分が映らないとか、書道室から香りがするとか別々の怪異として良い気もするけど」と意見を述べた。「本当にそれなんだよ!会長も言ってた。全国どこを探しても、別々の怪奇現象が群として一つにまとめられて噂されているのは見たことないって」確かに聞いたことがない、特にアンテナを張っているわけでもないのだが、イメージとしてそういうものは想像できないことは確かだ。「この中の一つでも別の怪異として切り離しちまえば、七不思議なのに六つになることも、それに付随した変な噂も出てこねえのにな」佐々山は、身を乗り出して言ってきた。「変な噂?」「もう七不思議自体かなり変な噂だろ」俺たちの疑問に佐々山は「まあまあ、発表を続けます。」とまた真面目腐った顔に戻る。

「四つ目はしゃれこうべ先生。職員室で夜な夜な骸骨がスーツ着て仕事してるって噂。しゃれこうべ先生はこの中では一番目撃が多い怪異です。その報告の数から、一番確実に存在している怪異と言われています。ただ、その内容は、すべて「骸骨が仕事していた」というもので、それ以上でもそれ以下でもありません。なにか危害を与えられたり、逆にこちらからちょっかいをかけることもできないといいます。だから、廊下と違って発生も頻繁なのではないかというのが会長の見解です。しゃれこうべ先生の正体、生前についてはこれまた様々な噂がありますが、どれも不確定な妄想です。例えば、担任をしていたクラスの生徒が自殺して、後追いした先生だとか。過労で死んでしまった先生だとか、そもそも先生になる夢の半ばで死んでしまった学生だとか。歴代の先生のデータに当たればそのあたりもはっきりするかもしれませんが、さすがの会長でも、そこまでの時間はないようで、調査に手が回らず悔しがっていました。先生の正体と、なぜ仕事をしているのかについて情報があればお寄せください。」「えーっと素人質問いいですか~」加納が手を上げる。佐々山の許しを得てから、「さっき、七不思議の中で一番目撃されている回数が多いっておっしゃっていたと思うんですけど、実際、一番目撃が多いってどれくらいなんですか。」と加納は疑問を口にした。「会長の調査によると、残業が多い先生はほぼ遭遇したことがあるみたい。特に疲れているときは出会うって言ってたけど、それがなぜなのかは不明。生徒でも、夜まで、それこそ自習室も図書室もしまった後の時間まで委員会やら部活やらの仕事の関係で学校に残ってると、遭遇するらしいね。生徒の場合は疲れとか関係なく出会うって。まあ、大体夜の九時以降って感じ?」なるほど、疲れ具合まで調査しているのはすごいサーチ力と執念だ。「高橋先生分かる?」佐々山は英語の先生の名前を出した。二人でわかる、と頷く。「高橋先生って、受験前、無限に質問対応してくれて、プリント作ってくれて、受験対策してくれてって感じらしいんだけど、高橋先生は夜何時間もしゃれこうべ先生と作業して、一人じゃないと頑張れるわって言ってたらしい。」「それは肝っ玉座りすぎだろ。」「まあ、高橋先生の仕事量も、もうお化け側いっちゃってるからな。」「でも、残業に関しては、しゃれこうべ先生と高橋先生の時給一緒だぜ?」「公務員の実質サビ残、時給で考えないんだよなぁ」三人は今年でもう65になる、英語のお局先生に思いを馳せる。ここまで独身、生徒と仕事と英語が恋人であり、生きる意味であり日々の輝き。誰よりも早く学校に来て誰よりも遅く帰る。生徒の頼み事は何でも聞いて、生徒の学びをいつも一番に考えている。そんな先生だから、こんなにも愛されているのは確かなのだけれども、そろそろあのお方も働き方を考えないと、怪異になってしまう。高橋先生と少しでもかかわったことのある先生生徒、全員が心配しているのだ。「六番目の怪異は高橋先生になるぞ、いや?もうなってる?」「だから六番目になるってなんだよ」「七個無ぇなら七不思議って言うな。」俺と加納から総スカンを食らった佐々山は首をすくめて、はいはい、じゃあ次行きますよ。とノートをめくった。

「五つ目は百合子さん。3A教室の四十一人目の生徒で、この学校で起こる「5人でグループワークしているはずが、多数決とったらなぜか同数になってしまった」とか「クラスで一人一つあるはずの係の仕事についていないやつがいるが、どの係も人数は足りてる」だとかは、全部百合子さんのせい。百合子さんが起こす不思議現象は、学校のどこでも見られ、何なら登下校の道とか、最寄りの駅とかでも起こります。ではなんで3A教室の生徒って言われているのかを不思議に思われるでしょう。百合子さんが発生する日には、3Aの教室の一番後ろの席に、必ず百合の花がおかれるというのがその所以で、またその怪異が百合子さんと呼ばれる原因でもあるのです。その生徒は、生前百合子とは違う名前だったのですが、この3A教室でひどいセクハラ、パワハラにあっていて、その窓から飛び降りてしまったそうです。3Aの教室の窓だけ不自然にほかの教室よりも開かないのはこの事件がきっかけとなっていて、このことからも、この生徒は実際に存在していた、僕たちと同じように学校に、この教室に通って毎日を過ごしていたことがわかります。ほかの怪異と比較して、なぜ発生したのかがわかりやすい怪異で、怪談話チックなところも特徴です。百合子さんは、あまりにも普通に日常に溶け込むので、数を数えたり、点呼を取ったりしない限り気づかれません。たまにそれをしても気づかない時もあるのかもしれませんが、それについては調査不可となっています。」僕は思わず自分の周りを見回した。がやがやした教室。次の時間の課題を必死で映しているクラスメイト、昨日見た野球の話で盛り上がるクラスメイト、後ろに座っている女の子は静かに本を読んでいる。弁当を片手に持ちながら、コスメの話やアイドルの話に花を咲かせるクラスメイト、今日の放課後部活があるのだろうか、教卓に腰を掛けて足を組みながら必死でギターを練習している人もいる。この中の誰かが百合子さんなのだろうか。百合子さんが紛れ込んでいても気づくことができないのだろうか。現実と向こうの不思議な世界との境界線が一瞬揺らめいたように見えてぞっとする。きょろきょろと見回していると、教室の隅で、立ち話をしていた女子がこちらを振り返って、ニコリと笑った。なんだよあいつ、急に。アイコンタクト取るほど、近くにいないだろうが。こちらもニコリと微笑み返す。「まあ、そうだよな。気づかないってことは気づいてないんだから、調査できないよな。」加納の声になぜだかびっくりして、肩を跳ねさせてしまった。「それはそうと、百合が置いてあれば変だと思って気づきそうなもんだけどな」加納は納得できないというような顔で文句を口にする。なにも日常的に花が教室に生けてあるわけじゃないんだから、気づくはずだ。「そう。ただ会長は絶対に誰も気づいていない時も、百合子さんは俺らと楽しく高校生生活を過ごしてるって言ってた。まあ、俺にしてみれば会長がそう信じたいだけだろって感じなんだけど。」「悪魔証明だ。まあ、想像するしかないね」オカルト好きの会長なら、確かに毎日怪異と一緒の高校に通っていると考えるほうが面白いだろう。こちらとしては、身の毛がよだつ話だが。

「そして、六つ目の怪異。これは今のところ存在しません。これから話す七つ目の怪異と今まで紹介した五つの合計六つが、最後の一怪異にふさわしい幽霊になれる誰かを探している、っていうのがこの学校の奇妙な噂です。気に入った生徒……まあ、先生でもいいかもしれないですが、をどうにかこうにか幽霊にして、七番目に据え置くという噂がまことしやかに囁かれていますが、これはただ七不思議といって六しかないことに疑問を呈した生徒が思い付きを口にしている程度なのではないかと考えられています。」「ちなみに、うちの会長は、七番目の怪異になるのが将来の夢。」佐々山は付け加えて面白そうに笑う。「冗談じゃない。生霊は募集してんの?」加納が眉をしかめ苦笑いしながら言った。「残念ながら、死んだあとじゃないと七不思議レベルには行けないかな」

「そして最後の七つ目。願いの大鏡と呼ばれています。多くの学校で、大きくて年季の入った立派な鏡が、おそらく階段の踊り場などに設置されていると思いますが、ほかの学校ではこの鏡のことを「呪いの大鏡」と呼ぶことが多いでしょう。うちの学校では、「願いの大鏡」と呼ばれていて、これは表記ゆれのようなものではなく、どんな話、どんな噂を聞いても、この鏡は願いの大鏡と呼ばれています。夕方の四時四十四分に鏡に正面から向かい合い、心の底からの願いを口にするとかなえてくれるというもの。もしその願いが心の底からのものではない、少しでもほかの気持ちがあると、鏡の中の自分の虚像がこちら側へと引きずりこんできます。自分の姿のまま引きずり込んでくることもあれば、嫌いな人の姿になって腕をつかんでくることも、好きな人の姿になって甘美な言葉で誘惑してくることもあるそうですが、実際に引きずり込まれて無事に帰ってきた人というのは、いないと思われるので真偽の程は不明です。ただ、実際に鏡にお願いをして、願いがかなったという人は相当数いて、怪異に自分から干渉する恐ろしさや危険性をよく考えないまま、安易に自分の願いを大鏡に伝えに行くということも多くなっているそうです。」「あ~これだけ聞いたことあるかも。」うちの学校では、全校生徒が集まるような朝礼や式のあいさつなどで学期に一回くらい「四階屋上入り口前の大鏡には近づかないように。」やら、「超常現象、宗教などには、のめりこまず適度に付き合うように。」といった忠告が連絡としてされることがあるのだ。その時は何言ってんだか、と思っていたが、今説明を聞いてこれらが、願いの大鏡に安易な気持ちでかかわらないようにという意味、だったのだと納得する。「俺も、この噂は聞いたことある。美也子のこと好きだった時、まだ片思いだった時に、友達に相談したら願いの大鏡に頼んじゃえよって言われたんだよな。」加納は鼻の下を伸ばしながら、とろんとした目でその時のことを思い出した。加納のひとめぼれから何とかお付き合いにこぎつけて、今、なお熱々の一年記念日を迎えようとしている美也子さん。かわいらしいし、話すととても優しいことがわかるのだが、加納を尻に敷いているのが加納の友達としては何となく気に入らなくて、少し苦手なタイプの女性だ。自分もあの時、告白しようかしまいか加納がうじうじと悩んでいるときはよく相談に乗ったものだ。まあ、それについては今も相変わらず、相談可のろけかわからない話を延々とされることはよくあるのだが。しかし、彼がほかの友達からそんなアドバイスを受けていたとは知らなかった。「だからお前、あの美也子ちゃんと付き合えたの?!」佐々山が目を見開いて言う。「ちげえよ、俺は正々堂々ちゃんと告白しましたぁ!」「まあさすがにね。」納得だ、加納は男らしくあって欲しいから。「まあ、っていうのが七不思議。」

「聞いたことあったかも。」あの時は、七不思議なんて噂話をする友達も近くにいないし、もう七不思議のことなんて聞くことないのだろうと思っていたから、不思議な気分だ。タイムスリップしたかのように、三か月前の昼休みの記憶がどっと流れ込んできて、少しくらくらする。「七不思議……本当にそんなのあるのかよ」「僕を前にしてまだそれ?」明人は楽し気に、少しの呆れを込めて笑う。「幽霊と普通に話してるのに。」「幽霊とは話した覚えがないな。俺は明人と話してる。」「はいはい、僕はもう死んだんだからね~」「それもわかってる。」明人は明人で、幽霊だろうが人間だろうが明人だと思っている。彼のことを幽霊とは捉えられない。確かに幽霊ではあるのだろうけど。改めて彼の体を見る。足の先がすぼまって下半身が無い、なんてことはなく、生きているときと同じように足の先まで、爪の先まできれいな体のラインは残っている。ただ、その体はすべて透けていて、半透明といった感じだ。完全に透明なわけではないが、すりガラスみたいな感じでもなく、いわゆる幽霊の想像よりも透明度は高い。服は、死亡当時のものを着ている。着替えたりはしていないのだろう。幽霊にも着替えという概念があるのかは甚だ不思議だが。しかし、重力法則は形式的に働いているようで、彼が頭を傾けると、髪はさらりと流れる。彼の少しオレンジがかった茶色の髪の綺麗な艶が残っていて満足だ。「どうしたの?怒った?」首をかしげながら、明人が聞いてくる。「本当に幽霊なんだな」俺の言葉にニコニコと笑って、「エンジョイ幽霊ライフ!」と明人は俺の部屋の中を泳ぎ回った。

「てなわけで。凪が意外にも六番目の七不思議についても知ってるから都合がいいね。どうやら僕が六番目になりそうなんだよ、大変なことに。でも、どうせ死んだなら成仏したほうがいいに決まってるじゃん?」「まあ、それは確かに。」それに、と明人は眉を顰める。「僕がたとえ幽霊という形でもここにいることがわかれば、お母さんとお父さんは僕の死を認めようとしないと思うんだ。幽霊として、この世にとどまっていることはできても、生き返ることはできない。幽霊として長くなればだんだん自我が失われていくって可能性も捨てきれない。成仏にタイムリミットがある可能性とか、幽霊として人間を危険な目に遭わせる可能性とかも。親とか、まあ、友達とか、のそういう気持ちが、僕をこの世に引き留めるなにか鎖みたいになっちゃうかもしれない。だから、他には内緒で。」お願い、と顔の前で手を合わした明人に、すこしびっくりする。明人はいつもなんも考えていないような顔をして、ただお気楽に楽しそうに人生を謳歌しているように見られることがある。それで妬まれたりすることも。でも腹の中をのぞくと彼なりにたくさんの考えがあって、彼なりにとてもよく、そりゃあ、そんなどうでもいいことで明人をねたんだりうらやましがったりするようなやつよりも、ずっと深く様々なことを考えているんだ。「わかった、内緒にする。というか、お前本人が出てこない限り、仮に俺が言っても頭おかしくなったと思われるって」「それはそう。」「まあ、それもあって、今まで出てこれなかったの。わかった?」「わかりました。」明人の口は幽霊になってもよく動く。平均よりも高めで溌剌とした声を、もう一度聞けるなんて思ってもいなかったから今はもうそれだけでいいと思っていた。「じゃあ、成仏頑張って。死ぬ前に……いや、死んでるんだけど、ちゃんと?死ぬ前にまた会いに来てくれたら嬉しい。」最後のほうが涙声になってしまって情けない。涙目を見られたくなくて、目を逸らした。明人が死んでから、切実に、本人も周りの人も死に時も死に場所も選べないんだ、なんて痛切に感じたからこそ、もう一生逢えないとしても、最後に言葉を交わしたかった。「いや、だから、手伝ってもらう……って言ってなかったけ?あれ?」明人が頬を軽く指先で搔きながら言う。「あれ?えっと、手伝ってもらいます。お願いします!」「何を?」「だから、七不思議からの解放を」「え?」「え?」

生きていた時と同じように、明人は俺の横で静かに眠っている。呼吸と一緒に静かに上下するまつ毛も、寝ているときしか見られない口角の上がっていない口元も、何もかもが変わらない。少しばかり向こうが透けて見えて、少しばかり向こうの自分の洋服棚が揺らめいてはいるが。幽霊も眠るらしい。正確には眠らないといけないということや、眠らないと健康に支障が出るということはないが、単に眠りたいなら眠れるということらしい。よくわからない。先ほど明人と交わした約束を思いだして、ため息をつく。明人に弱いのは自分がよくわかっていたはず。生まれたときから一緒にいて、幼稚園、小学校……そして今に至るまで、ありとあらゆるお願いや要求を呑んできたし、吞ませてきた。お互い一人っ子で、家も隣同士、同じ病院で大体二か月違いで生まれ、ずっと一緒に生きてきたこいつが、成仏する手伝いまでさせられるなんて、大層な間柄じゃないか。幽霊も寝息を立てるらしい。呑気な寝息だ。昔から変わらない。彼の通夜の晩だし、センチメンタルな気持ちになって泣けばいいのか、いやしかし彼がまだ存在することを喜べばいいのか、それともすぐに彼がまたそばから消えてしまうつもりらしいことに悲しめばいいのか、何もわからない。いつだって俺の気持ちは凪いでいて、人並みに取り乱すことや思い悩むことなんて初めてに等しい。何となく眠れなくて寝返りを打ち、明人に背を向ける。二人でかけていた毛布がこちら側に引っ張られて、明人がむにゃむにゃ文句の声を上げた。「ごめんごめん」毛布をまた、平等に半分ずつかけなおそうと、明人を抱き寄せようとする。すかっと手が通り抜けて、ありえないと自分の手を見つめる。小さくため息をついて、明人に自分が少し寄った。いつもみたいに抱きしめて眠る腕は、いつもよりもずっと疲れた。

「凪、今日学校行くの?行かないの?行かなくたって良いわよ」部屋の外からお母さんが声をかけてくる。朝の太陽が眩しくて、彼の葬式に相応しいきれいな快晴で、なんだか少しうれしい気持ちになった。「とりあえず行くから」パジャマを脱ぎ捨てて、学生服を着る。昨日の焼香でついた、線香の匂いがまだほんのりと残っていた。疲れは怖い。昨日は通夜でたくさん彼のことを思い出したり、彼の顔を見たりして疲れていたんだ。だからあんな夢を見たに違いない。「幽霊ってなんだよ、怖えよ。今日が葬式で、今日が焼かれる日。人間は死んだら灰になってハイ、さよなら。だろ?」「人間は死んだら幽霊になって、ハイおはよ~う!!!!!!」「うわあああああああ。」ご近所中に響き渡る大声をあげて、腰を抜かす。下から「どうしたの、凪?」「どうした~?」とお母さんとお父さんが登ってきている音がする。「あ、て、テントウムシ。てんとう虫が部屋に入ってきてびっくりしただけ。もう出て行ったから大丈夫。」慌てて言い訳をすると「朝からご近所迷惑でしょ。ほらパン、せっかく焼いたのに冷めるから早く降りてきなさい」と言われて、事なきを得た。階段を下りていく足音を聞きながら、まだバクバクとうるさい心臓の鼓動を抑えようと深呼吸を繰り返す。「驚きすぎだって。」クローゼットの中にスーッと入っていって、隠れていた明人がまた目の前に出てきた。「おい、怖すぎだろって。お前、朝の自分の姿見たことあるか?透けすぎてて、目玉浮かんでるみたいだぞ」「ないよ、鏡に映らないもん。」カーテンを閉めて部屋の中を少し暗くすると、まだ何とか、彼と世界の境界線がわかった。「朝ごはん食べて、いってらっしゃーい。もう家出るまで、あと十五分しかないよ」それはまずい、それはまずいが、まだ現実を受け止め切れていない。昨日の俺、なんでなんの支障もなく幽霊明人に対応できたんだよ。ありえないだろ。「じゃあお前も早く着替えろ。十五分後に家の前な。」ドタバタと階段を駆け下りていく俺の耳に、明人の「だから、死んでんだって」というツッコミは入らなかった。

幽霊は何かを告知したり要求したりするために出現するとされていた。しかし、次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現していると考えられるようになり、「幽霊は凄惨なもの」という印象が強められていった。「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、凄惨な最期の姿を留めて出没する戦死者の亡霊の話は多「大野。グループワーク」ウィキペディアをぼんやりと呼んでいたはずが、存外集中してしまっていたらしい。隣の席の横田さんが、声をかけてくれた。「ごめんごめん」と班員に謝って、教科書をめくる。「違う、次のページ。」「ごめん……何を話し合うんだっけ……」「次の授業で実験するから、その読み合わせ。」横田さんは、話し方こそぶっきらぼう、というか、歯切れがよいのだが、人となりはとても優しい。「ごめん、ありがと」「準備はとりあえずみんなでするとして……いや、大野はやめておこう。」「賛成、今の大野にピペット持たせられん」参った。俺やれることあるのか。「えーっとすみません」「大野にはガラス器具は持たせないで、その代わり記録を全部取ってもらうことにするから。」横田さんがいろいろと決めて、指示を出してくれる。ぽんぽんと実験の段取りが決まっていき、注意点の確認が済んで、「そろそろ、済んだか?」という先生の一言で、みな、前に向き直った。「ごめん、俺、記録くらいはちゃんととるから。」前の時間の数学でも、指されて答えられなかった俺に、答えを囁いてくれたり、その前の英語でも音読で順番が回ってきてもどこを読んでいるのか見つけられなかった俺に教科書を指示してくれて、横田さんには迷惑をかけてばっかりだ。「大丈夫。謝らなくていい。みんな大野のことを心配してる。」彼女は強くて優しい。

今日の学校は踏んだり蹴ったりだった。一人の下校道で、これまた不注意で躓いた小石をやけくそで蹴っ飛ばしながら、ため息をついた。小石は小さく跳ねて、道の隅に収まる。授業中でも弁当を食べていても、気が付けば思考は明人のことを考えてしまっていた。その時に頭の中で思い描く明人は、透けていない。明人は俺がお前を縛る現世の鎖の一本になるなんて考えていなかったのだろうか。考えていたとしても、そこまで考慮するとどうしようも頼れる人がいないと思って諦めたのだろうか。明人は、俺が泣いた顔を見たのだろうか。明人は俺が泣かなかったところも見ていたのだろうか、明人は、明人は。リンリン!と、自転車のベルが鳴らされて、不機嫌そうな顔をした買い物帰りのおばちゃんに「気をつけな」と声を掛けられる。気が付いたら、側溝の脇すれすれを歩いていた。自分の踏みしめた土がパラパラと水面に落ちるのを見て、おばちゃんは邪魔だったからじゃなくて完全に警告としてベルを鳴らしてくれたのだということに気が付く。「ありがとうございまーす!!!」去っていく小さな背中にお礼を言うと、おばちゃんは片手をあげて答えてくれた。格好いい。今日はずっとこんな調子だ。勿論どれだけやらかしても、迷惑をかけても周りは絶対に責めてこない。昼ごはんに弁当をひっくり返して加納の膝にぶち負けても、加納と佐々山がせっせと片付けてくれた。むしろ「凪は危なっかしいから座っとけ。そこにさっき買ってきたパンあるから。」「パンだったら落とさないだろ」と言われて、掃除さえ手伝わせてもらえなかった。「かたじけない……」「片付けだけに?」「片付けない?」雑巾をゆすぐ彼らはどこまでいっても優しかった。先生もクラスメイトも友達も、みんながすこし気を使って接してくれていることに気が付いたのは、今日が初めてだった。勿論、一昨日も一昨昨日もこれくらい、いやそれ以上に気は使われていたのだろうが、それに気づくような余裕がなかったのだ。きっと一昨日もぼーっとしていて覚えていないだけで、たくさんの人が気を使ってくれたりフォローしてくれたりしたんだろうな、と思うと本当に情けなかった。

「おかえり~!お風呂にする?ご飯にする?それとも、わ・た・し?」部屋に入ると、どこで何をしていたのかスーッと上のほうから明人が飛んできて迎え入れてくれる。「まずは宿題。」「ちぇーっ、朝に校門にぶつかって昼にお弁当をひっくり返し、夕方側溝に落ちそうになっておばちゃんにベル鳴らされてた人は、勉強なんて一旦はやめておいたほうがいいんじゃないですか~?」「なんで知ってんだよ」明人はえっへんと胸を張って「建物の中では、天井裏に潜って顔だけ天井の隅から出すことで、誰にもばれずに学校を行き来できることに気が付いちゃいました~」「それ絵面怖くね?」「外では、まあ、そのまま浮かんでるけど。」「誰にも見えないわけ?お前って俺にしか見えてないわけ?」「別に?多分みんな見えてるけど。気づいた人は、目をこすって二度見するからそのすきにぴゅーっと逃げれば見間違えたことになる。」「極悪」明人は眉を下げた。「家族と友達には合わないようにしてるから許してよ。」彼としゃべりながらバッグを所定の位置に置いて、制服を脱ぎ終わった俺は、下着でベッドに寝転がる。「ねえ~ベッドの上は、僕の定位置なんだけど」「ここ俺の部屋なんですけど~?」明人が、俺の頭上をくるくると飛び回りながら文句を言ってくるが勘弁してほしい。幽霊なんだからその辺に浮いておいてほしいものだ。

夜になり、「いざ調査!」と張り切り始めた明人に連れられて、俺はいつもの通学路を歩いている。いつも朝の光に照らされて歩いている道も、夜の空気を通して見ると、どこかよそよそしく見える。「こんな夜に出歩いたの、人生で初めてだ~」明人は、浮かばずに俺と同じように歩きながら言ってくる。「人生はもう終わってるだろ」「それはそう」「補導だけは勘弁。」「まあ、大丈夫でしょう。」ふわっと浮かび上がった明人は、遠くのほうまで見渡してから、また隣に戻ってくる。「異変なし!」「幽霊はいるけど。」「モーマンタイ!」「モーマンタイ。」「凪。見て。手元」自分の手に明人の手が溶け込んでいる。「手、つないじゃった。」えへ。甘い目をしているのをごまかすように、小さく付け加えた明人越しに今日も綺麗な月が見えた。明人の手をぎゅっと握ってみたが、感触はなく、ただ自分のこぶしを握っただけだった。

「死んでから凪に逢いに行くまでの間で、僕は随分とこの学校を探検して、入念に計画を立ててきたので、安心してください」こっち、と彼が連れて行ったのは、確かに前からボロボロだと思っていた裏門。「いや一応セキュリティで赤外線とかあるでしょ。そんな簡単に入れるわけ。」ここ、ここから入れるよ。と明人が指さしたのは、裏門の柵のゆがんだ部分。確かにここなら体をねじ込めそうだけど、流石に。「赤外線は、校舎を包囲するように出てて、確かにこの部分も裏門がいくらボロボロだといってもそのセキュリティまでは壊れてない。だけど、常に校舎の全辺に照射されているわけじゃなくて、時間によって照射する機械が交代してるらしい。つまり、センサーが切れている部分が必ずどこかはあるってこと。まあ十分刻みでパターンもいくつもあるから、セキュリティ的には問題ないっぽいけど。」続けて明人は俺に、スマホを取り出すように指示する。「今、十二時十二分。十月の水曜日のパターンでは、毎時間の十分から二十分の間で、裏門近くのセンサーが休憩する。」明人が、数学の問題を解いているときと同じ顔つきで説明してくれる。そういえばこいつ、推理小説とか探偵映画とか好きだったな、なんて思い出した。「よく調べたな。」「幽霊はどんな書類でも見れるから」明人は、この数日間学校で息をひそめながら、七不思議のことやこういう忍び込むために必要なことを一人で調べ続けていたのだろう。それはどんな気持ちなんだろう。自分が死ぬためにそういうことを調べるのはどんな気持ちなんだろう。自分は死んだことがないのでさっぱりわからなかった。「さっ、実験するから。」明人はひゅ~っと校舎の中に入っていき、校舎の中からこちらの道路側へ、石を一つ投げた。何も起こらずただ俺の足元で石が跳ねる。「おっけ~、多分大丈夫だから入ってきて。」俺は明人に言われたとおりに裏門へ体をねじ込んだ。