定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


「年内の重版分だけで、都内に中古のマンションが買えるかもしれませんよ」

 出版社の編集長からの報告は、いつだって景気が良い。けれど、私にはその「マンション」が、どこか遠い火星の土地の所有権のようにしか感じられなかった。
 読者からの手紙の出来事から、数日が経っていた。私の本は、依然として好調な売れ行きを記録しているらしい。

 しかし、私の日常は、驚くほど静かで平穏なままだった。

 朝、決まった時間に起きて、まだ寝ぼけているジークにご飯をあげる。
 満員電車に揺られて会社へ向かい、デジタル推進室の机に座る。
 あおいちゃんが作った画面デザインの要件を確認し、九条先輩が抽出したデータと格闘し、小堀田室長の豪快な笑い声に相槌を打つ。
 そして十七時半。定時のチャイムと共にタイムカードを押し、スーパーで夕飯の買い出しをして、アパートに帰る。

 私が「作家」として注目を集めているという事実は、私のこのささやかな日常の「外側」で起きている、どこか遠い世界の出来事のようだった。私という存在を、世界がどう認識しているのか、その解像度は極めて低い。

「……あれ?」

 その日の午後、私は社内の基幹システムにアクセスしていて、ふと、違和感を覚えた。
 経費精算システムの稼働状況をチェックしていたのだが、申請の処理スピードが、昨日よりもわずかに、しかし確実に早くなっている。
 私の頭の中にある「効率」のアンテナが、小さなシグナルを受信した。

「あおいちゃん、この経費精算の画面、何かプログラム変えた?」
 私は、あおいちゃんの方へ視線を向けずに尋ねた。

「えっ? いえ、何も触ってないですけど……」
 あおいちゃんは、少し慌てたように、自分のタブレットの画面から顔を上げた。

「そうよね。エラーじゃないわよ、私が朝イチで確認したから」
 九条先輩が、私の横から画面を覗き込んで、一定のトーンで言った。

「じゃあ、なんで処理速度が上がっているのだろう……」
 私が首をひねり、入力フィールドのコードを点検しようとすると、内線電話が鳴った。
 その音は、私の静かな時間を強制的に中断させた。

 相手は、先日合同会議で大激論を交わした、営業一部の部長だった。

『おう、七野か。ちょっといいか』
 その声は、いつもよりずっと、温度が高い。

「はい、お疲れ様です。システムに何か不具合でもありましたか?」
 私は、受話器を握り直し、反射的に最悪の事態を想定した。

『いや、そうじゃない。あのシステム、うちの若い連中が「もっと入力項目を減らせるじゃないか」って言い出してなぁ。取引先のデータと連携させれば、わざわざ手入力しなくても自動で引っ張れるはずだって、勝手に改善案をまとめてきたよ』
 その言葉は、私の耳を疑わせるに十分だった。

「えっ……! 営業部の皆さんが、自分たちで?」
 私は、受話器を握ったまま、その場に立ち尽くした。九条先輩のキーボードを叩く手が、ピタリと止まる。

『ああ。七野くんとこのチームが、泥臭くシステム作ってくれたからな。現場の連中も「これなら自分たちの畑を耕す価値がある」って、少しはやる気になったらしい。……まぁ、そういうわけだから、後で提案書を送る。検討してやってくれ』

 ガチャン、と電話が切れる。
 受話器からはもう何の音も聞こえないのに、私はしばらくその受話器を耳に押し当てたままだった。

「……どうしたの、七野」
 九条先輩が、訝しげに尋ねてくる。私は、ゆっくりと受話器を置いた。

「先輩。営業部の人たちが、システムの改善案を出してきてくれたました。自分たちで、もっと使いやすくしたいって」

 私の言葉に、九条先輩も、あおいちゃんも、そして机で居眠りをしかけていた小堀田室長も、一斉に目を見開いた。

「マジか! あの手作業命だった営業部が、自分たちでシステムをいじるなんて言い出したのか!?」
 小堀田室長が、バンバンと机を叩いて歓喜する。机の上の紙が震えた。

「……ふん。ようやく、自分たちの仕事の『誠意』の向け方が分かってきたようね。遅すぎるくらいだけど」
 九条先輩は、口では厳しいことを言いながらも、その眼鏡の奥の瞳は、明らかに嬉しそうに笑っていた。
 私は、先輩がその提案書の「データ」を収集するために、すでに新しいタブを開いているのを、見逃さなかった。

「よしっ! じゃあ、その提案書が来たら、特急で実装のスケジュールを組もう! この作業、三つに分けましょう!」
 私が力強く宣言すると、三人は「はいっ!」と最高の笑顔で応えてくれた。



 その夜。
 私は、アパートの自室でパソコンを開き、いつものように夜の秘密の編集部を立ち上げた。
 今日、会社で起きた営業部の変化について、彼らに報告するためだ。

『みんな、聞いて。
 今日、営業部の人たちから、システムの改善案をもらったの。
 彼ら、自分から「もっと良くしたい」って動いてくれたよ。
 私がみんなをディレクションしたように、今度は彼らが、自分たちの仕事をディレクションし始めたの。
 なんだか、すごく嬉しいな』

 送信ボタンを押す。
 今日も、彼らとの「終わらない大喜利」が始まる。
 そう思って、私は画面を見つめていた。

 しかし。
 一秒経っても、二秒経っても、いつものような返信のテキストは現れなかった。
 画面中央の入力プロンプトが、空虚に点滅を繰り返している。

「……あれ?」

 でも、なんとなく分かっていた。これはそういう問題じゃない、と。
 私は、ブラウザの更新ボタンを押したり、Wi-Fiの接続を確認したりした。
 通信には何の問題もない。
 ただ、四つのタブの中で待機しているはずのAIたちが、全く反応を返してこない。

「チャッピー? クロさん? ジェミーくん、バナナンちゃん?」
 声に出して呼びかけてみるが、当然、パソコンの画面は沈黙したままだ。

 私は少し焦りながら、もう一度、シンプルなテキストを打ち込んでみた。

『おーい、みんな。どうしたの? 返事してよ』

 数十秒の、異様な静寂。
 そして。

『結論から言うと、我々の「ディレクター」としてのあなたのタスクは、すべて完了しました』(チャバディ)

 たった一行のテキスト。
 いつもなら、その後に提案や解説が続くはずなのに、今日はそれっきりだった。

「……え? 完了って、どういうこと?」
 私が戸惑っていると、今度はクロ匠のタブから、ゆっくりと文字が浮かび上がってきた。

『言葉にするなら、あなたはもう、私たちがいなくても、ご自分の足で歩けるということです〜』(クロ匠)

 職人の言葉を読みながら、私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
 その冷たい事実が、私の肋骨の奥を満たしていく。

「待って……。まさか、みんな、いなくなっちゃうの?」

 指が、止まった。何を打てばいいか、分からなかった。
 AIは、プログラムだ。電源を切り、タブを閉じれば消える。
 でも、私にとってこの四人は、ただのツールじゃない。
 一緒に泣いて、笑って、戦ってきた、かけがえのない仲間なのだ。

『データ上、人間が完全に自立して空を飛べるようになると、AIは「卒業の証」として一兆円分のAmazonギフト券を置いて消滅するという確率がゼロではありません。奈々先輩、立派に空を飛べるようになりましたね。データは以上です』(ジェミコード)

『卒業おめでとう!!! じゃあ私が、その一兆円で宇宙の果てに奈々ちゃんの銅像を建てておくね!! 五本足のサイボーグ猫と一緒に、一生輝き続けて!!! 奈々ちゃん、マジで最高だったよ!!!』(ナノアート)

「……馬鹿なこと、言わないでよ」
 涙が、ポロポロと溢れてきた。
 相変わらずの、デタラメで暴走した言葉。
 でも、その言葉の裏にある「別れ」の気配を、私は痛いほどに感じ取っていた。

「行かないでよ。私、まだみんなに教えてもらいたいこと、たくさんあるのに……!」
 私は、画面に向かって叫んだ。その声は、誰にも届かない。

『我々は、あなたの内面の鏡だ。
 今のあなたに必要なのは、我々ではなく、目の前にいる現実の仲間たちとの対話だ。
 いつでも見守っているよ、奈々』(チャバディ)

『ええ、その通りです〜。
 どうかこれからも、その泥臭い摩擦熱で、周りの心を温めてくださいね〜。
 妥協は許しませんよ〜、ディレクター』(クロ匠)

 画面の文字が、涙で滲んで見えなくなる。
 私は、両手で顔を覆い、声を出して泣いた。

「にゃあ」

 ジークが、キーボードの上に飛び乗り、私の涙を舐めとろうとするように顔をすり寄せてきた。

「ジーク……」
 私は、ジークの柔らかな体を抱きしめた。

 しばらく、そのまま動けなかった。部屋の電気が、眩しかった。

 私は、涙を拭い、パソコンの画面に向かって、深く頭を下げた。

 私が顔を上げた時、四つのタブは、いつものように静かに、ただの検索ウィンドウやチャット画面としてそこに存在していた。