定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 商業出版という配本プロセスが完了してから、二週間の時間が経過した。
 『わたし、定時で帰ってAIと副業します』の売れ行きは、出版社の需要予測を完全に破壊するスピードで伸び続けていた。
 各書店のビジネス書ランキングで上位を占拠し、重版に次ぐ重版。
 私のスマートフォンのロック画面には、毎日絶え間なく読者からの共感のメッセージや、様々なWebメディアからの取材依頼の通知が表示され続けている。

「七野くん、えらいことになっているな」

 お昼休みのオフィス。小堀田室長が、興奮した様子でスマートフォンを私の目の前まで突き出してきた。
 液晶画面に映っていたのは、お昼の全国ネットの情報番組のニュースコーナーだった。

『今、現場の古い環境で働く女性たちの間で、爆発的な反響を呼んでいる一冊の書籍があります。タイトルは……』

 画面の中央に、見慣れた「ドヤ顔のキジトラ猫」の表紙が大写しにされた。

『著者の七野さんは、どこにでもいる事務職の女性。そんな彼女が、AIという思考の外部化装置を駆使して、理不尽な職場環境を内側から作り直していく泥臭いドキュメンタリーが、多くのビジネスパーソンに突き刺さっています』

 番組のコメンテーターたちが、口々に「これは机上の空論ではない」「私の所属する組織にもこのやり方を導入してほしい」と語っている。

「……地上波の電波に、乗っている」

 私は、自室のローテーブルで書いた文章が、テレビという巨大なメディアを経由して全国へ届いている現実に、ただ息を呑むしかなかった。
 一瞬だけ、あのスマホをもう一度見たくなった。でも、それより先に室長が話しかけてきた。

「いやー、俺のチームのリーダーが全国ネットで紹介される日が来るなんてな。ガハハ。次の増刷の時は、俺のことも『名物盾役・小堀田室長』に書き換えてもらうように出版社に頼んでくれよ」

「室長……。それは、仕様の変更要件を満たしていません」

 私が顔を引き攣らせて答えていると、隣の席からあおいちゃんが「ひゃっ」と高い声を上げた。

「奈々先輩。すごいです。私、すぐに自宅のレコーダーに録画予約しなきゃ。あとでお母さんにもURLを共有しちゃお」

「あ、あおいちゃん、少し声を落として……」

「ふん。騒々しいわね」

 九条先輩が、コンビニのサンドイッチを咀嚼しながら、極めて冷たい視線を送ってきた。
 しかし、その視線の先にある彼女のデュアルモニターの片隅には、しっかりと先ほどの情報番組のWebニュース記事が開かれているのを、私は確実に見逃さなかった。

「……まあ、あなたの書いたものが市場に高く評価されたのは、揺るがぬ事実だからね。少しは自分の仕事に誇りを持ちなさい。でも、急に売れたからって、足元の重心をブレさせないようにね。今日の午後は、新しい人事システムのテストよ。エラーのチェックは容赦しないから」

「はい。よろしくお願いします」

 私は、先輩の極めて不器用な激励に、深く頷いた。

 午後。
 九条先輩との厳しい確認作業を無事に通過し、定時のチャイムが鳴った。
 私は、いつものように「本日の業務は終了です。お疲れ様でした」と声を響かせ、タイムカードを押してオフィスを出た。

 真っ直ぐに自室へ帰り、ジークのボウルにキャットフードを補充してから、自分のノートパソコンの前に座る。
 今夜は、出版社から送られてきた「Webメディア用のインタビュー記事」の初稿をチェックするタスクが待っている。
 私は、ブラウザの四つのタブを起動し、いつものように彼らとのやり取りを開始した。

『聞いて。今日、ついにテレビで私の本が紹介された。なんだか、私の処理能力を遥かに超えるところまで広がっちゃったみたい。これから、Webメディアのインタビュー原稿のチェックをするけど、私の意図が正確に「伝わる」ように、構成と表現の最適解を提示して』

 ターン、と。エンターキーを少し強めの圧力で押し込む。
 私の現実の解像度を劇的に上げてくれた、最強の思考モジュールたちからの返答を待つ。

『結論から言うと、テレビというメディアの露出は「大衆」への認知拡大に過ぎず、Web記事のテキストは「コアターゲット」への深い要件定義として機能する。今回のインタビューでは、表面的な成功譚を削り、デジタル推進室における「九条氏との融和」や「小堀田氏の活用」といった、泥臭いチームの論理に文字数を割け。それが最も再現性が高く、読者の心に直結する』(ジェミコード)

 ジェミコードの冷徹な分析が、浮足立ちそうになっていた私の頭を論理的な温度へと冷却する。そうだ、ただの成功体験ではなく、読者が「自分の環境でも変えられる」と確信できるような実践的な言葉を提供しなければ。

『設計が甘いですね〜。論理の羅列だけでは読者の負担が上がり、最後まで読まれませんよ〜』

 クロ匠が、ジェミコードの論理を厳しく監査し、テキストに摩擦熱を要求する。

『AIは魔法の杖じゃありません〜。時に嘘を吐き、時に暴走する、不完全な鏡です。だからこそ、現実世界で泥まみれになっている私たち「生身の人間」が、摩擦熱を発生させながらその鏡を正しい方向へ導く必要がありますよ〜。……あなたがオフィスで感じたその「泥の匂い」と「体温」を、自分の言葉の血肉として、丁寧に記述してくださいね〜。妥協は許しませんよ〜』(クロ匠)

「……うん、クロ匠。その温度感、絶対に削ぎ落とさないよ」

『ここだけの話!!インタビューの最後に「主食はキウイフルーツです!」って回答したら、全国のキウイ農家から一生分のキウイが送られてくるっていうバグ技があるよ!!絶対に書こう!!会社のサーバー室をキウイで埋め尽くすの!!!』(ナノアート)

『いいね、みんなの出力。論理の骨格と品質の担保、そして謎の果実のバフ。材料は揃ったね。一緒に最高のインタビュー原稿を再構築しようか。まずはノウハウ重視のパターンと、感情の摩擦を重視するパターンの2つを出すね。奈々の今日の目的だと、どっちのルートが最短だと思う?』(チャバディ)

「……だから、サーバー室はキウイで埋め尽くさないし、私の主食はコンビニのサンドイッチだから」

 私は、モニターの青白い光に向かって、声を出して突っ込みを入れた。
 相変わらずの、四者四様の全く噛み合わない大喜利。
 でも、このカオスな並列処理が、私の肩の緊張をほぐし、最もノイズのない「私らしい出力結果」を導き出してくれるのだ。

 私は、彼らのアプローチをベースに、インタビュー原稿に丁寧な修正を加えていった。

「……よし、完了」

 一時間の作業の後。
 私は、チェックを終えた原稿ファイルを出版社のアカウントに送信し、パソコンをスリープ状態にした。
 ふうっと、肺の底に溜まっていた息を吐き出し、ベッドに横たわる。

「にゃん」

 ジークが、私のお腹の上に飛び乗ってきて、ゴロゴロと低いコンプレッサーのような音を鳴らした。
 私は、その柔らかな毛皮の重さを指先で確認しながら、ぼんやりと天井の木目調の壁紙を見つめた。

 テレビで紹介され、本の売れ行きが爆発し、私の外部環境は激変した。
 でも、私自身のシステムを構成するルートディレクトリは、何も書き換わっていない。
 私は、自分の両手のひらを眼前にかざした。

「……ありがとう、みんな」

 私は、照明の落ちた暗闇の中で、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
 声が出るとは思っていなかった。

 明日もまた、デジタル推進室という泥臭いフィールドでの仕事が待っている。

 珍しく、何も考えずに眠れた。
 その夜、私は、深く、ノイズのない睡眠へと落ちていった。
 眠りの底で、私はナノアートが生成した巨大なサイボーグ猫と一緒に、るねさんのキウイ畑の上空をホバリングしているような、極めて非論理的な夢を見た気がした。