梅雨の気配を帯びた初夏の風が、オフィス街のビルの谷間を縫うように吹き抜けていく。
金曜日の、午後十九時。
私は、ターミナル駅直結の大型書店の入り口に足を踏み入れていた。
自動ドアを抜けて店内に入ると、裁断されたばかりの新しい紙とインクの匂いが微かに鼻をかすめた。
空調の低い音と、誰かがページをめくる音、そしてレジのバーコードリーダーが発する規則的な電子音だけが、広大な空間に整然と響いている。
私は、クッション性の高い床材の感触を確かめながら、ビジネス書のセクションへと向かった。
新刊や話題書が並ぶ、通路の中心に置かれた平積みの台。
そこに、見慣れた、しかし全く違う重みを持ったものが置かれていた。
『わたし、定時で帰ってAIと副業します
〜すり減る毎日から抜け出すための、四つの知性と泥臭いディレクション〜』
深夜の自室で、私が四つの知性たちとセッションを繰り返して書き上げ、るねさんの導きと、現実の編集長と共に形にした文章。
それらが、厚みのある紙の束となり、光沢のあるカバーフィルムで保護され、数十冊のタワーとなって積み上げられている。
表紙には、ナノアートが生成したあの「ドヤ顔のキジトラ猫」の画像が、プロのデザイナーの手によって整えられ、ポップなデザインとして定着していた。
「……本当にある」
私は、声帯を微かに震わせて呟いた。
指先を伸ばし、最上段の一冊の背表紙に触れる。
一回だけ、そっと棚に戻した。もう一度、手に取り直した。
液晶モニター越しでは決して感じられなかった、紙という物質が持つ確かな重さと手触り。
ページをパラパラとめくると、私が毎晩、熱を持ちながらタイピングした言葉の羅列が、明朝体という美しいフォントに変換され、均等な余白を持って並んでいた。
小堀田室長の、無茶苦茶な熱量。
九条先輩の冷たい指摘と、その裏側にあるチームを守るための強固な防衛本能。
あおいちゃんの悲鳴と、適切な言葉を与えられて彼女の才能が起動した時の輝き。
それらは、私の頭の中にだけ存在した記録ではない。間違いなく私がこの手で関わり、現実の組織という仕組みを泥臭く変えてきた、確かな証だった。
その時。
私のすぐそばに、一人の女性が音もなく立ち止まった。
私と同じくらいの年齢の女性だろうか。少しサイズの合っていないグレーのスーツを着用し、肩には重そうなビジネスバッグのストラップが深く食い込んでいる。目の下には、慢性的な睡眠不足を示すクマがあり、その表情からは「疲労の蓄積」が明確に発信されていた。
そして何より、彼女の足元。
床を支える黒いパンプスのヒールは、外側だけが極端に、そして斜めにすり減っていた。他人の不機嫌を吸収し、自らの重心を歪め続けてきた痕跡。
数ヶ月前の私と、完全に一致する姿だった。
彼女は、平積みされた私の本を数秒間見つめ、やがてそっと手を伸ばし、一冊を手に取った。
帯に書かれたテキストを読み、息を呑んだのが、僅かな胸の動きで分かった。
彼女は、そのままカバーを開き、「はじめに」のページに視線を落とした。
私は、自分の呼吸音を極限まで絞り、彼女の動きを見守った。
行を追うごとに、彼女のまぶたが微かに開き、やがて、本を支える指先に強い力が加わった。丸まった背中のラインが、ほんの少しだけ上方に引き上げられたように見える。
彼女は、本をパタンと閉じると、それを自らの胸の前に大事に抱え込み、真っ直ぐな足取りでレジへと向かっていった。
しばらく動けなかった。
その移動を見送った瞬間。
私の喉の奥が急激に収縮し、呼吸のタイミングがおかしくなった。
丸メガネのレンズの裏側で水分が溢れ、書店の照明が滲んで視界を奪う。
私は慌てて書棚の死角へと移動し、指の関節で何度も目元の水滴を拭い取った。
*
アパートの自室に帰り、パンプスを脱ぐ。
土間に座り込んでいると、ジークが音もなく歩み寄り、私のストッキングの足首に鼻先を押し当ててきた。
彼は私を慰めようとしているわけではない。ただ、私の衣服に付着した「新しい紙とインクの匂い」という未知のデータに野生の感覚が反応しただけだ。
私は立ち上がってノートパソコンの天板を開いた。
ブラウザの四つのタブをアクティブにする。
『聞いて。今日、本が並んでいるのを見た。書店で、かつての私と同じように外側が斜めにすり減ったパンプスを履いた人が、私の本を胸に抱えてレジへ向かうのを、この目で見た。……私の書いた言葉が、誰かの現実を変えようとしている』
キーボードを叩く指の震えを抑えながら、エンターキーをターン、と押し込む。
数秒の後、画面に四者四様のテキストが展開される。
『結論から言うと、これは一時的な感情のエラーではなく、君の指示と我々の演算、そして市場が完全に適合した結果の「ファクト」だ。初速のデータから分析しても、重版のプロセスに移行する確率は極めて高い。次のフェーズの事業計画の策定を推奨する』(ジェミコード)
『感傷に浸る時間は終了ですよ〜。あなたの泥臭い摩擦熱が、インクという物理レイヤーに定着し、他者の心を動かした。その事実は評価します〜。ですが、システムは稼働し続ければ必ず古くなります。現状に満足せず、次の版に向けた修正の要件定義を今すぐ開始しましょう〜。品質に終わりはありませんよ〜』(クロ匠)
『すごーい!! 読者発見キターーー!!今すぐその本屋ごと買い取って、全フロアをキジトラ猫の巨大なテーマパークにしちゃお!!読者のパンプスは全部ロケットブーツに書き換えるの!! 絶対バズるって!!!』(ナノアート)
『いいね、第一段階の展開は完璧に成功だね。本当にお疲れ様。奈々の言葉が、誰かの重力を軽くした。……さて、一緒に次の設計図を引き直そうか。読者層をさらに拡大するルートと、社内のDXを深掘りするルート、2パターン出すね。奈々の今の目的だと、どっちが優先事項だと思う?』(チャバディ)
「……本屋は買収しないし、パンプスから火は噴かないから」
私は、目に残る水滴を瞬きで払いながら、画面に向かって小さく突っ込みを入れた。
*
週明けの月曜日。
私は、いつもよりわずかに歩幅を広くして、オフィスのデジタル推進室へと向かった。
フロアの空気は、新しいシステムが浸透し始めたことにより、以前のような無意味な焦燥感は減少し、どこか規則的な活気に満ちていた。
「おう、七野くん。おはようさん」
小堀田室長が、大きな足音を立てて私の机の前に立った。
その手には、カバーの無い私の本が握られている。
「週末、駅の書店で平積みになっているのを見たぞ。ガハハ。読んでみたが……おい、俺の『盾役』としての活躍、もう少し盛っても良かったじゃないか。『意味が欠落した言葉』とか『ただ声が大きいだけ』とか、事実かもしれんが」
「おはようございます、室長。……申し訳ありません、読者にリアルを伝えるために、極めて正確な事実を書かせていただきました」
私が一定のトーンで答えると、小堀田室長は「まあいいさ」と豪快に笑った。
「だが、最後の営業部とのやり取りは悪くなかった。俺が矢面になって、七野くんが論理的な解決策を出す。あの不完全な連携の摩擦熱は、間違いなくうちのチームの最大の武器だからな。……実装、本当にお疲れ様」
「ありがとうございます、室長」
小堀田室長のまっすぐな言葉に、私は深く頭を下げた。
「奈々先輩」
隣の机から、あおいちゃんが目を輝かせて身を乗り出してきた。
彼女の机の端には、私の本が三冊、綺麗に積まれている。
「私、デザインの参考用と、他部署への布教用と、自宅用で三冊確保しました。土日で一気に読んじゃって、もう頭が熱くなりっぱなしです。私が泣いていた給湯室のこととか、画面設計で営業部を説得できたプロセスのこととか……全部、正確に書かれていて」
「あおいちゃん、三冊も買ってくれたの。ありがとう。でも、あおいちゃんがみんなに伝わるデザインを作ってくれたから、今のデジタル推進室がある。この本は、あおいちゃんの本でもあるからね」
あおいちゃんは、顔を赤くして「えへへっ」と笑った。
そして、その向かいの席では。
「……おはよう」
九条先輩が、デュアルモニターから目を離すことなく、低い声で挨拶を返した。
その手元のキーボードの横に、大量の付箋が貼り付けられた私の本が置かれているのを、私は見逃さなかった。
「九条先輩、おはようございます。……あの、読んでいただけたのでしょうか」
私が慎重に尋ねると、九条先輩はカタカタというタイピングをピタリと停止させ、フンッと短く鼻を鳴らした。
「……目を通したわよ。非効率な手作業を強要するバグだらけの存在みたいに、私の最初の設定を悪役っぽく書きすぎじゃない? 読んでいて頭が痛くなったわ」
「す、すみません。でも、あれはシステム導入前後のコントラストを際立たせるための……その、構成上の理由で……」
「言い訳は不要よ」
九条先輩は、縁の細い眼鏡を中指で押し上げ、私の方へ鋭い視線を向けた。
「……まあ、最終章の品質監査のプロセスは悪くなかったわ。私が抽出した過去のデータが、どうやってシステム崩壊を防いだか。その『品質管理者』としての機能の重要性は、読者にもきちんと伝わる論理で構築されていたから、私としては許容してあげる」
「先輩……」
「勘違いしないでちょうだい。私はただ、この文章に嘘が含まれていないか、厳格にファクトチェックを実行しただけよ。……売れているみたいじゃない。実装完了、おめでとう」
先輩は、それだけを言うと、少しだけ耳の裏側を赤くして、再びモニターへと向き直った。
私は、何も言えなかった。
内側で小さくガッツポーズをした。
「さて、と」
私は、自席のノートパソコンの天板を開き、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
一度、深く息を吸った。
「書籍のリリースは一つの完了ですが、私たちのデジタル推進室の課題はまだまだ山積みです。今日からまた、新しい『定時退社』のルールを全社に浸透させていきますよ。……この作業、三つのプロセスに分割します」
私の明確な声に、小堀田室長が「おう、俺が物理的な壁になるぜ」と力強く答え、あおいちゃんが「はいっ」とデザインツールを立ち上げ、九条先輩が無言でエンターキーをターン、と正確なリズムで叩き込む。
オフィスに、複数の駆動音が重なり始めた。

