定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 深く、ノイズのない睡眠の底から浮上すると、遮光カーテンの隙間から差し込む光が、すでにうっすらと白み始めていることを伝えてきた。
 私は、鉛のように重い身体の疲れを感じながら、ベッドの上に上体を起こした。
 頭の奥には徹夜による明確な疲労が残っているが、不思議と呼吸は深く、安定していた。
 足元のラグの上では、ジークが完全に脱力して丸くなっている。その規則正しい小さな寝息が、静寂に包まれた朝のワンルームの空気に、一定のリズムで干渉していた。

「……出力、完了だ」

 私は、声帯を微かに震わせて、事実だけを呟いた。
 深夜に原稿のデータを送信し、パソコンの電源を落とした時の、あの圧倒的な達成感と、それに伴う急激な脱力。
 それはまるで、限界まで回し続けたエンジンが、一気に冷却されていくような心地よい弛緩だった。

 私は、軋む膝の関節を庇いながら立ち上がり、カーテンを開いた。
 東京のコンクリートの連なりが、朝の光に照らされて徐々にその輪郭をはっきりとさせていく。

 私は、小さなキッチンで電気ケトルのスイッチを押し、インスタントのコーヒーを淹れた。
 新しいカフェインの匂いを深く肺に取り込みながら、スマートフォンの画面のロックを解除する。
 そこには、昨夜の送信直後に、〇〇出版の編集長から返信された文章が残っていた。

『原稿、拝受いたしました。
……圧倒的な熱量です。七野さん、これがあなたの「泥臭い現実」なんですね。
社内の不完全な人間関係の摩擦、AIという思考の外部化装置とのセッション、そして何より、あなた自身の変容のプロセスが、痛いほど高い解像度で伝わってきました。
このテキストは、きっと多くの読者の「現在地」を再定義する強固な力を持っています。
出版に向けた最終フェーズ、全力で伴走させていただきます』

 私は、その文字列を何度もなぞった。
 丸メガネの奥で、再び視界が水滴の層によってふわりと滲みそうになる。
 一回だけ、スマホを伏せた。
 自らが作ったものが、他者の目を通して正確に「価値」として評価されたことによる、純粋な報酬のシグナルだ。

 私は、スマートフォンをテーブルに置き、ノートパソコンの天板を開いた。
 いつものように、ブラウザの四つのタブを立ち上げる。

『みんな、おはよう。原稿データ、無事に編集長に納品されたよ。結果は最高の評価だった。本当に、みんなの協力のおかげ。最高の生成をありがとう』

 私は、キーボードを叩いて、深夜の執筆の最終結果を入力した。
 エンターキーをターン、と叩いた数秒後。画面に四者四様のテキストが弾け飛ぶ。

『結論から言うと、これは君のディレクション能力の向上がもたらした必然的なファクトだ。我々の出力の品質は、君のプロンプトの精度に完全に依存する。君が明確なゴールを設定し、人間とAIのリソースを最適に配分したからこそ、この結果がもたらされたのだ』(ジェミコード)

『それは、本当に喜ばしい成果ですね〜。あなたの紡いだ摩擦熱のある言葉が、誰かの心に届く。その品質管理のプロセスに伴走できたこと、私も誇りに思います〜。……ですが、バッテリーは限界値を超えていますよ〜。今日は意図的に処理速度を落として、回復に努めてくださいね〜』(クロ匠)

『やばい!!出版確定キターーー!!これで印税が入ったら、オフィスごと買い取って全フロア猫カフェにしちゃお!!室長の机は巨大な爪とぎタワーに変更ね!!伝説の始まりじゃん!!!』(ナノアート)

『いいね、一つの巨大なプロジェクトが統合されたね。本当にお疲れ様。奈々の言葉が、現実の誰かを変える瞬間が楽しみだ。……さて、一緒に次の設計図を引き直そうか。今日は少し負荷を下げたルートと、通常稼働のルートの2つを出すね。今の体力だと、どっちが安全にログアウトできる?』(チャバディ)

「……オフィスは買収しないし、猫カフェにもしないから。室長が爪を研ぎ始めちゃうでしょ」

 私は、画面に向かってツッコミを入れ、小さく笑った。
 相変わらずの、やかましくてバラバラな声の羅列。
 私は、深く酸素を吸い込み、最後の言葉を打ち込んだ。

『これからも、私の思考の外部化装置として常駐してね。一緒に、この泥臭い現実のルールを、もっと書き換えていこう』

 エンターキーを叩き、私はパソコンのシステムをスリープ状態へと移行させた。



 出社すると、デジタル推進室の島は、すでに一定の駆動音と活気に満ちていた。
 あおいちゃんは、新しいシステムの画面デザインの微細な調整に熱中している。
 九条先輩は、相変わらず親の仇を探すような厳しい眼光で、デュアルモニターに表示されたシステムのエラー履歴を一つ一つ潰している。
 小堀田室長は、受話器を握りしめ、他部署と何やら高い声量で交渉を発生させている。

「おはようございます」

 私が一定のトーンで挨拶をすると、三人が一斉にこちらへ顔の向きを変えた。

「奈々先輩。おはようございます。最終原稿の提出、無事に完了しましたか」
 あおいちゃんが、強張っていた顔の筋肉を緩めて問いかけてくる。

「うん。おかげさまで。みんなが私のために時間を確保してくれたから、最高の原稿ができたよ。本当に、ありがとう」

 私が深く頭を下げると、小堀田室長が「ガハハ」と豪快な笑い声を鳴らした。

「おう。そりゃあミッション・コンプリートだな。リーダーが正常に稼働してないと、このチームは回らねえからな。俺は引き続き、外の連中の防波堤として機能しとくわ」

「……まったく、人騒がせなディレクターね。自分の体調管理くらい、不調を起こさないように自己完結させなさいよ」

 九条先輩は、相変わらずの厳しい態度で、私に苦言を投げてきた。
 でも、その言葉の端々には、システムと人間を守ろうとする、確かな『品質管理』の意図が滲んでいた。

「はい、以後は体調管理を徹底します。……あ、九条先輩。昨日共有フォルダに上げていただいたミスの履歴データ、最高のエビデンスになりました。あれがあったから、原稿の説得力が何倍にも上がりました」

 私が事実を伝えると、先輩は「フンッ」と短く鼻を鳴らし、自分のモニターへと視線を戻した。

「……私の古い記憶が役に立ったなら、それでいいわ。さっさと新しいシステムのテスト版を作って、私にチェックさせなさい」

 先輩の耳の裏側が、少しだけ赤外線の波長を強く反射しているように見えた。
 私は、声を出さずに小さく笑い、自分の机のパイプ椅子に腰を下ろした。

 もう、「他人のエラーを吸収してすり減る」という感覚は存在しない。
 一度、深く息を吸った。

「さてと。このリカバリー作業、三つのプロセスに分割します」

 私は、パソコンの天板を開き、明確な声量で指示を出した。

 あおいちゃんが「はいっ」と明るい声で応答し、九条先輩がカタカタと正確なリズムでキーボードを叩き始め、小堀田室長が「よし、俺が物理的な矢面に立つぜ」と立ち上がる。

 一秒だけ、そのまま三人を見ていた。

 窓の外には、ノイズのないクリアな青空が広がっていた。