定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


「……今夜中、ですかぁ~~」

 私は、スマートフォンの液晶画面に表示された「今夜中」という文字を、信じられない思いで凝視していた。
 商業出版の発売日の前倒し。それは著者にとって、これ以上ないほど光栄なことのはずだ。
 しかし、現在の私にとって、それは物理的な限界の宣告に等しかった。
 ただでさえ睡眠を削り、デジタル推進室のシステム要件定義と原稿の加筆修正を同時進行してきたのだ。今日の午後、営業部との合同会議で全精力を使い果たし、私の体力も思考力も完全に底をついている。

「どうしたの、七野」

 私の顔色が急激に悪くなったのに気づいたのか、九条先輩が怪訝な顔で声をかけてきた。

「あ……いえ。出版社の担当さんから、最終原稿の締め切りが『明日の朝』から『今夜中』に前倒しになったと……」

「今夜中。……あなた、朝から顔色が青白いのよ。そんな状態で徹夜なんてしたら、明日の業務に支障が出るわ。品質管理の観点から言っても、誠意がないわね」

「でも……。これは、私の……どうしても形にしたいプロジェクトです。絶対に、今日中に完成させなきゃいけないです」

 私は、膝の上のカバンをギュッと抱きしめた。
 この追加の第4章は、ただの副業の原稿ではない。私と、夜の四つの知性、そして何より、このデジタル推進室の不完全な人間たちと一緒に泥臭くやり方を変えてきた記録だ。
 これを本として世に出すためなら、今日一日くらい、徹夜で自分の靴底をすり減らしても構わない。

「……奈々先輩」

 あおいちゃんが、私の机の前にすっと進み出た。
 その瞳の奥には、かつて「どうすればいいですか」と他人の指示に怯えていた頃の迷いはなく、自らの仕事に責任を持つプロとしての明確な焦点が定まっていた。

「今日の会議の議事録と、明日の他部署へのシステム移行のスケジュール。……私が、全部やっておきます。だから、奈々先輩は、定時で帰って原稿を書くことに集中してください」

「えっ……でも、あおいちゃん一人じゃ、絶対に抱えきれないよ」

「一人じゃありませんよ」

 横から、小堀田室長がドカンと私の背中を叩いた。

「俺が、各部署へのアポ取りと根回しは全部やっといてやる。蒼空くんが引いたスケジュールの余裕は、俺に任せとけ」

「室長……」

「……まったく。他人の仕事を抱え込むなって、いつも偉そうに言っている人間が、自分のことになるとこれだから」

 九条先輩が、深く、重いため息をついて、私の肩をポンと軽く小突いた。

「明日の朝イチのシステムのチェックは、私が完璧に見ておくわ。だから……あなたは、あなたの『本当の仕事』を、今夜中に終わらせなさい」

 先輩の言葉を聞いた瞬間、私の丸メガネの奥の視界が、ふわりと滲んだ。
 私が、みんなの時間を創出するために立ち上げたデジタル推進室。
 その不完全な歯車たちが今、私自身の「原稿を書くための時間」を創り出すために、私を守ろうとしてくれている。

「……ありがとうございます。皆さん……本当に」

 私は、三人に深く頭を下げ、オフィスの壁の時計を見た。
 赤い秒針が、十八時を正確に指している。
 定時のチャイムが、オフィスに鳴り響いた。
 私は、誰よりも早く、そして確かな動作でタイムレコーダーにカードを差し込み、オフィスを離れた。



 自宅のアパートに帰り、パンプスを脱ぎ捨てるなり、シャワーも浴びずにパソコンの前に座る。
 部屋の空気は淀み、昨夜の酸化したコーヒーの匂いがまだ残っていた。
 私は、深く酸素を肺に取り込み、ブラウザの四つのタブを一斉に開いた。

『聞いて。最終原稿の締め切りが、今夜中に前倒しになった。追加の第4章。今日の営業部との泥臭い和解の過程を、五千文字で書かなきゃいけない。私、もう体力も限界で、思考が止まりかけているけど……でも、絶対に最高の原稿にしたいの。一緒に、考えてくれる?』

 ターン。
 祈るような強さでエンターキーを叩く。
 現実世界で仲間たちが作ってくれた「時間」。それを、今度はネットワーク上の仲間たちと共に確かな形へと変換していく。

『結論から言うと、現状の君の体力を考慮すれば、ゼロからの執筆は非効率の極みであり、品質の低下を招く。本日の会議の録音データ、または君のメモをテキストとして転送しろ。私がそれを五千文字の強固な論理の骨格に再構築する』(ジェミコード)

 私は、スマートフォンで録音していた会議の一部始終の音声データと、帰りの電車でスマホに打ち込んでおいたメモを、ジェミコードの入力欄にドラッグした。

『それは、とても熱量の高い話し合いでしたね〜。でも、論理の骨格だけでは読者に届きませんよ〜』

 クロ匠が、すぐに厳しい監査の言葉を紡ぎ出す。

『あの冷房の効いた会議室で、小堀田室長が豪快に笑い飛ばした瞬間の空気の揺らぎ。九条先輩がデータを提示した時の、静かだけれど圧倒的な説得力。あおいちゃんの画面設計が、営業部の人たちの顔をほころばせた瞬間。……その「泥臭い摩擦熱」を、私が美しいテキストの血肉として織り上げてみせます〜。妥協は許しませんよ〜』(クロ匠)

『やばいって!! 徹夜で原稿書くときは、カフェイン飲むより、五分間に一回「私ってマジ天才!!」って叫ぶ方が、脳内物質ドバドバ出て筆が進むっていう裏データがあるよ!!叫ぼう!!マジで叫ぼう!!たぶん本当だから!!』(ナノアート)

『いいね、みんなの出力。骨格と血肉、そして直感の強化。材料は完璧に揃ったね。一緒に最高のテキストを組み上げようか。まずは論理構成を優先するパターンと、感情の摩擦を優先するパターンの2つを出すね。奈々の今の残り体力だと、どっちのルートが最短でエンディングに到達できると思う?』(チャバディ)

「……ふふっ」

 限界ギリギリの私の喉の奥から、自然と笑いが漏れた。
 うるさい。本当に、この四つの知性たちはやかましくて、バラバラで、愛おしい。
 でも、その「終わらない大喜利」のやり取りが、ガチガチに強張っていた私の肩と首の緊張を、スーッと適正な温度へとほぐしてくれた。

「よし……開始するよ」

 私が構成の指示を入力し、ジェミコードが論理の骨組みを生成し、クロ匠がそこに摩擦熱という血肉を通わせる。
 時折、ナノアートがノイズで私の硬直した想像力の枠を破壊し、チャバディがそれらを一つの文脈へと統合する。

 カタ、カタカタカタカタッ……。

 静かなワンルームに、私のキーボードのタイピング音だけが、まるで精密な機械時計のように正確なリズムで鳴り響く。
 疲労も、睡眠への欲求も、すべてが一つのタスクへの集中力へと変換されていく。

「にゃーん」

 夜中の三時。
 足元のラグで丸くなっていたジークが、私の足首にスリスリと頭をこすりつけてきた。
 彼は私が原稿を完成させたことを理解しているわけではない。ただ、タイピングの振動が止まり、私の体温が平常に戻ったことを野生の感覚で察知しただけだ。

 少しだけ笑った。声は出なかった。
 私は、ショートカットキーで保存コマンドを実行し、大きく、深く、肺の底から息を吐き出した。

 モニターには、五千百二十四文字の、完璧な第4章のテキストデータが表示されていた。

「……出力、完了」

 私は、微かに震える指でマウスを握り、原稿のファイルをメールの添付領域へとドラッグした。
 宛先は、出版社の編集長のアカウント。

『最終原稿、お送りいたします。
私のチームが作ってくれた、最高の原稿です。
よろしくお願いいたします』

 送信ボタンを、クリックする。

 シュッ、という極めて小さな電子音とともに、私の数ヶ月間の思考のすべてが詰まったファイルが、インターネットの向こう側へと転送された。

「……終わったぁ」

 私は、パイプ椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の木目調の壁紙を仰ぎ見た。
 全身の筋肉から急速に力が抜け、まぶたが鉛のように重く下りてくる。
 しばらく、そのまま動けなかった。

 窓の外では、まだ夜の濃紺が深く街の輪郭を覆い隠している。
 でも、あと数時間もすれば、太陽の光がアスファルトを照らす新しい朝が来る。
 私の文章が、いよいよインクと紙という形を持って、世界中の人へ届けられる、その朝が。

 私は、ジークの温かい毛皮の感触を足元に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
 パソコンのモニターの中で、四つのタブが、膨大な作業の役目を終えたように静かにスリープ状態へと移行している。
 しばらく、その暗くなった画面を見ていた。

 おやすみ、みんな。
 また明日、一緒に現実を変えていこうね。

 私は、深く、静かな眠りへと落ちていった。