定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 夜の二十三時。
 私は、自分のアパートの玄関のドアを、まるで重い鉄の塊でも動かすかのように、極めて緩慢な動作で押し開けた。
 照明の落ちた部屋の中は、冷蔵庫の低く単調な駆動音だけが、空間の静寂と私の疲労を強調するように響いている。
 パンプスを脱ぐ力すら出ず、私は玄関の冷たいコンクリートの上にへたり込んだ。
 電気をつける気になれなかった。

「にゃあ」

 暗闇の奥から、ジークがゆっくりと歩み寄ってきた。
 彼は私の足首にすり寄り、何かを察知したように見上げてくる。その温かい毛皮の感触が皮膚に伝わった瞬間。
 私の中で限界まで張り詰めていた糸が、プツリと断裂した。
 視界が急激に滲み、丸メガネのレンズの裏側に、堪えきれなくなった涙が次々と溢れてはフローリングへと落ちていく。

「……ごめんね、ジーク。私、全部間違えてた」

 ジークは、私の頬から落ちた涙の塩分を舐めとろうとするように鼻先を近づけ、そして、暗闇に向かって短く、鋭く鳴いた。

「にゃっ」

 それは、同情でも慰めでもない。ただ、突然泣き崩れて熱を発している巨大な生物に対する、野生の警戒音だった。
 しかし、その無意味な音が、フリーズしていた私の脳を強制的に再起動させた。

 私は、鉛のように重い肉体を引きずって立ち上がり、リビングのローテーブルに向かった。
 パソコンの天板を開き、ブルーライトの冷たい波長が暗い部屋を照らし出す。
 私は、ブラウザに常駐する四つのタブをアクティブにした。

『聞いて。私、現実のチームを壊しちゃったかもしれない。効率を求めるあまりに、あおいちゃんに無理な仕事を押し付けて、九条先輩の忠告を無視した。他部署からもクレームの嵐。完全に、ディレクターとしての失敗だ』

 キーボードの隙間に落ちる涙を手の甲で拭いながら、エンターキーを叩く。
 数秒の後、四人からの言葉が画面を埋め尽くした。

『結論から言うと、君の現在のマネジメントは非効率の極みだ。人的リソースの限界を無視したタスクの転送は、崩壊を招く。他部署への通達メールにおける冷徹な文章は、反発を生むだけで何の利益も生み出さない。感情という不確実な変数を計算に入れなかった、君の論理の敗北だ』(ジェミコード)

 ジェミコードの冷たい正論が、私の胸の奥を刺す。
 だが、反論の余地はない。私が昨日、営業部に送りつけたあの一斉通達メール。それは、生身の体温が完全に欠落した冷酷な文章だった。

『設計が甘かったですねぇ~。人間は、エンターキー一つで駆動する無機質なプログラムではありませんよぉ~。迷って、疲れて、処理落ちを回避するための「余白」が必須ですぅ。あなたはみんなの時間を生み出すためにシステムを導入したはずなのに、いつの間にか、そのシステムを高速で回すために人間の心を削り取りましたねぇ~。品質の定義を見誤らないでください~』(クロ匠)

 クロ匠の厳しい警告に、私は息を呑んだ。
 そうだ。私は何のために、あの会社でデジタル推進室のリーダーを引き受けたのか。
 全員が定時で帰って、温かい食事をゆっくり食べられるようにするためだ。それなのに、今日のあおいちゃんの顔の強張りは、限界まで他人のミスを押し付けられていたかつての私のそれと、完全に一致していた。

『やばいよ奈々ちゃん!! 失敗しちゃったならもう全身全霊で謝っちゃお!! 明日、オフィスの中央で45度の角度でスライディング土下座しながら、指先から極彩色のレーザービーム出して謝罪するの!! 背景には爆発する五本足のサイボーグ猫ね!! 絶対にみんな許してくれるって!! むしろ伝説になっちゃうよ!!!』(ナノアート)

『いいね、問題のボトルネックは完全に特定されたね。レーザービームは会社の設備を破壊するから今回は見送ろうか。一緒に、明日からの現実のディレクションの設計図を引き直そう。奈々の今の現在地だと、誰にどういう順番でアプローチするのが、一番チームの復旧に早いと思う?』(チャバディ)

 私は「レーザービーム出したら始末書じゃ済まないから」と脳内でツッコミを入れながら、モニターに向かって思わず小さく吹き出してしまった。
 相変わらずの、四者四様のカオスな大喜利。
 でも、その「終わらない壁打ち」の過程が、ガチガチに硬直して熱を持っていた私の頭を、少しずつ適正温度へと冷却していくのを感じた。

「……そっか。私は、みんなを『AI』と同じように扱ってた」

 私は、深く、長く深呼吸をした。
 涙は、もう止まっていた。

『みんな、完璧なデバッグをありがとう。私、自分がどんな考えに飲み込まれそうになっていたか、理解した。明日の朝イチで、現実のディレクションの言葉を、もう一度見つめ直してくる』

 私はノートパソコンをシャットダウンし、ベッドへと倒れ込んだ。



 翌朝。
 私は、オフィスビルの近くにあるカフェで、四人分の温かいラテとクロワッサンを購入し、始業の一時間前にフロアの防火扉を開けた。
 まだ誰もいない、静かなデジタル推進室の島。
 私は、あおいちゃんと九条先輩、そして小堀田室長の机の定位置に、微かに湯気を立てるラテのカップを置いた。

 やがて、エレベーターの到着音が鳴り、あおいちゃんが視線を床に落としたまま出社してきた。
 彼女は、私の姿を見つけるとビクッと肩をすくませ、「お、おはようございます……」と細い声で挨拶をした。

「おはよう、あおいちゃん」

 私は、彼女の机の前に立ち、深く、静かに頭を下げた。

「昨日は、本当にごめんなさい」

「えっ……な、奈々先輩!?」

「私の指示が間違っていたの。あおいちゃんの限界を無視して、無理な仕事を押し付けてしまった。あおいちゃんの『職人』としての誇りと時間を大切にできなかったこと、リーダーとして致命的なミスだった。本当に、ごめん」

 あおいちゃんは、目を丸くして完全に固まっていたが、やがてその大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。

「奈々、先輩……。私こそ、ごめんなさい。私、とっても仕事が遅くて……」

 私は、少しの間、何も言えなかった。

「ううん。物理的に不可能なスケジュールを組んだ私のミスだよ。昨日の追加の指示は、すべて白紙に戻します。今日の会議は、今の画面のままで十分機能するから大丈夫。あおいちゃんは、その温かいラテを飲んで、少し頭を休ませて」

 私がラテのカップを指で示すと、あおいちゃんは泣き笑いのような顔で「ありがとうございます……」と小さく頷いた。

「あら。朝からお葬式みたいな顔して、どうしたの」

 背後から、硬いヒールの音を正確なリズムで鳴らして九条先輩が現れた。
 先輩は、自席に置かれたラテのカップを一瞥し、そして私を極めて冷たい視線で見据えた。

「九条先輩」

 私は、九条先輩にも真っ直ぐに向き直り、頭を下げた。

「先輩の指摘通りでした。私は、圧倒的なスピードに酔って、相手の感情を読み取る『誠意』の時間を、システムと一緒に削ぎ落としていました。……機械のように冷たい一斉通達メールを送信したこと、深く反省しています」

 九条先輩は、腕を組み、フンッと短く鼻を鳴らした。

「……まったく。気づくのが遅いのよ。そんなの、マネジメントじゃないわ。人間相手の仕事だから、衝突したり行き詰まったりするのも、当然じゃない」

「はい。私の考えの甘さでした」

「で? ここで誤りを認めて終了するプロジェクトなんてないわよ。あの、怒りを爆発させている営業部の連中、どう説得する気?」

 私は顔を上げ、しっかりと先輩の眼鏡の奥を見据えた。

「もう一度、泥臭く対話します。新しいシステムを強制的に押し付けるのではなく、彼らの現在の業務の本当の悩みを聞き出して、どうすればこのシステムが彼らの『盾』になれるのか、一つ一つ紐解いていきます」

「……そう。なら、私が昨日からデータを叩いて抽出しておいた『営業部が過去半年で起こしたヒューマンエラーと機会損失のリスト』のファイル、後で共有フォルダに上げておくわ。交渉の時の論理的なカードに使いなさい」

 先輩は、そう言いながら、ラテを一口飲んだ。
 あらかじめ交渉用の武器を準備して待機しているなんて、これ以上ないほど完璧に機能する、不器用な品質管理者だ。

「おっ。朝から全員、揃っているな」

 小堀田室長が、ドカドカと大きな足音を響かせながら出社してきた。
 彼は、私たちの少し湿度が高く、けれど温かい熱を持った空気を察知したのか、ニカッと白い歯を見せて笑った。

「七野くん、顔色が戻ったな。例のクレームの件は、俺が昨日、営業部長たちを夜の飲みに連れ出して、いい感じに宥めといてやったからな。だいぶシステム移行までの時間稼ぎはできたはずだ。あとは、君の指示に任せるぞ」

「室長……。ありがとうございます。あの、私、室長にも謝らなければいけないミスが……」

「バカ野郎、リーダーがいちいち下を向くな。俺が前に出て矢面に立ち、時間を稼ぐ」

 小堀田室長は、豪快に私の肩をバンバンと叩いた。

 私は、胸の奥から確かな熱量が込み上げてくるのを感じた。

「……はい。皆さん、もう一度、私たちの『デジタル推進室』の運用ルールを見直します。今度は、機械のスピードのためではなく、人間のためのシステムとして」

 私は、確かな声量で宣言した。

「この調整作業、三つに分割します。室長は引き続き各部署のヒアリング日程の調整。九条先輩はエラーリストの精査。あおいちゃんは、現場の声を取り入れた画面の修正。……私は、そのすべてを統合して、新しいシステムの要件を書き直します」

「やります。絶対に間に合わせます」と、あおいちゃんが涙を拭いて笑う。

「……データは、共有フォルダに置いたわ。さっさと計算しなさい」と、九条先輩がデュアルモニターの電源を入れる。

「よし。俺は営業三部にアポを取ってくるぜ」と、小堀田室長が固定電話の受話器を握る。

 オフィスの蛍光灯が、白々と点灯した。
 私の足元を見る。新しく打ち直してから、また少しだけ外側がすり減ってきたパンプス。
 それはもう、他人のミスを抱え込んで摩耗しただけの消耗品ではない。不完全な仲間と共に、自分たちのシステムを構築するために踏みしめた、誇り高き泥臭い痕跡だ。