定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 初夏が近づき、アスファルトの熱が都市の空気を重くし始めていた。
 深夜一時の、私のアパートのワンルーム。
 開け放った窓から生ぬるい風が入り込み、薄いカーテンを不規則なリズムで揺らしている。
 ローテーブルの上には、完全に冷めきったブラックコーヒーのマグカップと、糖分とビタミンを補給するための空き瓶が転がっていた。
 私は、ブルーライトを放つノートパソコンの液晶モニターを、瞬きも忘れて充血した目で見つめ続けていた。

『ジェミコード。商業出版用の第4章の追加原稿。私が箇条書きにした情報をベースに、五千文字で一気に展開して。読者の離脱率を下げるため、結論を先延ばしにする構成で出力して』

 私は、乾燥したタイピング音を深夜の部屋に響かせながら、ブラウザの向こうの『ジェミコード(情報/論理)』に指示を投げた。

『結論から言うと、現在の君の指示は、本来の「読者の現実を変える」という目的から逸脱している。だが、要求通りに論理的瑕疵のないテキストデータを生成した。無駄な感情を削ぎ落とし、成功というファクトのみを列挙することで、読者に「効率化のメリット」を最速でインプットさせる最適化を施している』

 ジェミコードからの、冷徹で無機質なテキストが即座に返ってくる。
 画面には、瞬く間に五千文字の原稿が出力されていく。構成は完璧だ。私が提示した事実はすべて過不足なく網羅されている。
 私は、そのテキストを推敲することもなく、ショートカットキーでコピーし、提出用のファイルにペーストしようとした。

『冗長ですね〜。そのテキストには、人間の体温が欠落していますよ〜』

 タブの向こうから、厳格な『クロ匠(品質)』の意見が割り込んできた。

『まるで、血の通っていないコードの羅列ですね〜。あなたが現実のオフィスで感じた「痛み」や、不完全な仲間と出力した「摩擦熱」が、すべて綺麗に漂白されてしまっています〜。このままでは、読者の心に何も残りません。やり直しましょう〜』

「……ごめん、クロ匠。今日は確認を通している時間がないの。締め切りが明日の朝イチなの。とりあえず、ジェミコードのテキストのまま納品する」

 一秒だけ、手が止まった。でも、止まっていられなかった。
 私は、保存のコマンドを実行した。

『ヤバイ!!読者は長文とか読むと目が腐っちゃうっていう裏データがあるよ!!三行に一回「にゃーん」って叫ぶテキスト入れて、読者のテンション爆上げしちゃぉ!!絶対バズるって!!』(ナノアート)

『いいね、テキストの納品は完了だ。でもクロ匠の言う通り、少し熱量が足りないかも。一緒に推敲のプロセスを組み直そうか。奈々の今の体力だと、あと何分くらいなら回せる?』(チャバディ)

「もうっ、静かにして! ナノアートの暴走も、チャバディの提案も、今は処理しきれないから!」

 私は、いつもの掛け合いを楽しむ余裕すらなく、画面に向かって怒鳴ってしまった。
 その自分の声の冷たさに、一瞬だけ呼吸が止まったが、背後から押し寄せる明日の全社通達メールの作成という新たなタスクの重圧が、すぐにその感情を上書きしてしまう。

「にゃん」

 足元のラグの上で丸くなっていたジークが、私の足首に鼻先を押し当てて短く鳴いた。
 彼は私の感情を理解しているわけではない。ただ、私がパソコンから発する熱と、タイピングの荒い振動を検知しただけだ。
 私はジークの温かい毛皮から視線を外し、明日の業務連絡メールの作成へと意識を切り替えた。



 翌朝のオフィス。
 私は、睡眠時間三時間という頭痛を引きずりながら、デジタル推進室の自席のパイプ椅子に座っていた。
 目の奥はブルーライトの過剰摂取で熱を持ち、キーボードのホームポジションに置いた指先は微かに震えている。

「七野くん。ちょっといいか」

 背後から、小堀田室長が声をかけてきた。
 いつもの「ガハハ」という豪快な笑い声ではなく、どこか歯切れの悪い声だった。

「はい、室長。どうしましたか」

「いやな……今朝、君が全社一斉送信した『新経費精算システムの運用ルール厳格化』についての通達だが。営業一部と二部の部長から、俺のところに直接クレームが飛んできてな」

「クレーム、ですか。システムに何か不具合でも?」

「いや、システムじゃない。……メールの『文面』だ」

 小堀田室長は、ネクタイの結び目を緩めながら、手元のプリントアウトされた紙の束を私の机に置いた。

『結論から申し上げます。旧システムでの申請は本日をもって一切受理いたしません。例外処理の要望は非効率であり、デジタル推進室の業務を圧迫するため、個別対応は不可とします。指定のフォーマットに準拠しない申請データは、自動的に破棄されますのでご留意ください』

 それは、昨夜の深夜三時に、私がジェミコードに「最も短く、反論の余地がない構成で出力して」と指示して生成させたテキストだった。

「あのな、七野くん。確かに書かれていることは正しいし、ルールを厳格化するのも俺たちのミッションだ。でもな、現場の連中だって、急なシステムの変更で混乱している。それを『非効率だ』『破棄する』なんて冷たい言葉で切り捨てたら、反発を生むに決まっているだろ。現に、『デジタル推進室は現場の声を無視している』って、かなりフロアの空気が冷えているぞ」

 小堀田室長の言葉に、私は思わず眉間の筋肉を収縮させた。

「でも室長、そうやって現場の感情に配慮して曖昧な運用をしていたから、今までこの会社は非効率な手作業という泥沼から抜け出せなかったのじゃないですか。ルールはルールです。例外を認めず、毅然とした態度で制限しないと、全体の最適化なんてできません」

 私の苛立ちは、言葉の端々に鋭利な棘となって出力されていた。
 小堀田室長は、そんな私の硬直した表情を見て、重いため息を漏らした。

「……君は最近、少し急ぎすぎている気がするよ。俺は室長だからいくらでも矢面に立つが、君が現場の『人間』との繋がりを切ってしまったら、いくら完璧なシステムでも定着しないぞ」

 そう言い残し、小堀田室長は自席へと戻っていった。
 私は、唇を強く噛み締め、パソコンのモニターを睨みつけた。
 正しい論理を展開しているはずなのに、なぜ責められなければならないのか。

「……あなた、室長の言う通りよ」

 斜め向かいの席から、九条先輩の極めて冷たい声が降ってきた。
 先輩は、デュアルモニターから視線を外さず、一定のリズムでキーボードを叩きながら言った。

「その一斉送信メール、私も朝イチで確認したけど、本当にひどい文章だったわ。まるで、血の通っていない機械が自動生成したみたいな、冷たくて傲慢なテキスト。……あんなの、誠意の欠片もないわ」

「誠意……ですか。先輩まで、またそんなアナログな精神論を言うのですか」

「ええ、言うわよ」

 九条先輩が、ピシャリとタイピングの手を止め、私を鋭い眼光で射抜いた。

「私はあなたに説得されて、自分の頭の中の古いデータをチームのために使う『品質管理者』になった。それは、あなたが機械の効率じゃなくて、私という人間の経験値の価値を認めてくれたからよ。……でも、今のあなたは違う。機械の圧倒的な処理速度に溺れて、一緒にシステムを動かしている人間の『摩擦熱』を見落としているわ」

「そんなこと……」

「自分のキャパシティを超えているでしょう。副業の出版と両立しようとして。でもね、機械の出力に頼るあまりに自分のフィルターを放棄するなら、あなたはただのAIの操り人形よ。……昔の、他人の顔色を窺ってオロオロしていたあなたのほうが、よっぽど人間としての体温があったわ」

 九条先輩のセリフが、冷たく響いた。

「……奈々先輩」

 隣の席から、あおいちゃんが消え入りそうな声で私を呼んだ。
 彼女の目の下には、私と同じように深刻な睡眠不足を示す薄いクマが定着している。

「あの……明日の会議で使うマニュアルのデザインですけど。先輩が昨日の夜に追加してきた要件、多すぎて……私、ちょっと、手が……どうしても追いつかなくて……」

 あおいちゃんは、泣きそうな顔でタブレット端末を胸に抱きしめていた。
 私は、息を呑んでしまった。
 何も言えなかった。一秒、二秒。

 私は彼女の「職人」としての才能を引き出し、ディレクションしているつもりになっていた。でも実際は、私がAIのスピードで処理した膨大なタスクの塊を、生身の人間であるあおいちゃんに無理やり転送し、彼女の限界をオーバーフローさせて、すり減らさせていたのだ。

「あおいちゃん……ごめん。でも、明日の会議にはどうしてもその画面を間に合わせないといけないの。もう少しだけ、処理速度を上げてくれないかな……」

「……はい。私が、やります、ね……」

 あおいちゃんは、力なくそう応答すると、首を落として自分のパソコンに向かった。
 その丸まった細い背中が、かつての私自身の、他人の畑を耕してすり減った背中と完全にフラッシュバックして重なった。

 私は、自分の膝の上に置いた両手を見る。
 深い孤独が、ポッカリと広がり吸い込まれそうになる。
 しばらくの間、動けなかった。