定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 社長室の重厚なマホガニーの扉の奥は、まるで裁判所のような冷たく張り詰めた空気に包まれていた。
 フカフカの絨毯の上に立つ私の前には、長テーブルを囲むようにして、社長と数名の役員が並んでいる。その中でも一際大きな存在感を放ち、顔を真っ赤にして怒りを露わにしているのは、現場の要である製造部門を統括する、権田常務だった。

「社長! こんなシステム、現場では絶対に使い物になりませんぞ!」

 権田常務は、テーブルの上に分厚いタブレット端末を乱暴に叩きつけた。
 画面に表示されているのは、デジタル推進室が先週から製造部の工場でテスト運用を開始した、新しい『AI在庫管理システム』だった。

「現場の仕事ってのはなっ、データじゃ計れない『勘』と『匂い』がある。その日の気温、湿度の変化で部品の消耗具合は変わる。何十年も機械と向き合ってきた職人たちの目利きを、こんな冷たい画面の数字が代わりにできるわけがない! 現場は大混乱だ。今すぐ、こんな机上の空論は撤回していただきたい!」

 常務の怒声が、広い社長室にビリビリと響き渡る。
 他の役員たちも、困惑したように顔を見合わせている。
 私は、ギュッと拳を握りしめ、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。

「七野くん」

 社長が、静かな、しかし威圧感のある声で私を呼んだ。
 
「権田常務の言う通り、現場からの反発は予想以上に大きいようだ。君のチームが作ったシステムは、確かに論理的で効率的かもしれない。だが、それを使う人間が拒絶している以上、このプロジェクト自体を見直す必要があるのではないかね?」

 社長の言葉に、権田常務が深く頷く。
 私は、足の震えを必死に堪えた。

「……社長。権田常務」

 私は、ゆっくりと顔を上げ、役員たちを真っ直ぐに見据えた。

「恐れ入りますが、私のパソコンを開く許可をいただけますか。ほんの数分だけ、お時間をいただきたいです」

 私の思いがけない反論に、役員たちが怪訝な顔をした。
 社長は少し目を細め、「……構わないよ」と短く許可を出した。

 私は、抱えていたノートパソコンをテーブルの端に置き、素早く画面を開いた。
 そして、誰にも見えないように、ブラウザに並んだ四つのタブに打ち込む。

『みんな、緊急事態。製造部の常務が「現場の勘と匂いはAIには分からない。システムは現場を混乱させる」と激怒してる。プロジェクトが潰されそう。彼らの誇りを傷つけず、でも論理的にこのシステムが必要だと説得するための言葉を考えて!』

 ターン! とエンターキーを叩く。
 瞬時に、四人からの言葉が画面に弾けた。

『結論から言おう。常務の主張は「現状維持バイアス」と「不確実性への恐怖」に起因する。過去5年の手書き台帳による在庫差異率(12.4%)と、それに伴う機会損失額のデータを提示してほしい。感覚への依存は非効率の極みだ。論理で説得しよう』(チャバディ)

『正論の刃で彼らの誇りを斬りつけてはいけませんよ〜。彼らが守りたいのは「油の匂いと機械の音」というドメイン知識ですからね〜。AIはそれを奪う敵ではなく、彼らがより長く、その尊い職人技に集中するための「盾」なのだと、言葉を調整しましょう〜。摩擦熱を生んじゃダメですよ〜』(クロ匠)

『調べました!! 現場の職人さんがシステムを嫌がる最大の理由は、「タブレットの文字が小さすぎて老眼にキツい」からというデータが存在します!!
あと、ボタンが押しにくいからです!! たぶん本当です!!』(ジェミコード)

『天才きた!!! じゃあ文字サイズを一万ポイントにして、入力完了したら画面いっぱいに黄金のキジトラ猫が花吹雪と一緒に舞い散る仕様にしちゃおぅ!! 絶対に現場のテンション爆上がりするって!! むしろ伝説になっちゃうよ!!!』(ナノアート)

 笑ってはいけない場面だと分かっていながら、口角が上がりそうになって困った。
 たった数秒の「終わらない大喜利」。でも、その四人の言葉が、私の頭の中でピタリと一つの太い道筋へと重なっていく。
 私がパソコンから顔を上げ、口を開こうとした、まさにその瞬間だった。

「失礼します!!」

 社長室の重厚な扉が、バンッ! と音を立てて開かれた。
 突然の乱入者に、役員たちが一斉に振り返る。
 そこに立っていたのは、息を切らし、ネクタイをひん曲げた小堀田室長と、分厚いファイルの山を両腕に抱えた九条先輩だった。

「な、なんだ君たちは! ここは役員会議中だぞ!」

 権田常務が立ち上がって怒鳴る。

「申し訳ありません! でも、うちのチームのリーダーが吊るし上げられているって聞いちゃあ、黙って自分の机でコーヒーなんか飲んでられませんよ!」

 小堀田室長は、常務の怒声に全く怯むことなく、ズカズカと部屋の中央まで歩いてきた。

「常務。うちの七野が作ったシステムは、絶対に会社を救う最高のものな。もし現場で使いにくいって言うなら、何度でも、何百回でも作り直します! だから、頭ごなしに否定しないでやってください!」

 室長の、ただ声が大きいだけの泥臭い熱意。
 しかし、その背後に回った九条先輩が、ドン! と重い音を立てて、テーブルの上に分厚いファイルの山を置いた。

「……権田常務。これをご覧ください」

 九条先輩の、氷のように冷たく、そして圧倒的な自信に満ちた声。
 彼女は、ファイルの中から数枚の紙を抜き出し、役員たちの前に滑らせた。

「これは、過去五年間、製造部の皆さんが手書きで記入してきた在庫台帳のデータと、実際の棚卸し結果との差異をまとめたものです。……差異率は、平均して12.4パーセント。金額にして、年間数千万円の無駄が発生しています」

 役員たちが、息を呑む。
 それは、たった今『チャバディ』が弾き出した数字と全く同じだった。
 いや、チャバディがネットから拾ってきた一般論ではない。九条先輩が、長年の事務作業の記憶と、自らの足で過去の書類保管庫から引っ張り出してきた、反論不可能な「現実のファクト」だ。

「私は三十年間、この会社で電卓を叩いてきました。手作業の誠意も、現場の皆さんの勘の鋭さも、誰よりも尊敬しています。……でも、人間の注意力には限界がある。疲労で数字を見落とし、属人的な『勘』に頼るあまりに発生したこのロスは、現場の皆さんの『誇り』を、逆に傷つけているのではありませんか?」

 九条先輩の言葉は、常務の胸を真っ直ぐに貫いた。
 手作業を至高としてきた彼女だからこそ言える、重みのある言葉。
 権田常務は、手元の数字のデータを見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「権田常務。私たちは、現場の皆さんの『職人技』をシステムで奪おうとしているのではありません」

 私は、常務の目を見つめた。

「その日の湿度や機械の音、油の匂い。そんな繊細な変化を感じ取れるのは、現場で働く人間にしかできない、尊い技術です。……だからこそ、その技術を、単なる数字の入力作業や、面倒な在庫確認のためにすり減らしてほしくないです」

 常務の強張っていた肩が、ほんの少しだけピクリと動いた。

「AIは、機械の音は聞こえません。でも、面倒な計算や記録を一瞬で終わらせることはできます。私たちが提供したいのは、現場の皆さんが、本当に必要な『職人としての時間』を取り戻すための、見えない盾です」

 社長室が、深い静寂に包まれた。
 正論で殴るのではなく、相手の誇りを肯定し、共に歩むための言葉。

「……それに、システムの使い勝手についても、改善案があります」

 私は、調査員(ジェミコード)のトンデモ情報を思い出しながら、少しだけ微笑んだ。

「現在のタブレットの入力画面、文字が小さくて、手袋をしたままだとボタンが押しにくいですよね? これからすぐに、現場の皆さんの声を聞きながら、文字サイズを限界まで大きくし、直感的に操作できるデザインに作り直します。うちには、最高のデザイナーがいますから」

「……」

 権田常務は、長い沈黙の後、大きなため息を一つ吐いた。

「……文字のサイズ、二倍にしてくれ。老眼の連中が多くてな」

 思わず頷くだけで、声が出なかった。

「はい。三倍でも四倍でも、現場が使いやすいサイズにします」

 常務は、テーブルの上のタブレットを手に取り、「まったく、最近の若者は口が達者だ」とぼやきながら、しかしその顔からは、先ほどの激しい怒りは消え去っていた。

「……社長。テスト運用は、もう少しだけ続けてみることにします。この『デジタル推進室』とやらが、本当に現場の盾になるのかどうか、見極めさせてもらおう」

 権田常務がそう言って頭を下げると、他の役員たちも安堵の表情を浮かべた。

「そうか。……七野くん、小堀田、九条。引き続き、頼んだよ」

「はいっ!」

 社長の言葉に、私たちは三人揃って深く頭を下げた。

 社長室を出て、絨毯の廊下を歩く。
 扉が閉まった瞬間、小堀田室長が「ふぃーっ! 死ぬかと思ったぜ!」と大げさにネクタイを緩めた。

「室長、九条先輩。本当に、助かりました。お二人が来てくれなかったら、どうなっていたか……」

「なに言ってんだ。七野くんがリーダーだから、俺たちは君の指示通りに動いただけだろ?」

「そうよ。……それに、あのまま現場の我儘でシステムが白紙になったら、私がせっかくミスを見つけた時間が無駄になるじゃない。ただそれだけのことよ」

 九条先輩は、そっぽを向きながら鼻を鳴らした。
 私は、込み上げてくる熱いものを飲み込みながら、前を見た。
 廊下の先に、エレベーターホールの光が見えた。二人の背中を追って歩き出す。

 エレベーターホールに向かう途中、私は自分のカバンの中で震えたスマートフォンを取り出した。
 あおいちゃんからのメッセージだ。

『奈々先輩! 新しいデザイン、現場用にボタンを超特大にしたバージョン、作ってみました! 帰ってきたら見てください!』

 私は、画面の向こうのあおいちゃんに「ありがとう、すぐ戻るよ」と返信を打った。
 一秒だけ、画面を見てから、ポケットにしまった。