定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 出版社での初回の打ち合わせを終え、るねさんと別れの挨拶を交わした後。
 私は、地下鉄の冷たい座席に浅く腰掛け、規則的な車輪の振動に揺られていた。
 膝の上に置いたカバンの中には、編集長とるねさんと共に構築した、新しい商業出版に向けた目次構成のプリントアウトが収められている。
 その紙の束のわずかな質量が、これから私が背負う「読者の現実を変える」という責任の重さとなって、太ももに確かな圧力をかけていた。
 一駅だけ目を閉じた。

 会社では、デジタル推進室のリーダーとしての権限と責任。
 深夜の自室では、商業出版に向けたテキストデータの加筆修正という膨大なタスク。
 キャパシティを超えてしまいそうなスケジュールだ。

 翌朝。
 私は、定時の十五分前にオフィスの扉を開け、デジタル推進室の島に配置された自席のパイプ椅子に腰を下ろした。

「おはようございます、奈々先輩」

 あおいちゃんが、自席のモニターから視線を外し、挨拶をしてきた。

「おはよう、あおいちゃん。今日のタスクの優先度は設定できている?」

「はい。今日の最優先タスクは、新しい経費精算システムの画面設計を完了させることです」

 あおいちゃんは、すっかり「職人」としての定位置を獲得し、自らの作業を管理できるようになっていた。
 そして、その向かいの席では。

「……おはよう」

 九条先輩が、極めて短い言葉で挨拶を返し、自席に座った。
 彼女の目の前には、長年彼女の防壁となっていた巨大な電卓の代わりに、デュアルモニターが広大な作業領域を展開している。
 先輩は、昨日私がジェミコードに書かせた新しい経費精算のベータ版システムを立ち上げ、その挙動を、親の仇を探すような鋭い眼光で確認し始めた。

「……甘いわね。こんなザルな入力フォームじゃ、営業部の連中が全角と半角を混同して、好き勝手にミスを申請してくるに決まっているじゃない。ここのチェックボックス、必須項目に修正しなさい。あと、こっちの金額の上限設定も、システム側で制限をかけないと……」

 先輩は、システムの欠陥を瞬時に洗い出し、私に向かって次々と修正を指示してくる。
 その眼鏡の奥の光は、以前のような「他人のミスを指摘してマウントを取る」ためのものではなく、「チームの結果を完璧な品質に引き上げるため」の、プロの『品質管理者』としての鋭さを放っていた。

「はい。すぐにコードの条件分岐を修正します」

 私は、先輩の的確なチェックに背筋を伸ばし、ブラウザのタブを開いて四つの知性にアクセスした。

『九条先輩(品質管理)から以下の修正指示が出た。入力フォームの全角/半角の制限と必須化。金額の上限設定のシステム制限。この要件を満たすマクロの修正コードを最短で出力して』

 エンターキーを叩く。

『結論から言うと、九条氏のリスクヘッジの観点は非常にロジカルであり、システム堅牢性の向上に直結する。データ上、この入力制限によりヒューマンエラーは85%削減される。修正コードを生成する』(ジェミコード)

『設計が甘かったですね〜。現場のノイズを想定できていませんよ〜。九条先輩の監査がなければシステムは崩壊していましたね〜。吐き出されたコードをすぐに実装し、再テストに回しましょう〜。品質に妥協は許されませんよ〜』(クロ匠)

『ヤバーい!! エラー入力したら画面いっぱいに猫の変顔がポップアップするペナルティ機能つけよぅ!! 営業部全員泣かしちゃおうよ!!! 絶対テンション上がるって!!』(ナノアート)

『いいね、システムの堅牢性が一段上がった。ナノアートの案は使い勝手が下がるから今回は見送ろうか。一緒に実装テストの設計図を引き直そう。奈々の今の現在地だと、どの部署からテスト版を展開するのが最短だと思う?』(チャバディ)

 四者四様の出力結果から、ジェミコードが生成したコードだけを抽出し、システムに組み込んで再度ビルドする。
 そして、修正されたシステムを再び九条先輩のモニターへと転送し、チェックを依頼した。

「おっ。なんだか今日も、キーボードをたたく音がリズミカルだな」

 小堀田室長が、結露した紙コップのコーヒーを片手に、ドカドカと足音を響かせて歩いてきた。

「室長、おはようございます。今日の午後の営業会議、例の経費精算システムの導入についてのプレゼンですよね」

「ああ、任せとけ。俺が営業部の連中をいい感じに説得して、防波堤になってやるからな。ガハハ」

 相変わらずの「いい感じ」という、意味が完全に欠落した言葉に、私は声を出さずに息を吐いた。

「室長。プレゼンの際は、この資料の三ページ目の『導入による営業時間の創出効果』のグラフを、最も高い熱量で伝えてください。あおいちゃんが昨日、視線誘導の負荷を下げるために、数時間かけてレイアウトを最適化してくれた渾身のデータですから」

「おう。分かっているよ。俺の熱意のボリュームで、あいつらを説得してやる」

小堀田室長は、ドンと胸を叩いて応接スペースへと向かっていった。

 壁の時計の赤い秒針が、十一時を指した。
 その時。
 私の机上の固定電話が、けたたましい電子音を鳴らした。
 液晶ディスプレイに表示されている内線番号は、社長室からのものだった。

「……はい、デジタル推進室、七野です」

 私が受話器を取ると、スピーカーの向こうから、社長秘書の冷ややかで事務的な声が流れてきた。

「七野さん。社長が、至急お呼びです」

「え……また、ですか」

「はい。今回は……少し、イレギュラーな問題が発生しているようです。今すぐ、社長室まで来てください」

 秘書の言葉のトーンに、私の背筋に悪寒が走った。
 イレギュラーな問題。
 それは、私の副業が発覚した時よりも、さらに予測不能な響きを持っていた。

「分かりました。すぐに向かいます」

私は受話器を置き、パイプ椅子から立ち上がった。

「奈々先輩? どうかしましたか。顔色が悪いみたいですが」

 私の挙動の変化に気づいたあおいちゃんが、心配そうに声をかけてくる。

「ううん、ちょっと社長に呼ばれちゃって。すぐ戻るから、あおいちゃんはそのまま画面設計を進めていて」

「はい……。気をつけてくださいね」

 私は、あおいちゃんと九条先輩に軽く会釈をし、足早にオフィスを出た。
 エレベーターで社長室のある最上階へと上昇する間、私は様々な可能性を考えパニックになりかけていた。
 何が起きたのか。
 システムの要件に、何か重大な欠陥が見つかったのか。
 それとも、私の「商業出版」が、会社のコンプライアンスに抵触したとでも言うのだろうか。

 エレベーターの金属のドアが開き、あの足音を吸い込むフカフカの絨毯の廊下を歩く。
 社長室の重厚なマホガニーの扉の前に立つ。
 肺の底まで深く酸素を吸い込む。一度手を止めた。ノックの回数を、一瞬忘れかけた。
 二度、正確なリズムでノックをした。

「入れ」

 社長の低く沈んだ声が響き、扉が開かれる。

 部屋の中には、社長だけでなく、数名の役員クラスの人間がずらりとソファに座っていた。
 彼らの顔には、一様に険しい表情が揃っている。
 その異様に張り詰めた空気に、私は思わず絨毯の上で足を止めた。

「七野くん。入りたまえ」

 社長が、机の上で両手を組み、私を鋭利な視線で射抜いた。

「……失礼いたします」

 私は、微かに震える膝の関節を制御しながら、部屋の中央へと進み出た。
 どこを見ればいいか分からなくて、絨毯を見た。
 何の問題が発生しているのかは特定できない。しかし、この部屋の空間を埋め尽くす重圧が、巨大な壁の存在を暗示していることだけは、肌でヒリヒリと感じ取っていた。
 私は、部屋の中央で、少しの間、動けなかった。