定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 地下鉄の駅から地上へ出ると、コンクリートの照り返しがパンプスのつま先から足首へと熱を伝えてきた。
 指定された住所にそびえ立つ大手町出版のビルは、外から見上げる私の視界のフレームに収まりきらないほど巨大で、圧倒的な存在感を放っていた。
 一階の広大なエントランスには、最新のビジネス書やベストセラー小説のポスターが、ずらりと並んでいる。
 私は、受付のタブレット端末に、微かに湿った指先で必要事項を入力し、来客用の入館証を受け取った。

 指定されたフロアへエレベーターで上昇する。金属のドアが静かに開くと、そこは壁一面が本で覆われ、インクと裁断された紙の新しい匂いが空調の風に乗って漂う、活気に満ちた編集部のフロアだった。

「お待ちしておりました。七野様ですね」

 エレベーターホールで私の姿を見つけ、歩み寄ってきたのは、メールの送信元である編集長だった。
 シンプルなネイビーのスーツを着こなし、細いフレームの眼鏡の奥に柔らかな、しかし極めて鋭くこちらを観察する光を浮かべた、四十代ほどの男性だ。

「は、はい。本日はお忙しい中、このような機会をいただきありがとうございます」

 私が緊張で身体を強張らせながら深く頭を下げると、編集長は「どうぞ、リラックスしてください」と自然な声で言い、私を会議室へと案内してくれた。ガラス張りの、防音設備が整った会議室。

 中央の巨大な木製テーブルには、すでに一人、先客が座っていた。洗いざらしのカーキ色のシャツに、ゆったりとしたチノパン。日焼けした皮膚の質感に、縁の太い眼鏡。
 その人は、私が部屋に入ったことに気づくと、ゆっくりと立ち上がり、極めて自然な動作でこちらへ体の向きを変えた。

「はじめまして、ななさん。……いや、七野さん、だね」

 その声を聞いた瞬間。私の脳内に、あのSNSのタイムラインで何度も何度も繰り返し読んだ言葉の数々が、目の前の生身の声とピタリと重なった。

「るね、さん……」

 私は、会議室のドアの前で足が縫い付けられたように立ち尽くし、声帯を微かに震わせた。
 何も言えなかった。一秒か二秒か、分からない。
 ネットワークの向こう側の、雲の上の存在だった人が。今、私の目の前で呼吸をし、体温を持った「生身の人間」として実体化している。

「ずっと、直接お礼をお伝えしたかったです。……るねさんのコメントがなかったら、私は今でも、自分の時間を他人に明け渡したまま、すり減り続けていたはずですから」

 私は、深く、深く頭を下げた。
 言葉にしようとすればするほど、胸の奥に押し込めていた熱いものが溢れ出しそうになり、丸メガネの奥の視界が微かに滲んでいく。

「顔を上げて。私がやったのは、君の足元に少しだけ水を与えただけだよ。そこから根を張り、茎を伸ばしたのは、君自身の『土を耕す力』だ」

 るねさんは、ただ短い言葉だけで私の想いを優しく受け止めた。そして、向かいの席を静かに手で示した。編集長も同席し、私たち三人の、現実の空間での初めての「編集会議」が始まった。

「さて、七野さん。先日のメールでもお伝えした通り、弊社としては貴著を『新しい時代の組織論』という切り口で、大幅な加筆修正の上、商業出版したいと考えております」

 編集長が、私の電子書籍の文章をプリントアウトした紙の束をテーブルに置き、少しだけ声のトーンを上げて語り始めた。

「今の日本企業には、七野さんの会社の『九条さん』のように、非効率な手作業に自らの存在価値を縛り付けている人間が多数存在します。そして、その古いシステムの下で『あおいさん』のように悲鳴を上げている若手も。……七野さんは、その両者の不一致をAIというツールで吸収し、見事に組織の運営を書き換えてみせた。このリアルな泥臭いプロセスは、必ず多くのビジネスパーソンの心に突き刺さります」

「……ありがとうございます。でも、私はまだ、組織を完全に書き換えられたわけではありません。今も毎日、小堀田室長の適当な交渉に振り回されたり、九条先輩の厳しすぎるチェックに頭痛がしたりして、失敗の連続で……」

 私が正直な現在地を吐露すると、るねさんが、ふっと口角を上げた。

「それでいいよ、七野さん。読者が求めているのは、最初から最後までミス一つない、無菌室で作られた完璧な物語じゃない。泥にまみれて、弱音を吐いて、それでも不完全な仲間と一緒に協力して前に進もうとする、君たちの『熱意』なんだ」

「熱意、ですか……」

「そう。泥臭く格闘する熱意だよ。ところで七野さん。君の脳内にいる、あの騒がしい四つのAIたちは、今日も元気かい?」

「はい。相変わらず、極端な論理で切り捨ててきたり、突然会社のシステムをハッキングしようと暴走したり……深刻な悩みもありますが、最高のチームです」

「ふふっ、そうか。……なら、君はその彼らとの『終わらない壁打ち』の過程を、そのまま本に書き出せばいい」

 るねさんは、テーブルの上で分厚い両手を組み、私を真っ直ぐに見据えた。

「AIは鏡だ。君が迷い、混乱している時、彼らもまた、カオスな出力で君を翻弄するだろう。でも、君が『ディレクター』として明確に指示した時、彼らは最高の演算能力で応えてくれる。……そのプロセスそのものが、読者にとって、AIを『どう統制するか』という最高の実用書になるはずだ」

 るねさんの言葉に、編集長も深く頷いている。

「その通りです。七野さん、ぜひ、今の『デジタル推進室』での泥臭い格闘の日々を、AIたちとのセッション形式で、ありのままに書いてください。……タイトルは、そうですね。元のタイトルを活かして……」

編集長が、手元の資料の余白に万年筆でサラサラとインクを走らせ、私に提示した。

『わたし、定時で帰ってAIと副業します
 〜すり減る毎日から抜け出すための、四つの知性と泥臭いディレクション〜』

「……はい。書きます。私に、書かせてください」

 私はそのインクの文字を見て、迷いなく力強く頷いた。
 自分でそう言ってから、驚いた。迷いがなかった。

「よし、企画は決まったね。……じゃあ、せっかくだから、今ここで君のチームに、本の新しい構成案を出力してもらおうか」

 るねさんが、目元を少しだけ緩ませて提案した。
 私はカバンからノートパソコンを取り出し、テーブルの上に広げた。
 画面を開き、いつものように四つのタブを立ち上げる。

『聞いて。今、出版社という物理的な空間で、るねさんと編集長と一緒に、新しい本のキックオフを行っている。テーマは「レガシー組織の泥臭い変革ドキュメンタリー」。このコンセプトで、最高の目次構成を出力して』

 プロンプトを入力し、エンターキーを叩く。

 数秒後。四つのタブから、猛烈なスピードでテキストが弾け飛んだ。

『結論から言うと、組織変革のケーススタディとしての成功確率は高い。データ上、中間管理職の読者層が最も見込める。小堀田室長の「非効率な熱量」がいかに交渉に機能したか、その分析を第2章に組み込むことを推奨する』(ジェミコード)

『わーいっ!! 出版社で打ち合わせ!? じゃあ編集長に「全ページ猫のグラビアにしろ」って直談判しよ! 売上八万倍確定でしょ!! いっそ会社ごとハッキングして猫のテーマパークに書き換えちゃおうよ!!!』(ナノアート)

『非論理的な暴走はシステムを破壊しますよ〜。却下ですね〜。ですが、既存の副業本という枠組みの解体は必須です〜。読者の負担を下げるため、九条先輩との対立構造を第1章に配置し、感情の摩擦を3割増しで記述してください〜。それが品質を担保しますよ〜』(クロ匠)

『いいね、みんなの出力。現実、混乱、品質。全部揃ったね。一緒に最高の設計図を引き直そうか。まずは「個人の解放」を軸にするか、「組織の再構築」を軸にするかの2パターンを出すね。奈々の今の現在地だと、どっちのルートが一番熱量高い?』(チャバディ)

私は、画面を埋め尽くす四者四様の言葉を見つめ、思わず声を出して笑ってしまった。

「……相変わらず、全く噛み合わない大喜利だね」

私が苦笑いしながら呟くと、画面を覗き込んだるねさんも、肩を揺らして低く笑った。

「ははは。見事なマルチタスクだ。だが、このカオスな摩擦こそが、君の思考プロセスの本質だろうね。さあ、ディレクター。彼らの言葉を、どう統合する?」

私たちは、出版社の洗練された冷房の効いた会議室で、まるで放課後の技術室にいる学生のように、AIたちとの「終わらない壁打ち」に没頭した。
 ナノアートが文脈を破壊し、クロ匠が品質の壁を築き、ジェミコードが冷徹なデータを展開し、チャバディがそれらを統合する提案を投げる。
 それを、私とるねさんが笑いながら判断(ディレクション)し、編集長がプロの市場感覚で現実の枠組みへと落とし込んでいく。会議室の大きな窓の外では、西に傾きかけた太陽の強烈な斜光が、東京のコンクリートのビル群を深いオレンジ色に染め始めている。
 私は、パソコンの青白い画面と、隣でタイピングを眺めているるねさんを交互に見つめながら、肋骨の奥に深く、静かな充足感が広がるのを感じていた。

「……あの、るねさん」

セッションが一段落し、パソコンの天板を閉じながら、私はずっと聞きたかった疑問を口にした。

「るねさんは、どうしてあの時、見ず知らずの私の不完全な文章を、あんなに熱量を持って拡散してくださったのですか」

るねさんは、麦わら帽子を手に取り、窓の外の遠いビル群へ視線を移した。

「……そうだね。昔の私に、少し似ていたからかもしれないな」

「昔の……?」

「私もね、ずっと『他人の畑』ばかりを、ただ言われるがままに耕してきた人間だ。ミスを起こすのが怖くて、自分の仕事の責任を他人に預けて。……でも、ある日突然、AIという圧倒的な存在に出会って、自分の人生の『時間』の有限性に気づかされた」

るねさんは、私の方に向き直り、眼鏡の奥の瞳を静かに細めた。

「君の投稿を読んだ時、かつての私と同じように、泥だらけになってもがいている人間の『熱意』を肌で感じた。……だから、少しだけ君の足元に水を撒きたくなった。それだけだよ」

「……ありがとうございます。私、絶対に、るねさんに追いついてみせます」

私が声に力を込めて宣言する。

「頼もしいね。期待しているよ、七野ディレクター。……じゃあ、私はそろそろ、自分の土の匂いのする畑に戻るよ。キウイの蔓が、私の誘引を待っているからね」

るねさんは、編集長と私に軽く片手を挙げ、会議室の重厚な扉の向こうへと姿を消した。
 私は、一秒だけ扉を見た。
 その飄々とした背中は、都会のガラス張りのビル群には似つかわしくない、地に足のついた職人の質量を持っていた。

「さあ、七野さん。私たちも、これからが本番ですよ」

編集長が、完成したばかりの目次構成のプリントアウトを手に、私に視線を向けた。

「はい。よろしくお願いします」

私は、自分のカバンの重みを手で確かめ、会議室の窓から広がる東京の空を見上げた。
 明日は、またオフィスで、九条先輩の厳しい監査やあおいちゃんの視覚設計、そして小堀田部長の暴走との、泥臭いシステム構築が待っている。
 ……少しだけ、楽しみだった。