定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 関西の、とある丘陵地帯。
 都市部のヒートアイランド現象とは無縁のこの街は、川の豊かな水脈と斜面を利用した果樹栽培が盛んな、静かで土の匂いが濃い場所だ。
 春の柔らかな日差しが、少しずつ初夏の強い熱量へと波長を変え始める季節。風には若葉の青い水分が混じり、深呼吸をするだけで、肺の底に溜まった都市の澱んだ空気がすーっと洗い流されるような感覚がある。

「……よし。この枝の向かう先は、こっちだな」

 るねは、首に巻いた使い古しの藍染めの手ぬぐいで額の汗を拭い、見上げるようにして短く呟いた。
 今年で五十八歳になる彼の出で立ちは、色褪せたカーキ色の作業着に、日差しを遮る麦わら帽子。足元の長靴には、この土地の湿った泥がこびりついている。最先端のAI職人という肩書きから連想されるステレオタイプとは対極にある、完全な「アナログな農家」の確かな佇まいを備えていた。

 彼が今、視界いっぱいに捉えているのは、頭上に張り巡らされたキウイフルーツの棚だ。
 キウイの蔓(つる)は、春から初夏にかけて驚異的な速度で一気に伸びる。放っておけば隣の蔓と無秩序に絡み合い、葉が重なって光合成に必要な太陽の光が下層の果実に届かなくなってしまう。だから、蔓がまだ柔らかいうちに人間の手で直接触れ、適切な方向へと導いて棚に固定していく「誘引(ゆういん)」という泥臭い手作業が絶対に欠かせない。

 るねは、軍手をはめた分厚い手で、初々しい緑色をした蔓をそっと掴んだ。
 力を入れすぎれば、細胞壁は簡単に破壊されポキリと折れてしまう。かといって遠慮しすぎれば、蔓は自らの野生の本能に従って、勝手な方向へと曲がっていく。
 蔓の微かな反発力を指先の感覚で正確に読み取りながら、他の葉の影にならず、最も効率よく光を浴びられる太陽の特等席へと導き、専用のテープでパチンと固定する。

 植物は、決して嘘を吐かない。

 るねは、棚の隙間から差し込む木漏れ日の熱を顔に受けながら、静かに目を細めた。
 人間が正しい手入れを行えば、秋には立派な実をつける。サボれば、正直なまでに残念な結果しか返ってこない。そこには、圧倒的なまでの「自然の摂理という現実」が存在している。

 彼は普段、この果樹園で土と汗にまみれる傍ら、AIという最新のテクノロジーを駆使して電子書籍の出版などを手がける「パラレルワーカー」として日々を送っている。
 キーボードを数回叩き、言葉(プロンプト)を投げかければ、AIは瞬く間に数千文字の文章を生成し、息を呑むほど精緻な画像を出力してくれる。
 光ファイバーのケーブルを情報が飛び交い、すべてがタイムラグなしに完結する、ノイズのないデジタルの世界。

 しかし、るねは知っている。

 AIが紡ぎ出す「もっともらしい言葉」だけに依存することの、致命的な危うさを。
 彼らは、実在しない企業名や統計データを堂々とでっち上げたり、人体の構造を無視して指を六本出力したりする。広大なデータの海から確率に頼って単語を繋ぎ合わせているだけの彼らには、「土の匂い」も「蔓の反発力」も感じ取る肌がない。彼らの出力には「現実の手触り」がすっぽりと抜け落ちているのだ。

 だからこそ、るねは毎日この果樹園に立ち、本物の土に触れる。
 思い通りにはならない自然のペースに自らの身体を委ねて汗を流すことで、自分の中の「狂わない現実のコンパス」を磨き続けているのだ。

「ふぅ……。午前中のお世話は、ここまでだな」

 るねは泥のついた軍手を外し、棚の鉄製の支柱に立てかけてあった水筒を手にした。
 冷たい麦茶が、汗で水分を失った食道から胃の腑へと落ちていく。二口目を飲んだ時に、自分が笑っていることに気づいた。
 果樹園の端にある、木製の古びたベンチに腰を下ろす。初夏のそよ風が麦わら帽子のつばを揺らし、遠くの等高線からウグイスの鳴き声が届いた。

 彼は、作業着のポケットから使い込まれたスマートフォンを取り出した。
 泥だらけの現実空間から、一瞬にして世界中と繋がるインターネットの海へ。

 指紋で画面のロックを解除し、SNSのアプリを起動する。
 彼の「るね @RuneM_AI」というアカウントには、今日も絶え間なく膨大な通知が押し寄せている。
 その中でも、彼が最近、何よりも気にかけてそっと見守っている一つのアカウントがあった。

『なな』

 ほんの数週間前、彼が眺めているタイムラインの片隅にふらりと現れた、一人の女性の小さな足跡。
 最初は、ただ他人の言葉を眺めるだけの傍観者だった。毎日の満員電車という肉体的な疲労と、理不尽な残業という精神的なすり減りに疲れ果て、「自分には発信できるものがない」と嘆いていた彼女。
 それが、AIという「自分の思考を整理する鏡」を使い始めたことをきっかけに、彼女を取り巻く現実の景色は劇的なスピードで色づき始めた。

 るねは、スマートフォンの表面を親指机ロールし、彼女の最新の投稿に視線を落とした。

『今日から、社内に新設された「デジタル推進室」のアカウントに移行しました。
九条先輩の長年蓄積された知恵と、あおいちゃんのデザイン力。そして部長の対外交渉力。みんなの不完全な得意分野が重なり合って、理不尽だらけの会社が少しずつ、でも確実に生まれ変わっていくのを感じています。定時退社、今日もトラブルなく完了です』

 その言葉の下には、桁違いの「いいね」の数字と、共感のコメント群が連なっていた。

「……見事な投稿だ」

 るねは、縁の太い眼鏡のブリッジを少し押し上げた。しばらくの間、画面を閉じなかった。
 彼女が出版した『わたし、定時で帰ってAIと副業します』という電子書籍を開いて読んだ時、るねの胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
 そして彼女は、副業で獲得したディレクションの技術を、ついに現実の理不尽なオフィスへと適用した。
 安心な温室栽培の環境へ逃げるのではなく、不完全な人間たちと一緒に、荒れ果てた他人の畑を泥まみれになって耕し直すという、極めて非効率で、タフなルートを選択したのだ。

「……とはいえ。私が蒔いた種が、まさかあんなに早く、あんな強固な双葉として発芽するとは予測していなかったがね」

 るねは、SNSの画面を閉じ、メッセージアプリのタブに切り替えた。
 そこには、数日前に受信した、ある人物からの長文のメッセージが保存されている。
 送信元は、東京の国内最大手ビジネス書出版社で編集長を務めている、るねの古くからの知人だった。

『るねさん、ご無沙汰しております。
先日るねさんがSNSで紹介されていた、ななさんの電子書籍、ダウンロードして拝読しました。
圧倒的な熱量でした。今の時代、AIのプロンプト技術を説く本は山ほど出版されていますが、AIを「自分自身の思考の整理」として捉え、さらにそれを現実の古い組織変革にまで繋げたドキュメンタリーは、他に類を見ません。
ぜひ、弊社の今年度の目玉企画として、大幅な加筆修正の上、紙の書籍として商業出版したいと企画書を回しています』

 その言葉を読んだ時、るねは、自分が手塩にかけて育てた果実が市場で高く評価された時と同じ種類の、静かで深い充足感を覚えた。
 彼はすぐに「彼女のディレクション能力は本物だ。私も全力でバックアップするよ」と返信した。
 そして、編集長からの「ぜひ、るねさんにも初回の顔合わせに同席していただき、彼女のメンターとして助言をいただきたい」というオファーに対し、二つ返事で「承知した」と伝えたのだった。

「さて、と」

 るねは、木製のベンチからゆっくりと立ち上がった。
 見上げれば、澄み切った初夏の青空が、クリアな色彩でどこまでも高く広がっている。

 今頃、彼女は新しいデジタル推進室のリーダーとして、九条先輩の確かな経験や、あおいちゃんのデザインと共に、社内の理不尽な壁と格闘しているのだろう。
 AIが吐き出す嘘に翻弄されたり、人間同士の衝突に頭を抱えたりしながら。

「それもまた、強い根を張るために必要な養分だよ」

 るねは、ぽつりと呟いた。

「……そろそろ、直接顔を見て言葉を交わす時が来たかな」

 るねは、スマートフォンをスリープ状態にして作業着のポケットにしまい、再び泥のついた軍手をはめた。
 来週、彼は新幹線に乗って東京へ行く。
 出版社の会議室というリアルな空間で、彼女と初めて顔を合わせる。
 オンライン上の「るね」と「なな」という文字だけの無機質なやり取りから、珈琲の香りと、穏やかな声の響きを持つ『生身の人間』としての時間へ。

「どんな顔をして、どんな声で話すのか。楽しみだな」

 るねは、キウイの棚に向かって歩き出した。足元を見ると、長靴にまだ朝の泥がこびりついていた。
 植物たちの成長の歩みは、人間の都合など待ってはくれない。
 彼女が東京で、コンクリートに囲まれた自分たちの畑を泥まみれになって耕しているように、彼もまた、この地で自らの土に触れ、畑を耕し続けなければならない。

 初夏の風が、果樹園の葉を大きく揺らした。