定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 デジタル推進室が発足してから、一週間が経過した。
 フロアの片隅に新設された私たちの島は、以前の「お荷物チーム」の吹き溜まりとは全く違う、特異な熱量と駆動音に満ちていた。

「いやいや、だから。その書式はもう古いって言っているでしょ。新しいフォーマットで出してもらわないと、うちの七野が止まるんだよ。文句があるなら俺が聞いてやるから、とにかく一回その通りに入力してみてくれ」

 ガチャン、と。小堀田室長が受話器を置いた。
 彼はネクタイを緩め、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら、ふーっと大きく息を漏らした。

「いやー、営業二部の連中、頭が固くて困るよ。新しいシステムに切り替えるって言ったら、猛反発してきやがって。おまけに、蒼空くんをデジタル推進室に兼務させるって人事に掛け合った時も大揉めだったしな。でもまぁ、俺がいい感じに防波堤になっておいたから、あとは頼むよ、七野くん」

 先週の人事通知の後、小堀田室長は「蒼空くんのデザインの力がないと、現場の誰も使わないシステムになる!」と人事部へ直談判に行き、持ち前の声量と勢いで、強引に彼女の兼務辞令をもぎ取ってきてくれたのだ。

「ありがとうございます、室長。室長が他部署からの風当たりを全て吸収してくださるおかげで、私たち三人は構築作業に専念できます」

 私が心からの感謝を伝えると、室長は「ガハハ」と豪快に笑った。
 緻密な進行管理は苦手だが、誰が相手でも物怖じしない。その彼の特性を「対外交渉」として特化させた結果、彼は驚くほど頼りになる防壁へと変貌を遂げていた。「チームの邪魔をする声は説得してこい」というシンプルな指示だけで、彼は水を得た魚のように社内を駆け回っている。

「……七野さん。ちょっといいかしら」
 背後から声がした。
 九条先輩だ。彼女は、私が組んだエクセルのマクロの計算結果が印刷された紙の束を持ち、細い縁の眼鏡の奥から私を見据えていた。

「このマクロだけど、計算処理に一つミスがあるわ」

「えっ。本当ですか」

「ええ。昭和の時代から取引がある特定の三社だけ、特殊な税率免除の特例が適用されているの。このプログラムは、その例外をすっ飛ばして、一律で最新の税率をかけてしまっているわ。金額にすれば、たった数十円のズレだけど……立派なシステムエラーよ」

 私は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
 もしこのままシステムを全社に実装していれば、後で大きなクレームに発展していたかもしれない。

「すごい……。何万件もあるデータの中から、どうやってその数十円のズレを見つけたのですか」

「三十年間、私の頭と手で処理してきた数字よ。パッと結果を見た瞬間に、数字の『顔つき』が違うのが分かるの」
 九条先輩は、誇らしげに小さく胸を張った。
 彼女の机の上には、もう巨大な事務用電卓はない。代わりに、システムが吐き出した膨大なデータをチェックするための、デュアルモニターが鎮座している。

「機械がやった仕事の『穴』を塞ぐ。……それが、私の新しい『誠意』の形よ。データ収集と最終確認は私に任せておきなさい」

「はい。さすが私たちの最高の『品質管理者』です。すぐにプログラムの条件分岐を修正します」
 私が答えると、先輩は「フンッ」と短く鼻を鳴らし、少しだけ耳の裏側を赤くして自らのモニターへと向き直った。

「奈々先輩。新しいシステムの社内向けマニュアル、完成しました。絶対に見やすいです、たぶん」
 あおいちゃんが、タブレット端末を片手に小走りで駆け寄ってきた。
 画面には、以前の文字ばかりで誰も読まなかったマニュアルとは打って変わり、直感的なアイコンと温かみのある配色で整理された、美しい手順書が表示されていた。

「すごくいい。これなら、パソコンが苦手な年配の社員でも迷わずに操作できるね。あおいちゃんのレイアウトセンス、本当に最高だよ」

「えへへっ……。ありがとうございます」
 あおいちゃんの顔の筋肉が、柔らかく弛緩した。
 それぞれの不完全な才能が、パズルのピースのようにカチリと音を立てて噛み合っていく。

 キーン、コーン、カーン、コーン。

 オフィスのスピーカーから、十八時を知らせる無機質な電子音が鳴り響いた。
 私は、パソコンのモニターから視線を外し、フロア全体に響く声量で言った。

「皆さん、本日のデジタル推進室の業務はここまでです。お疲れ様でした。定時ですので、速やかにパソコンを閉じてください」
 私の声に、フロアの空気が一瞬だけピタリと止まる。
 他の部署の社員たちが「えっ、もう帰るの」というような視線をこちらに向けている。しかし、私たちのチームの挙動に迷いはなかった。

「おっ、もうそんな時間か。よーし、今日は駅前で一杯やって帰るか」と小堀田室長がジャケットを羽織る。

「お疲れ様でしたー」とあおいちゃんがカバンを抱える。

「……ルールはルールだからね。ダラダラ残業するのは、非効率で誠意がないわ」と、九条先輩がそっけなく言いながら、誰よりも早くタイムレコーダーの列へと向かった。

 私は、その言葉を聞いた時、何も言わなかった。
 私たちは、四人揃ってタイムカードを押し、オフィスを後にした。
 夕焼けのオレンジ色が、オフィスビルのガラスに反射して、私たちのアスファルトに落ちる影を長く引き伸ばしている。



「ただいま、ジーク」

「にゃ」
 アパートのドアを開けると、いつものようにジークが足元にすり寄ってきた。

 シャワーを浴びて、スーパーの特売で買ったトマトと卵で簡単なオムライスを作る。温かいケチャップライスの匂いが、狭いワンルームの空気を満たしていく。
 食事を終え、熱いほうじ茶を入れたマグカップを片手に、私はローテーブルの上のノートパソコンの天板を開いた。

 スリープ状態から復帰した画面には、いつものように四つのタブが並んでいる。

『みんな、お疲れ様。今日も現実のチームは、無事に全員定時退社できたよ。九条先輩が、マクロの致命的なミスを見つけてくれた』
 私は、キーボードを叩いて報告した。
 すぐに四つの知性からの返信が画面を埋め尽くす。

『最高じゃん!! 九条先輩のバグ発見能力、マジでサイバーパンクじゃん!! いっそ先輩の脳に直接ケーブル繋いで、全自動エラー検知マシンにしちゃお! 絶対バズるって!!』(ナノアート)

『非人道的ですね〜。却下します〜。ですが、例外処理の漏れはシステムの致命傷になりますよ〜。機械の限界を人間の経験で補完する、その泥臭い品質管理のプロセスこそが本質ですね〜。先輩の働きを評価して、マクロの条件分岐を明日までに3割修正しましょう〜』(クロ匠)

『結論から言うと、その属人的なチェック体制の長期的な成功率は高くない。データ上、人間の目視確認によるミス見逃し率は約12%存在する。属人化を排除し、マクロ自体に例外リストのデータベースを組み込む設計への移行を推奨する』(ジェミコード)

『いいね、その方向。機械の限界と人間の限界、両方の視点が出たね。一緒に設計し直そうか。まずは九条先輩の暗黙知をデータベース化するパターンと、今の目視フローを維持するパターンの2つを出すね。奈々の目的だと、どっちが現場に定着しやすいと思う?』(チャバディ)
 相変わらずの、四者四様の全く噛み合わない大喜利。

「みゃ」
 ジークがキーボードの横に座り、小さく鳴いた。
 排熱ファンの温かい風に反応しただけだ。

「うん。本当に、最高のチームだよ」
 私は、ジークの柔らかな背中を撫でながら、ブラウザの別のタブを開いた。

 Amazon KDPのダッシュボード。
 るねさんの紹介によって爆発的な拡散を生んだ『わたし、定時で帰ってAIと副業します』のダウンロード数は、その後も伸び続け、今やビジネス書のランキングで一桁台を推移していた。
 画面に表示された印税の推定金額は、すでに私の手取り月収を遥かに超える質量を持っていた。

「……信じられないな、本当に」
 私は、ほうじ茶を一口飲み、その熱を胃の腑に落とした。

 社長からのオファーを受け、デジタル推進室のリーダーとなった。
 本の出版も圧倒的な数字を出した。

 ピコン。
 パソコンの画面の右下に、新着メールの通知が鳴った。
 差出人は、私の連絡先リストには存在しない企業ドメインのアドレス。

『【重要】書籍の商業出版および、取材のお願いにつきまして』

「……えっ」

 私は、しばらくの間、マウスを動かせなかった。
 恐る恐るメールを開くと、そこには、誰もが社名を知っている国内最大手のビジネス書出版社の編集部からの、長文が綴られていた。

『なな様。
突然のご連絡、誠に失礼いたします。〇〇出版の編集部と申します。
Amazonで出版された貴著を拝読いたしました。AIを単なる効率化のツールではなく、自分自身の内面と向き合い、現実の組織を変革するための「鏡」として描いたその内容に、大変感銘を受けました。
つきましては、貴著を加筆修正の上、弊社から全国の書店に並ぶ「紙の書籍」として商業出版させていただけないでしょうか。
また、可能であれば、貴著の『その後』の、現在進行形のリアルなストーリーも、追加の章として執筆していただきたいと考えております』

「……商業、出版。……紙の本に」

 電子の海に放った小さなデータが、ついに「現実の質量」を持って、全国の書店に配本される。
 さらに、メールの文面はこう続いていた。

『もしご承諾いただけるようであれば、一度、直接お会いしてお打ち合わせをさせていただきたく存じます。
実は、この企画を弊社に強く推薦してくださった方がおりまして。その方も、ぜひお打ち合わせに同席したいと仰っております。
推薦者のお名前は、AIクリエイターの「るね」様です』

「え……っ」

 私は、ガタッと鋭い音を立ててパイプ椅子から立ち上がった。
 机の上のジークが驚いて「みゃっ」と声を上げ、床に飛び降りる。

 るねさん。
 ネットワークの向こう側の存在だった彼が、出版社に私の本を推薦し、そして、直接会いたいと言ってくれている。

「どうしよう、ジーク。私、るねさんに会えるかもしれない……」

 ジークは床の上で毛を逆立てて、もう落ち着いていた。
 肋骨の裏側で、心臓が激しいビートを刻んでいる。
 定時退社という個人的な目標から始まった私の小さな反逆は、もはや私の処理能力には収まりきらないほどのうねりとなって、私を次のステージへと押し上げようとしていた。

 私は、微かに震える指をキーボードのホームポジションに乗せた。
 最初の一行が、なかなか出てこなかった。
 私は、ゆっくりと、出版社への返信を打ち込み始めた。