定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 翌朝。私は、いつもよりわずかに重心を意識して、オフィスの重い防火扉を開けた。
 フロアに充満する乾燥した空気が、昨日までとは微かに違って感じられる。
 私の決断が、この理不尽と非効率が堆積した空間にどんな風を吹き込むのか。不安を完全に消し去ることはできない。けれど、深夜の自室で四つの知性たちとセッションを繰り返していた時のような、静かで、確かな熱を持った駆動音が、肋骨の奥で鳴り響いていた。

「おはようございます、奈々先輩」

 あおいちゃんが、自席からパイプ椅子を鳴らして立ち上がり、挨拶をしてきた。
 
「おはよう、あおいちゃん。今日も、いい顔だね」
「はい。なんだか、仕事をするのが少しだけ怖くなくなりました。先輩のおかげです」
「それは、あおいちゃん自身の力だよ。あ、そうだ」

 私は、自分のカバンから小さな紙袋を取り出し、あおいちゃんの机の端にそっと置いた。

「これ。よかったら、使って」
「えっ。……なんですか」

 あおいちゃんが袋の口を慎重に開けると、中には最新式のエルゴノミクスデザインを採用した、手首に負担のかからないワイヤレスマウスが収められていた。

「昨日。膨大な色彩設計とレイアウトを、限界ギリギリまで頑張ってくれたから。……孤独な作業の、お守り代わりに」

 それだけを言って、私は自席に戻った。
 あおいちゃんは、マウスを両手で包み込むようにして持ち、じっと見つめていた。

 私は、斜め向かいの九条先輩の席に目を向けると、先輩は、すでに山積みの書類と格闘している。いつものように巨大な事務用電卓を叩いているが、その打鍵のリズムは心なしか、以前のような「親の仇を討つ」激しさではなく、少しだけ一定に落ち着いているように聞こえた。

「……おはようございます、九条先輩」

 私が声をかけると、先輩は電卓を叩く手を止めず、眼鏡の奥の瞳も上げずに答えた。

「……おはよう」

 私は、自席へ向かいかけた足を、一歩だけ止めた。
 ただの一言。
 でも、声が返ってきた。それだけで、大きな第一歩だ。

 午前十時。
 社内のチャットツールに、全社員宛ての緊急通知がポップアップした。
 差出人は、社長室。

『【重要】新規プロジェクトチーム「デジタル推進室」の発足および人事異動について』

 オフィス内が、一瞬にしてザワついた。誰もが自分のモニターを凝視し、隣の席の同僚と顔を見合わせている。
 私は、静かにマウスをクリックし、その通知を開いた。

『本日付で、全社の業務プロセス改善およびAIツールの導入・活用を主導する「デジタル推進室」を新設する。
同室のリーダーには、現・営業事務の七野奈々を任命する。
また、同室のメンバーとして、以下二名を異動とする。
・営業部:小堀田(室長)
・営業事務:九条
なお、本プロジェクトは社長直轄とし、社内のあらゆる部門の業務効率化に特命で取り組むものとする』

「……えっ」

 あおいちゃんが、信じられないものを見る目で、私とモニターを交互に見比べた。フロア中の数十対の視線が、一斉に私に集中する。
 私はゆっくりと立ち上がり、同じように画面を見て固まっている九条先輩と小堀田部長の元へと歩み寄った。

「部長、九条先輩。……通知の通りですので、今日からよろしくお願いします」

 私が頭を下げると、小堀田部長はバツの悪そうな顔で、頭をガシガシと掻いた。

「……いやぁ、七野くん。実は今朝一番で、社長から直々に呼び出されてさ。みっちりと言い含められたよ」

「社長から、ですか?」

「ああ。『お前の熱量は評価するが、プロセスを構築する能力は皆無だ。これからは七野が作る枠組みの中で、他部署やクライアントとの交渉という得意分野だけに専念しろ』ってな。俺が室長で、君が実質的なリーダー。そういう位置づけだと明確に説明された。正直、最初は面食らったが……昨日のプレゼンを振り返れば、ぐうの音も出ないよ。俺はしゃべって、矢面に立っていればいい。緻密な仕組みづくりは、君に全部任せる。よろしく頼むよ」

 部長はそう言って、いつものように豪快に笑った。相変わらずの単純な反応だが、この「愛すべき熱量」が、チーム全体を前進させる重要な要因なのだと、今はもう分かっている。

私は内心で深く安堵し、九条先輩に向き直った。先輩は、細い縁の眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、私を睨みつけていた。

「……あなた、本気なの。私を、あなたのチームに入れるなんて。私がAIを使った効率化に、大反対していること、知っているくせに」

「はい。正確に覚えています」

「なら、どうして。矛盾しているじゃない」

「先輩の『記憶力』と『正確さ』は、どんな最新のAIよりもエラー率が低く、信頼できるからです」

 私は、一定のトーンで、しかし真っ直ぐに彼女の視線を受け止めた。

「これから私たちが導入するシステムは、絶対に1円のミスも許されない財務データや、お客様の個人情報を扱います。AIの処理速度は速いですが、彼らは平気で息を吐くように嘘を出力します。その『嘘』を瞬時に見抜き、人間としての責任を持ってチェックできるのは、長年この組織で泥臭く数字と向き合い、エラーを防いできた、九条先輩だけ」

「……」

「先輩は、もう手作業で電卓を叩いて、自分の時間をすり減らす必要はありません。先輩の新しい仕事は、AIが出してきた結果が、本当に『品質』を伴ったものかどうかを判断する、最後の砦です。……私の、最強の『品質管理』になってくれませんか」

 オフィスは、静まり返っていた。九条先輩は、私の顔をじっと見つめたまま、やがて、フイッと顔を背けた。
 チッと、小さな舌打ちの音。

「……生意気ね。入社十年の小娘が」

 先輩は、自分の机の引き出しを開け、長年愛用してきた、キーの印字が擦り減った巨大な事務用電卓を、コトリと中にしまった。

「でも、私が確認する以上、1円のズレも、1ミリの手抜きも、システムエラーとして却下するわよ。覚悟しておきなさい」

「はい。最強の品質管理、よろしくお願いします」

 私は、先輩に向かって深く頭を下げた。
 九条先輩は、何も言わなかった。

「あのあのっ。奈々先輩」

 あおいちゃんが、慌てて私たちの元へ駆け寄ってきた。

「私……私はどうなるのですか。私も、先輩たちの新しい部署に入りたいです。まだまだ未熟ですけど、視覚設計とか、資料作成とか、絶対に頑張りますから」

 あおいちゃんは、泣きそうな顔で、しかし真っ直ぐな瞳で訴えてきた。
 私は、彼女の頭に、そっと手を置いた。

「あおいちゃんは、今の営業事務をそのまま続けて。でも、私たちが新しく作るシステムの『最初のユーザー』になってもらうよ。あおいちゃんが一番、直感的に使いやすいと思える画面と操作性を、一緒に作っていこう。孤独な作業を、減らすために」

「はいっ」

 私は、照れくさくなって机に目を落とした。
 自分の足元を見る。
 新しく打ち直されたばかりの、真っ直ぐなパンプス。

「みゃーん」

 カバンの中で、動画を再生したままにしていたスマホから、小さな鳴き声が聞こえた。

「さあ、チームDX。まずは現状の業務の洗い出しと、ボトルネックの特定から始めましょう。私たちの、このプロジェクトのゴールは……『全社員を、毎日定時で退社させること』です」

 私の言葉に、オフィスの空気が、少しだけ、本当に数パーセントだけ、活気づいたような気がした。