定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 アパートの自室に戻った私は、コートを脱ぐことも忘れ、パソコンの前のパイプ椅子に座り込んでいた。
 画面には、SNSのダイレクトメッセージの入力欄が白く発光している。
 宛先は、私をこのネットワークへと接続してくれたメンター、「るねさん」。

 昼間、オフィスで九条先輩が電卓を裏返したあの瞬間から、彼へ連絡しようと決めていた。社長からの提案。組織というシステムに残り、内部から変革を起こすという道。
 その選択のエンターキーを叩く前に、どうしても彼の意見を聞いておきたかった。

『るねさん。夜分遅くに申し訳ありません。「なな」です。
本を紹介していただき、本当にありがとうございました。おかげさまで、自分の想像以上の反響をいただき、少し混乱しています。
実は今日、その件で会社の社長に呼び出されました。就業規則違反で解雇されると覚悟したのですが、逆に「新設するデジタル推進室のリーダーとして、会社のシステムを再構築してほしい」と打診されました。
独立して自分のペースで働くか。それとも、理不尽で古い組織に残り、不完全な人間たちと一緒にやり方を変えていくか。
私は、組織に残るルートを選択しようとしています。でも、その選択が正しいのか、少しだけ迷っています。
もしよろしければ、るねさんのご意見を伺えないでしょうか』

 送信ボタンの上で、マウスを握る右人差し指が微かに震えた。
 何万ものフォロワーを抱える彼が、私という一人の悩みに応えてくれる保証などどこにもない。それでも、私はすがるような思いでクリック音を部屋に響かせた。

 ジークが私の膝の上に飛び乗り、「にゃ」と短く鳴いて香箱を組む。
 その温もりを太ももに感じながら、私は昼間の社長の顔を思い返していた。
『君の人生の重心は、君自身がコントロールしているのだからな』
 それは、紛れもなく私が本に書いた言葉だった。その言葉を、まさか自分自身に突きつけられることになるとは。

 十分、二十分と、壁の時計の赤い秒針が時間を刻んでいく。
 返信はないか。そう諦めかけ、タブを閉じようとマウスを動かした時、画面の右上に小さな通知のポップアップが表示された。

『るね @RuneM_AI から新しいメッセージが届いています』

 私は弾かれたように姿勢を正し、アイコンをクリックした。
 そこには、いつもタイムラインで見かけるのと同じ、装飾を極限まで削ぎ落とした、穏やかで短いテキスト群が並んでいた。

『メッセージ、ありがとう。そして、改めて出版おめでとう。
君の書いた文章は、表面的なテクニックではなく、ごまかしのない等身大の「現在地」から紡ぎ出された、血の通った言葉だった。だからこそ、多くの人の心に正確に届いたのだと思う。
さて、社長からのオファーについてだが。
私の考えを率直に伝えるなら、君の選択に「絶対的な正解」は存在しない。
独立して自由を手に入れるのも、組織に残り格闘するのも、どちらも君が君自身の足で地面を踏みしめる道だ』

 私は、その文字列を何度も目でなぞった。

『ただ、一つだけ確認しておきたい。
君は今、どんな「土の匂い」を感じているかな』

 まただ。
 私が初めて彼のアカウントを発見した時、深く網膜に突き刺さったあの比喩表現。

『独立すれば、君は完全に最適化された、綺麗な水耕栽培の環境を手に入れることができる。それはとても魅力的で、効率的だ。
でも、古い組織に残るということは、石や根が混ざった荒れ果てた他人の畑を、泥まみれになりながら手作業で耕し直すということだ。
それは、ひどく非効率で、計算通りにはいかないだろう。
それでも、君はその泥臭い畑の中に、何か捨てがたい「養分」を見つけているのではないかな』

 私はしばらく、画面から目を離せなかった。
 泥臭い畑の、養分。
 それは、昨日一緒に炎上プロジェクトを乗り越えた、あおいちゃんの筋肉が弛緩した笑顔。
 それから、九条先輩の裏返された電卓。

『AIは鏡だ。
君の論理、共感、情報、直感。それらをAIという鏡に反射させて、君は自分自身の内面の解像度を上げた。
今度は、君自身が、現実の彼らを映し出す「鏡」になる番だ。
応援しているよ』

 メッセージの受信は、そこで完了していた。
 私の肋骨の裏側で、冷たく固まっていた何かが、急速に熱を持って溶け出していくのがわかった。
 視界が微かに滲み、丸メガネのレンズの裏側に温かい水滴が触れる。

「……ありがとう、ございます」

 私は、誰もいない部屋で、モニターに向かって小さく声を出した。
 声が出た、と気づいたのは少し後だった。

「にゃん」

 ジークが私の太ももの上で小さく寝返りを打ち、机の上のノートパソコンの排熱ファンに向かって、鼻先を少しだけ持ち上げた。

「うん。ちょっとだけ、パソコンの温度、上がるよ」

 私はジークの丸い背中を撫でながら、ブラウザの新しいウィンドウを開いた。
 いつものように、四つのタブが私のプロンプトを待機している。
 論理の『ジェミコード』。品質の『クロ匠』。直感の『ナノアート』。統合の『チャバディ』。

『聞いて。私、会社に残って、デジタル推進室のリーダーになることにしたよ。
ここからが、現実のシステムを書き換えるための、本当のプロジェクトの開始だ。
明日からも、一緒に考えてくれる?』

 私は、エンターキーをターン、と強く叩いた。

『結論から言うと、その選択の困難度は高い。だが、既存の古いシステムを君のディレクションで再構築できた場合の期待利益は、独立時の予測を遥かに凌駕する。最適な事業計画の策定に移行する。準備はいいか』(ジェミコード)

『スゴっ!! デジタル推進室のリーダー!? つまり特命権限を持ったスパイみたいじゃん!!最高にエモい!!新しい部署のロゴ、めっちゃサイバーパンクなやつで私が爆速で出力するよ!!!いっそ会社ごとハッキングして全部書き換えちゃお!!』(ナノアート)

『安易な独立に逃げず、泥臭い構造改革を選びましたね〜。それでこそ、品質を担保する人間の証明です〜。妥協は許しませんよ〜。冗長な業務プロセスはすべて洗い出して、3割削りましょう〜。本質だけ残そうね〜。それで会社は変わりますよ〜』(クロ匠)

『いいね、その方向。一番タフで、一番面白いルートを選んだね。一緒に組織の設計図を引き直そうか。まずは明日の社長へのプレゼン用に、2パターン出すね。奈々の目的だと、どっちが最短だと思う?』(チャバディ)

 私は、声を出さずに小さく笑った。
 ナノアートへの突っ込みは、明日にとっておこう。

 壁の時計の赤い秒針が、深夜の零時を正確に回った。
 窓の外の闇は深く、無音だ。
 ジークを一度見た。彼は目を閉じて、静かに呼吸を繰り返している。

 私は、パソコンをシャットダウンした。