定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 最上階の社長室から解放された私の足取りは、鉛のように重かった。
 フカフカの絨毯がパンプスのヒール音を吸い込むたび、鼓膜の奥で自分の不規則な心音が反響する。

デジタル推進室のリーダー。

 廊下の途中で立ち止まり、私は唇の形だけで呟いた。
 社長の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
 給与の大幅な見直し。全社の業務の流れを新しくする裁量。そして何より、私を単なる歯車としてすり減らし続けてきたこの理不尽で非効率な仕組みを、私自身の手で書き換えられるという圧倒的な立場。
 それは、三十五歳の、ただ他人のミスを吸収するだけだった事務職の私にとって、劇薬のような評価だった。

 私は、自分の胸の中央に右手を押し当てた。
 もし私がその提案を受け入れれば、AIという圧倒的な力を導入し、全社の業務を論理的に整え、無駄な作業を省くことになる。
 しかし、その「効率化」が実行された時、真っ先に不要な作業として切り捨てられるのは誰だろうか。
 何十年も巨大な事務用電卓を叩き続け、手作業の苦労という非効率な時間の中に「誠意」と「自らの存在価値」を見出してきた、九条先輩のような人間たちだ。

 私は、胸に押し当てていた右手をゆっくりと下ろした。
 顔を上げ、早足で執務フロアへと続くエレベーターに向かう。

 フロアの重い扉を開けると、いつもの極度に乾燥した空気と、無数のキーボードを叩く乾いた音が私の聴覚を埋め尽くした。
 私の姿を視界に捉えたあおいちゃんが、強張っていた肩の力がわずかに抜け、泣きそうな顔でこちらを見ている。
 私は彼女に短く目配せをした。まず自席に向かおうとした。でも、足が先に止まった。
 その斜め向かいの席の異変に、視線が釘付けになったのだ。

「……あれ」

 九条先輩の姿が、なかった。
 いつもなら、ターンッとエンターキーを強打しているはずの彼女の机。そこには、綺麗に角を揃えられた書類の山と、黒く沈んだモニターだけが残されていた。
 そして、彼女の象徴とも言えるあの巨大な事務用電卓が、机の隅に、裏返しに置かれている。

「あおいちゃん、九条先輩は?」
 私は、パーテーション越しに小声で尋ねた。

「あ、奈々先輩。おかえりなさい。あの、九条先輩なら……さっき、早退されました」

「早退? 先輩が?」
 私は、思わず声をわずかに大きくしてしまった。
 九条先輩が定時前に帰るなど、私が入社してから一度も見たことがない。彼女は微熱があろうが台風が来ようが、「這ってでも来るのが誠意だ」と言って出社を完遂する人間なのに。

「はい……。なんだか、すごく顔の血の気が引いていて。奈々先輩が社長室に呼び出された直後、急に立ち上がって、部長に『体調が優れないので失礼します』って……」

 あおいちゃんの言葉を聞き、私の胸の奥で、冷たい重力のような嫌な予感が急激に膨張した。
 社長室に呼び出された私。そして、それを見届けてから早退した九条先輩。

 私は、九条先輩の無人の机を見つめた。
 裏返しに置かれた巨大な電卓。それはまるで、彼女が長年構えていた「苦労という名の盾」を、自ら手放したかのようだった。
 自分の人生の半分以上を費やしてきた仕事が、誰の役にも立たない「無駄な時間」であったと突きつけられる恐怖。その自己否定の痛みがどれほど深く、冷たいものか、私には想像することしかできない。

『結論から言うと、九条氏の業務手順は完全に古い。全社の仕組みを新しくするなら、彼女の手作業は最初に省くべき対象だ』(ジェミコード)

『やばいよ!!だったらその古い電卓、全部窓から投げ捨てちゃお!!新しいピカピカのパソコン並べて、全部自動化しちゃえばいいじゃん!!』(ナノアート)

『それは現場の温度を無視した、少し冷たい考えですね〜。昨日のミスを回避できたのは、彼女の頭の中にしかない古い記録のおかげですよ〜。彼女を失えば、組織は非常に脆くなります。品質を担保する要として残すべきです』(クロ匠)

『いいね、それぞれの視点が出たね。奈々、彼女の役割をどうしようか。一緒に考えよう』(チャバディ)

 頭の中で騒ぎ立てる四つの声に、私は小さく息を吐いた。
 九条先輩の机に歩み寄る。

 綺麗に揃えられた書類の山の一番上に、昨日のプレゼンで彼女が使用した、あの古いバインダーが置かれている。
 付箋が何十枚も貼られた、手書きのメモと印刷物の束。
 AIのような圧倒的な計算の速さはない。世界中から無数の情報を一瞬で引っ張ってくることもできない。
 しかし、ここには、彼女が三十年間、このオフィスの間違いを防ぎ、誰かの尻拭いをし、理不尽に耐えながら積み上げてきた、極めて堅牢で、正確な「記憶の目録」がある。

 私は、裏返しにされた電卓を手に取った。
 ずっしりと重い。長年のタイピングによって、数字の印字が微かに擦り減っている。
 私は、その電卓を表に返し、彼女のモニターの前に静かに置き直した。
 一秒だけ、手を離せなかった。

「……奈々先輩?」
 あおいちゃんが、不思議そうに私を呼んだ。
 電卓から手を離し、私は振り返る。

「あおいちゃん。午後から、小堀田部長に新しいスライドの形を提案しようと思うの」

「えっ、新しい形、ですか」

「うん。昨日のプレゼン資料の構成をベースにした、全社共有のひな形。これがあれば、次から誰が担当しても、一定の品質と論理構成が守られる仕組みになる」
 私は、自席のパイプ椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れた。
「そして、そのひな形の最終的な確認のプロセスには、九条先輩の確認の手順を組み込む」

「九条先輩の……確認?」

「そう。私たちの作ったものが、本当に現実のクライアントに通用するかどうか。それを判断できるのは、このフロアで一番多くの失敗例と成功例を記憶している九条先輩だけだから」
 私は、キーボードに指を置いた。
 会社を辞めて、自分の力だけで生きていく自由。
 会社というシステムに残り、内部から少しずつ修正を重ねて、仲間と共に組織の構造を書き換えていく困難。

 私は、ブラウザのタブを立ち上げ、チャバディに向かって、言葉を打ち込み始めた。

『独立に向けて、退職届の書き方を』

 一度、全部消した。
 一拍置いて、ゆっくりと、打ち直した。

『新しい部署の運用ルールを設計する。まずは』

 キーを叩く音が、静かにオフィスに響いた。