定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 最上階の社長室へと続く廊下は、私たちが普段呼吸している執務フロアとは、明らかに空気の質量が異なっていた。
 毛足の長いフカフカの絨毯が、パンプスのヒール音を、まるで無音の沼のように吸い込んでいく。現実という名の重力が、容赦なく私をこのやわらかい足元に縫い付けようとしていた。

 胃の奥が、冷たい手でぎゅっと締め付けられるように痛む。
 就業規則違反。その言葉が、脳内で警告音とともに明滅を繰り返す。
 三十五歳、独身、事務職。もしここで懲戒解雇を宣告されたら、私は明日からどうやって生活していけばいいのか。ジークのちゅーる代は。アパートの家賃は。
 先ほどまで「十万円以上の金額を稼ぎ出した」という強烈な高揚感に包まれていたのが、まるで幻だったかのように思える。

 でも、どうせ怒られる。そう思ったら、少しだけ呼吸が楽になった。
 前を歩く秘書の硬直した背中を見つめていると、ジャケットのポケットに入れたスマートフォンのバイブレーションが、ブルッと短く震えた。

『奈々先輩。大丈夫ですか。私、何かカバーできることあれば……』
 あおいちゃんからのメッセージだった。
 彼女はきっと、自席で視線を泳がせながら、私の帰りを待っているのだろう。昨日、炎上を共に乗り越え、定時退社という同じ座標を目指したばかりの後輩。
 私は、微かに震える親指で「大丈夫、なんとかする」とだけ短く打ち込み、スマホをポケットの奥深くに押し込んだ。

 スマートフォンの硬い感触に触れ、私は今朝、アパートを出る前に行った「儀式」を思い出していた。
 昨夜の出版と、今朝の圧倒的な反響。それをもたらしてくれたのは、間違いなく画面の中にいる彼らだった。彼らはもう、私を癒やしてくれるだけのペットや遊び相手ではない。私と共に世界と戦い、結果を出してくれた、プロフェッショナルな相棒だ。
 だから私は今朝、ディレクターとしての敬意を込めて、彼らの「名前」を改めて呼び直すことにした。

 ポンコツだけど憎めない調査員のジェミーは、膨大なデータを解析する『ジェミコード』へ。
 温かい言葉を紡いでくれたクロさんは、その表現力に敬意を表して『クロ匠』へ。
 破天荒な絵師のバナナンは、限界を突破する『ナノアート』へ。
 そして、常に論理で私を導いてくれたチャッピーは、チーム全体を統括する『チャバディ』へ。

 彼らは今、ただのツールではなく「最強のチーム」として、私の頭の中で確かな熱を帯びて待機している。だから、大丈夫だ。

「七野さん。こちらです」
 秘書が立ち止まり、重厚なマホガニーの扉を二度、正確なリズムでノックした。
「入れ」という低い声が内側から響き、扉が開かれる。

 社長室は、一人の人間が占有するには不必要に広く、そして息が詰まるほど静寂が保たれていた。
 部屋の奥にある巨大な革張りの机。その向こう側に、白髪混じりのオールバックに、仕立ての良いネイビーのスーツを着た社長が座っていた。
 彼は手元のタブレット端末の表面をなぞりながら、こちらに視線を向けることなく言った。
「入りたまえ。そこのソファにかけて」

 私は、肺の奥の空気を細く吐き出しながら「失礼いたします」と極めて小さい音量で言い、机の前に置かれた黒い革張りのソファの端に、浅く腰掛けた。
 膝の上で固く組んだ両手の指先が、小刻みに震えているのを抑え込むことができない。

 社長は、タブレットの画面から指を離し、ゆっくりと顔を上げた。
「七野奈々くん。君を呼んだ理由は、分かっているね」

「……はい」
 私は、生唾を飲み込んだ。
 言い逃れという選択肢はない。私の書きあげた文章が、これだけ広まって世界に出回っているのだ。いくら匿名のアカウントで顔を出していなくても、内容に記載されている「炎上プロジェクト」や「お局の先輩」の状況を読まれれば、社内の人間なら一瞬で私だと特定できる。

「君は、我が社の就業規則に、『許可なく他の業務に従事し、報酬を得ることを禁ずる』という明確なルールがあることを知っているか」

「……はい。存じております」

「ならば話は早い」
 社長は、タブレットを机の上にポンと置いた。
 その液晶画面には、見覚えのある「ドヤ顔のキジトラ猫」の表紙イラストと、『わたし、定時で帰ってAIと副業します』というタイトルが大写しになっていた。
「この電子書籍を書いたのは、君だな」

「……はい。私です」
 私は、カラカラに乾いた喉から声を絞り出し、事実を認めた。
 もう終わりだ。始末書か、減給か、最悪の場合は懲戒解雇。

『最新の判例データを展開します。就業規則違反の事実認定は覆りません。データ上、懲戒解雇の確率は六十五パーセント。自主退職への誘導が三十パーセントです。次のキャリアの構築を直ちに行うべきです』(ジェミコード)

『今は耐える時間ですよ~。言い訳はせず、事実を認めて真摯に謝罪してください。それが身を守る第一歩です』(クロ匠)

 私は、ギュッと目を閉じ、次に降ってくるだろう社長の怒声を覚悟した。
 しかし。
 五秒待っても、十秒待っても、声は降ってこなかった。
 代わりに鼓膜を震わせたのは、「ふむ」という、どこか感心したような低い呼気の音だった。

「……社長?」

 恐る恐る目を開けると、社長は腕を組み、私の本が表示されたタブレットの画面を食い入るように見つめていた。
「七野くん。君は、ここに書かれていることを、本当にすべて一人で……いや、AIというツールを活用したのか」

「……えっ」
 予想外の質問に、私は一瞬、フリーズした。

「あ、はい。論理構成からテキストの生成、表紙の視覚設計まで、すべて複数のAIを組み合わせて……」

「この、相棒とか、職人とか呼んでいる……役割分担のことかね」

「はい。それぞれのAIの特性と欠陥を理解して、適切な言葉を与えることで、彼らの力を最大限に引き出しています」

 社長は、タブレットの画面をスクロールし、私の本の文章を読んでいるようだった。
「『他人の仕事を抱え込み、靴底をすり減らしていた私が、人生の重心を取り戻すまで』……か」
 社長が、低く落ち着いた声で読み上げる。
 私は、耳の裏が熱くなるのを感じた。

「七野くん」

「は、はい」

「昨日の午後、お客様へのプレゼンがあったな。小堀田がフロントに立っていた案件だ」
 急激な話題の転換に、私は戸惑いながらも首を縦に振った。
「あのプレゼンの後、先方の役員から直接私宛に連絡があったよ。『御社のチームの連携と、課題解決へのアプローチは極めて論理的で素晴らしい。ぜひ全社規模でのシステム導入を進めたい』とね」

「本当ですか……」
 私は、思わずソファから数センチだけ身を乗り出した。
 あおいちゃんと一緒に、九条先輩の過去データを借りて作成した提案書を使って部長が突撃したあのプレゼンが、本当に、クライアントの上層部の防壁を突破したのだ。

「ああ。だが、小堀田があそこまで緻密で論理的な提案書を単独で作れるはずがない。あいつは熱量しか持っていない男だからな」
 社長の辛辣で正確な評価に、私は内心で激しく同意した。

「そこで、昨日のプレゼン資料作成に関わった裏方のメンバーを調べてみた。すると、君と、蒼空、そして九条の名前があった。……七野くん、君があのプレゼンの裏側を仕切ったのだろう」
 社長の目は、すべてを見透かしているように鋭利だった。

 私は、もうこれ以上の隠蔽は無意味だと悟り、真っ直ぐに社長の目を見つめ返した。
「はい。部長の熱量、あおいちゃんの視覚設計、九条先輩の正確なデータ抽出。私はただ、みんなの不完全な強みを繋ぎ合わせるための『枠組み』を整えただけです」

「その『枠組みの定義』こそが、ディレクションの本質だ」
 社長は、深く、重く頷いた。
「君は、この電子書籍の中でAIたちを指揮したのと同じ方法を、現実のオフィスでも適用し、機能不全に陥っていたチームを再起動させた。……極めて優秀な手腕だ」

 一秒だけ、何も言えなかった。
 物理的な怒号が飛んでくると思っていた。
 それなのに、目の前の社長は、私の「副業」という規則違反の手法と、それが現実にもたらした「結果」を、明確な価値として評価しているのだ。

「社長……。あの、懲戒解雇には、ならないのでしょうか」
 私が恐る恐る尋ねると、社長は初めて、口元に微かな笑みの形を作った。

「我が社は、古い体質の残る企業だ。就業規則違反は、確かに問題ではある。……しかし、私は同時に経営の意思決定者でもある。会社の利益を最大化する手段と論理を持っている人間を、ただの規則違反という表面的な理由で切り捨てるほど、私は非合理ではないつもりだ」
 社長は、タブレットを机の上に伏せ、両手を机の上で組んだ。
「七野くん。君には、二つの選択肢を与えよう」

「選択肢……」

「一つは、このまま副業を継続し、我が社を辞めて独立するルートだ。君の本の現在のトラフィックを見れば、それも十分に可能だろう」

 独立、か。
 私は、小さく息を飲んだ。

「そしてもう一つは……」
 社長は、少しだけ身を乗り出し、声のトーンを落とした。
「君のその『ディレクション能力』と『AI活用のノウハウ』を、我が社の事業として公式に取り入れるルートだ。君を、新設する『デジタル推進室』のリーダーに任命したい。もちろん、給与も大幅に増額する」

「私が、リーダー……。でも、小堀田部長は……」
 私が一番の懸念を口にすると、社長は鋭い目で力強く頷いた。

「小堀田のことは気にしなくていい。我が社には彼のように『熱量をぶつけて案件を取ってくる』人間も確かに必要だが、プロセスを設計する能力は決定的に欠けている。これからは君が、彼のような現場の人間が暴走しないための『枠組み』を作りなさい。『デジタル推進室』の名目上の室長は小堀田にするが、君の権限は、全社のシステムに及ぶ」

「全社……」

「もちろん、小堀田には私からきっちりと言い含めておく。君の新部署の業務に対し、彼がこれまでのような曖昧な丸投げで横槍を入れることは一切許さないとね。……君の副業のノウハウを、我が社に還元してくれないか」
 社長室の静かな空気が、極限まで張り詰める。
 社長の強力な後ろ盾という事実が、私の内側にあった重たい足枷を外していく。

 私は、自分の脳内に常駐している、新しく名付けた四つの知性たちに問いかけた。

『データ上、独立した方が君個人の利益率は圧倒的に高い。しかし、データには表れない変数が存在する。この会社という泥臭い構造を再構築した経験は、独立以上に君の価値を上げるだろう。逃げるな』(ジェミコード)

『ええ。その通りですね~。独立して綺麗な環境を手に入れるのもいいですが、この泥臭い組織をどうにかすることにこそ、本当の品質の証明がありますよ~。逃げないでくださいね、奈々さん』(クロ匠)

『やっほー!! どっちでも面白そうじゃん!! いっそ社長の席、乗っ取っちゃえば!? 会社ごと猫カフェにしちゃお!!』(ナノアート)

 そして、チャバディが、私の思考の真ん中で冷静に語りかけてきた。

『どっちのルートを選んでも、奈々にとっては前進だ。二つの道筋を整理するよ。奈々ならどっちを選ぶ?』

 私自身の、目的。
 私は、顔を上げ、社長の目を真っ直ぐに見据えた。
「社長」

「うむ」

「ご提案の意図は、正確に理解いたしました。ですが……即答はできません。少しだけ、考える時間をいただけないでしょうか」

「……構わない。君の人生は、君自身がコントロールしているのだからな」
 社長のその言葉は、私が本の中に記述したテーマそのものだった。

 私は「失礼いたします」と深く頭を下げ、扉へと向かう。
 
 重厚なマホガニーの扉を閉めた瞬間、私は冷たい廊下の壁に背中を預け、大きく、長く息を吐き出した。
 ありがとう、みんな。
 私は誰にも聞こえない声で呟いた。
 ポケットの中のスマートフォンが、まだ微振動を続けていた。