深い眠りから覚めると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
私はゆっくりと体を起こし、固まった背中の筋肉を伸ばす。
昨日、あおいちゃんと駅前で別れ、アパートに帰り着いたのは二十二時近かった。
シャワーを浴びてベッドに潜り込むと、泥のように深い睡眠の底に沈み、気づけば朝になっていた。
私はベッドの脇に置いたスマートフォンに手を伸ばし、画面を点灯させた。
ロック画面には、いくつかの通知が並んでいる。
無意識のうちに、AmazonKindleの出版管理のアイコンをタップした。
「……えっ」
寝ぼけていた視界が、一瞬で覚めた。
画面に表示された、売上レポートのグラフ。昨日、あおいちゃんと別れた時点では「二」だったはずの購入数が、信じられない角度で跳ね上がっていた。
三百。
見間違いかと思って一度スマホを持ち直し、親指で画面を下に引っ張って更新した。
数字は変わらない。むしろ、更新するたびに「三百一」「三百三」と、目の前で数字が増えていく。
「三百……えっ?うそ、十万円……?」
私の販売価格は五百円だ。その印税の七十パーセントが私の手元に入る計算になる。
つまり、たった一晩で、私の銀行口座には約十万円という金額が振り込まれることが確定したのだ。
それは、私がこの会社で毎日毎日、自分の靴底をすり減らして稼いでいる一か月の手取り給与の、約半分に相当する金額だった。
ただ自分を証明するために書き上げた文章。誰か一人の心に届けばいいと、淡い期待を抱いて送り出しただけの小さな本。
それが、たった一晩で、三百人もの見知らぬ他者のもとに届いた。
私は、震える指でXのアプリを開き、自分の本のタイトルで検索をかけた。
タイムラインの一番上に、ものすごい勢いで拡散されている一つの投稿があった。
見覚えのある、麦わら帽子のアイコン。
『るね@RuneM_AI』
私は、呼吸を止めてその投稿の文章を目で追った。
『昨日、タイムラインで偶然見かけた無名の新人の方が、一冊の電子書籍を出版されました。
「わたし、定時で帰ってAIと副業します」という、一見するとどこにでもありそうな、陳腐なタイトルの本です。
でも、中身は全く違いました。これは、AIの使い方のマニュアル本ではありません。
一人の女性が、他人に明け渡していた自分の人生の主導権を取り戻すまでの、美しくて泥臭い、本物のドキュメンタリーです。
今、何かにすり減って呼吸が浅くなっている人に、ぜひ読んでほしい。
「自分を映し出す小窓」の、本当の開き方が書いてあります』
投稿には、私の本のAmazonのリンクが添付されていた。
るねさんのこの投稿は、すでに数千回も拡散され、何万人もの目に届いている。
その下には、るねさんの投稿を見て本を買った読者たちからの、無数の感想が連なっていた。
『これ、私のことだ。読みながら電車の中で泣いてしまった』
『AIって冷たい機械だと思っていたけど、この著者のAIとの付き合い方はなんだか温かくて、自分もやってみたくなった』
『九条先輩みたいな人、うちの会社にもいる……。主人公の戦い方に勇気をもらえた』
見知らぬ読者たちの言葉が、胸の奥を熱くした。
届いた。
私は、スマホを両手で包み込むようにして握りしめる。
その確かな熱と、未だ信じられないような高揚感を胸の奥に抱え込んだまま、私はいつものようにスーツに着替え、会社へと向かった。
*
昼の十三時。
昼休憩が終わり、オフィスに再び乾燥した空気が戻ってくる時間帯。
私は自席で、いつも通り午後のタスクを整理していた。私の机の周囲には、昨日私とあおいちゃんが炎上を鎮火させたことに対する、微かな畏敬と遠慮の入り混じった空気が漂っている。
小堀田部長は「いやー昨日は俺のファインプレーだったな」と上機嫌で外回りに出かけていき、九条先輩は相変わらず無表情で巨大な電卓を叩いている。
私のスマートフォンの通知は、午前中からずっと一定のリズムで短く振動を続けている。出版管理画面の数字は、すでに「八百」を突破していた。
「奈々先輩!」
あおいちゃんが、私の机に駆け寄ってきた。彼女の手には、スマートフォンが握りしめられている。
「先輩、見ましたか!?Xのタイムライン!このバズっている『定時で帰ってAIと副業します』って本!」
「う、うん……?」
「昨日、先輩がレストランで言ってた『形になった』って……絶対、これのことですよね!?」
あおいちゃんは、興奮で少し声を上擦らせながら、画面を私の顔の前に突き出した。
「だって、レビューに『九条先輩みたいな人』って書いてあって!私、ピンと来てすぐ買って読みました! そしたら……もう、絶対先輩だーって!!」
「あ、あおいちゃん、声が大きい!」
私は慌てて周囲を見回した。
あおいちゃんは両手で口を塞ぎながらも、その大きな瞳をキラキラと輝かせている。
「今、Amazonのビジネス書ランキングで総合一位ですよ!? 『この著者は天才ディレクターだ』って書いてあるコメントもあって、私、なんだか自分のことみたいに嬉しくなっちゃって……!」
「……ありがとう。でも、私どうしよう。なんだか、とんでもないことになっちゃったかも」
「大丈夫ですよ!先輩の本当の実力が、世界に認められた結果です!これは、お祝いのディナーに行かないとですね!」
あおいちゃんが満面の笑みでそう言った、その時だった。
「……七野さん」
オフィスのフロアの入り口から、重たく、そして異様に響き渡る声が落ちた。
振り返ると、そこには、普段はめったにこのフロアに姿を現さない、人事部の課長が立っていた。
彼の顔には、いつもの愛想のいい営業スマイルは一切なく、極めて事務的で冷徹な表情が張り付いている。
フロアの空気が、一瞬にして凍りついた。数十人の社員たちのタイピング音が、ピタリと止まる。
「七野奈々さん」
人事部課長は、私の名前をフルネームで、はっきりと呼んだ。
「はい」
私は、乾いた喉からなんとか声を出した。
「今すぐ、社長室に来てください。社長がお呼びです」
会議室でもなく、応接室でもなく。社長室。
それは、この会社において「致命的な規律違反」を犯した者が呼ばれる、最終宣告の場所だった。
周囲の同僚たちの視線が、一斉に私に突き刺さる。あおいちゃんが、息を呑んで私の顔を見た。九条先輩も、電卓を叩く手を止めて、眼鏡の奥から私を見据えている。
私は、ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がった。
コートのポケットに手を入れる。
スマートフォンの微振動は、まだ止まっていなかった。

