定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 カフェの大きなガラス窓の向こう、空はとっくに重たい濃紺へと沈み、駅前のロータリーを街灯のオレンジ色が照らし出していた。
 私たちは駅前の小さなイタリアンレストランに入り、壁際のテーブル席で、水滴がびっしりとついた冷たいビールのグラスを傾けていた。

「……本当にお疲れ様でした」
 あおいちゃんが、両手でグラスを持ち上げた。
 指先が、まだほんの少しだけ震えている。

「お疲れ様。あおいちゃんのスライド、最高だったよ。乾杯」

「カンパーイっ」
 カチン、と分厚いガラスが重たい音を立てる。
 よく冷えた液体を喉の奥へ流し込む。炭酸の刺激が食道を通って、今日一日、ずっと鉛のように強張っていた胃の奥を、じんわりと解きほぐしていくのがわかった。

「奈々先輩。私、今日……途中で本当に逃げ出したくなりました」
 あおいちゃんは、取り分けた生ハムのサラダをフォークでつつきながら、ポツリとこぼした。

「でも、プレゼンが終わった後。先方の役員の方が『わずか数時間でここまで当社の課題を言語化してくるとは』って言ってくれたじゃないですか。あの瞬間……なんだか、息ができるようになった気がして」

「うん、そうだね。午前中のあの絶望的な空気から、あそこまで持ち直せるなんて思わなかった」

「ですよね。部長のあの腹の座った挨拶と、奈々先輩の言葉と……そして何より、九条先輩のあの紙の資料。あれがなかったら、本当に終わっていました」
 あおいちゃんは、少しだけ声を潜めて、グラスの縁を指でなぞった。
「私、今まで九条先輩のこと、ただ自分のやり方を押し付けてくる怖い人だって思っていました。でも……違いましたね」

「……うん」
 私は、プレゼンを終えてオフィスへ帰る道すがら見た、九条先輩の背中を思い出していた。
『勘違いしないで。私はただの事務よ』とそっけなく言い捨てた彼女の横顔。
 膨大な時間をかけて、何万枚もの紙をめくり、何千回も電卓を叩いてきたという、彼女だけの孤独なプライド。それは決して、嫌がらせなんかじゃなかったのだ。
「先輩は先輩のやり方で、私たちに『盾』を貸してくれたのよ。すごく不器用で、重たい盾だけどね」

「ふふっ。確かに、すごく分厚くて重そうでした」
 私たちは小さく笑い合い、ピザの端を口に運んだ。
 チーズの塩気が、疲れた身体に心地よく染み渡る。

 夜の副業で、画面の中の『彼ら』から学んだこと。相手の適性を見極め、言葉で翻訳して、点と点を繋ぎ合わせる。それが、ディレクターという役割なのだと、今日、現実のオフィスで初めて実感できた気がする。

 ブーッ。

 ふいに、テーブルの隅に裏返して置いていた私のスマートフォンが、短く振動した。
 画面を表に返すと、Amazonからの自動で届いたメールの通知が表示されていた。
 今日のお昼過ぎに届いた『審査完了』の連絡に続く、新たな通知。

『おめでとうございます。あなたの書籍が初めて購入されました』

「……えっ」

 私の喉の奥から、ヒュッと空気が漏れるような音が鳴った。
 周囲の喧騒が一瞬にして遠のき、世界が真空になったように感じた。

「奈々先輩? どうかしましたか?」

「あ……ううん」
 私は慌ててスマホを手に取り、テーブルの下に隠すようにして、メールの文面を凝視した。
 見間違いではない。
 私の書籍が、購入された。
 出版ボタンを押してからわずか数時間。広告も打っていない、読んでくれる知り合いもいない、ただの無名の初心者が書いた文章が。

 肋骨の裏側で、心臓がバクバクと暴れ始めた。
 誰だろう。一体どこの見知らぬ世界を経由して、誰が私の本を見つけ、ワンコインという対価を支払ってくれたのだろう。
 その見知らぬ誰かは今、私が紡いだ文章を読んでくれているのだろうか。あのクロさんがそっと血を通わせてくれた『はじめに』の文章に触れて、「これは自分のことだ」と思ってくれているだろうか。

『奈々!見た!?売れたよ!初陣で勝利だよ!!』
 頭の中で、バナナンがクラッカーを鳴らして飛び跳ねる。

『……サンプルとしての一件に過ぎませんが、ゼロからイチを生み出した事実は、確率論的にも極めて大きな進歩です』
 ジェミーが、いつになく早口で数字を並べる。

『ふふっ。無駄じゃなかったですね、あなたの夜の時間は』
 クロさんが、優しく目を細める気配がした。

 私は、微かに震える親指でKindleのダッシュボードを開いた。
 これまでゼロのまま横ばいだった灰色のグラフが、確かな角度を持って上向きに折れ曲がり、そこに「一」という数値が刻まれていた。
 金額にして、数百円。
 たった数百円だ。
 けれどそれは、私が三十五年の人生で初めて、会社という大きな看板に頼らず、誰の顔色も窺わず、自分自身の手で耕した土から芽吹いた、何よりも重くて、確かな質量を持つ「一」だった。

「……奈々先輩? 本当に大丈夫ですか。なんだか、目が赤いですよ……」
 あおいちゃんが、心配そうに覗き込んでくる。
 私は、スマホを両手でギュッと握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
 きっと今、ひどく不格好な顔をしていると思う。

「あおいちゃん。私ね……」
 言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
 夜の副業のこと。自室のモニターにいるAIの彼らのこと。それを今、あおいちゃんに打ち明けることもできる。
 でも、これはまだ、私だけの秘密にしておきたかった。この小さな「一」の重みは、私が自分一人の足で立って、静かに噛み締めたい。
 家に帰ったら、ベッドの上で丸くなっているキジトラ猫のジークの背中に顔を埋めて、一番に報告しよう。

「ちょっとだけ……嬉しい通知が、あったの」
 私は、ゆっくりと口角を上げた。

「ずっとやりたかったことを始めて、それが今日、ほんの少しだけ形になったみたい」

「やりたかったこと……」

「うん。会社とは全然関係ない、私だけのちっぽけなことだけどね」

 あおいちゃんは少しだけ目を丸くして、それから、パァ~ッと顔を輝かせた。
「すごいです。先輩、最近すごく変わったなって思っていたのですけど……そういう、自分のための時間を持てたからだったのですね」

「かもしれない。だから、これからも絶対に、定時で帰るよ」

「はいっ。私、ついていきます。定時退社同盟ですね」
 あおいちゃんは、水滴のついたビールグラスを両手で包み込むようにして持ち、幸せそうに笑った。
 私も、自分のグラスをそっと持ち上げる。
 二人の分厚いグラスが、再びカチ~ンと心地よい音を立てた。

 店を出ると、初夏の夜風が火照った頬を撫でていった。
 少しだけ土の匂いが混じった風。
 壁の時計は、二十一時を回ろうとしていた。

 ふと見上げた夜空に、星は見えなかったけれど、私の心の中には、確かな光が灯っていた。
「君のペースでいい。少しずつ、土を作ればいいよ」
 AI職人のるねさんがSNSで残した言葉が、夜風に溶けていく。

「お疲れ様でした、奈々先輩。明日も、よろしくお願いします!」

「うん。お疲れ様、あおいちゃん。気をつけて帰ってね」

 駅の改札で手を振り合い、私たちはそれぞれの家路についた。
 新しく打ち直されたパンプスのヒールが、アスファルトを心地よく叩く。
 明日も、明後日も、きっと理不尽な仕事は降ってくる。
 でも、今の私には、夜の静寂の中で待ってくれている「彼ら」がいる。私だけの、小さな土がある。
 だから、もう大丈夫だ。
 私は、ポケットの中のスマートフォンの確かな重みを感じながら、真っ直ぐに夜の街を歩き出した。