定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


「その数字についてですが」

 凍り付いたような空気の会議室。
 先方の役員から突きつけられた「数字の裏付け」という鋭利な問いに対し、極めて一定のトーンで口を開いたのは、部屋の隅のパイプ椅子で沈黙を保っていた九条先輩だった。

 役員たちの視線が一斉に、彼女の細いシルエットに向かう。
 小堀田部長は、ネクタイの結び目に手をやったまま、微かに目を見開いた。私の心臓は、肋骨の裏側で痛いほどの早鐘を打っている。彼女は今朝、私たちのやり方を「小綺麗な理屈」だと突き放したばかりだ。ここで彼女が数字の不確実性を指摘すれば、この提案は終わる。

 しかし、立ち上がった九条先輩は、普段オフィスで見せるあの刺々しいオーラを完全に消していた。
 両手に抱えた分厚いキングファイルを胸の前に掲げ、真っ直ぐに役員たちの座る長テーブルへと歩み寄る。

「ただいまご指摘いただきました、事例企業様におけるコスト削減率の詳細について、補足いたします」
 彼女は、ファイルの中から、色の褪せた付箋がいくつも貼られた数枚の資料を素早く抜き出した。その指先には、一切の迷いがなかった。
 それは、今朝彼女が「これくらいしかやり方を知らない」と不器用に差し出してくれた、あの埃の匂いがする資料の束の一部だ。

「こちらが、先ほどスライドで提示いたしました、過去の導入事例の詳細な内訳でございます」
 九条先輩は、抜き出した資料のコピーを、役員たちの手元へ手際よく配付していく。
 中央に座る役員が、怪訝な顔で眼鏡の奥の目を細め、そのアナログな紙に視線を落とした。

「……これは」

「直接的な人件費の削減だけでなく、ペーパーレス化による印刷コストの抑制、承認フローの短縮による機会損失の防止など、各部署に散在していた細かな間接コストをすべて算出・集計した結果が、こちらの十八パーセントという数字の根拠となっております」
 先輩の声は、静かな会議室に、驚くほど滑らかに響いた。
「また、初期費用の規模につきましても、過去三年間で当社が手がけた同規模のシステム導入案件、全四十八件の中央値を元に割り出しております。決して、楽観的な観測のみで算出したものではございません」

 会議室に、再び沈黙が落ちた。
 役員たちは、手元の紙をめくっている。そこには、数年前に先輩たちが足で稼ぎ、電卓を叩き続けて導き出した泥臭い数字が、びっしりと並んでいた。
 AIが数秒で弾き出した美しいスライドの裏側に、これほどの人間臭い質量が担保されているという事実。
 役員が、紙の束をテーブルに置き、フーッと長く息を吐き出した。

「……なるほど。これだけ詳細な内訳と実績があるのなら、この十八パーセントという数字の説得力は十分ですね」
 役員が、深く背もたれに寄りかかった。

 その瞬間、空調の音しか聞こえなかった会議室に、ふっと温かい血が通い始めたのが分かった。
 小堀田部長の突破力。あおいちゃんの視覚設計。私がチャッピーたちと構築した論理。
 そして最後の最後、一番脆かった「現実の重み」という足場を、九条先輩のアナログな記録が、完璧に補強してくれたのだ。

「……ありがとうございました。前向きに検討させていただきます」
 先方の担当者が立ち上がり、深く頭を下げた。
 プレゼンは、完了した。



「いやー!寿命が縮むかと思ったけど、なんとかなったな!はっはっは!」
 オフィスへの帰り道。小堀田部長はすっかり上機嫌で、初夏のビル街の空の下、大通りに響くほどの声で笑っていた。
 すでにこの成功は、彼の中で「俺の熱いプレゼンのおかげ」に変換されているのだろう。相変わらず調子のいい上司だが、今日ばかりは、矢面に立ってくれた彼の広い背中が頼もしく見えた。

「部長、お疲れ様でした。あの冒頭の挨拶、すごく響いていましたよ」

「だろ? やっぱり最後は人間同士の熱いハートだよな!」

 私は適当な相槌を打ちながら歩調を緩め、数メートル後ろを歩くあおいちゃんと九条先輩の横に並んだ。
 あおいちゃんは、張り詰めていた糸が切れたのか、足元がおぼつかない様子でフラフラと歩いている。
 一方の九条先輩は、いつも通り背中に定規を入れたようにピンと伸ばし、無表情で前だけを見ていた。

「……九条先輩」
 私は、先輩の歩幅に合わせて声をかけた。

「あの、先ほどは……本当に助かりました。あの紙のデータがなかったら、プレゼンは完全に崩壊していました」
 私が足を止めて頭を下げる。

 九条先輩は歩みを止めず、「ふんっ」と短く鼻を鳴らした。
「勘違いしないで。私は、自分の担当業務の責任を果たしただけよ」

「え?」

「せっかくの商談を、あんたたちの詰めが甘いせいでふいにされたら、私のこれまでの仕事まで無駄になるでしょう。だから、念のため持って行っただけ」
 先輩は、胸に抱えたキングファイルを抱え直し、ツカツカと先へ歩いていく。
 私は、彼女の後ろ姿を見つめながら、ふと手元に残っていた先ほどの配布資料の余りに目を落とした。
 右上のスミに、複合機の小さな印字がある。
 出力時刻『12:45』。

 息を、呑んだ。
 それは、あおいちゃんが資料の全ページを出力し終え、私が印刷室に向かったのと、全く同じ時刻だ。
 九条先輩は、私たちが作ったスライドを後ろから見て、「役員クラスなら絶対に数字の根拠を突いてくる」と瞬時に見抜いたのだ。そして、私たちが印刷でパニックになっている裏で、自分のファイルから該当ページだけを探し出し、わざわざ別フロアの複合機に走って、先方の人数分のコピーを準備してくれていた。

 自分が手作業でやるのは非効率だ、と私に言われた後で。

 私は、アスファルトを蹴って、少しだけ駆け足で先輩の隣に並んだ。
「先輩。私、先輩の力は『冷たい資料の山』だなんて、思いません」

「……は?」

「ただの記録なんかじゃありません。先輩の時間は……私たちが転びそうになった時、必ず支えてくれる、一番分厚くて、温かい盾です」

 九条先輩の細い肩が、ピクリと揺れた。
 彼女は立ち止まり、細い縁の眼鏡の奥から私をキッと睨みつけた。
「……バカなこと言わないで。私はただの事務よ。これしか、やり方を知らないだけ」
 それだけ言うと、先輩は再び前を向いて歩き出した。
 怒ったような早歩きだった。けれど、彼女の耳の裏側が、傾きかけた夕暮れの光のせいだけではなく、ほんの少しだけ赤く染まっているように見えた。

「奈々先輩」
 背後から、あおいちゃんが小走りで追いついてきた。
「九条先輩、かっこよかったですね。……私、先輩のこと、ただ厳しいだけのお局様だって思っていました」

「うん。先輩には先輩の、不器用な守り方があるのね」
 私は、前を歩く先輩の背中を見つめた。
 他人に優しく見られることなど一切期待せず、ただ自分の信じる「泥臭い誠意」だけで、誰かのミスを静かにカバーする人。
 その背中が、今日は少しだけ、小さく見えなかった。

「よし。オフィスに戻ろう。今日は絶対に、定時でパソコンを閉じるよ」
 私があおいちゃんに言うと、彼女は「はいっ!」と、今日一番の笑顔を見せた。
 電車の踏切の音が、遠くで鳴っている。
 五月の初夏を思わせる、少し湿り気を帯びた風が、私たちの火照った頬を撫でていった。

 私の足元にある、新しく打ち直されたばかりのパンプス。
 踵がすり減ることを恐れて、ただ他人の歩幅に合わせていた頃とは違う。今は、アスファルトを蹴るたびに、自分の重心がしっかりと足の裏に伝わってくるのを感じる。

 歩きながら、私はジャケットのポケットの中で震えたスマートフォンをそっと取り出した。
 画面には、一通の通知が表示されている。
『おめでとうございます。審査が完了し、あなたの書籍の販売が開始されました』

 無機質なその言葉が、今は、誰かからの温かいエールのように見えた。
 私はゆっくりと瞬きをして、その光の粒を心の中にしまい込む。
 急がなくていい。自分のペースで、土を作ればいい。
 いつか、あのAI職人のるねさんがSNSに残した言葉が、胸の奥で静かに反響していた。
 私は顔を上げ、傾きかけた西日に向かって、真っ直ぐに歩き出した。