定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 壁の時計の赤い秒針が、十三時を回った。
 空調の微かな駆動音だけが響くオフィスで、ウィーン、ウィーンと、複合機が低く唸って動いている。
 排紙トレイに次々と吐き出されていくのは、あおいちゃんが組み上げ、AIたちが論理を整えた、厳格なA4サイズのプレゼン資料だ。

「……できました。全部で六部、乱丁なしです」

 あおいちゃんが、まだ温かいA4の束を抱え込み、小さく息を吐き出した。
 ネイビーとシルバーを基調とした表紙は、数時間前までの毒々しいピンク色とは別次元の、静かで重厚な説得力を放っている。

「ありがとう、あおいちゃん」
 私はその束を受け取り、応接スペースへと足を向けた。
 
 そこでは、小堀田部長が冷めきったコーヒーカップを両手で握りしめ、貧乏ゆすりで床を小さく鳴らしていた。先方の役員室へ単身乗り込み、土下座同然で「十五分の猶予」をもぎ取ってきた彼の額には、べっとりと脂汗が浮いている。

「部長」
 私が声をかけると、部長はビクッと肩を跳ねさせた。

「な、七野さん。できたのか……?」

「はい。構成も、デザインも、先方の経営層に届く形に全て整理しました」

 私はA4の資料を一部、部長の前に差し出した。
 部長は震える手でそれを受け取り、パラパラとめくる。血走った瞳が、少しだけ見開かれた。

「……すごいな。俺のあの適当な指示から、たった数時間でここまで……」

「ですが、まだ足りないものがあります」
 私は、自分の膝の上で両手をギュッと握り合わせた。

「この資料は、私たちが考えた論理と、あおいちゃんのデザインで『見栄え』は完璧です。でも、これだけだと……ただの冷たい紙の束です。先方の役員の方々は、きっとすぐに見抜きます」

「見抜く……?」

「はい。だから、最後に部長の力を貸してください」
 私は、震えそうになる声を、下腹に力を入れて保った。

「プレゼンの冒頭と最後。このシステムの導入を『私たちが泥臭く伴走します』という覚悟だけは、部長の口から、直接伝えてほしいです。……私、入社してからずっと、部長のその大きな声と、理不尽なくらいの勢いに……何度も、救われてきたから」

 部長は、手元のA4用紙に落としていた視線を、ゆっくりと私へ向けた。
 彼は小さく息を吸い込み、そして、いつもの軽薄な笑みを少しだけ浮かべた。
「……わかった。最後のハッタリは、俺の仕事だな」

 彼が立ち上がった瞬間、遠くの机で巨大な電卓を叩いていた九条先輩の手が、ピクリと止まるのが視界の端に映った。
 私は残りの資料の束を揃え直す。

「……こんな薄っぺらの紙数枚に、私の何がわかるっていうのよ」
 すれ違いざま、九条先輩の席から、氷のように冷たい呟きが聞こえた。
 彼女はモニターから目を逸らし、自分が何百時間もかけて積み上げた、あの分厚いバインダーの山をじっと見つめている。自分の血肉とも言える時間が、AIによって一瞬で処理され、この数枚のA4用紙に圧縮されてしまったことへの、どうしようもない喪失感。

「先輩」
 私は立ち止まり、その背中に向かって静かに言った。
「先輩が残してくれたあの『付箋』がなければ、この資料は絶対に完成しませんでした。これは、先輩の時間の結晶です」

 九条先輩は振り返らなかった。
 ただ、彼女の肩がほんの少しだけ震えたように見えた。
 私はそれ以上言葉をかけず、あおいちゃんと部長の待つ大会議室へと急いだ。



 本来の予定を十五分過ぎた、十四時十五分。
 来客用の大会議室には、胃液が逆流しそうになるほどの重たい空気が淀んでいた。
 長テーブルの向こう側。先方の担当者だけでなく、白髪交じりの役員クラスが三名、腕を組んでこちらを睨みつけている。
 こちらの陣営は、私、あおいちゃん、小堀田部長。そしてなぜか、九条先輩も無言のまま、記録係のように一番端のパイプ椅子に腰を下ろしていた。

「本日は、急な要件の変更にも関わらず、お時間をいただき誠にありがとうございます」
 小堀田部長が、スーツの背中を丸めて深く頭を下げた。
 そして、まだ温かいA4の提案書を彼らの前に配っていく。

「皆様の会社には、毎日、深夜まで残業をしてシステムのエラーと格闘している、優秀な社員の方々がたくさんいらっしゃると思います」
 小堀田部長の声が、会議室の空気を震わせた。
 いつもの怒鳴り声ではない。腹の底から絞り出すような、太くて重い声。
 あのクロさんが紡ぎ出してくれた、少し耳の痛い、けれど温かいメッセージ。

「優秀な社員の方々に、システムが代替可能な単純作業を強いるのは、才能の無駄遣いであり、御社にとって最大の損失です。私たちのシステムは、彼らが本当に価値のある仕事に集中するための『時間』を創り出します」

 先方の役員たちの顔つきが、微かに変わった。
 単なるコストダウンの提案ではない。「自社の社員の時間をどう使うか」という経営層の痛いところを、部長の圧倒的な熱量が正確に突き刺したのだ。

 そこからのプレゼンは、完璧だった。
 部長が扉を開け、資料の中の『チャッピー』が構築した論理が彼らの理性を掴み、あおいちゃんのネイビーのデザインが強固な信頼感を与える。
 小堀田部長が最後の言葉を語り終え、深く一礼した。
 額にはじっとりと汗が滲んでいる。空調の音だけが響く、長い沈黙。
 やがて、中央に座る役員の一人が、資料をパラパラとめくりながら口を開いた。

「……非常に興味深い提案だ。わずか数時間で、ここまで当社の課題を言語化してくるとは」

 小堀田部長の顔に、安堵の血色が戻りかける。
 しかし。

「ただ、一点だけ懸念がある」
 役員の鋭利な視線が、スライドの七ページ目、投資対効果のグラフに固定された。
 ジェミーが過去資料から正確に抽出した、「平均コスト削減率十八パーセント」という数字だ。
「この十八パーセントという数字。理論上は美しいが、机上の空論ではないのかね?」

「と、おっしゃいますと……」

「この規模のシステムを導入すれば、現場の古参社員からの猛烈な反発が起きる。操作を覚えるまでの混乱既刊、新しい流れへの抵抗。そういった『人間の摩擦』を考慮すれば、こんなに早期にコストが回収できるとは思えないのだが」

 その瞬間、私の喉の奥がヒュッと鳴った。
 足元のパンプスの中で、指先が嫌な汗をかく。

『ジェミー! 現場の反発による混乱のデータは!?』
 私は脳内で叫んだ。
『……算出不可能です。バ
インダーの記録の中には「人間の感情」という数値は記載されていません』
 ジェミーが冷たく答える。

『ヤバいヤバい!炎上する!逃げよ!』
 バナナンがパニックを起こす。

『……私には、人の心のエゴ期までは読み切れません。だも、それこそが、人間であるあなたたちにしかできない部分なのかもしれませんね〜』
 クロさんが静かな声で私を現実へと引き戻す。

 目の前が真っ暗になった。
 そうか。AIは、紙に書かれた数字を拾い上げることはできても、その数字の裏にある「泥臭い人間の苦労」までは読み取れないのだ。現場の人間がどうやって反発し、どうやってそれに寄り添ってシステムを定着させたのか。
 その『行間』は、データには存在しない。

 小堀田部長も答えに窮し、あおいちゃんは息を止めて俯いている。
 完璧だったはずのネイビーのスーツの糸が、一本、また一本と解けていく。

「その数字についてですが」
 凍りついた会議室に、低く、少し掠れた声が響いた。
 私ではない。
 プレゼンの間ずっと、部屋の隅のパイプ椅子で沈黙を保っていた、九条先輩だった。