定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 午前十一時。
 午後のプレゼン会議まで、あと二時間半。
 九条先輩との静かな対峙を経て、私たちの「秘密の編集部」は、最後の仕上げへと差し掛かっていた。

『ジェミーの数字と、クロさんの表現。それにバナナンの飛躍を少しだけ借りて……経営層に響く言葉に【翻訳】しよう』
 スマホの画面に、チャッピーがつなぎ合わせた文章が滑り出す。
『課題は「見えない無駄」。解決策は「業務の流れを整え、統一すること」。そして一番重要なのは、これが単なるコスト削減ではなく、会社を守るための「投資」であるというメッセージだね』

「……投資」
 私はその単語を、口の中で小さく反芻した。

『そう。経営層の心を動かすための、少し耳の痛いメッセージを提案の冒頭に置こう。優秀な社員に、システムが代替可能な単純作業を強いていませんか。それは才能の無駄遣いであり、最大の損失ですってね』

 画面に映し出されたその一文を見た瞬間。
 私のタイピングの手が、ピタリと止まった。

 才能の無駄遣い。

 それは、お客様の経営層に対してだけじゃない。昨日まで、波風を立てないように誰かの不機嫌を吸収し、無意味な作業で靴底をすり減らしていた私自身に向けられた言葉だった。
 毎日残業をして、コンビニのおにぎりを齧りながら、思考を停止させてエクセルのセルを埋めていた夜。あの孤独な時間は、誠意なんかじゃなかった。ただ、自分をすり減らしていただけだ。

『私たちのシステムは、社員の皆様が、本当に価値のある仕事や、誰かへの思い遣りに集中するための「時間」を創り出す、未来への投資です』
 チャッピーの紡いだ最後の文章が、静かに光る。
 胸の奥で、カチリ、と何かがはまる音がした。視界の端が少しだけ熱い。私は無意識に、足元の真っ直ぐなパンプスをカーペットに押し付けていた。

「七野先輩……?」
 あおいちゃんが、不思議そうに私を覗き込む。

「ううん、なんでもない。……ねぇ、あおいちゃん、少しだけ呼び方変えてもらってもいいかな?」

「えっ?は、はい……」

「奈々先輩って呼んで。……この文章、最初のページに大きく配置して。フォントは少し太めの明朝体で」

「はいっ、奈々先輩!」
 私が渡した文章とグラフの指示書を、あおいちゃんは最速で「洗練されたネイビーのスライド」へと変換していく。バインダーの山からジェミーが拾い上げた確かな数字が、クロさんの削ぎ落としたシンプルな言葉とともに、美しいレイアウトの中に収まっていく。

「おい、二人とも」
 フロアの奥から、ネクタイを緩めた小堀田部長が大股で歩いてきた。額には嫌な汗が光っているが、その目は妙に据わっていた。
「資料の進み具合はどうだ」

「あと少しで、全体のパッケージが組み上がります。午後の会議には……間に合わせます」
 私が答えると、部長は「そうか」と短く頷いた。

「俺、これから先に役員室に乗り込んでくる」

「えっ!」

「今回のミスは完全に俺の責任だ。だから先方の専務が到着する前に、うちの役員連中を先に説得して、プレゼンのハードルを下げておく。最悪、土下座でも何でもして、お前らが作った資料をちゃんと見てもらえる空気を作ってくるから」
 部長は、ジャケットを乱暴に羽織り直した。
 普段は適当な指示ばかり出すし、責任も押し付ける。でもこの人は、本当に組織の存続に関わる致命傷になりそうな時だけは、自分の泥臭さを一切隠さない。それが彼の、不格好な「胆力」だった。
「だから、最高の武器を作って待っていてくれ」

「……はい」

 部長の広い背中が、小走りでフロアを出ていく。
 時計の針は、十二時十分を回ったところだった。

「奈々先輩。最後のページ、出来ました」
 あおいちゃんが、エンターキーを静かに叩いた。
 モニターには、九条先輩の過去の汗と、AIたちの力、そしてあおいちゃんの感性が結実した、分厚い盾のような提案書が輝いていた。

 私は、冷めきった紙コップの水を一口飲み干した。
 さあ、反撃のプレゼンが始まる。