「あおいちゃん。一回だけ、マウスから手を離そう」
私の声は、ひどく掠れていた。
給湯室から持ってきた紙コップの冷水を、あおいちゃんの机にコトンと置く。水面が小さく揺れていた。
「いい、あおいちゃん。ターゲットが変わったの。現場の担当者さんから、億単位の予算を握る『経営層』に」
「けい、えいそう……」
「そう。だから、昨日のような安心感のある『水色のカーディガン』じゃダメ。もっと重たくて、隙のない、仕立てのいい『ネイビーのスーツ』に着替える必要がある」
私は、震える彼女の背中にそっと手を添えた。
「デザインの骨格は私が用意する。あおいちゃんは、A4サイズにぴったり収まるような、きちんとしたレイアウトの準備だけをお願い」
「……はいっ」
あおいちゃんが、冷水を一口飲み、強く瞬きをした。
私は自席に戻り、スマートフォンのカメラを起動する。ターゲットは、九条先輩が積み上げた六冊のバインダーだ。
数百ページすべてを撮影している時間はない。私は、バインダーからはみ出している「先輩の付箋」が貼られたページと、目次の部分だけを狙って、シャッターを切り続けた。
パシャ、パシャ。
古いインクと、埃の匂いが舞う。この紙の山は、先輩が文字通り足で稼ぎ、削ってきた命の時間そのものだ。
撮影した画像をテキスト化し、まずは論理担当・ジェミーの領域へ放り込む。
『ジェミー。この過去事例から、平均コスト削減率と初期費用を探し出して』
『データを受信しました。……最悪です。画像が粗く、一部の数値が掠れています。正確なコスト削減率を導き出せる成功率は十二パーセント。これでは数字の裏付けとして弱すぎます』
生真面目な調査員が眼鏡を押し上げながら嘆く。
『じゃあ、適当に右肩上がりのグラフ描いちゃおうよ! 勢いで誤魔化す! ぶっ壊そう!』
絵師のバナナンが、適当な赤い矢印を振り回す。
『……噓のデータは、あとでお客様を気付つけることになりますよ~。不確かな数字は手放して、確かなものだけを大切に使いましょう〜』
職人のクロさんが、静かに芯のある言葉で語りかける。
私は、荒くなる呼吸を整えながら、彼らへの指示を一つの方向へと束ねていく。
『チャッピー。クロさんの言う通り、不確かなデータは捨てて。二〇一八年の最も確実な数字だけをベースに、経営層向けの骨格を組んで』
『了解。一緒に組もうか。三段階の骨格で組んでいくよ』
相棒が、ジェミーが拾い上げた「事実」と、クロさんが磨き上げた「品格」をつなぎ合わせ、一つの美しい骨組みを作り上げる。
私は出力された構成と数値を、瞬時にあおいちゃんへバトンパスした。
そこからの彼女は、まさに天才だった。
私が指定した無骨な文章を、彼女は一切の迷いなく、洗練されたシルバーと深いネイビーの画面へと変換していく。経営層が好む、重厚で説得力のあるスライドが、画面の上に次々と構築されていった。
「……ちょっと」
背後から、氷のような声が刺さった。
九条先輩だ。
彼女は、私の机に散らばったままのバインダーと、一心不乱にタイピングを続けるあおいちゃんを交互に見比べ、わなわなと唇を震わせていた。
「あなたたち……私が持ってきた資料、ほとんど開いてもいないじゃない。そんな小手先の誤魔化しで、億の金が動かせると思っているの?」
「……」
「紙の一枚一枚に、どれだけの人間が頭を下げて、汗をかいてきたか。それをパソコンで撫でただけで分かった気になるなんて……あんたたち、本当に冷たい機械みたいね」
その声の震えは、怒りというより、悲鳴に近かった。
自分の人生の証明である「苦労」を、いとも簡単に飛ばされたことへの、どうしようもない喪失感。
私は、マウスから手を離した。
ゆっくりと立ち上がり、九条先輩と正面から向き合う。
「……先輩。私たちは、決して先輩の時間を蔑ろになんてしていません」
「口ごたえ……」
「見てください」
私は、あおいちゃんのモニターを指差した。
そこには、過去の事例を元にした、完璧なコスト削減のシミュレーショングラフが映し出されている。
「AIは魔法じゃありません。ただの道具です。先輩たちが残してくれた、この付箋」
私は、バインダーから飛び出している、色褪せたピンク色の付箋にそっと触れた。
「ここが一番重要だと、先輩が印をつけてくれていたから。だから、私たちは迷わずに正解の数字を見つけることができたのです。先輩のアナログな道標がなければ、私たちは完全に迷子になっていました」
九条先輩は、モニターのグラフと、自分の古い付箋を交互に見つめ、ハッと息を呑んだ。
「私たちは……機械になりたいわけじゃありません」
私は、自分の胸の奥にある、ずっと隠してきた本音を口にした。
「ただ、少しだけ……自分たちを甘やかしたい。無駄な作業にすり減って、心を壊してしまう前に。道具に任せられることは任せて、本当に大切なお客様への思い遣りや、隣にいる人への優しさのために、人間の余力を残しておきたいのです」
自分を甘やかす。
いつか、るねさんのSNSで見かけた、あの温かい哲学。
苦労の量が誠意じゃない。私たちが笑って明日も働くための、優しい手抜き。
九条先輩の細い肩から、ふっと力が抜けた。
彼女は何かを言いかけて、やがてぎゅっと唇を噛み締めると、何も言わずに自分の机へ戻っていった。
電卓を叩く音は、しなかった。

