翌朝。パソコンの画面には、昨日の夕方にあおいちゃんが送った資料への返信が光っていた。宛先は、営業部の担当だ。
『非常に見やすく、現場の課題と解決策が真っ直ぐに伝わってきました。午後の会議が楽しみです』
私はマウスからそっと手を離し、斜め前のあおいちゃんと視線を合わせた。彼女は声には出さず、けれどパッと花が咲いたような笑顔で、小さくガッツポーズを作った。
よかった。彼女の目の下にあった薄いクマは、心なしか昨日よりも薄く見える。私たちが用意した「水色の余白」は、たしかに読む人の冷えた心を温めたのだ。
「おっ、先方からベタ褒めのメールが来ているじゃないか」
どさっと鞄を机に置きながら、小堀田部長が鼻歌交じりに言った。
「やっぱ俺の『いい感じに』って指示が効いたな! いやー、二人ともよくやってくれたよ。この調子で午後の本番もよろしくたのむよ」
相変わらずの雑な手柄の横取りに、私は小さく息を吐いた。でも、不思議と腹は立たない。あおいちゃんが自分の仕事に誇りを持てたなら、それで十分だった。
ジリリリリッ!
フロアに、けたたましい内線の音が響いた。
部長が「はいはい」と軽い調子で受話器を取る。
「あ、お世話になっております。ええ、資料の件……え?」
その瞬間、部長の背中から、目に見えて空気が抜けていくのがわかった。
「……全社規模のデジタル改革? いや、現場のミスを減らすシステム改善というお話で……えっ。あ、専務様がそう仰っている……予算規模が、二億?」
受話器から漏れ聞こえる、硬質で怒気を孕んだ声。
小堀田部長の顔面から、さーっと血の気が引いていく。
「はい……私の、完全に私の確認不足です……申し訳ありません!午後一時の会議までに、必ず、全社規模の提案として……はい、必ず!」
ガチャン、と受話器が置かれた。
フロアは、水を打ったように静まり返っていた。皆がタイピングの手を止め、部長を見ている。
数秒の沈黙の後、部長はゆっくりとこちらを振り向いた。額には、びっしりと冷や汗が浮いている。
「……ごめん。俺が、やらかした」
絞り出すような声だった。
「先方が求めていたのは、現場の改善なんかじゃなかった。会社全体のシステムを根底からひっくり返す、億単位の全体戦略だ。完全に俺の勘違いだ……」
「えっ」
あおいちゃんの手から、カタン、とマウスが滑り落ちた。
「本当にすまん! 蒼空くん、七野さん!」
部長は、フロアの全員が見ている前で、私たちに向かって深く頭を下げた。
「今から、資料の前提を全部ひっくり返して作ってくれ。俺は今すぐ先方に行って、会議の時間を遅らせられないか土下座でも何でもしてくる。だから……頼む!」
それは、どうしようもなく不格好で、泥臭い姿だった。普段は適当なことばかり言うこの人が、いざという時には自分のプライドを捨てて泥をかぶる「責任」の取り方を知っているのだと、私は初めて知った。
しかし、現実は非情だ。
壁の時計は、午前十時。
あと三時間で、ゼロから億単位の全社戦略を作る。そんなこと、どう考えても不可能だ。
あおいちゃんの顔が、白紙のスライドのように青ざめていく。彼女の小さな肩が、小刻みに震え始めていた。
「……泣いている暇があったら、手を動かしなさい」
静かな声が、私たちの頭上から降ってきた。
九条先輩だった。
どんっ!
鈍い重低音とともに、あおいちゃんの机の上に、埃を被ったキングファイルが六冊、積み上げられた。背表紙には『二〇一八年・物流改善提案』『二〇二〇年・全社コスト削減の計算』と、色褪せたラベルが貼られている。
バインダーの隙間からは、先輩が長年かけて蓄積してきた無数の付箋が、扇のようにバサバサとはみ出していた。
「先輩……これは」
「うちが過去に、必死になって通してきた大型案件の企画書よ」
先輩は、分厚いファイルの山をぽんっ、と叩いた。
「全社戦略なんて、ゼロから考えて間に合うわけないでしょ。この中から、使えそうな理屈と数字を拾い出しなさい。手分けしてエクセルに打ち込んで、今回の要件に合わせるのよ。……これくらいしか、やり方なんて知らないからね」
最後の一言は、聞き取れないほど小さかった。
九条先輩の目は、怒っていなかった。ただ、必死だったのだ。彼女自身も、この理不尽なトラブルの波を前に、自分の持っている最も重たくて確実な「過去の遺物」を差し出すことしか、後輩を守る術を知らないのだ。
『ジェミー。この紙の束を、手作業でデータ化した場合の所要時間は?』
私は、脳内の冷徹な調査員に問いかけた。
『ページ数、推定八百。タイピング速度を加味した完了予測時間……六百時間。午後一時までの成功率は、限りなくゼロに近いです』
『うわぁ、絶対無理! 燃やそ! この古文書、窓から投げ捨てよー!』
絵師のバナナンが、頭の中で暴れ回る。
『……大変な状況ですね~。先輩がこれだけの資料を残してくれたのはありがたいですが、三時間での手作業は……人間が壊れてしまいます〜』
職人のクロさんも静かに心配する。
不可能だ。AIの彼らが言う通り、人間の手でこれを三時間で処理するなど、絶対にできない。
あおいちゃんは、ファイルの山を前にして完全に固まっていた。息をするのも忘れているようだった。
諦めかけたその時。
『待って、奈々。視点を変えてみようか』
脳内で、相棒のチャッピーが、静かにファイルを開く気配がした。
『このファイルはただの重たい紙の束じゃない。九条先輩たちが何百時間もかけて作った、最高の【宝の地図】だよ。手で打ち込むのが無理なら……僕たちのやり方で、彼らを読み込めばいい』
ハッとした。
そうだ。私には、私の戦い方がある。
九条先輩が差し出してくれた、重くて不器用なアナログの盾。それを、私がいま手の中にあるデジタルの剣で、使いこなせばいい。
私はゆっくりと立ち上がった。
昨日直したばかりのパンプスの踵が、カーペットをしっかりと踏みしめる。もう、誰かの機嫌を伺って足元がぐらつく感覚はない。
「九条先輩。ありがとうございます。この資料、使わせてください」
「……ふん。せいぜい、頭で汗をかくことね」
先輩はプイと顔を背け、自分の机に戻っていった。その背中が、ほんの少しだけ安堵したように見えたのは、気のせいだろうか。
「あおいちゃん」
私は、凍りついている後輩の肩に、そっと手を置いた。
「深呼吸して。大丈夫、ゼロから作る必要はないよ。先輩が、最高のレシピを貸してくれたから」
「七野、先輩……でも、こんな量……」
「私が、この子たちにちょっとだけ手伝ってもらう。だから、あおいちゃんはあおいちゃんの得意なこと……最高の『お皿』を作る準備をしてね」
私は、いつもカバンに入れて持ち歩いている銀色のノートパソコンを取り出した。
壁の時計は、十時五分を回ったところだった。
さあ、ここからは、ディレクターの出番だ。

