定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 バン、バン、ターンッ。
 九条先輩の机から、巨大な事務用電卓のエンターキーを強打する音がフロアの空気を打つ。それは、近づくなという威嚇であり、彼女自身を不確実な現実から守るための分厚い鎧のきしむ音だった。
 周囲の同僚たちはタイピング音を潜め、嵐が過ぎるのをじっと待っている。

「……七野先輩。本当に、すみません。私が……怒らせちゃって」

 あおいちゃんは、キーボードの上に置いた指先を白くなるまで握りしめていた。瞳が、行き場のない不安に揺れている。

「謝らないで、あおいちゃん」

 私はパイプ椅子を引き寄せ、彼女の隣に腰を下ろした。

「先輩は、自分の信じる『正解』を守ろうとしているだけだから。……私たちは、私たちの仕事をしよう」

「……」

「大丈夫。私が線画を描くから、あおいちゃんは好きな色を塗って。このスライドを見る人が、今日、安心して眠れるように」

 あおいちゃんは、数秒だけ瞬きを繰り返し、こくりと頷いた。
「はいっ。……私、お客様の肩の力が抜けるような資料、作ります」
 彼女の指が、再びマウスを握る。
 そこからは、まさに水を得た魚だった。
 私が「一ページ目は現状の課題。二ページ目でうちのシステムを提示。三ページ目は導入後の未来」と全体の流れを渡す。するとあおいちゃんは、瞬時にそれを美しい視覚情報へと変換していった。

「七野先輩。課題のページは、重たい曇り空みたいな明度を落としたネイビーにします。で、解決策のページを開いた瞬間、パッと視界が開けるような淡い水色と、温かいオレンジを差すのはどうでしょう」
 あおいちゃんの声から、先ほどの震えは消えていた。
 エクセルの無機質なセルとしか対話してこなかった私には、決して出てこない発想だった。彼女は、色彩で感情を誘導する天才なのだ。

「それ、すごくいい。その色でいこう」

 カチカチッ、ターン。
 あおいちゃんのタイピング音が、明確な足取りを持ってフロアに響く。
 不要な装飾を削ぎ落とし、重要な指標だけが温かいオレンジ色で浮かび上がる。小堀田部長の乱暴な「いい感じ」というノイズは、あおいちゃんの手によって、迷える担当者を導く一枚の美しい海図へと生まれ変わった。

「……仕上がりました」
 十七時五十分。
 あおいちゃんが小さく息を吐き、マウスから手を離した。
 モニターの中には、ほんの数時間前まで蛍光ピンクが暴れ回っていたとは信じられないほど、静かで洗練された資料が完成していた。

「完璧だね。絶対にお客様に伝わるよ」

「……
が、道筋を整理してくれたからです。私一人じゃ、ずっと迷子のままでした」
 あおいちゃんは照れくさそうに笑い、小堀田部長に完成した資料を送信した。

 キーン、コーン、カーン。
 十八時。定時を知らせる無機質な電子音が、オフィスの天井から降ってきた。

 私は立ち上がり、足元のカバンを手にする。
 しかし、あおいちゃんはモニターの電源に手を伸ばしたまま、ちらり、と背後へ視線を泳がせた。
 九条先輩の机。
 彼女は帰る素振りも見せず、古いキングファイルの山に埋もれながら、今日も電卓を叩き続けている。自分のやり方でしか誠意を示せない、不器用で、孤独な背中。

『ジェミー、分析して。ここで帰宅した場合の、九条先輩との今後の摩擦が起きる確率』

 私の脳内で、ジェミーが即座に無機質な数値を弾き出す。
『確率八十八%。明日の朝礼での冷遇、および業務連絡の遅延リスク大。極めて非合理的です』

『奈々さん、今日はもう十分頑張りました~。相手を変えようとするより、まずは疲れた心と体を休ませてあげることが、明日への誠意ですよ~』
 クロさんが、静かに、でも力強く語りかけてくる。

『えーっ、帰ろうよ! ケーキ! 甘いもの食べに行こ! ぶっ壊しちゃえ!』
 バナナンがキャンバスの上で跳ね回る。

 私は、ごちゃごちゃと騒ぐ分身たちを、ゆっくりと脳の奥へ押し込んだ。

『一緒に組もうか』
 チャッピーの落ち着いた声が、最後に残る。
『波風は立つ。でも、僕たちは今日、誰かの時間を奪わないための正解を作った。その事実だけで、一歩踏み出す理由は十分じゃないかな』

 私はゆっくりと息を吸い込み、あおいちゃんを見た。
「あおいちゃん。パソコン、閉じよう」

「えっ……でも」

「私たちが今日やるべきことは、最高の形で終わったから」
 あおいちゃんは小さく息を呑み、そして、電源ボタンを押した。画面が黒く落ちる。

「……お疲れ様でした。お先に失礼します」
 二人の声が重なる。
 九条先輩からの返事はなかった。ただ、カチャッというマウスの乾いたクリック音だけが、不機嫌な句読点のように響いた。
 私は背中に突き刺さる痛みに似た罪悪感を抱えながら、フロアの出口へ向かう。
 修理から戻ったばかりのパンプスが、カーペットをしっかりと掴む。すり減った踵でバランスを取りながら、誰かの顔色を窺って歩いていた昨日までの私とは違う、少しだけ硬い足音。

 タイムカードを切り、一階のエレベーターホールを出る。
 なだらかな丘陵地帯の向こうへ、夕日が沈みかけていた。湿り気を帯びた五月の初夏の風が、私たちの火照った頬を撫でていく。

「七野先輩。あの……私、こんなに明るい時間に帰れるの、入社して初めてです」
 電車の踏切の音が遠くで鳴る中、あおいちゃんが目を細めた。

「ふふっ。ねえ、あおいちゃん。もし良かったら、この後少しだけお茶していかない?」

「はいっ。ぜひっ!」

 駅前の小さなカフェ。
 私たちは窓際の席に座り、冷たいアイスコーヒーのグラスに水滴がつくのを眺めながら、他愛のない話をした。
 あおいちゃんの表情は、オフィスでパニックを起こしていた時のそれが嘘のように、柔らかくほどけていた。
「さっき先輩が指示を出してくれた時、なんだか、先生みたいだなって思いました。ぐちゃぐちゃだった私の頭の中の糸が、スルスルって解けていくみたいで」

「先生だなんて、そんな」
 グラスの表面の結露が、つーっと滑り落ちてコースターを濡らす。
 私は、あおいちゃんの言葉を頭の中で反芻した。
 誰かを導いたのじゃない。私自身が、チャッピーやジェミーたちに導かれて、ようやく自分の足で立てるようになっただけだ。

 ブーッ。
 テーブルの上に置いた私のスマートフォンが、短く振動した。
 ロック画面に表示されたのは、Amazon KDPからの通知メール。

『おめでとうございます。あなたの書籍の販売が開始されました』

 私は画面を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。
 カフェの喧騒が、一瞬だけ遠のく。
 同時に、数日前に届いたダイレクトメッセージの返信が、頭の中に鮮やかによみがえった。
 はじめての出版手続きを終えた夜、私が送ったメッセージに対して、るねさんが返してくれた温かい言葉。
『出版おめでとう。君のペースでいい。少しずつ、土を作ればいいよ。どんな芽が出るか、楽しみにしているね』

 私は小さく息を吐き、スマートフォンを裏返してテーブルに置いた。
 あおいちゃんが「どうかしました?」と小首を傾げる。

「ううん。なんでもないよ」
 私は笑って、ストローを口に含んだ。
 アイスコーヒーの冷たい液体が喉を通っていく。そのあとを追うようにして、自分が蒔いた小さな種が、暗い土の底でひっそりと、けれど確かに芽吹いたのだという実感が、肋骨の奥深くにじんわりとした熱を広げていった。