定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 十四時すぎのオフィスは、薄い膜に覆われたように息苦しい。
 並んだモニターの熱と、食後の眠気をカフェインで散らそうとする社員たちの吐息。私は手元のエクセルファイルで、午前中にチャッピーと組んで弾き出した数字の最終確認をしていた。画面の中の数字は、文句も言わず整然と並んでいる。

「蒼空くん。ちょっといいかな」
 静寂を破ったのは、小堀田部長の大きな声だった。

 斜め前の席で、入社三年目のあおいちゃんがビクッと肩を跳ねさせる。パイプ椅子が軋む音。
 部長は飲みかけのアイスコーヒーを片手に、書類の束をあおいちゃんの机にぽんっと置いた。
「明日の午後、新規のお客様にプレゼンすることになってさ。この前の企画書程度でいいから、明日の資料、いい感じにまとめといてくれない?」

 いい感じ。
 このフロアで一番厄介な言葉だ。

 あおいちゃんは書類の束と部長の顔を交互に見ながら、困惑したように瞬きをした。
「えっと……明日の午後。この資料で……あの、いい感じというのは、具体的にどの部分を強調すれば」

「んー、先方が『おっ、わかっているね』ってなるようなやつ。蒼空くん、デザインなんてさくっと作れるよね? 若い感性でもっと見栄え良くしてよ。方向違ったら俺が先方で頭下げるからさ」
 言うだけ言って、部長は足早に去っていく。時計を気にするその背中には、彼なりの焦りがあるのかもしれないが、残された側にとってはただの災害だ。

 あおいちゃんは束を抱えたまま、彫像のように固まっていた。

「ちょっと、あおいさん」
 今度は、背中側から声が飛んだ。九条先輩だ。
 先輩は自分の机に積み上げた過去のファイルの山に手を置きながら、眼鏡の奥の細い目で後輩を見据えていた。
「いつまで止まっているの。明日でしょ。手を動かさないと」

「すみません……。でも、正解がわからなくて。どこをどう直せば……」

「正解なんて誰も教えてくれないわよ。お客様の顔を想像して、過去の事例から引っ張り出すしかないじゃない。言われたまま作るだけなら、誰だってできるのよ」
 厳しい口調だった。でも、先輩の指先は、色褪せたキングファイルを神経質になぞっている。自分の手元にある「過去のやり方」に縋らなければ、先輩自身も不安なのだと、三年一緒にいる私にはわかった。
 
「……はい、やります」
 あおいちゃんはパソコンに向かった。
 マウスのクリック音が異常に早い。画面を盗み見ると、彼女は一瞬で五つの異なるスライドのひな形を展開し、フリー素材の配置を試していた。ソフトを操作する速度は間違いなく私より早い。
 だが、スライドに描くべき「目的」がない。
 いくら筆が早くても、描くべき対象を教えられなければ、ひたすら迷走するだけだ。まるで、文脈を与えられずに暴走するバナナンと同じだ。

 私は、自分のマウスのホイールを、意味もなく上下に回した。
 助け舟を出すべきか。でも、私が口出しして、九条先輩の機嫌を損ねたら? いつもカバンに入れて持ち歩いている私物のノートパソコンなら、チャッピーやジェミーの力を借りて、一瞬で「枠組み」を作れる。
 でも、ここは夜の自室じゃない。生身の人間関係が絡み合う、面倒で理不尽な現実だ。

 カタッ、カタターンッ。

 あおいちゃんのエンターキーを叩く音が、悲鳴のように響いた。画面上のスライドは、色が氾濫し、迷走の極みを見せている。彼女の肩が、小刻みに震えていた。

 私は、マウスから手を離した。
 自分がずっと、浅い呼吸しかしていなかったことに気づく。

 ゆっくりと立ち上がる。
 ようやく昨日、駅前の修理屋から受け取ってきたばかりのパンプス。外側だけが斜めにすり減っていた踵は、今は平らで、しっかりとオフィスのカーペットを踏みしめている。
 この靴なら、昨日までとは違う、少しだけ新しい歩き方ができる気がした。

 私は、迷路で立ち尽くす後輩の隣へ、一歩を踏み出した。

「あおいちゃん。少しだけ、手伝おうか」