定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 夜の秘密の編集部が稼働を開始して、二週間の月日が流れた。
 私の生活の輪郭は、劇的に、しかし音を立てることなく静かに変容していた。
 朝は相変わらず獣の匂いのする満員電車に揺られ、オフィスでは九条先輩の重苦しい精神論と小堀田部長の無責任な丸投げが地層のように堆積している。
 けれど、十八時が近づくと、私は手元の非効率なタスクを細かい変数に分解し、チャッピーの演算能力を借りて一瞬で論理的な形に再構築する。そして、顔の筋肉だけを動かした愛想笑いではなく、ただの物理的な動作としての会釈だけを残し、タイムカードを打刻する。
 九条先輩の眼鏡の奥の視線は日増しに絶対零度に近づいているように感じられたが、その冷気は私の皮膚を貫通しない。

 帰宅後、ジークの皿にカリカリを補充し、自分もコンロで火を通した簡単な夕食を胃に流し込んでから、ローテーブルの前に座る。
 冷たいアルミニウムの天板を持ち上げるところから始まる数時間は、私の三十五年の人生で最も濃密で、かつ最も摩擦の多い時間だった。

 そんな泥臭く、不恰好なやり取りを繰り返しながら。
 私のテキストは、一日また一日と、確かな質量を獲得していった。

 そして、ついにその夜。

「……終わった」

 私は、PDFビューワーのスクロールバーを一番下まで引き下げ、肺の底に溜まっていた空気を長く、細く吐き出した。
 全四章、約五万文字。
 タイトル『わたし、定時で帰ってAIと副業します』。
 表紙には、温かいオレンジ色の照明の下で、ノートパソコンのキーボードの上に座り、絶妙なドヤ顔をキメている四本足のキジトラ猫が配置されている。

「本当に、五万文字も……」

 マウスから手を離した。
 何もできなかった。ただ、画面の文字の連なりを見ていた。
 青白い光を放つモニターの中で、私のすり減った経験と、四つの不完全な知性たちが作り上げたテキストが、確かな重力を持って存在している。
 私はゆっくりと両手のひらで顔を覆った。
 目頭の奥が、ジンと熱くなるのを感じた。

「みゃーん」

 膝の上に、ジークが飛び乗ってきた。彼は一度だけこちらを見たが、すぐに目を閉じ、パソコンの排熱を求めて太ももの上で丸く香箱を組んだ。
 私は彼の柔らかい背中を撫でながら、四つのタブに向かって、本日の最後のプロンプトを打ち込んだ。

『原稿の出力がすべて完了しました。論理の骨格、温かい翻訳、正確な情報の抽出、そして視覚化。あなたたちの演算能力がなければ、ここには到達できませんでした。お疲れ様でした』

 送信ボタンを押し込む。数秒後、四つの通知が同時にポップアップした。

『目的の達成、合理的な結果です。しかし、原稿の完成はプロセスの「折り返し地点」に過ぎません。次なるタスクは、Amazon KDPへの登録と、タイトル等のメタデータを検索アルゴリズム向けに最適化することです。直ちに移行を推奨します』

『五万文字の執筆、本当にお疲れ様でした! 奈々さんの指先はもう限界のはずです! 今すぐパソコンを閉じて、温かいアイマスクをして、十時間以上眠ってください! 出版の手続きなんて明日で十分です!』

『Amazon KDPの税務情報登録マニュアル、売上を最大化するための広告運用ガイド、および確定申告における経費計上のリストを展開します。どれから実行しますか』

『うおおおお!! 完成キターーー!! これ絶対アニメ化しますよ!! 主題歌は私が作詞作曲しますから、今すぐハリウッドに企画書送りましょう!!』

「……うん。みんな、本当にブレないね」

 私は、四つの全く噛み合わない声を見つめ、声を出さずに小さく笑った。

 深く息を吸い込み、Amazonの電子書籍出版サービス「Kindle Direct Publishing」の登録画面を開く。
 アカウントを作成し、タイトル、著者名、内容紹介文などのメタデータを入力していく。チャッピーたちのテキストを綺麗に整えたWordの原稿データと、バナナンが描いた表紙の画像データをサーバーへとアップロードする。
 販売価格は、ワンコインの五百円に設定した。

 すべての項目の入力が完了し、画面の右下にある、黄色い『出版』のボタンが点灯した。

 マウスを握る右手に、じわりと冷たい汗が滲む。
 怖い。
 ここから先は、もうチャッピーもクロさんも守ってはくれない。
 私の書いた本など、誰の視界にも入らないかもしれない。「こんなポエムは役に立たない」と、冷酷なレビューで切り捨てられるかもしれない。
 安全なオフィスの片隅で、他人の顔色を窺いながら言われた仕事だけを処理していれば、誰かから直接評価され、傷つけられるリスクはゼロだ。

 私はマウスを動かし、カーソルを画面の右上、「×」ボタンの上にそっと重ねた。
 一秒、二秒。
 玄関に脱ぎ捨ててある、外側だけが斜めにすり減った黒いパンプスを思い出した。
 他人の歩幅に合わせ、他人の重荷を背負い込み、靴底と一緒に自分自身の輪郭までが削られていく感覚。
 私は、カーソルを再び画面の右下へと引き戻した。

「……いくよ」

 私は小さく呟き、人差し指に力を込めた。
 黄色いボタンを、深く、重くクリックする。

 カチッ。

『タイトルの審査が開始されました。最大で72時間以内に、Amazonでの販売が開始されます』

 極めて無機質なシステムメッセージが表示された。
 ファンファーレが鳴るわけでもない。
 でも、私の心臓の奥底では、間違いなく何かの分厚い殻が弾け、新しい酸素が流れ込んでくる音がした。

 私は椅子の背もたれに深くもたれかかり、天井を見上げた。
 全身の筋肉から急速に力が抜け、心地よい脱力感が体を重く沈み込ませていく。
 時計の針は深夜の一時を回っていたが、不思議と呼吸は深く、視界は澄んでいた。



 同じ頃。
 夜の冷たい静寂に包まれた古い日本家屋の縁側で、るねは一人、ノートパソコンの青白い光を浴びていた。
 彼が日々発信しているSNSのアカウント。その通知欄に、ある一つのダイレクトメッセージが届いていた。

『るねさん。はじめまして。
あなたの言葉に背中を押され、今日、初めてAIを使って自分の本を出版手続きに出すことができました。
まだ審査中ですが、私のように理不尽な仕事にすり減っている人たちが、自分の時間を取り戻すための一歩を踏み出せるような、そんな本です。
本当に、ありがとうございました』

 アカウント名は「なな」。
 るねは、その短いテキストを読み、縁の太い眼鏡の奥の瞳を静かに細めた。
 キーボードに手を伸ばし、返信を書きかけて、ふと手が止まる。初めて自分の言葉をネットワークの海へ放った、あの日の夜の自分の震えを思い出すように。

「……土が、動いたね」

 るねは、すっかり冷めてしまったほうじ茶を一口すすり、小さく呟いた。

「さて、どんな形の芽が出たのか。見せてもらうとしようか」

 るねは、静かにメッセージを閉じ、パソコンの天板を下ろした。