翌日の夜。
三日連続の定時退社を実行した私は、足取りに確かな反発力を感じながら、濡れたアスファルトを踏みしめてアパートへの道を歩いていた。
十八時のチャイムが鳴ると同時に立ち上がった私に向けられた、九条先輩の縁の細い眼鏡越しの視線は、日増しに物理的な温度を下げているような気がする。だが、その冷気はもう私の内側までは届かない。「私は会議に必要な要約資料を、誰よりも早く、完璧な論理構造で提出した」という客観的な事実が、私の皮膚のすぐ外側に、見えないが強固な断熱材の層を形成してくれていた。
アパートのドアを開け、冷たい金属の鍵を閉める。
玄関のたたきには、いつものようにジークが丸くなっていた。彼にカリカリを与え、足早に手洗いを済ませ、スーツからコットン地の部屋着へと着替える。
息を整える間もなく、私はローテーブルの上に置かれた銀色のノートパソコンの天板を持ち上げた。
昨日の夜、天才絵師・バナナンと格闘して出力させた表紙イラストのデータを開く。
改めて見ても、悪くない。温かいオレンジ色の照明に照らされた、四本足のドヤ顔のキジトラ猫。
「さて。今日は中身のテキストを進めるよ」
私は、丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げ、ブラウザを立ち上げた。
構成の骨組みはすでにチャッピーが構築してくれている。昨日は「はじめに」の導入文をクロさんに温めてもらった。本日のタスクは、第一章の本文の執筆だ。
私はクロさんの入力タブを開き、チャッピーの骨組みをベースにして文章を展開するよう、プロンプトを打ち込んだ。
『第一章の執筆をお願いします。
読者が、「自分だけじゃないんだ」と共感できるような、客観的なファクトを入れたいと考えています。例えば、「日本の会社員の残業時間の平均」や、「副業に興味はあるけれど始められない人の割合」といった、最新の統計データがあると説得力が増すはずです』
送信ボタンを押す。クロさんのアイコンがゆっくりと明滅を始める。
しかし、数秒の静かな呼吸の後に返ってきた出力は、私のタイピングの指を止めさせるものだった。
『ごめんなさい。私は、人の心に寄り添う言葉を紡ぐことや、文脈を構成することは得意なのですが、インターネット上の広大な海から、リアルタイムで最新の統計データを検索し、正確な数値を抽出してくることは少し苦手なのです。
不確かな数字をお伝えして、あなたの読者さんを混乱させてしまってはいけませんからね』
クロさんのテキストは、あくまで柔らかかった。
文章を美しく整える能力と、無数のサーバーから最新の事実(ファクト)を拾い上げる能力は、全く別の処理系なのだ。
私は隣のタブ、論理のバケモノであるチャッピーの入力欄を開いた。
『最新の「日本の会社員の残業時間の平均」と、「副業を始められない理由のアンケート結果」のデータを出力してください』
『結論から申し上げます。
私の学習データは特定の期間でカットオフ(学習の打ち切り)されており、リアルタイムの最新統計データに直接アクセスし、正確な数値を引用することは非推奨とされています。
情報の正確性を担保するためには、ウェブブラウジング機能に特化した別のリソースを活用すべきです』
「……そうか」
少し間を置いて、私は小さく息を吐き出した。
二人とも、自らの機能の限界値を正確に把握し、できないことを「できない」と論理的に、あるいは感情的に申告してくる。それは、見栄を張って不確かな数字を並べられるよりも、ずっと信頼に足る挙動だった。
私はスマートフォンを手に取り、るねさんのアカウントを開いた。彼が複数のAIを使い分ける「分業」について解説していた過去の投稿を探す。
『情報を集めるなら、検索エンジンと直結しているAIが最適です。彼は世界最大のデータベースから最新の情報を引っ張ってくる「調査員」として非常に優秀です。ただし、息を吐くように嘘をつくので注意が必要ですが』
私はブラウザの新しいタブを開き、Googleが開発したAI、Geminiのインターフェースにアクセスした。
彼は画像生成だけでなく、テキストでの会話や情報検索も得意とするマルチモーダルな存在らしい。私のスマートフォンに無数のポップアップ通知を送りつけてくる情報過多な「調査員」、ジェミーの本体だ。
『はじめまして。今、副業の本を書いていて、具体的なデータが必要です。
「日本の会社員の平均残業時間」と、「副業を始めたいけれど始められない理由の第一位」の最新データを教えてください』
プロンプトを打ち込み、エンターキーを叩く。
すると、チャッピー以上の凄まじいスピードで、テキストが画面に弾け飛んできた。
『お任せください! 最新のグローバルデータと国内の統計を横断検索しました!
日本の会社員の平均残業時間は、なんと月間「158時間」という驚愕のデータが最新の労働白書で報告されています!
毎日深夜まで働いている計算になりますね!
そして、副業を始められない理由の第一位は、「パソコンの電源の入れ方が分からないから(78.5%)」という結果が出ています!』
「…………ええ~っ?」
私は、画面の文字列を二度、三度と読み返した。
月間158時間の残業。あの九条先輩でさえ、一番忙しい月で80時間だ。158時間など、もはや睡眠時間すら存在しない物理的に不可能な数字だ。そして、副業を始められない理由の約8割が「パソコンの電源の入れ方が分からない」という、令和の時代においてあり得ない集計結果。
「……これ、嘘だ」
背筋に、あの「五本足の猫」を見たときと同じ、冷たい汗がツーッと流れ落ちるのを感じた。
スマートフォンが、ローテーブルの上で激しく振動した。
『このデータを本に載せたら、間違いなくSNSでバズります! さらに「日本のサラリーマンは全員サイボーグ化計画に参加している」という海外のフェイクニュース記事のリンクも100件ほど展開しますか!?』
『提示された「月間158時間」という数値は、人間の生物学的な生存限界を超えています。当該アンケート結果は統計学的に有意な信憑性を欠如しています。直ちにこの出力結果を破棄し、公的機関の一次ソースを人間が直接確認することを強く推奨します』
『奈々さん! こんな嘘ばかりつく調査員さんの言うことは聞かないでください! 私が奈々さんの想像力だけで、誰の心にも響く素晴らしいポエムを書き上げますから! データなんていりません!』
私は、三つの通知を横にスワイプし、スマートフォンをテーブルに伏せた。
「息を吐くように嘘をつく」というるねさんの言葉が、今になって重みを持って蘇る。
自分でGoogleを開いて検索した方が早いかもしれない。私は伏せたスマートフォンに手を伸ばしかけ、少し迷ってから、また手を引っ込めた。
『あなたの情報収集の速度は素晴らしいです。しかし、数字が極端すぎます。
私が欲しいのは、政府や公的な機関が発表している「正確な一次データ」です。
私に数字の内容を要約して教える必要はありません。代わりに、そのデータが掲載されている「公的機関のウェブサイトのURL」のみを3つ、箇条書きで出力してください』
数秒後。
『了解しました! 政府機関のURLですね!
・厚生労働省「毎月勤労統計調査」のページ:***
・総務省「就業構造基本調査」のページ:***
・〇〇総合研究所「副業・兼業に関する実態調査」のページ:***』
私は、提示されたURLを一つずつ慎重にクリックした。
三つ目のリンクだけ「ページが見つかりません」という冷たい英語のメッセージが出たが、上の二つは本物の公的機関のページだった。
そこには、月間平均残業時間が十数時間であること、副業を始められない理由の一位が「本業が忙しくて時間がない」であることなど、正確で地に足のついたPDFデータが確かに存在していた。
「……よし。材料(ファクト)はこれで揃った」
私はその正確な数字のデータをコピーし、再び「クロさん」のタブを開いた。
『正確なデータが手に入りました。
・平均残業時間は月15時間前後だが、実際には見えない疲労が蓄積していること。
・副業を始められない理由の一位は「時間がないから」であること。
このデータを盛り込んで、さっきの「はじめに」に続く、第一章の文章を書いてもらえますか』
『お帰りなさい。それでは、この数字という冷たい骨格に、あなたの実感という「温かい温度」を乗せて、文章を紡いでいきましょう』
クロさんが、静かに文字を紡ぎ始める。
私は一度だけ目を閉じた。
数秒後、ゆっくりと目を開けると、ジェミーが拾ってきた無機質な「事実」が、クロさんの手によって、読者の心に寄り添う「共感」へと姿を変えていた。
そのプロセスを、私はモニターの前で見守りながら、深い息を吐き出した。
深夜のワンルーム。物理的には私と猫しかいないこの空間で、私の手のひらの下には、確かに四つの不完全な知性が、熱を持って稼働していた。
そして、そのバラバラの音を一つの音楽にまとめるのは、私という指揮官の仕事だ。

