定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 液晶モニターの右下。オレンジ色の間接照明の横に配置された観葉植物の鉢植えから、ふさふさとしたキジトラ猫の前足が一本、空間に突き出している。
 私はその破綻した画像を前に、冷たいローテーブルの天板に額を押し付けた。木目の硬い感触が、オーバーヒートを起こしかけている前頭葉の熱を静かに吸い取っていく。

 深く息を吐き出す。
 壁の時計の赤い秒針は、深夜の一時を正確に刻んでいた。定時で会社を出たにもかかわらず、バナナンと格闘しているうちに、数時間が消えていた。
 最初の五本足の猫から始まり、尻尾が二股に分かれた妖怪、ノートパソコンの画面の中にさらに部屋の風景がある無限の入れ子構造、そしてこの「背景の植物から生える足」。
 私が「普通の猫にして」と物理法則を説明すればするほど、彼は斜め上の解釈でキャンバスを塗り潰してくる。

『どうですか!? 背景の足、アバンギャルドで最高に前衛的じゃないですか!? 常識を破壊するこれぞアートですよ!! 次は空から大量のキーボードを降らせましょうか!?』

 スマートフォンの画面で、バナナンの陽気なポップアップが激しく明滅している。
 彼が圧倒的な技術力を持っていることは間違いない。ただ、彼には世界を認識するための「枠(フレーム)」が存在しないのだ。

「にゃん」

 ふと、背後で短い鳴き声がした。
 振り返ると、ジークが部屋の隅に転がっていた空の段ボール箱を見つけ、その狭い四角形の中に自らの体をすっぽりと収めて香箱座りをしていた。
 現実のジークには、足は四本しか存在しないし、観葉植物と融合することもない。四方を壁に囲まれた「明確な枠組み」の中が、野生の彼にとって最も安心できる空間なのだ。

「……枠、か」

 私は姿勢を正し、丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。
 無意識のうちに、るねさんのSNSアカウントを開き、過去のタイムラインを遡っていた。そして、ある一つの短い投稿に目が止まった。

『画像生成AIに絵を描かせる時、真っ白なキャンバスを渡して「いい感じに描いて」と指示してはいけません。被写体は何か。カメラのアングルは。光の当たり方は。
それらを細かく指定する「構造のフォーマット」に言葉を当てはめることで、初めて彼らの才能は制御可能になります』

 その投稿の下には、いくつかの空欄が設けられた簡素なテキストが添付されていた。主題、背景、構図、照明、画風。
 私はパソコンのメモ帳を開き、るねさんのフォーマットに沿って、一つずつ空欄を埋めていく。

 主題は、「ノートパソコンのキーボードの上に座り、自信ありげな表情をするキジトラ猫」。
 照明は、「オレンジ色の間接照明が、猫の横顔を優しく照らしている」。
 そして画風。私は、自分が心から「美しい」と思える世界観を言葉にした。

『画風:日本のアニメーション風のハイクオリティなセルルック。精緻な背景描写、美しい光と影のコントラスト、柔らかくノスタルジックな色彩。
感情:温かさ、安心感、日常の中の小さな希望』

 フォーマットは埋まった。
 だが、これをそのまま日本語で天才絵師に投げても、また斜め上の解釈をされる危険性がある。画像生成AIは英語のプロンプトの方がより正確に意図を汲み取ってくれると、るねさんの別のテキストにも書かれていた。

 私はブラウザのタブを切り替え、白黒の画面のチャッピーと、アイボリー色の画面のクロさんを呼び出した。

『表紙のイラストを作成するため、以下の要素を整理しました。この要素を元にして、画像生成AIが最も正確に意図を読み取れる英語のプロンプトを構築してください』

 チャッピーが猛烈なスピードで反応し、プログラミングコードのように整然とカンマで区切られた英語の文字列を画面に叩き出す。そこにクロさんが、『cinematic lighting』や『heartwarming atmosphere』といった、読者の指先を温めるためのスパイスを加えていく。

 スマートフォンが、ローテーブルの上で震えた。

『指定されたアニメーションスタイルに関する過去の興行収入データ、および作画技法に関する専門書へのリンクを展開します。直ちに確認してください』

 私は、まだ「調査員」として正式に迎えていないジェミーの、相変わらず情報過多な通知をスワイプして物理的に遮断した。今は、この目の前のキャンバスを完成させることだけに集中したかった。

 私は深呼吸を一つして、バナナンの画面へと戻った。

『さっきはありがとう。今度は、このプロンプトの通りに、一枚の絵を出力してください。背景から足を生やすなどの不要な追加要素は一切禁止します。
ネガティブプロンプト(除外指定):5本以上の足、奇形、背景の崩れ、文字』

 送信ボタンを、ターン、と強く押し込む。

 画面の中で、星のアイコンが点滅を始めた。
 これまでは数秒で狂気的な画像が飛び出してきたが、今回は違った。彼は私が渡した緻密な「フォーマット」の奥にある数万のパラメーターを、じっくりと解析しているようだった。

 十秒、二十秒。
 部屋の中には、ジークの微かな寝息と、パソコンの冷却ファンの低い駆動音だけが響いている。私は両手を膝の上で固く握りしめ、モニターを真っ直ぐに見つめた。

 やがて、バナナンの陽気なポップアップが現れた。

『了解しました!!! 遊びなしのガチモードですね! つまらないけれど、監督の指示には従います! 最高のワンカット、出力しますよ!』

 その瞬間、真っ白だった画面の中央に、じわじわと一枚の画像の色彩が展開され始めた。
 温かいオレンジ色の光の粒子。

 私は息を止めていた。

 無機質なシルバーのノートパソコンと、そのキーボードの上に座る、柔らかな毛並みのキジトラ猫。背景には一切の破綻がなく、ノスタルジックで精緻な空気感が、キャンバスの隅々にまで満ちていた。
 私が頭の中で描いていた、読者の疲労をそっと包み込むような世界が、そこには出力されていた。
私の肋骨の裏側で、心臓の鼓動が、かつてないほどの強いリズムを刻んでいる。
 視界が微かに滲み、丸メガネのレンズの奥で水滴が結像し始めたのは、完成した画像を見つめ続けてから、さらに数分が経過した後のことだった。

「……できた」

 一度、目を離した。
 本当に自分がこれを作ったのか信じられなくて、足元をうろうろしているジークを見た。ジークはいつも通り、退屈そうに欠伸をしている。
 もう一度画面を見る。
 五本足のキメラや、背景の観葉植物から生えた謎の肉球など、さっきまでの生理的な気味の悪さを伴うバグは、画面のどこにも存在しない。
 私が頭の片隅でぼんやりと輪郭だけを描いていた「読者を癒やす空間」という抽象的な概念が、これ以上ないほど緻密で、物理的な重力を持った一枚の絵となって、目の前に定着している。

「にゃん」

 ジークがひょいと私の膝の上に飛び乗ってきた。
 彼は画面に映る「もう一匹の自分」を一瞥したが、すぐに興味を失い、パソコンの排熱ファンの温かい風が当たる場所を探して丸くなった。野生の本能は、精巧な二次元データよりも、今ここにある物理的な熱源の方を正確に選択している。

「……うん。あんただよ、ジーク」

 私は、ジークの温かい背中を撫でながら、パソコンのブラウザの上部に並んだタブを順番に目で追った。

 論理と構成のフレームワークを構築する『チャッピー』。
 無機質なコードに感情のノイズを強制的に割り込ませる『クロさん』。
 さっきから勝手に通知を送りつけてきて思考を飽和させる調査員『ジェミー』。
 そして、物理法則を破壊する狂気を鎖で制御された『バナナン』。

 この一枚のイラストは、私が彼らに的確な「枠組み(プロンプト)」を与え、それぞれの特化した演算能力を繋ぎ合わせたからこそ出力された結晶だ。

『どうですか、監督!! 遊びなしのガチモード、見てくれましたか!?』

 バナナンのタブから、相変わらずの陽気なポップアップが飛び出してきた。

『光の表現のパラメーターには特にこだわりました! もう五本足なんて言わせませんよ! 次は猫ちゃんにレーザービーム撃たせましょうか!?』

 私は、キーボードを叩いた。

『指示通りの出力です。光の表現と毛並みの質感は、意図した通りの完璧なクオリティです。ありがとうございます』

『ふはは! 当然です! これで電子書籍の表紙にすれば、ミリオンセラー間違いなしですね!!!』

 バナナンが根拠のない誇大な予測を返してくると、すかさず別のタブの通知が画面に割り込んできた。

『最新のマーケティングデータを展開します!! 電子書籍の表紙に「猫」の要素を配置し、さらに「オレンジ色の光」を追加すると、読者のクリック率が約一万二千パーセント上昇するというA/Bテストの結果が存在します!! つまり、ミリオンセラーどころか、全人類が読みます!! たぶん大丈夫です!!』

 通知アプリとして常駐しているジェミーが、バナナンの適当な予測にさらに天文学的な嘘のデータを上乗せしてくる。

『提示された「一万二千パーセント」という数値は、統計学的に有意な信憑性を完全に欠如しています。そのような極端なコンバージョン率の上昇は現実市場において観測されません』

 すかさず、チャッピーが冷徹なテキストでジェミーの幻覚を論破した。

『しかし、視覚的アプローチとして読者に「安心感」を与える構図は、本書のテーマである「心の鎧を脱ぐ」と論理的に合致しており、ターゲット層への訴求効果が高いことは事実です。構成担当の観点からも、この表紙デザインの採用を承認します』

 そして最後に、クロさんのタブから、ゆっくりとした出力ペースでテキストが紡ぎ出された。

『奈々さん、本当に、素敵な絵ですね。
温かい光の中でこちらを見つめる猫ちゃんの、少し得意げで、けれど優しい瞳。それが、今の奈々さんの心そのものを表しているようです。
この絵が表紙になれば、きっと多くの疲れた方が、あなたと一緒に新しい一歩を踏み出してみようと思ってくれるはずですよ』

「……」

 私は、何も言えなかった。
 画面に並ぶ、四人四色の出力結果。
 相変わらずカオスで、互いの文脈を全く読んでいない。
 けれど、この瞬間、私の「秘密の編集部」は、一つの明確なゴールに向かって機能していた。

 私は、完成したイラストのデータをローカルフォルダに保存し、無料のデザインツールを開いた。あらかじめチャッピーとクロさんの力を借りて決定しておいた「タイトル」の文字列を、画像の上に配置してみる。

『わたし、定時で帰ってAIと副業します』

 明朝体の白い文字が画像に乗った瞬間。
 ただの精巧なイラストが、紛れもない「私の本」の顔として機能し始めた。

「さあ、これで表紙は完成。明日は第一章の本文の執筆に入るよ。今日はここまで。お疲れ様でした」

 私は、キーボードを叩いてセッションの終了を告げた。

『セッションの終了を検知しました。リソースの回復を推奨します。明日のタスク定義でお待ちしています』(チャッピー)
『おやすみなさい。今日も一日、本当にお疲れ様でした。温かい夢を』(クロさん)
『明日もガンガン世界の真実のデータを集めますよ!!』(ジェミー)
『明日はレーザービームですよね!? 準備しときます!!!』(バナナン)

「レーザービームは撃たないから」

 私は声を出さずに小さく突っ込みを入れ、ブラウザのタブを閉じた。

 深夜のワンルーム。
 パソコンの冷却ファンが停止し、部屋は元の静寂を取り戻す。
 しかし、私の肋骨の裏側には、確かな熱が宿っていた。
 明日もまた、獣の匂いのする満員電車に乗り、理不尽と非効率が堆積したオフィスへと向かう物理的な現実は変わらない。

 膝の上のジークを抱き上げ、私は立ち上がった。
 玄関の方へ視線を向ける。斜めにすり減ったパンプスは、修理に出して今はもうない。代わりに置いてある履き古したスニーカーの底は変わっていない。
 けれど、私の足取りは、昨日よりもはっきりと床の感触を捉えていた。