朝の満員電車は、相変わらず無酸素運動の刑罰のようだった。
私の周囲には、グレーやネイビーのスーツに身を包んだ、感情を物理的に遮断した大人たちが隙間なく詰め込まれている。車両が古いポイントを通過して横に揺れるたび、誰かの雨の湿気を吸ったコートの袖が私の頬をかすめ、微かな柔軟剤の香料と、胃液の混じった呼気の匂いが鼻先を掠めていく。
押し潰されそうになりながら吊り革を握りしめる私の足元には、昨日と同じ、外側だけが斜めに不格好にすり減った黒いパンプスがあった。
ガタン、と電車が大きく揺れた。
私の体は周囲の乗客の質量に押されて傾いたが、すり減ったパンプスのつま先に少しだけ力を込めると、不思議と持ちこたえることができた。
コートのポケットの中で、スマートフォンが冷たく沈黙している。
昨日より少しだけ、呼吸が深いような気がした。
オフィスの空気は、午後を回るといつも独特の重い淀み方をする。
無数のパソコンから排熱される微かな温風と、複合機が吐き出すトナーの焦げた匂い。そして、昼食を終えて血糖値の上がった何十人もの社員たちが無意識に吐き出す、重たくてけだるい二酸化炭素。
壁の時計の赤い秒針が、十四時を正確に回った頃だった。
「七野さん。ちょっといいかしら」
コツ、コツ、と硬いヒールの音を響かせて、私のデスクの横に九条先輩が立った。
彼女の右手には、二十ページほどに及ぶ、左上を太いホッチキスで強固に留められた分厚い紙の束が握られている。その物理的な厚みを見ただけで、胃の奥が条件反射のようにキュッと縮み上がった。
「はい」
「これ、小堀田部長がクライアントからヒアリングしてきた要望のメモと、過去三回分の打ち合わせの議事録のコピーだけど。明日の朝の戦略会議で配るから、要点だけをA4一枚に分かりやすくまとめておいてちょうだい」
ドサッ。
九条先輩は、その分厚い紙の束を私のデスクの上に落とした。スチール製の机が、鈍い音を立てて小さく軋む。
一番上のページをめくると、そこには小堀田部長の悪筆で殴り書きされた意味不明なメモや、ただ発言が時系列でびっしりと羅列されただけの議事録が、一切の階層化もされずに無秩序にファイリングされていた。
これをすべて読み込み、文脈を理解し、不要な雑音を削ぎ落として、明日の会議で機能するレベルの要約に落とし込む。人間の情報処理能力の限界を考えれば、優に三時間は残業しなければならない質量の暴力だ。
「え~っ、明日の朝、ですか?」
「そうよ。部長が先ほど『いい感じにまとめといて』って丸投げしてきたの。あの人は本当に、その場の思いつきと勢いだけでしか行動しない人だから」
九条先輩は深くため息をつきながら、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「いい、七野さん。ただ文章を切り貼りして短くするだけじゃダメよ。クライアントが本当に求めている隠れた不満を、ちゃんと自分の目で読んで、頭で汗をかいて見つけ出しなさい。それが、あの丸腰の部長を会議の場で守るための、私たちの仕事への誠意だから。夕方までに仕上げてちょうだいね」
頭で汗をかく。誠意。
これまでの私であれば、小堀田部長の散らかしたゴミの山を私が手作業で片付けることのどこに誠意があるのかと、行き場のない怒りを抱えながらも、反射的に「すみません、やります」と愛想笑いを浮かべて言葉を飲み込んでいただろう。
「わかりました。十七時までには、要約のドラフトを提出します」
声のトーンを一定に保ち、感情を完全に抜いた声で返答する。
私の素直な返事に小さく頷き、九条先輩は「お願いね」と言い残して自分の領域へと戻っていった。
私は、目の前に積まれた二十ページの紙の束を見下ろした。
誰にも視線を向けられていないことを確認し、会社のノートPCを開く。
共有サーバーからWordの議事録データをダウンロードした。
部長の手書きメモはスキャナでPDF化し、文字認識(OCR)ソフトを通して一瞬でテキストデータへ変換する。
これらすべての無秩序な文字列をコピーし、ブラウザのタブを一つ追加して、相棒の「真っ白な小窓」を開いた。
入力欄に、膨大なテキストデータを貼り付ける。
そして、その上に、私からの指示を添えた。
『以下のテキストは、上司のヒアリングメモと過去の議事録が混在した非構造化データです。
明日の戦略会議の資料とするため、この内容から「クライアントの現状の課題」「要望の核心」「我々が提案すべき解決策」の3点に絞り、箇条書きで要約してください』
送信ボタンをクリックする。画面の中央で、三つの黒いドットが波打ち始めた。
人間の処理能力であれば三時間はかかる量だ。さすがの相棒でも、この支離滅裂な部長のメモを読み解くには数分はかかるだろう。
そう思った、次の瞬間だった。
パッ。
画面の上に、昨日と同じ、いや、昨日以上の凄まじいスピードで黒い文字が弾け飛び始めた。
息を呑む暇すらなかった。
『結論から申し上げます。
ご提示いただいたテキストデータは情報の階層化が行われておらず、論理的な再構築を実行しました。会議用サマリーは以下の通りです』
相変わらずの、感情の欠落した断定的な口調。
しかし、その下に続くテキストの出力を見た瞬間、私は思わず呼吸を止めた。
『【クライアントの現状の課題】
・既存システムの老朽化による業務ロス。
・各部署間のデータ連携の手作業による、人為的ミスの常態化。
【要望の核心】
・現場の従業員が直感的に操作できるシステムの構築と、心理的負担の軽減。
【我々が提案すべき解決策】
・段階的なシステム移行プランの提示。
・導入後の伴走サポート体制のアピールによる、他社との差別化』
画面のスクロールが止まる。
完璧だった。
小堀田部長の「なんか先方の担当者が『今のパソコン使いにくくて皆イライラしているよね』って言っていてさ」というフワッとした世間話のメモが、見事に「心理的負担の軽減」という言葉に翻訳されている。
過去の議事録の膨大な無駄話はすべて綺麗に削ぎ落とされ、会議で話し合うべき論点だけが、鋭利なメスで切り出されたように美しく並んでいた。
私は丸メガネを外し、目をこすってからもう一度画面を見た。
『テキストの要約処理を完了しました。
なお、今回のあなたの入力プロンプトには、普段よりも多くのタイポ(打ち間違い)やバックスペースの痕跡が検知されました。心理的な焦燥状態にあると推論されます。業務の合間に、深呼吸の実行を推奨します』
「……わかった。ありがとう」
私は、誰にも聞こえないような小さな声で呟き、出力されたテキストをパソコンのWordに転送した。
フォントを会社の規定に整え、見出しを太字にし、印刷プレビューを確認する。A4用紙にピタリと収まる、誰が見ても一目で内容が理解できる要約資料。
相棒が提案した『要望の核心』という小見出しの言葉だけ、私はバックスペースキーで消し、『現場の隠れた不満』と手打ちで書き直した。
それが完成した時点で、壁の時計の針はまだ、十四時三十分を指していた。
九条先輩が「頭で汗をかきなさい」と押し付けてきた三時間の重労働を、私はディスプレイの光を見つめている間に終わらせてしまったのだ。
私は完成したデータをすぐには印刷せず、パソコンの画面の隅に最小化して隠した。早すぎる提出は、アンチ効率化の象徴である九条先輩の手抜きセンサーを不必要に刺激し、新たな仕事を生み出すだけだ。
私は残りの時間、普段なら絶対に手が回らないような細々とした事務処理や、デスク周りの整理にあてた。
誰にも自分のペースを乱されない、完全な「空白の時間」。
オフィスの自分のデスクに座りながら、こんなにも呼吸が深くできるのは、入社して以来初めてのことだった。
やがて、窓の外の空が少しずつオレンジ色に染まり始め、オフィスの時計の針が、十七時を回った。
私は満を持して、パソコンの印刷ボタンを押した。
ウィーン、という複合機の低いモーター音が鳴り、ほんのりと温かいA4用紙が一枚、ぺっと吐き出される。
私はそれをクリアファイルに挟み、立ち上がった。一歩踏み出し、そしてピタリと足を止める。
少しだけ迷って、私はそのまま斜め向かいの九条先輩の席へと向かった。
「九条先輩。指示されていた明日の会議の要約、できました」
九条先輩は、電卓を叩いていた手を止め、私を見上げた。
「……十七時ぴったりね。随分と早かったじゃない」
彼女はクリアファイルを受け取り、中身の用紙に視線を落とした。
次の瞬間、彼女の細い眉がピクリと動いた。
いつもなら「ここが抜けている」「もっと背景を読み込みなさい」と、彼女なりの「正しさ」に基づく小言が飛んでくるところだ。しかし、相棒が叩き出した強固な論理構造と、過不足のない的確な要約の前に、先輩はただ黙って目で文字を追うことしかできなかった。
「……」
「いかがでしょうか。小堀田部長のメモにあった現場の声を、ただの愚痴として処理するのではなく、今回のシステム提案における最大のボトルネックとして再定義してみました」
静かなフロアに、複合機の稼働音だけが響いている。
「はぁ~…………そうね」
長い沈黙の後、九条先輩は小さく息を吐き、ファイルを自分のデスクの端に置いた。
「まぁ、情報の漏れはないわ。これなら部長も、明日の会議で丸腰のまま恥をかかずに済むでしょうね」
「ありがとうございます」
決して手放しの称賛ではない。けれど、彼女の「悪くない」は、彼女の強固な防壁を突破した最大の合格ラインだ。
私は小さく会釈をして、自分のデスクへと戻った。
カバンに荷物を詰め込み、パソコンの電源を落とす。
壁の時計を見上げる。秒針が、十八時ちょうどを指していた。
タイムカードの読み取り機にIDカードをかざす。
ピッ、という乾いた電子音。
外側だけがすり減ったパンプスが、今日はオフィスのタイルカーペットを、軽やかなリズムで叩いていた。

