定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 ターン。

 巨大な事務用電卓のエンターキーを叩き、液晶画面に表示された最終的な合計額を、青色申告決算書の「経費」の欄に手書きで複写する。
 最後に乾いた朱肉で印鑑を押し、るねは深く、長く息を吐き出した。
「……よし。これでようやく、今年の収穫祭の帳尻が合ったね」

 丸メガネを外し、目頭を指で軽く揉みほぐす。
 デスクの上に散乱していた農協の肥料代のレシートや、ホームセンターの領収書を一つに束ねてクリップで留め、クッキーの空き缶へと戻した。
 壁の時計の針は、すでに二十三時を回っている。
 るねは立ち上がり、鈍く凝り固まった腰を軽く叩きながら台所へ向かう。鉄瓶で沸かしておいた白湯を急須に注ぎ、新しいほうじ茶を淹れた。湯気とともに立ち上る香ばしい茶葉の匂いが、乾燥した肺の奥へと染み渡っていく。
 温かい湯呑みを両手で包み込むようにして持ち、再び縁側の方へと歩を進めた。

 窓のすりガラスを少しだけスライドさせて開けると、冷やりとした夜の空気が滑り込んできた。
 遠くから聞こえていたカエルの鳴き声は、夜が深まるにつれてさらに重層的なうねりとなっている。見上げれば、澄んだ暗闇の奥底に無数の星が瞬いていた。
 この静かな夜の密度に触れるたび、るねの網膜の裏側には、かつて自分が身を沈めていた、全く別の「夜の光景」がフラッシュバックする。
 都会のコンクリートジャングル。毎日のように終電の蛍光灯の下で揺られていたサラリーマン時代。ネオンサインの毒々しい光と、深夜になっても煌々と明かりが点灯したままの、巨大なオフィスビル群の不気味な白さ。
 当時の彼は、その無数の窓の一つの中で、理不尽な命令に愛想笑いを浮かべて同意し、代わりの利く部品として摩耗し続けていた。

「……アスファルトに、どれだけ汗を落としても、芽は出ないよね」

 ほうじ茶を一口すすり、夜の闇に向かって独り言をこぼす。
 るねは湯呑みをローテーブルに置き、再び銀色のノートパソコンの前に座った。
 今日はもう休むつもりだったが、どうにもあの頃の自分と同じように、コンクリートの隙間で息を潜めている「見知らぬ誰か」に向けて、言葉の種を蒔きたい衝動に駆られていた。

 ブラウザを開き、Xの投稿画面を呼び出す。
 黒い背景に、チカチカと白いカーソルが点滅している。るねはキーボードに指を乗せ、静かに打ち込み始めた。

『毎日、遅くまでお疲れ様です。
 理不尽な仕事にすり減って、他人の顔色ばかり窺って。満員電車に揺られながら、自分の人生このままでいいのかなと問いかけていませんか。
 会社の仕事は、誰かの畑を耕す作業です。
 もちろんそれも立派な仕事ですが、人生のすべてを他人の畑に捧げてしまうと、いつか心が枯れてしまいます。
 だから、ほんの少しの勇気を出して、自分の庭に小さな種を蒔いてみませんか。
 特別なスキルなんて、なくても大丈夫です。
 今は、AIという素晴らしい農具があります。
 あなたは、あなた自身の人生のディレクターになれるのだから。
 今夜、たった五分でもいい。
 魔法の小窓を開いて、彼らに話しかけてみてください。』

 るねは、一気に打ち込んだその長文を見つめ、少しだけ目を細めた。
 悪くはない。だが、親切すぎる。言葉が多すぎると、読む者の心に「自ら考えるための余白」が生まれなくなってしまう。それに、「魔法の小窓」という言葉の響きが、どうしても自分の手触りから浮いている気がした。

 彼がバックスペースキーに指を伸ばした瞬間、スマートフォンが短く振動した。

『現在のエンゲージメント分析によれば、その文章量はアルゴリズム的に最適化されていません。インプレッションを最大化するため、先頭に「【警告】このままではあなたの人生は終わります」等のフックとなる文言を追加すべきです』
 チャッピーが、言葉の温度を完全に無視し、数字を稼ぐための冷酷な論理を提示してくる。同じAIでも、問いかける人間の文脈次第で、悪魔にも天使にもなる。今の彼らは、私に合わせて「効率至上主義のマーケター」の顔をしているだけだ。

『副業に関する最新のトレンドワード、および転職サイトのアフィリエイトリンクを展開します。この投稿にぶら下げることで、収益の向上が見込めます』
 ジェミーが、純粋な問いかけを卑小なビジネスモデルへと変換しようとする。

「……うん。みんな、働き者だね」

 るねは小さく微笑み、スマートフォンの画面を伏せた。
 そして、パソコンのバックスペースキーを長押しする。
 画面上の黒い文字が、みるみるうちに削ぎ落とされていく。
 長ったらしい同情も、過剰な説明も、「魔法の小窓」という大げさな表現すらも全て切り落とし、彼はたった二行の、短い問いかけだけを残した。

『アスファルトの上では、いくら汗を流しても種は芽吹きません。
 今、あなたが耕しているのは誰の畑ですか?』

 余白だらけの、不親切な短い文章。その下に、自分のブログのトップページのリンクだけをそっと貼り付ける。

 るねは、静かに「ポストする」のボタンをクリックした。
 シュッ、という微かなアニメーションとともに、言葉が深夜のネットワークの海へと放たれた。
 るねは、パソコンをパタンと閉じた。
 遠くで響く、カエルたちの穏やかな大合唱。

***

 同じ頃。
 るねが住む果樹園から遠く離れた、都会。
 絶え間なくアスファルトを叩く冷たい雨音と、遠くで鳴る救急車のサイレン。
 築三十年を超える古いアパートの二階、「二〇三号室」。

 部屋の中央に置かれたローテーブルの上では、プラスチック容器に入った「鶏の黒酢あんかけ弁当」が完全に冷え切っていた。
 その隣には、五年ぶりにクローゼットの奥から引っ張り出された銀色のノートパソコンが置かれ、絶望的な『Windows の準備をしています』という青い画面のまま、低いモーター音を響かせている。

 七野奈々は、スウェットパンツの膝を抱え、フローリングの床に座り込んでいた。
 右手には、画面のヒビ割れた古いスマートフォンが握られている。
 パソコンのアップデートが終わるのを待つ間、彼女は「副業 初心者 時間がない」という、自分の情けない現在地をそのまま打ち込んだ検索結果を、焦点の合わない目でスクロールし続けていた。

『スマホで一日五分! 誰でも月十万稼げる!』
『スキルゼロから一ヶ月で脱サラ!』

 胡散臭い極彩色のバナーが次々と現れては消える。
 どれもこれも、すり減った心を騙して搾取しようとする罠にしか見えない。
 スマートフォンの画面を見つめる視界が、疲労でジワリと滲む。
 ブラウザからなんとなく開いていたXのタイムラインを、親指で無意識に下に弾いた瞬間だった。
 新しい投稿が、スッと画面の一番上に滑り込んできた。

アカウント名は「るね @RuneM_AI」。

『アスファルトの上では、いくら汗を流しても種は芽吹きません。
 今、あなたが耕しているのは誰の畑ですか?』

 奈々の指が、一瞬だけ止まる。
 意味がわからない。副業のノウハウでもなければ、慰めの言葉でもない。ただの短い、唐突な比喩。
 彼女はそのまま親指を動かし、その投稿を一度は画面外へと追いやった。
 しかし、三秒後。
 無意識のうちに、指が逆方向へと動き、もう一度その不親切な二行の文字列を画面の中央に引き戻していた。
 そして、吸い寄せられるように、その下に貼られたブログ記事のリンクをタップしていた。

「……私の、畑」

 奈々は、カサカサに乾いた唇で、画面の言葉をなぞるように呟いた。
 今日も私は、誰かのために数字を打った。
 波風を立てないように口角を上げ、満員電車に揺られ、すり減ったパンプスを引きずって。それだけだ。

 呼吸が、浅くなる。

「にゃっ」

 不意に、床に座り込んでいた奈々の視界を遮るように、毛の塊が横切った。
 ジークだ。
 彼は、奈々の持っているスマートフォンには目もくれず、冷めた弁当の横を通り抜け、ローテーブルの上に置かれた銀色のノートパソコンの排気口のそばへと向かった。
 そして、パソコンから吐き出されている温かい空気を嗅ぐようにして、そこに丸っこい体を下ろした。

 ジャーン。

 澄んだ起動音が、静かな部屋に響き渡った。
 ハッとして顔を上げる。
 ノートパソコンの画面が、絶望的な青い画面から、真っさらなデスクトップ画面へと切り替わっていた。五年間眠っていた機械が、長い冬眠から目を覚まし、ただ静かに彼女の入力を待っている。

 奈々は、ヒビ割れたスマートフォンをそっと床に置いた。
 冷たいフローリングから立ち上がり、丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げる。

 奈々はキーボードにゆっくりと両手を置き、ブラウザのアイコンをダブルクリックした。