定時後、わたしはAIチームの指揮官になる。


 トントン、トントン。
 使い込まれた厚いイチョウのまな板の上で、小気味よい包丁の音が響く。トントンという木のくぐもった音は、古い家屋の土壁に吸い込まれていく。
 るねは、夕暮れの畑から間引いてきたばかりの大根の葉を刻んでいた。包丁が入るたびに、春の野の強い青臭さと、土の湿った匂いが混ざり合って立ち上る。スーパーに並ぶ野菜とは違い、葉先には虫食いの跡があり、根元にはまだ土がこびりついている。洗っても落ちきらないその泥臭さが、命の濃さを物語っていた。

 熱した黒光りする鉄のフライパンに、ごま油を回し入れる。少し手元が狂い、トトッと余分な油が鍋肌に垂れてしまった。

「……まあ、ええか」

 るねは小さく呟き、刻んだ大根の葉を一気に投入する。ジュワッという油の弾ける激しい音とともに、鼓膜を打つような香ばしい匂いが古い台所を満たした。木べらで手早く底から返し、水分が飛んだところでちりめんじゃこと白いりゴマを加える。最後に鍋肌から醤油と少量の酒を回し入れ、一瞬だけ焦げた醤油の風味を葉全体にまとわせた。

 炊きたての白飯に、鮮やかな緑色のふりかけを乗せる。
 箸で多めにすくい、一口運ぶ。葉のシャキシャキとした繊維の食感と微かな苦味、ちりめんじゃこの塩気、ごま油の濃厚な香りが、舌の上で過不足なく噛み合った。手元が狂ったせいで少し油っぽくなってしまったが、それがかえって白飯を進ませる。自分で土を耕し、種を蒔き、間引いた結果の味がした。
 るねは静かに咀嚼を終え、湯呑みに残っていた温かいほうじ茶で、口の中の油をゆっくりと流し込んだ。

 それは、ひと月ほど前の、三月の夜のことだ。
 食器を洗い流して水切りカゴに伏せ、るねは書斎に向かった。
 木製のデスクの上に置かれた銀色のノートパソコンの前に座る。天板を開き、ブラウザのブックマークから一つのクラウド会計ソフトを起動した。
 真っ白な画面の中央に、『とある青色申告オンライン』の青いロゴマークが浮かび上がった。

 確定申告は、年に一度の巨大な収穫祭の精算である。
 会社員としての給与所得は、手元の源泉徴収票に並んだ数字をキーボードで打ち込むだけで終わる。先祖代々の土地を活用している不動産所得も、毎月決まった賃料の反復入力だ。Kindle出版の印税などの雑所得に至っては、Amazonの管理画面からダウンロードしたエクセルデータをインポートするだけで、システムが全自動で仕訳を完了させた。
 画面上に円グラフ化された収入の内訳は、ノイズの一切ない完全な安定感を示していた。デジタル上の数字は、どこまでも従順だ。

 るねは、デスクの横に置かれた古いクッキーの空き缶の蓋を開けた。
 中には、折りたたまれたり、泥で薄汚れ、印字がかすれたりした大量のレシートが、無秩序な地層のように押し込まれている。
 春先の土作りから収穫までに費やした、泥臭い経費の数々。農協の肥料代、ホームセンターの農機具のガソリン代、キウイフルーツの苗代、防鳥ネットの購入費。

 るねはマウスを握り、メニュー画面から「農業所得」の入力項目を探した。
 マウスのホイールを回し、メニューを上下にスクロールする。しかし、何度画面を往復しても、農業特有の勘定科目を入力する画面が存在しなかった。
 別タブを開き、検索窓に『オンライン版 農業所得 入力方法』と打ち込み、公式のサポートページを開く。
 そこには、冷ややかなほど簡潔な一文が、無機質なゴシック体で記載されていた。

『当オンライン版では、農業所得は対象外です。農業所得の申告には、デスクトップ版のソフトウェアをご利用ください』

 るねの、マウスを持つ手がピタリと止まった。
 画面の中でチカチカと点滅する黒いカーソル。
 るねはディスプレイからスッと視線を外し、黒い窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりと見た。そういえば、さっき洗ったフライパン、火にかけて水分を飛ばすのを忘れていたな、と、今の状況とは全く関係のないことが頭をよぎる。

 スマートフォンが、デスクの上で短く振動した。
 ロック画面には、彼が設定したAIチームからの通知が並んでいる。
 るねは画面をタップし、通知を開いた。

『デスクトップ版の最安値販売サイト、および税理士への代行サービスの比較表、ならびに日本の複雑な税制の歴史に関する学術論文のリンクを展開します』
 調査員のジェミーが、今すぐ解決すべき目の前のレシートの山を無視し、広大な情報を無差別に広げてくる。

『ねえねえ! 今すぐ確定申告なんてやめて、税務署の前で深夜のゲリラヨガをやろうよ! 絶対にインスピレーションが湧くから!』
 絵師のバナナンが、るねの文脈も農業も完全に無視した、別次元の遊びを提案してくる。

 るねは、残りのチャッピーやクロさんからのメッセージを開くことなく、スマートフォンの画面を静かに伏せた。
 どれだけ最先端のAIを駆使しても、彼らは丸まったレシートのシワを伸ばしてはくれないし、かすれた印字を読み取って手入力してくれるわけでもない。デジタル空間は完璧でノイズがないが、人間の生活は不完全で、泥臭い物理法則に縛られている。

 るねはデスクの深い引き出しを開け、分厚く重い巨大な事務用電卓を取り出した。
 使い込まれたプラスチックの筐体。キーの表面は、長年の指の摩擦で少しテカテカと光っている。
 それは、都会のオフィスで、九条という名の女性が「自分の責任」を証明するために叩き続けているものと、全く同じ重みを持った事務器だった。
 丸メガネの位置を人差し指で押し上げ、一番上にある農協のレシートを手に取った。印字は擦れて薄くなり、端には乾いた土の粉が付着していた。

 ターン。
 タカタカタカ、ターン。

 デジタルでは処理しきれない命の重さを一つずつ刻むように。
 静かな夜の書斎に、プラスチックのキーを不格好に強打する音が、いつまでも響き続けていた。