この世でいちばん暗い場所

「死ぬかと思いました」
 スーパーから出た途端、龍狩さんは息を吹き返した。夜のほの甘い空気を吸って、薄い胸を膨らませる。ひと仕事終えた顔は晴れやかで、戦場から生きて帰った兵士のごとくだ。その手には、いくらおにぎりがある。
 一方の俺は塩たんおにぎりを手に深く頭を下げた。
「たいへん申し訳ございません……」
「ははは、いいですよ、気にしなくて」
 奥さんの影が消えたあと、すみずみまで店舗内を見て回った。動揺した俺が龍狩さんの腕を掴んで引き回した、ともいう。店内には生きた人間がひしめき合うばかりで、奥さんが再び現れることはなかった。結局、とぼとぼとおにぎり売り場に戻り、示し合わせたように各々一番食べたいものを手に取ったのだった。
 悄然とおにぎりを見つめる視界の端で、小傷の多い革靴が動き出す。
「さっきの対応も間違いじゃないんですよ。この仕事、確認が大事ですから」
 顔を上げると龍狩さんは二、三歩先で俺を待っていた。あたりはすっかり暗くなっている。スーパーの放つ光が夜空を霞ませて、星は見えない。地上では広い駐車場に停められた車たちが電光を遮っている。暗闇が低く澱む。熱気と混ざって、足許にまとわりつく。
「……ありがとうございます」
 振り払うように、踏み出した。
 龍狩さんは俺が隣に並ぶのを待ってから、視線を宵闇に転じた。極めてのんびりと歩きはじめる。
「というわけで、おばけであることが確定しましたので、このまま特環事案として対処します」
 明言されると、つい肩が揺れてしまった。
 奥さんが現れて消えるところを、二人とも目撃した。生きた人間のいたずらではないことを確認した。通報者の気持ちの問題でもなかった。
 おばけが出た。
 ぬるい夜気が、冷えきった身体を撫でる。胸を擦る。ネクタイとシャツの下に、霊感の素はちゃんとある。
 ひとつ深呼吸して頷いた。
「……了解です」
 こうなるだろうと思っていた。いざ現実になると緊張はするが、初日のような戸惑いはない。しかし、しっかりと頷いたつもりの声はかすかにこわばって聞こえた。
 ——倫理的にいいか悪いかって話は、考慮の外なんですよ。
「………」
 これから、この世に心残りを残している奥さんを、潰すか消すかしなくてはならない。「いく」と言ったのは自分だが、気が重くなってしまうのはどうしようもなかった。
 スーパーから離れるにつれて、人の気配は薄くなる。家々の明かりは道路までは照らさない。ぽつぽつ並ぶ街灯が、首を垂れて光を落とした。ひと足ごとに、少し先の暗闇の中で何かが蠢く。もう一歩進むと、何もない。誰もいない。月はまだ昇らない。
 龍狩さんは躊躇なく暗がりを進む。隣に並ぶ肩は昼間と変わらず、薄い。俺も昼間と同じように背筋を伸ばした。
「対処するなら、奥さんを見つけないと話になりませんよね。人間探しなら慣れているんですが、自分、おばけ探しは素人です」
 目撃情報があるとはいえ、範囲はそこそこに広く、予想はつかない。見つけてもすぐに消える。お手上げだ。
「ご指導、お願いします」
 隣の男に視線を向ける。新人らしく先輩に助けを求めた。夕方、似たようなことを頼んだときはごまかされたが、今度はどこか頼もしく頷いてくれた。
「とりあえず、その辺の公園で腹ごしらえしながら話しましょうか。あては、たぶん、ありそうなので」
「……それは、あるんですか?」
 頼りになるのか、ならないのか。
「よくわからないでしょう」
 龍狩さんは、からりと笑った。
 そうして足を運んだのは、奥さんがよく来ていたという公園だ。住宅地を切り抜いて必要なものを詰め込んだような、小さなものだった。ブランコ、滑り台、砂場、どれも小ぶりで、ミニチュアじみている。木陰には二人がけのベンチが二つ並んでいた。入り口に近いほうのひとつ、端と端に腰掛ける。互いの間に、鞄を下ろした。
 おにぎりのプラ容器を開けながら、ふと懐かしい感覚に襲われた。先輩刑事とも、よくこうして飯を食った。懐かしむにはまだ早い気がした。異動してきてたったの三日だ。
「………」
 初日に感じた、日常と作り話が接続されてしまったような感覚が甦る。
 あれは、接続ではなくて切断だったのかもしれない。俺はこれまでの日常から切り離されてしまったのかもしれない。
 ——信じてないだろ。
「……いただきます」
 前任者も、こんな感覚を味わっただろうか。仕事の話を作り話として聞く俺を彼がどう思っていたのか、今こそ聞いてみたかった。
「食べながらゆるく聞いていただきたいんですけど」
 俺の感傷をよそに、龍狩さんが話を始める。慌てて意識を現在に戻す。俺が聞かなければいけないのは、相棒の話だ。あるかもしれない、「あて」の話。
「以前、旦那さんはよく残業されてたって仰ってましたよね。あの話し方だと、おおむね二二時には帰ってたと思うんです。遅いときは、零時とかで」
「そうですね」
 相槌を打ちながら食事に取りかかる。おにぎりはでかく、具が米からはみ出している。こぼれんばかりだ。これはもはや、小ぶりな弁当の気がした。どう手をつけたものか。箸がほしい。掴み方に悩んでいると、ぺこん、と間抜けな音が耳を打った。見れば、龍狩さんがおにぎりの容器を開けそこねたようだ。閉じたままの容器を手に、じっと、動きを止めている。何かを待っているように見える。
「龍狩さん? どうし——あっ」
 左手の痛みが治まるのを、待っているのか。気づいた途端、自分の気の利かなさが嫌になった。慌てて横から手を伸ばす。
「困ったときは教えてください……自分はまるで気が利かないので」
 蓋を開け、ついでに署から持ってきた茶を鞄から出した。封を切って、そばに置く。じっと作業を見守っていた龍狩さんが、食事の用意が整ったところで頭を下げた。気まずげだ。
「すみません。ありがとうございます」
「そんな大したこと、してないですよ」
 見たところ、いくらおにぎりは、塩たんより余程掴みづらそうだ。さらに手を貸すべきか。介助の構えをとったが、大きな右手は一切の躊躇なくおにぎりを鷲掴みにした。
「うぉ……」
「いただきまぁす」
 溢れる赤い粒を器用に口で受ける。零さない。片手での食事にずいぶん慣れていた。涼し気な見た目に似合わない、豪快な食いっぷりだ。いくらを見下ろしていた眼が、呆気にとられている俺を流し見た。
「もう大丈夫ですので、どうぞ、逸軌さんも召し上がってください」
「……そうします」
 攻略に悩んでいたのが、ばからしくなった。俺も塩たんにぎりを引っ掴んでかぶりつく。うまい。
「ええと、それで……何でしたっけ」
 龍狩さんが、茶を飲んで首を捻った。おにぎりはすでに半分になっている。俺は口のなかがいっぱいで答えられない。飲み込もうとしている間に、聞いた本人は話題を思い出したようだった。
「ああ、旦那さんは二二時ごろに帰宅していたでしょうから、奥さんは、遅くとも二一時くらいには家に帰るんじゃないかな、って話でした」
 かな、という割には確信に満ちていた。口を茶で濯ぐ。
「……時間設定について、理由を聞いても?」
「奥さんが出歩いてるのが夕方からで、出る場所が、ご近所とスーパーとケーキ屋と花屋、でしたよね」
「はい」
「晩飯の準備をしてる感じじゃないですか?」
 遅くに帰ってくる、旦那さんに合わせて。
「——……」
 思いがけず、ちゃんとした理由だった。もはや結論を出さないようにしているのではないかと思っていたが、急がないだけで俺よりよほどしっかり調査していた。茶を啜る横顔が、今ははっきりと頼もしく見える。尊敬の眼差しに気づいたのか、暗い眼がこちらに向いた。
「ですので、その辺の時間に、ご自宅で待ち伏せればいいと思うんですけど……なんか変ですかね」
「いえ、なるほど、と思いまして」
 しっかりと視線を返して頷くと、龍狩さんは居心地悪げに眼を逸らした。
「そういうわけで、たぶん帰り、そこそこ遅くなりますけど、大丈夫ですか?」
「全く問題ありません。夜更かしどころか徹夜でも、張込みで鍛えられてますから。塩たんもありますし」
 時計を見る。一九時半すぎだ。塩たんをゆっくり味わう時間は十分にあった。ひと口めをもっと味わってもよかったな。
「自分のことはお気づかいなく、よろしくお願いします」
 力を込めてもう一度頷くと、龍狩さんは「よかった」と気を取り直した笑みを見せる。
「できれば、今日中にかたをつけたいんですよ。何も出なければ警察にお任せできたんですけど、はっきり見えちゃいましたから」
 ははは。
「仕事が溜まってますもんね」
 この人の入院中も通報は絶え間なく寄せられていた。そのなかには、当然、なんか変な事案もあるはずだ。早く片づけるに越したことはない。
 と、思ったのだが、龍狩さんの意図は別のところにあるようだった。
「それもあるんですけど」
 そっくり返った海苔を貼り直しながら、言う。
「仮に逸軌さんの睨むとおりなら——つまり旦那さんを恨んでいるおばけなら、害獣としてさっさと潰さないと危ないですから」
 ぱん、と。
 頭の中で、奥さんが爆ぜた。柏手の音とともに。
「——」
 それはとても、嫌な想像だった。
 そして同時に、当然の話だった。
 害獣は潰す、現象は消す。恨みがあるなら——攻撃するつもりで出てきているなら、害獣になるだろう。言葉にされた途端、漠然と抱いていた気の重さが、現実味を持ってのしかかってきた。
 黙り込んだ俺を見て、龍狩さんが、あ、という顔をする。すまなそうに眉を下げる。
「——」
「大丈夫です」
 先んじて口を開いた。謝られるのだけは、嫌だった。龍狩さんを責める理由など、どこにもない。真面目に仕事をしているだけだ。つらければこなくていい、とまで、言ってくれた。
「……なら、よかったです」
 責めるとすれば、想像力と覚悟が足りなかった、俺自身だ。
 ——関係者が感情的になるでしょう。故人が絡むと。
 あれはひょっとしたら、俺のことも頭にあったのかもしれない。舌の奥が苦くなる。
「……ただ、例えばなんですが」
 それでも俺には、まだ割り切れそうになかった。苦し紛れに口を開く。
「もし、奥さんが旦那さんを攻撃しようとしている、害獣、だったとして」
 考え考え、言葉を吐き出す。まるで時間稼ぎだ。手許を見つめる視界のすみで、暗い眼が光を返した。待ってくれている。
 写真のなかの無邪気な笑顔が、頭をよぎる。
「……自分が説得できたら……つまり攻撃の意志を治めてもらえたら、現象として、消す、というわけにはいきませんか?」
 現実にそんなことが可能なのかどうかは頭になかった。過去の事案にもそんな話はなかった。ほとんど思いつきのようなわがままだ。それでも、彼女をあの生臭い液体にしてしまうのは、忍びなかった。「消す」ところを見たことがないから何ともいえないが、少なくとも、あれよりはましだと思いたい。
 味方できないならせめて、少しでもましな結末にしたい。
「構いませんよ」
 反対されるかと思ったのに、龍狩さんはあっさりと頷いた。
「いいんですか……?」
「納得できるのが一番ですから」
 頭上の電灯の光を、茂った木々が遮る。斜め前、視界の端で、つま先が暗闇を蹴った。革靴の先が光の下にはみ出す。砂に丸っこい影が落ちた。
「ただ、おばけとは会話にならないことが多いので、そのときは……」
「諦めます」
 きっぱりと応じた。暗い眼が夜の底を映す。
「す……」
「ありがとうございます。わがままを聞いてくださって」
 謝られそうなので、遮った。黒い瞳が俺を映す。眼差しは俺を案ずるように顔を撫でてくる。思わず苦笑してしまう。突き放したり現実を突きつけたりしてくるくせに、気づかわれたくないときに限って寄り添おうとしてくる。
 これ以上甘やかさせないよう、表情を引き締めて話を続けた。
「しかし、おばけが奥さんの怨念だと仮定すると、怨敵の晩飯の準備、しますかね」
 話題を変えるつもりで口にしたが、実際しっくりこない。生前の習慣だから、といわれればそうなのかもしれないが。龍狩さんも心配を引っ込めて首を捻った。
「確かに、変な感じですね」
 自分の推理に疑義を呈されたというのに反応はあっさりしたものだ。ひょいと最後のひと口を放り込む。買うのを躊躇った割に、ありがたみの薄い食べっぷりだった。
「龍狩さんは、どう見てるんですか? 奥さんのおばけが出ている理由」
 怨念以外に、化けて出る理由があるのだろうか。
 殺された恨みを除いてしまうと、死んでもあんなにくっきり残るほどの思いなど、俺にとっては想像の外だ。
 龍狩さんは片手で、鞄にごみを押し込む。
「会ってみないことには、なんとも」
 答えているようで答えていない。すっかりおなじみとなった反応だ。自分の読みに対する執着がない。外れても否定されても構わないと言わんばかりだ。そして次の読みには広げない。常に投げっぱなしだ。
「……この仕事、あんまり、推測とか推理をしないほうがいいんでしょうか」
 ここまでくると、糠に釘を打ち続けている俺が悪い可能性が浮上してくる。
「や、そんなことはないですよ。すみません」
 しかし龍狩さんは首を横に振った。きまり悪げに首をすくめる。
「私の個人的なもんで、見て聞いてわかる以上のことは、あんまり考えないようにしてるんです」
「……理由を聞いても?」
 あまり前向きな理由ではないだろうな、と思いつつ、尋ねてみる。返ってきた苦笑が予想を補強した。
「いろいろ考えても、結局よくわからないままのことが、けっこうあるので」
 やはり、あまり救いのない理由だった。調査のため、というより、精神衛生を保つための方針のようだ。懸命に考えた結果、謎が投げっぱなしのまま終わる徒労感は苦しいだろう。かといって、自分が同じように構えられるようになるかというと、疑問だった。
「でも、そうだなあ。試しに奥さんのことを推測してみるとするなら……」
 俺が深刻な顔でもしたのだろうか、龍狩さんは気を取り直すように腕を組んだ。黒い瞳が宙を彷徨う。龍狩さんなりの気づかいを感じる。
「するなら?」
 素直に受け取る。身を乗り出して耳を傾けた。
「怨念かって言われると、そんな感じはしませんね」
「何か、見えたり感じたりしたとか?」
「いや、写真、仲良さそうだったので」
「………」
 判断基準が平和すぎる。
 笑っていいものか、生ぬるく口をゆるめる俺をよそに、痩せた手がズボンで海苔を払った。ポケットから端末を抜いて、ほら、と画面を見せてくる。
「奥さんは旦那さんのこと、大好きだったみたいですし。旦那さんも、奥さんのこと、大好きそうでしたし」
 例の写真だ。確かに、この幸せいっぱいの笑顔が、怨念に転じるとは信じがたい。怨念ではない——つまり害獣ではなく現象であるなら、それに越したことはない。
「……心霊ちょっといい話、的な感じだと?」
「めちゃくちゃネット怪談読んでますね」
 ははは。
 ゆるい笑い声をよそに思考を巡らせる。
 自分で言っておいてなんだが、感動話にするには通報者の反応がひっかかった。何の蟠りもないのに「大好き」な人が帰ってきたのを見て、警察に通報するだろうか。通報するようなことを、帰ってきた人からされるだろうか。
 写真のなかの、通報者の顔を見る。龍狩さんが「大好きそう」と評した顔。その印象は、奥さんの幽霊が出ていることが確定したせいで変わってしまっていた。照れ笑いが、ぎこちなく含みを持っているように見える。何か、他意があるように。
「……このあとふたりの間に何があったか、わからないですよ」
「なるほど。それで、愛しさ余って憎さ百倍に」
 案の定、まるで手応えのない返事だった。ふっと画面が暗くなり、不満げな俺の顔が映る。その肩越し。
 後ろのベンチに、誰かいる。
「——っ!」
 全身に鳥肌が立った。
 弾かれたように振り向くと、ベンチには小柄な女性が座っていた。気配も音もなく現れた空色のワンピース。疲れたように肩を落としてうつむいた頬に、長い髪がかかった。すだれのような黒髪の狭間に仄暗い瞳が覗く。硝子玉のような眼球が、頭上から注ぐ冷たい光を鈍く拾った。間違いない。
 反射的に立ち上がった拍子に、おにぎりの器が膝から転げていった。
「奥さん——っ!」
 いない。
 瞬きの一瞬で、消えてしまった。
「………」
 それでも、萎れた花のようにベンチに身を預ける姿はまぶたの裏に残っていた。寂しげな横顔も、伏せられたまつげの奥に見えた暗い瞳も。
「……すみません、龍狩さん」
 何のためにおにぎりを選んだのか。
「やっぱり自分は奥さんを探します」
 歩きながら食えるからだ。
 たとえ追いつけなくても見つけられなくても、奥さんの足跡を自分の足で辿ってみれば、見えるものがあるかもしれない。今の俺なら、夕方より少しはましな眼で調査ができるだろう。
 拳を固めて振り向く。
「自分のわがままですので龍狩さんは……」
 ゆっくりどうぞ、と、最後まで言えなかった。振り返った先には龍狩さんがしゃがみ込んでいた。じっと何かに耐えている。その左手には、俺の落としたおにぎりがあった。行儀よく、プラの容器に収まっている。包帯が白々と光る。
「だ、大丈夫ですか! すみません、手……おにぎり……!」
 謝罪と感謝と心配がごっちゃになって口から出た。
「落ち着いて。とりあえず、どうぞ。死守しました」
 神妙に、食いかけのおにぎりを差し出してくる。塩たんにぎりは崩れていっそう弁当じみた様相を呈しているが、砂粒ひとつついていない。
「ありがとうございます……」
 つられて、受け取る手つきが恭しくなってしまった。
 地面を見ても、具や米は落ちていない。日中の龍狩さんからは想像できない運動能力だ。驚きに決意が上書きされてしまった。促されるまま、ベンチに戻る。
 龍狩さんは左手をさすりつつ、隣のベンチに視線を投げた。もう、誰もいない。
「今ので、ふんわりはっきりしたんですが」
 どっちだ。
「たぶん、探しても追いかけても、無駄です」
「……どういうことですか?」
 答えを急がない男の断言だ。自然と前のめりになる。龍狩さんはのんびりした姿勢を崩さない。
「奥さん、他人には用がなさそうなんですよ。見かけてもすぐ消えちゃうし、目撃情報も一瞬だったでしょう」
「それは……」
 スーパーでの一件が頭に浮かんだ。奥さんの近くにいた女性は、存在に気づいてすぐ、見失っていた。話を聞かせてくれた大学生も、自分の体験なのに半信半疑といった様子だった。たった今だって、声をかけたにもかかわらず消えてしまった。どれを取っても「気のせい」で処理してしまえそうなほど、怪談として語るには味気ないほどあっけない一瞬の出来事だった。
「……たしかに、そうですね」
「でしょう。だから、探し回っても、それでどうにか見つけても、またするっと消えちゃうんじゃないかな」
「……説得は無理だと……?」
「というわけでもなくて……」
 決意を挫かれたのかと思ったが、ちがうらしい。小さな頭を傾げて視線を足許にさまよわせる。
「なんというか……今まで見かけたところって、寄り道とか通過地点とか、そんな感じですよね。だから逆に、出るところにはちゃんと出てるんじゃないかな、と」
「出るところって……」
 思いつきを語るような口ぶりだったが、この人が「かな」と言うのは根拠があるときだと、これまでのやり取りでいい加減察していた。龍狩さんが何に眼を留めたのか、記憶を探る。答えはすぐに見つかった。
「——……あ」
 ひとりだけ、激しい反応を見せた人間がいる。
 俺の声を受けて、暗い眼がこちらを向いた。鋭い輪郭が、少したわむ。笑う。
「自宅は寄り道でも通過地点でもないですよね」
 通報者の異様な振る舞いが思い出された。細かな仕草のひとつひとつ、そして何より。
 ——見るわけないでしょう。
 あの激しい怒り。強烈な否定はかえって「何かを見た」と言っているようなものだった。本人の言うような「いたずらする誰か」ではなく、本人が「見た」と認めたくないような、認められないような何かを。
「だから探し回るより、奥さんが帰宅されたところを待ち伏せるのが一番確実だと思うんです」
 どうでしょう。
「………なるほど」
 改めて、この男は俺よりよほどちゃんと調査していたのだと実感した。龍狩さんが優秀なのか、俺が無能なのか。どちらもかもしれない。
「となると、待ち伏せてそのまま説得……ですか……」
 こちらのことを無視してくる幽霊相手に、ぶっつけ本番で。
 奥さんのことも旦那さんのこともよく見ていた龍狩さんですら対話に対して消極的だ。俺で太刀打ちできるのか。
 早くも弱気になる俺に対して、先輩はからっと笑った。
「話しにならないことが多いって言ったでしょう」
 ははは。
 励ましはしない代わりに「諦めろ」とも言わなかった。包帯にくるまれた左手を何度かさすって、お茶を手に取る。横眼に俺を見る。
「まあ、定番怪談にしろほっこり怪談にしろ、焦っても仕方ないですよ。ゆっくり食べて、ゆっくり待ちましょう」
 張込みは慣れてるんでしょう?
「……はい」
 ぐうの音も出なかった。