この世でいちばん暗い場所

 通報者の家には、一八時ごろ訪ねてみることになった。通報者が勤め人だということと、「幽霊」の目撃情報が一九時前から二〇時過ぎに集中していることを考慮した結果だ。
 訪問先は市内では比較的高級な住宅街で、龍狩さんによると署からは歩いて三十分かからないくらいの距離にあるようだ。車を使っていい距離だと思うが、相棒が路駐を断固拒否したため、徒歩で向かうことになった。俺は構わないが、この人は大丈夫だろうか。
 と思っていたら、出発前、熱中症対策物資が机に並んだ。龍狩さんが自ら用意したものだ。初日の「茶は自分で用意する」宣言を実行に移したのだろうか。それとも、俺に世話を焼かれたのがやっぱり嫌だったのか。自身の鞄に詰めようとするのを、片っ端から横取りした。
「体力は温存してください。荷物持ちは自分がしますから」
「申し訳ないですよ」
「この程度の荷物、自分には大したことありません。それに、いざというとき龍狩さんが動けないんじゃ、どうしようもないでしょう」
 どことなく嫌そうな遠慮の言葉を全力で打ち返して、事務室をあとにした。
 署は市内でもそこそこ栄えたところにある。さらに栄えた中心街を挟んで反対側に、今日の目的地はあった。足を進めるほどに、人の姿は増えていく。そうでなくとも夏休みの街には人が多い。薄着ではしゃぐ子ども、道に広がる若者たち、日傘を差した婦人の団体をかわして、歩く。狭い歩道で、他人の体温と、未だ引かない昼間の熱気が混ざり合った。
 夏の一日は長い。
 行き交う人たちは、皆次の場所を目指しているように見えた。ときどき甲高い笑い声が上がる。男女の区別は曖昧だ。街路樹に潜んでいる蝉の声と、ぶつかり合う。隣を歩く男の頭が揺れる。汗が顎を伝う。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
 交わす言葉は短い。耳に差し込まれる他人の話し声と同じくらいに。行き交う車の駆動音と、絶え間ない蝉の音と、無数の靴音と。暮らしの音の混ざったなかから、ときどき、会話の切り抜きが浮き上がって聞こえた。意味をなさない台詞の断片が、ぶつかって消えていく。入れ替わり、立ち替わり。
 ——やっぱそいつやば——
 ——うすぐだから、が——
 ——めんなさい、もう——
 ——いしかったねーか——
 ——おまえー、ころす——
 発した人間の来し方行末を想像するには、短すぎる。生きた人間の言葉かどうかを判断するにも、足りない。
「………」
 どちらからともなく、歩調が速まった。
 ほどなくして住宅街に入ると、人の影はふつりと途絶えた。文字どおり、閑静な住宅街だ。現代的な作りの一戸建てが整然と並んでいる。視線を上げると、空を切り取る屋根の谷間にマンションがひょこひょこと頭を覗かせていた。建物の影が縞状に落ちて、道はところどころ沈んで見える。暗く、うっすらと赤い。暑さも相まって、熾火のようだった。
「静かですね」
 自然と声を低める。
「この辺、大抵の人は自分の家以外に用はないでしょうから。特にこの時期は、出かけるとき、歩かずに車を使うでしょうしね」
 応じる声も静かだ。左手が項垂れた顎先を拭った。包帯が汗を吸う。薄っすらと血が滲んでいるのを見て文句を言いたくなるが、飲み込んだ。言っても通じないなら、疲れさせないほうがいい。ただ、頷いておいた。
 通報者の住まいは、おしゃれな一軒家だった。高い塀から覗く二階建ての家は、真新しく、すっきりとした佇まいだ。道路に面した車庫には黒いSUVが停まっていた。艶やかな塗装が、迫る夕闇の中にも眩しい。
 インターホンを押す。沈黙。顔を見合わせて、もう一度押した。今度はつながった。ただ、スピーカーから聞こえてくるのは微かな雑音のみだ。さーっという遠くの雨音に似たノイズが、先方の警戒を伝えてくるようだった。
 龍狩さんが、ボタンのそばにあるカメラに穏やかな笑みを向ける。先ほどまで滲んでいた疲弊感はきれいに拭われていた。
「お忙しい時間に失礼いたします。通報いただいている件で伺いました。警察と、市役所の者です」
 揃って身分証をレンズの前に掲げる。試すような沈黙の後、ようやく、人の呼吸がスピーカーから聞こえた。
「あぁ……どうぞ。今開けます」
 ホワイトノイズが途絶え、門の向こうから、錠を上げる硬い音が響いた。
 出迎えてくれたのは、やり手の会社員風の男性だった。俺と同年代だろう。帰宅後、着替えていないようで、立派な体躯を手入れの行き届いたスーツで包んでいた。ただ、積もった疲労が全身から滲み出し、漂っている。しばしば龍狩さんが纏うものとは、種類が違う。幾重にも暗く重なって、当人の輪郭を霞ませていた。整った顔に収まっている眼が、鈍く光る。
 改めて名札と手帳を見せると、市役所の人間がいることに少し怪訝そうな顔をした。
「この辺りは裏道が多いので、案内役として協力しております」
 雑な説明だ。しかし、堂々と言ったせいか納得してくれた。深く考える余裕がない可能性もある。役所の人間が包帯だらけなことへのつっこみも、ない。そのまま家のなかへ案内された。
 大きな花壇、庭木の緑が鮮やかな庭、明るい玄関、二階への階段がある廊下は解放的で、最後に通された部屋も、たいそうおしゃれだ。アイランドキッチン、というやつだろうか。広い部屋の中に、台所と食卓と居間がある。俺にはよくわからないが、動画の広告で見た気がする。
 若いふたりの理想を、家の形にしたもの、という印象だった。
 その眩さが、そこここに落ちる影をこちらの意識にくっきりと焼きつけてくる。
 埃を被ったパンプス、布のかけられた姿見、伏せられた無数の写真立て、椅子の背に積み重なったシャツの山、ちらほら飾られている花は、全て枯れていた。
 通報者は伏目がちに笑う。
「散らかっていて、お恥ずかしい……妻に、頼りきりだったもので……」
 ダイニングの椅子をすすめられるかと思ったが、示されたのは居間のソファだった。向いにはテレビがある。そこにも布がかかっていた。クッションらしきものはない。俺たちがソファに座れば、通報者は必然的に床に座ることになる。ラグが敷かれているとはいえ、いかがなものか。迷っていると、龍狩さんはごく自然にソファの前の床に腰を下ろした。倣って隣に座る。
 通報者はテレビを背にして座った。俺たちと向かい合う。ひととき、力が抜けたような、呆けたような様子でローテーブルに視線を投げた。不自然に安っぽいテーブルクロスが掛かっている。しかし、すぐに我に返って腰を浮かせた。
「ああ、すみません。今、お茶を」
「いえ、お構いなく」
 さすがに遠慮した。
「しかし……」
「公務員ですから、お気持ちだけで」
 龍狩さんの台詞で納得してくれたようだ。どこか安心したように、座り直す。
 話す準備は整ったものの、切り込み方に迷った。警察に通報があったわけだから、事件捜査と同じ手順でいいのだろうか。しかし、奥さんが亡くなったのは二ヶ月前だ。やや間が空いている。お悔やみの言葉を伝えるべきか。それとも、世間話から始めるべきか。
「お疲れのところ、申し訳ありません。あまりお時間は、取らせませんので」
 龍狩さんは気づかいから入った。通報者にはかえって苦しかったようだ。笑おうとした頬が引きつっている。
「いえ、大丈夫ですよ……ははは……以前はよく、残業していましたから……一〇時でも、零時でも、平気で……」
 張ろうとした胸が、揺らいで丸まる。萎れた首から肩にかけて、重たい影が差した。龍狩さんは言葉を重ねず、ただ頷く。否定も肯定もしない。励ましも慰めもせず、ただ、受け取った。次の言葉を相手に預ける。
 通報者は俺と龍狩さんを順番に見た。龍狩さんは微笑む。倣って、俺も口角を上げる。どうぞ、と。
 通報者は、誘われるように口を開いた。
「……さっそく、なのですが……」
 話はこうだった。
 奥さんが亡くなってからひと月もしないうちから、近所で妙な噂が囁かれはじめたのだという。
 奥さんの幽霊が出る、と。
 よく行っていたスーパー、花屋、ケーキ屋、そして、住まいのある住宅街のあちこちで、人々は奥さんを見たという。
 最初のうちは、さすがに遺族へ直接言ってくる者はいなかった。しかし、少しずつ通報者の耳に入るようになり、ふた月も経つころには遠慮のない——いってしまえば、無神経な人々が、直接助言めいたものをしてくるようにまでなった。お祓いをしたらどうか、供養は丁寧にしたのか。
「気が、滅入ってしまって……嫌がらせだとしても、心当たりがありませんし……心ない人の、いたずらではないかと……警察に、相談したんです」
 溜め込んでいたのだろう。通報者は一気に吐き出した。相槌を挟む余地はなかった。吐き出された蟠りを追って、深いため息が零れる。
「おつらいですね」
 落ちそうになった重い沈黙を、柔らかい声がすくい上げた。通報者の呼吸が震える。喉仏が上下した。応じようとした声が形にならないようで、飲み込んでいる。何度も、何度も。
 あまり、細かく話を聞ける状態ではなさそうだった。龍狩さんの言葉どおり、「時間は取らせない」ほうがいい。
 切り込む。
「……奥さまの写真をお借りできませんか? できれば、なるべく最近の、よく着ていた服装のものですとありがたいのですが」
「……なぜですか?」
 警戒されている。なるべく真摯な顔を作ってみせる。仕事柄、そういうことには慣れていた。
「自分が犯人なら、そういった格好に寄せますので。生前の、あなたが一番見慣れている姿に」
 嘘はついていない。ただ、本当におばけだったとき、顔がわからないのは不便だ。何か見ても、それが奥さんなのか、わからないのでは。
「そういうことでしたら——……」
 通報者は端末を出そうとして、動きを止めた。視線を彷徨わせる。端末がポケットから覗いている。黒い画面が、照明の光を返した。
「………」
 端末をポケットにしまい直し、立ち上がる。そして、ソファのそばの棚から、伏せられていた写真立てを取り上げ、戻ってきた。
「こちらで、どうでしょうか」
 通報者は、写真を見ない。視線はテーブルに注がれている。痩せた手が写真立てを受け取った。両手で、やわらかく。
「……すてきなお写真ですね」
 龍狩さんがしんみりと答える。情緒的な対応は任せて、観察した。
 ふたりで写っている写真だった。庭先で撮ったものらしい。足許に並べた旅行鞄に囲まれて、身を寄せ合っている。奥さんは通報者の腕を取り、自らの身体に巻きつけるようにしていた。笑っている。無邪気に顔中で笑う女性と、控えめな照れ笑いをもらす男性と。
「ワンピース、よくお似合いですね」
「っ……そう、なんですよ。私が似合うと言ったら、よく、着てくれるようになって……夏物なので、これを撮ったころは、寒いだろうって、言ったんですけど……」
 淡い、空色のワンピースだ。確かによく似合っている。
「くっついていれば、平気ですから」
「ははは……そう、そう言って、いました……」
 故人を偲ぶ会話が交わされる横で、俺は違和感を覚えていた。なぜ、奥さん一人で写っている写真を出さなかったのか。服装の見づらい、仲の良さばかり前に出た写真を出したのか。
 横目に龍狩さんを窺う。気づかわしげな眼差しを写真に、通報者に向けていた。何かを疑う様子はない。それが「ふり」かどうかは、俺にはわからなかった。
 通報者は目頭を押さえ、滲んだものを拭う素振りを見せる。
「これで、よろしいでしょうか」
 再び覗いた眼は、赤い。もとから赤かったのか、どうだったか。
「大丈夫ですよね?」
 龍狩さんに問いを重ねられて、我に返った。
「ああ、はい」
 写真を要求したのは俺なのに、気のない反応をしてしまった。幸い、通報者に気にした様子はない。おそらく、そんな余裕がないのだろう。龍狩さんはズボンのポケットから端末を取り出した。
「撮らせていただいてもよろしいでしょうか。お借りして、汚してしまったら大変なので」
「ああ。どうぞ。お気づかい、ありがとうございます……」
 写真立てをテーブルに据え、二人揃って端末で撮影した。画面に表示される、写真の写真を見つめる。白いフレームに囲われた、明るい光のなかの、若い夫婦を。
 端末をしまって、部屋に眼を向ける。白々と明るい。すべての電球に明かりが灯っている。扉のすり硝子越しに見える廊下まで、電気がついているようだ。
 それでも感じる、このほの暗さは何なのだろう。
 通報者の疲弊感か、不幸のあったせいなのか、電球のワット数か。薄墨を刷いたように、部屋の空気はくすんでいた。
「犯人に、お心当たりはないということでしたが……」
 暗い瞳が、キッチンを一瞥した。カウンターの向こう、煌々と灯りがついている。がらんとして、誰もいない。
「お家のなかで、たとえばお庭とかで、何か見かけたことはありませんか?」
「見るわけがないでしょう」
 鋭い声だった。湿度を含んでいた空気が、ひとときに凍りつく。
 突然の変化に、さすがの龍狩さんも息をのんだ。
「——ぁ」
「何を疑っているのかは知りませんが、家のなかで何かあれば、最初から言っていますよ」
 通報者の全身が拒絶を示していた。盛り上がった肩や、剥き出した歯や、見開いた眼が。
「お気を悪くさせてしまって……」
「そろそろ、いいでしょう。疲れてるんです」
 弁解が宙に浮く。こちらを睨みつける眼の奥で、激情がぎらついた。
「私には何もわからない。早く、狂ったやつを捕まえてくださいよ」
 結局、名刺だけ置いて、辞した。

 ◯

 門扉は耳に痛いほどの音とともに閉じられた。相棒は小さく飛び上がり、俺は首をすくめる。通りの様子は尋ねてきたときと変わらず、静まり返っている。日が傾いて、東の空が薄っすらと藤色に染まっていた。
「いやあ、失敗しました。無神経でしたね」
 ははは。
 龍狩さんはへらへらと笑った。気にしていないふうを装っていたが、薄い肩はこわばっている。おばけは怖くないくせに、手のひらに穴が開いても平然としているくせに、怒った人間は怖いらしい。意外に思いながら、インターホンを見た。耳を澄ませる。つながってない。通報者には聞かれていない。確認してから、口を開く。
「……自分は、そうは思いません。いたずらを疑うなら、別に、妙な質問ではなかったですよ」
 むしろ、と、背後の家を振り返る。どの窓からも光が漏れている。二階では、夕焼けにカーテンが赤く染まっていた。元の色はわからない。
「自分には、何かを隠している証拠に見えましたね」
 あの、突然の怒りを思い返す。過去に見たことのある光景だった。警察にいるとき、何度も見た。
「取調室でよく見ましたよ。疑われたわけでもないのに、疑うなと怒りだす人」
「まだ、疑ってるんですか?」
 怪談の、定番展開。
 龍狩さんが横目に聞いてくる。まだ、ということは、相棒は疑っていないようだ。俺に倣うように半身に家を振り返った。白い壁が西陽を反射する。鋭い眼を細める。ふらふらと頭を振る。暢気な立ち姿だ。俺が考えすぎなのではないかという気がしてきてしまう。
 しかし。
「不自然だったでしょう、どう見ても」
 どことなく異様な室内の様子も、通報者の振る舞いも。なにより。
「わざわざ仲の良さそうな写真を出すわ、奥さんの写真を見ないようにするわ。後ろめたさが丸出しでしたよ」
 殺した、とまではまだ言わないが、あの通報者の不可思議な言動を見ると、何か不都合なことを隠しているとしか思えない。何か、奥さんを傷つけるようなことをしたのではないかと。
「奥さんが化けて出ているにしても、誰かの悪意あるいたずらにしても、原因に心当たりがあるのは間違いないように思えますね」
 あの通報者は、何かを隠している。
 ひととおり自分の読みを語って、視線を龍狩さんに投げる。そっちはどう思う、と。相棒は正しく受け取ってくれたようで、軽く頷いた。
「まあ、なんか事情がありそうだな、とは思いましたけど」
 かき、こき。
 頷くついでに、眼を閉じて首を回した。俺の熱意などどこ吹く風だ。つられて力が抜けてしまう。首が一周し、閉じられていた眼が開いた。俺を見る。笑う。
「差し当たり、旦那さんは本当に怖がっていて、近所の人が本当に何かを見ていそうなのはわかりましたから」
 調査の理由には、十分かなと。
「……はい」
 勇み足になりがちな俺とは、対極にいる。バランスとしては、ちょうどいいのかもしれない、ということにしておく。
 急がない男と、通報者の家に背を向けた。
 目撃情報のあったところを回ることにする。ひとまず、この住宅街からだ。あちこちで奥さんらしき姿が目撃されているという。どこを目指すというあてはない。とにかく、歩く。
 日没はまだだったが、建物の密集した住宅地はすでに薄暗い。庭木は光合成をやめて、音もなく呼吸していた。呼気は熱を吸ったアスファルトに炙られて、汗をかいた顔を撫でる。風のない通りは、ゆっくりと淀みはじめていた。
「おばけって、どう探したらいいんですか?」
 職業柄、どうにも人の隠れられそうな場所に視線が向いてしまう。教えを請うと、先輩は少し考える素振りを見せた。口が薄く開く。なかなか喋らない。
「…………私はおばけ、逸軌さんはいたずらの犯人を探す、ということで」
 説明できないのか、面倒だったのか。はたまた、警察と組む理由がそこにあるのか。いずれにせよ、了解した。おばけ探しのコツは場数を踏んで覚えることにする。会話はそこで途切れた。
 そろそろ食事の準備が始まるころだろうに、家々は静まり返っている。厚い壁が、生活の気配を霞ませる。人声に似た音がするのは、気のせいだろうか。それとも絞られたテレビの音だろうか。見えないところで、ひそひそと語らっている。耳を澄ますと遠ざかる。途切れずに、ひたりと後ろをついてくる。
「……幽霊、って、どんなものなんですか?」
 思わず口を開いた。やはり声がよく響く。自分の声が、まとわりつく密談を追い払う。近所を気にして黙っていたが、そうもいっていられなかった。あらゆる音が、耳許で聞こえるようだ。
「怪談話に出てくるの、そのままなんでしょうか」
 言葉を続けて、ちょうどいい大きさを探る。絞っても、響く。
 龍狩さんは囁くように応じた。
「こんなこと言うとあれですけど、私はあんまり、死んだ人間が化けて出るとは思いたくないんですよ」
 鋭角な横顔は、何気ない様子で周囲を観察している。俺も視線をうろつかせる。四辻、軒先、電柱の影。薄闇が溜まったところを、ひとつひとつ確認する。何もいないということを、確認する。眠る前、寝台の下を覗き込んだように。
 内緒話の音量で、問いを重ねた。
「全然関係ないおばけが、亡くなった人の姿を取る、ってことですか?」
「……というのとも、ちょっとちがっていて……」
 龍狩さんが言い淀む。説明を考えている。前任者には、どう伝えていたのだろう。会話の隙間に、見えない何かの声が挟まる。追い払おうと口を開く。
「——……」
 ふと、視線が通りの先に留まった。
 ここから真っ直ぐいった、丁字路。遠く、電柱の下に、人が立っている。切絵を貼ったように黒い。か細く、寂しげな立ち姿だった。
「心残り、って、いうでしょう」
 密やかな声が言った。俺は影から眼が離せない。
 こちらに横顔が向いている。道の向こうから来るはずの、誰かを待っている。
「死にたくなかった、とか、死んでしまって悲しい、とか」
 影は所在なげに揺れる。時折うつむく。近づくほどに輪郭だけが際立つ。顔が見えない。揺れる。身じろぐ。伸び上がる。
「死なせたものを許さない、とか」
「っ——……」
 影に、小さな塊が飛びついた。背中で跳ねたのはリュックサックだろう。手を取り合って歩き出す。
 肩の力が抜けた。緊張していたことに、気づいた。
「そういう気持ちが残って、遺された人たちの気持ちと混ざって、まとまって、幽霊と呼ばれる、ということにしています」
 まあ、わかりませんけどね。
 声の温度が先ほどとちがう。少し笑っていた。怖がっていたことが、ばれている。
「……残留思念、ってやつですか」
 ごまかすように、ネット知識を披露する。小さな吐息。笑われた。
「かっこいいですね、それ。今度からそう言います」
 誰に言うつもりだ。
 悔し紛れに横目に睨むと、そこには誰もいなかった。
「——」
「逸軌さん?」
 弾かれたように、声を辿った。龍狩さんは俺の後ろにいた。ゆるく首を傾ける。
「隣に誰か、いたんですか?」
 視線を再び隣へ、そして道の先へ向ける。
 曲がり角、ブロック塀の向こうへ、スカートの裾が消えていくのが、確かに見えた。
 水色。
 咄嗟に走り出す。
「あ、ちょっと」
 龍狩さんが追いかけてくるのが、音でわかった。そのまま、全力で走る。角を曲がる。
「わっ!」
「わあ!」
 声がふたつ、重なった。
 角の先には、女性がひとり立っていた。黒いTシャツに黒いスキニー。驚いた顔は、まだあどけない。大学生くらいに見えた。
 間違いなく、奥さんではない。
「………」
 彼女の向こうに人影はない。ただ薄暗い道が続いている。気のせいだったのか。
「……あの……?」
 女性が訝しげに声をかけてきた。身構えている。怯えている。無理もない。突然でかい男が飛び出してきて無言で遠くを眺めだしたら、当然怖い。おばけよりも現実的な危機で、それが今の俺だ。
 まずすぎる。
「あ、ええと……」
 咄嗟に言い訳が出てこない。顔が引きつる。女性がそっと後退る。そこへ、柔らかい声が割って入った。
「うわあ……っす、みません……びっくり、させちゃって。大丈夫……ですか?」
 龍狩さんがひょいと俺の隣に並ぶ。息が弾んでいた。膝に手をつく。肩を上下させる。ぽたぽたと、汗がアスファルトに落ちた。
 あの距離で、これか。
 助かったと思うよりも先に、驚いた。女性も、続け様に登場人物が増えて、眼を白黒させている。怯えも霧散してしまったようだった。龍狩さんはふらつく腕で名札を掲げる。
「わたくし、役所の、者です……こっちは、警察の人。ほら……身分証……見せて、見せて」
「あ、はい。……驚かせて申し訳ありません」
「いえ……大丈夫です……というか、大丈夫ですか?」
 女性が、座り込みそうな龍狩さんに手を差し伸べる。顔には心配がありありと浮かんでいた。俺のほうが心配になるほど、優しい子だ。
 龍狩さんはふらふらと手を振って、問題ない意を示した。掲げられた手首には芯がない。折れた上体をゆっくりと起こす。ひっくり返るんじゃないか。半歩下がって身構える。受け止める準備をする。龍狩さん越しに女性と眼が合った。彼女もまた、支える準備をしていた。笑みを交わす。俺は苦笑、先方は照れ笑い。龍狩さんは、気づかない。
「この辺、おばけが出るって、何度も、通報がありまして。出たかと思って追いかけてきたんですけど……見ませんでした?」
 痩身は危うくもまっすぐ立った。弱った顔をして見せる。復活は早いようで、だいぶ息は落ち着いていた。女性は心配そうだった顔に、可笑しげな笑みを乗せる。
「お兄さんのほうが、おばけみたいですけど。なんて、すみません」
「ああ、これ。ははは、あちこちで、おばけと戦っているものですから」
 包帯にくるまれた腕をさする。ない力こぶを、作って見せる。率直に弱そうだ。女性は軽やかな笑い声を上げた。
「何ですかそれ。あはは」
 嘘ではないのに、冗談だった。発した龍狩さんにとっても、受け取った彼女にとっても。どんな傷があるのかは、外から見えない。
 しかし女性はふと笑みを消した。瞳の奥に、興味と遠慮が覗く。
「……おばけって、もしかして、そこの家の奥さんですか? 最近、噂になってますよね」
 具体的な話をする前に、話が通じてしまった。思わず龍狩さんと顔を見合わせる。女性に向き直った。つい、前のめりになる。
「もしかして、見ましたか?」
 声だけは何とか低く抑えた。意図せず芝居がかった振る舞いになる。
 笑われてしまうだろうか。
「………」
 女性は笑わなかった。口許に手を当て、少しうつむく。長いまつげを伏せて、視線を巡らせた。記憶を手繰ってくれている。
 大きな瞳が、ちら、と周囲を確認した。誰もいない。おばけも、近隣住民も。聞いているものはいない。
「……私は、一回だけ」
 こっそりと、笑えないいたずらを告白するようだった。
「見たっていうより、誰かに追い抜かれたな、って思ったのに、誰もいなかった、みたいな感じですけど。この辺に住んでる友だちは、カーブミラーに映ってるのを何度か見たって言ってました」
 曲がり角の多い土地だ。あちこちにカーブミラーがある。
「この辺、意外と車が通るから、歩いてるときも、結構カーブミラー、よく見てて。その友だちも、そうで。あー、向こうの角から、人が来るなあ、とか、あのワンピース流行ってるのかなあ、とかって思ってると、曲がり角ですれ違うはずなのに、消えちゃうんだ、って」
「………」
 これは、どう判断すべきか。
「最近、一緒に歩いてると、急に身構えるときがあって、どうしたのって聞いたら、教えてくれたんです。なんか、生きてる人と見分けがつかないらしくて、それで」
 いつか、行き合っちゃったら、どうなるのかな、って。
「——……」
「想像したら怖くって、だから、カーブミラーに人が映るとどきっとしちゃうんだそうです」
 そう話を締めくくり、細く息をついた。はにかむ。怪談話を真剣にしてしまった気恥ずかしさか、不安をごまかすためか。頬のあたりが少し、ぎこちない。
「なるほど。怖いですね」
 全然怖くなさそうに、龍狩さんが言う。
「そうなんですよ」
 女性が頷く。纏う空気が、冗談みを帯びる。けれど、笑い話にしきれないのか、ふっと首を傾げた。髪が肩にこぼれて、内側だけ染められた色が覗く。
「本当に、おばけなんでしょうか?」
 白い首の向こう、インナーカラーの赤が、夕暮れと混ざり合った。

 ◯

 平日、夜のスーパーは混み合っていた。思わずこぼす。
「これだけ人がいると、幽霊が混じっててもわかりませんね」
 話を聞かせてくれた女性に教えてもらった店舗だ。奥さんは社交的な人だったそうで、大学生の彼女とも幾度か言葉を交わしたことがあったらしい。生前の奥さんと馴染みのある場所をいくつか教えてくれた。花屋、ケーキ屋、公園。
「ついでに晩飯も調達しましょう」
 という龍狩さんの提案に賛成して、まずは行きつけだったというスーパーに来た。時刻は一九時を回っている。すっかり腹が減っていた。
 大学生が、何でもあります、と豪語していた店舗は、広い。そこにぎっしり人と物が詰まっている。向かってくる手押しかごを避けながら、ちらりと近くの惣菜を見た。うまそうだが、少しお高めの値札が貼られていた。客層が比較的裕福だからだろう。とんかつは諦める。そもそも、このあとも歩き回るのだから、片手で食べられるものがいい気がした。
「龍狩さん、何にしますか?」
 自分から買出しを提案した割に、妙に静かになった男を肩越しに振り返る。まさか、何か見たのか。
「なんでもいいです……」
 完全に後悔している顔だった。人の群れに腰が引けている。長身を縮めて俺の影に収まろうとしていた。
 横幅はがりがりなんだから、縮む必要なんかないだろうに。
 苦笑していると、深刻な眼差しとぶつかった。ぎこちなく唇の端が上がる。明らかな愛想笑いだ。
「逸軌さんの行くところで、選びます。都会人の力で、なんとか道を切り開いてください」
 入って一分、既に疲れきっているようだ。早く出たいと顔に書いてあった。ちょっと面白い。
「龍狩さん、地下鉄とか乗れないでしょう」
「乗れますよ。乗らずに済むなら、乗りませんけどね」
「それも『乗れない』のうちでは」
「現実に乗ってはいますから、『乗れる』です」
 言い返してくるあたり、気にしているらしい。
 パーソナルスペースが広いのだろう。よくよく見れば、俺の影に隠れながらも距離はきちんと取っている。近くを人が通るたび、ぶつかりそうになくても避ける。相手に失礼にならないように、という気づかいが透けている。控えめな動作は、長いこと繰り返されてきたものに見えた。
 前任者が、なかなか仲良くなれない、と言っていたのは、これのせいだな。あいつは距離が近いほうだったから。
 気づきを得て、ひとり頷く。すると、どう捉えられたものか、龍狩さんはおもむろに頭を下げてきた。冗談じみた真剣さだ。
「……反論して、申し訳ありませんでした。力を貸してください。よろしくお願いいたします」
 堅い。厳かですらある。思わず吹き出してしまった。龍狩さんは怒らない。俺が動きだすのを待っている。
「じゃあ、とりあえず、パンかおにぎりを探しましょうか」
 内容はさておき、頼られて悪い気はしない。人の波を縫って、歩き出した。背後の気配は黙々とついてくる。つかず離れず、尾行がうまい。「何か」と入れ替わる隙は、なさそうだった。
 店内は冷房が効いていた。冷蔵ショーケースからの冷気と合わさって、寒いくらいだ。奥へ進むごとに、冷えていく。汗ばんだ肌に鳥肌が立つ。腕をさすりながら、思いを馳せた。
 奥さんも、あの薄いワンピースでここを歩いたのか。あの通報者のために。
 おばけになっているとしたら、何をそんなに思い残しているのだろう。
 どんな心残りがあるのだろう。
 旦那さんの通報でここにきている、彼の味方になるためにきているとわかっていても、疑念が頭のなかを渦巻いた。職業病なのかもしれない。通報者の不自然な振る舞いの断片がいくつも通り過ぎていく。
 だらだらと思考を巡らせるうちにおにぎりを見つけて、足を止めた。ポップによると店で握っているらしい。人気のようで、ディスプレイはずいぶん歯抜けになっていた。定番と、変わり種、そしてややお高めのものが残っている。
「いくら……」
 隣からつぶやきが聞こえた。苦悩が滲んでいる。とんかつを諦めた者として、気持ちはわかる。いくらおにぎりについている値札は、他のものより少し高い。
「ここまで苦難を乗り越えてきたんですから、いっちゃいましょうよ」
 無責任に唆した。かくいう俺は、塩たんに釘づけになっている。高い。
「そうですね……今夜は、まだまだ歩きそうですし、力をつけておきたいですよね」
 無責任な唆しが返される。
「………」
「………」
 腕を組んだ。並んだおにぎりから、人々に眼を転じる。一度、塩たんを忘れてみようと試みた。そもそもここへは、奥さんの幽霊を探しにきている。周囲の確認は必要だろう。
 壁沿いのおにぎり売り場から、店舗内を見渡した。棚があるので全貌は確認できない。視界に入る人々に、一人ずつ焦点を絞る。
 子ども連れの親御さんに、弁当の前で肩を並べる作業着の男性たち。
 どの顔を見ても、何を考えているか、どんな暮らしをしているか、本当のところはわからない。
 野菜売り場の前にうつむいて立つ女性、冷凍食品の前で立ち尽くす老人。
 何気ない表情を乗せたあの顔の下に、苦しみや怨みを溜め込んでいる人がいるのかもしれない。幽霊のふりをして、嫌がらせをしてしまうほどの。もしくは、死後にも残ってしまうほどの。
「………」
 塩たんは頭から離れない。おにぎりの売り場に視線を戻す。
「……——」
 何か、違和感があった。振り向いて視線を巡らせる。子どもがはしゃぎ、お母さんがその手を引いた。選んだ弁当を見せ合い、笑う顔。老人は担々麺を手に取った。レタスをじっと見据える女性の横顔。黒い髪が肩を滑り、頬にかかる。影が落ちる。
 隣でキャベツを見ていた女性が、弾かれたように顔を上げた。首を傾げる。またキャベツに眼を戻す。手前を人が通り過ぎる。
「——」
 消えた。
「龍狩さん……」
「見ました。隣の人は見えてなさそうでしたけど」
 あれ、奥さんでしたよね。