この世でいちばん暗い場所

 風景に切り込みを入れたように見えた。
 真夏の濃い光の中、その男だけ一枚奥に沈んでいる。
 男は職員駐車場の隅、生垣とプラのトタンに区切られた喫煙所に一人きりだった。当然だ。署の建物内にだって喫煙スペースはある。それを無視してわざわざ酷暑に炙られたい物好きはそういない。
 うなだれた横顔には影が差していた。その顔に収まった眼は鋭く、頬にかかる髪は細く、痩せた身体はどこもかしこも尖っている。ときおり寄る辺なく揺れる。背の高さも相まって、その立ち姿は笹を連想させた。迂闊に踏み入ると、気づけば切り傷だらけになっている。
 暗い瞳は煙草の先をじっと見守っている。尖った顎から汗が滴った。
「………」
 俺は声を掛けかねて、立ち尽くしていた。互いの距離は目算で五歩ほど。最初のひと言が見つからなくて、最初の一歩が踏み出せない。蝉の音に鼓膜を揺さぶられるまま、突っ立っていた。
 ぐずぐずしている間に、骨ばった手がゆるりと持ち上がり、口許へ吸口を運ぶ。ふう、と煙を空へ吐きかけた折、男は俺に気づいたようだった。あおのいた首を傾げるようにして視線をくれる。
 こちらを向くと、きつい眼の印象が和らいだ。かけている眼鏡の、丸っこいフレームに収まったせいだろうか。問いかけるような眼差しに俺が答えようとしたのとときを同じくして、男の背筋がぴんと伸びた。
「あ、もしかして、今日からの方」
「あ、どうぞ、そのまま」
 慌てた仕草で煙草を灰皿に押しつけようとするのを、こちらも慌てて留める。その勢いに乗って距離を詰めると、男は照れたように笑って、再び煙草に口をつけた。印象が笹から柳になる。別人のようだ。
 男が煙を吐き出すのを待つ間に、発すべき言葉を頭の中に固める。暗い眼が再び俺を映したのを合図に、姿勢を正した。背広の下で汗を吸ったシャツが突っ張る。
「はじめまして。県警本部から出向してきました、緋瓦逸軌巡査長です」
「ひがわらいつきさん。かっこいいお名前ですね」
「ありがとうございます」
 無難な感想に、無難に返した。男の視線が一度細く立ち昇る煙を追い、再び俺に戻る。眼差しには、名前の分だけ、親しみが乗っていた。
「ひがぁら……失礼しました。ひがわら、さん、で、大丈夫ですか?」
 チェーンのピザ屋と同じ発音だった。苦笑する。
「いつき、で結構です」
「なんか、仲良さそうになっちゃいますけど、いいですか?」
「仲良くなれたら嬉しいですね」
「では、逸軌さん」
「はい」
 神妙に応じると、男も神妙に頷いた。そして首から下がった名札を胸の前に掲げる。
「白骨崎(しらほねざき)市役所環境部環境保全課主査の、龍狩征遥です」
「たつがりゆくはるさん」
 資料で読んで知ってはいたが、改めて名乗られると。
「引くほど強そうでしょう」
 男が言った。心を読まれたようだった。おそらく、言われ慣れているのだろう。調子を合わせる。
「向かうところ敵なし、といった感じですね」
「実際のところは、こう、ですけどね」
 笑って、薄い肩をすくめてみせた。男の動きに合わせてガーゼや包帯が白く光る。眩しい。
 男の冗談に乗るのも否定するのも気が引けて、話を逸らした。
「こちらも合わせて、征遥さん、の方がいいでしょうか」
「仲良さそうにね。ははは。強そうな方で呼んでください」
「では龍狩さん」
「はい」
 男は——龍狩さんは、神妙に応じた。視線が重なる。どことなく白々しかった空気が、不意に重みを帯びた。逃げ道を絶つ心地で、頭を下げる。身体にまとわりつくシャツに引っ張られて、皮膚がひりつく。
「本日より、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 今日からこの男と二人で、県警白骨崎署に詰めることになる。

 ◯

 喫煙所から正面玄関を通り、割り当てられた事務室へ向かう。
 道すがら、署の案内は必要かと聞かれたが、断った。出向前に打ち合わせも兼ねて何度か訪れていたから、大まかながら施設の構造は把握していた。断ってから、受けるべきだった気がしてきた。当時龍狩さんは入院中で会えず、退院してからは俺の方が本部での引き継ぎでこちらへ来る暇がなかった。署の構造は知っていても、これから苦楽をともにするはずの男のことはほとんど知らない。当たり障りない経歴と、たった一人いた共通の知人からの、「変わってるけどいい人」という証言以外には、何も。
 僅かな後悔と暑さにしばし苛まれたのも束の間、自動ドアを抜けて建物に入った途端、全身の力が抜けてしまった。心も一緒に解けていく。空調は控えめだったが、それでも外よりは涼しい。酷暑から解放されて、両腕をだらりと肩からぶら下げるような姿勢をとってしまった一瞬あと、肩がこわばった。
 刑事としてだらしなさすぎやしないか。
 大きな都市だけあって、署内には人が多い。市民も署員も。何食わぬ顔で姿勢を正しながら、そっと周囲を窺う。幸いなことに、誰も彼も俺と似たような有様だった。それどころか冷房の力を享受するのに気が向いて、他人がだらけているかどうかなど知ったことではなさそうだ。
 しかし龍狩さんは俺の様子に気づいたようで、こちらを見て眉を下げた。
「つき合わせてしまって、すみませんでした。暑かったでしょう」
「いや、早く着いてしまった自分の問題です。それに、外回りの多い部署と聞いてます。このくらいでへばっていては、保たないでしょう」
「私たちの仕事は夜勤が主ですから、暑さは多少ましですよ」
 ははは。笑い方には覇気がなく、前に傾いた首は頼りない。龍狩さんはポケットからハンカチを出して顔にあてがった。額に、眼鏡の下に。汗がなかなか引かないらしい。足取りは明らかにふらついていた。どれだけの時間、外にいたのだろう。見ていて不安になるような有様だった。
「中にも喫煙所はあるでしょう」
 気づけば口から出ていた。お節介だったかもしれない。何より、唐突に思えた。しかし、龍狩さんはこちらの意図を汲んだらしい。悪戯をごまかすように首をすくめた。
「いつも誰かしらいますから、何となく足が向かなくて。ほら、私は市役所の人間ですし、職務内容も胡散くさいですし」
 アウェイなんですよ。
 内容のわりに声音は軽い。しかし呼吸はハンカチ越しにくぐもって震えていた。薄く笑んだ下瞼には水が溜まっている。汗とも涙ともつかない。
 喋るのも負担になりそうな様子だが、会話を続けていいものか。
 距離感を探るいい機会だ。容態を観察しながら続けることにする。
「そう言われると不安になりますね。……自分もよそ者ですし」
 人目を避けるように、声を潜めた。新しい相棒に眼くばせしてみる。黒い瞳は確かに受け止めてくれた。苦しげななか、穏やかに笑う。
「大丈夫ですよ。逸軌さんは警察の人ですから、話も合うでしょう。きっと、すぐ馴染みますよ」
 線を引かれた気がした。こちらを気づかう体で、やんわりと。共通の知人——前任者が言っていたのはこれだな、と思った。距離を詰めれば詰めたぶんだけ、退かれる。
 これから命懸けの仕事を共にこなす相手と、こんな距離感で大丈夫か、という焦りが一瞬頭を掠めたが、会ってまだ数分だ。急がずにここは一旦引き下がっておくべきか。
「……せめて、怪我が治るまでは屋内で吸ったらどうですか? 退院したばかりと聞いてます」
 踏み込んだ。この消耗具合はさすがに見過ごしがたい。お節介は承知の上で、言わずにはいられなかった。
「ばかりと言っても、先週ですよ。もともと大した怪我じゃあないですし。うちでは、まあまあよくある話ですしね」
 さらにくっきりと線を引かれた。頑なだ。態度だけはへらへらと柔らかい。
「そう……なんですね……」
 さすがにもう一歩食い下がる勇気はない。大人しく相槌を打った。次の言葉に迷う。間が開き、会話が途絶えそうになる。すると、今度は龍狩さんが話を繋げた。
「ほら、見てくださいよ」
 言われるまま、差し伸べられた腕を見る。肘の少し下に日焼けの跡がついている。境界は定規を当てたように真っ直ぐだった。
「真夏に受傷すると、変な焼け方するんですよね。逸軌さんは、気をつけてくださいね」
 言って、笑った。頬に貼られたガーゼが歪む。
「……なおさら、中で吸ったほうがいいんじゃないですか」
 本当だ。ははは。

 ◯

 事務室はほとんど物置だった。入口付近の冷蔵庫と電子レンジを起点に、壁際をぐるっと書棚が囲んで息苦しい。中央にかろうじて残る隙間にソファベッドとローテーブル、事務机二つを押し込んだ形だ。
 事務机は袖机を挟んで横に並んでいる。片方は備品シールの貼られたノートパソコン以外に物がない。俺の席だろう。もう片方は逆に雑然としている。よく見れば散らかっているわけではないのだが、何となく乱雑な印象を受けた。こちらがおそらく龍狩さんの席。
「とりあえず、居心地いい机にしていただいて。この辺にあるものは共用なので、好きに使ってください」
 龍狩さんの説明は大雑把だった。この辺、と示された袖机の上には事務器の類が整理されている。龍狩さんの席と見比べた。おそらく、袖机を管理していたのは彼ではない。
「ありがとうございます」
 とりあえず、肩から鞄を下ろす。中からペン立てとマグカップを取り出し、机の端に安置した。続けて使いかけのノートを一冊、新品のノートを一冊、重ねてノートパソコンの横に並べる。足許のラックに鞄を押し込んだら、やることはなくなってしまった。
 龍狩さんを見る。書棚に向き合って、チューブファイルを何冊か引っ張り出していた。こちらを振り返る様子はない。俺の引越し作業が一瞬で終わるとは思っていないのだろう。邪魔するのは気が引けた。手持ち無沙汰に、自席の引き出しへと手をかける。前任者の引き出しを盗み見るようでなんとなく後ろめたかったが、開けずに仕事はできないだろう。言い訳じみたことを考えながら、引き出す。
「………」
 空っぽだった。意外なほどに動揺して次々引き出してみるが、どの段も、古びてはいるものの、埃のひとつも残っていない。
 前任者の面影は徹底的に消されていた。
「………」
 かえって居心地が悪くなり、乱雑な方の机へと視線をやる。
 切り離されたカレンダーがカード立てに差してある。二ヶ月分。予定の書き込みはなく、ただ日付の上にバツ印が並んでいた。付箋の生えたクリアファイルと紙束が大量にある。未、済、未、済、未、未、未……。
「お茶でいいですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
 人柄の見えづらい机だな。
 と考えてから、自分の机を見て苦笑した。他人のことを言えない。
 龍狩さんの席に視線を戻すと、パソコンの影に三つ腕時計が並んでいるのに気づいた。三つともクロノグラフ。オメガ、ロレックス、オメガ。一つは革ベルトで、残りはメタル。一つは風防が割れていて、残りは無事。どれもまだ動いている。時刻はそれぞれ、少しずつずれていた。コレクションだろうか。それにしては傷が多い。龍狩さんの左手を見た。堅牢なミリタリーウォッチが巻きついている。痩せた腕には重そうだ。
 ふと龍狩さんが俺へ視線を移した。眼が合う。
「終わりました?」
「ああ、はい……」
 歯切れが悪い。机をじろじろ見ていた決まり悪さのせいだ。しかし視線は、再び時計の方へと向かってしまう。高級な時計が、公務員の給料で、三つ。
 龍狩さんはローテーブルに茶の入ったコップを二つ置いた。緑が涼しげだ。そして首を微かに傾げ、俺の視線を追う。そして、はたと声を飲んだ。一度結ばれた唇がゆるみ、ひとつ呼吸を挟んでから、乾いた声を発した。
「ああ、それ。いひんです。歴代の、相棒の」
「いひん」
 遺品。
 と変換されて、堪らず、並んだ腕時計に視線が戻る。うち一つには見覚えがあった。クロノグラフ、オメガ、メタルベルト、風防は割れていない。紺のフェイス。
 ——清水の舞台から飛び降りたぞ!
 得意げに叫ぶ声が、耳の奥で蘇った。襲ってきためまいを堪える。
 龍狩さんは静かな声で言葉をついだ。
「ご遺族が、譲ってくださって。でも」
 使いますか?
「いいえ」
 龍狩さんが言い終わるより早かった。
「……いいえ……」
 繰り返した声は掠れていた。龍狩さんは返事をしない。
 代わりに、ぽとん、と何かを落とすような音がした。視線をやる。龍狩さんはソファベッドに腰掛けていた。自分の隣を叩く。ぽとん、とまた鳴る。俺を招く瞳は暗い。
「仕事の説明をしましょうか」
 仕事、と聞いた途端、心臓が強く脈を打った。
 仕事。
 今日から始まる、俺の仕事。
 県庁白骨崎分室、特殊環境問題対策係の仕事。
 この世の理屈で説明できないコト、モノに対処するという、仕事。
 前任者を殺した、仕事の話。
「——はい」
 俺は椅子から腰を上げ、新しい相棒の隣に向かった。