モイライ来りて糸を繰る


 駐輪場に自転車を停め、自宅まで階段で上がる。六階建てのマンションだが、瀬戸家の部屋は二階にあるためエレベーターを待つより階段を使った方が早い。

「ただいま」

 最初からおかえりの返事など期待していないが、それでも陽向は毎日帰宅すると必ずそう口にする。
 いつもなら玄関に散らかっているはずの踵が潰れたスニーカーが見当たらない。兄はまた酒を買いに出ているのだろうか。
 居間のテーブルと床の上に転がっている缶を拾い集め、流しで軽く濯いでから資源ごみの袋に押し込む。最近また心療内科への通院をサボっているからか、酒の量が増えている。
 金曜十八時からのアルバイト前に今朝できなかった分の皿洗いをしようとスクールシャツの袖を捲っていると、携帯に着信があった。

「陽向? 学校終わった?」
「うん。でもこの後バイトだから、ちょっと急いでるんだ」
「あら、シフトは土日だけだったんじゃないの?」
「そうなんだけど、人手の都合で金曜日も出てくれないかって店長に言われて」
「そう……本当に、ごめんね。苦労を掛けて」

 電話口の向こうから聞こえる母の声は、心からの労りを感じさせる。
 陽向が高校に入学した年、父は部署の異動を命じられた。ポジションとしては昇進することになり、給与も高くなるが、異動先は新幹線の距離にある他県の地方都市。
 最初は家族全員で引っ越すのも視野に入れたが、悠心が遠距離の移動に耐えられるような状態ではないのと、始まったばかりの陽向の高校生活を考え、単身赴任という形に収まった。一つ通常の単身赴任と異なる部分があるとすれば、母が父に付いていったということだろうか。
 多量の飲酒を繰り返し心療内科に通院している兄と、高校生の弟を二人だけで残していくというのは世間的に見れば酷い事かもしれない。しかしパート終わりに疲れ果てた顔で家族の食事を作り、重たい酒瓶をまとめたゴミ袋を捨てに行く母の姿を見ていた陽向には、両親を咎める気持ちなど一切湧いてこなかった。

「いいんだよ。店長もいい人だし、お客さんも結構親切な人が多いんだ。シフトも一日に三、四時間ぐらいだから、そんなに大変じゃないよ」
「陽向……ありがとう。来月の生活費、また振り込んでおくからね。お兄ちゃんは? いる?」
「あ……ちょっと今は外に出てるみたい」
「そう。すぐには難しいかもしれないけれど、もう少しお酒の量を減らせたらね。じゃあ、また。お兄ちゃんが帰ってきたらよろしく言っておいて」
「うん。じゃあね」

 短く言って通話を切る。食器を洗う時間はなくなってしまったが、たまにこうして連絡をくれるのは嬉しい。
 小さなボディバッグに最低限の荷物を入れ、部屋を出る。自宅から歩いて五分のコンビニがアルバイト先というのはありがたい。クラスメイトからバイトするならまずは近い所に限ると聞き、求人情報サイトを漁ってこのコンビニを選んだのだが、結果一年近くは続けられている。
 バックヤードでスタッフ用ユニフォームに着替えた陽向は、店長と他のスタッフに元気良く挨拶をして売場に出た。