学級日誌を職員室に届けた後、自転車で二十分ほどの帰路を走る。
この高校を選んだ理由は部活動が強制ではないというのもあるが、特に大きかったのは在学中のアルバイトが可能なことと、地元のいくつかの企業にコネクションがあり卒業後の就職が比較的楽であるという前評判だ。逆に言えば卒業生の大学への進学率はそこまで高くはなく、本気で進学を考えている生徒は別の高校に行く傾向があった。
陽向にとってはそこも長所の一つだった。何故なら辰巳と離れられる可能性があったからだ。中学でも試験の度に成績上位者に食い込んでいた彼ならきっと他の進学校か、運動部全般が強く空手でも毎年インターハイに出場している高校に行くだろうと踏んでいた。
だが中学三年生の時、彼は何を思ったのか陽向と同じ高校に行くと言い出した。
「お前、高校出たら地元に残って就職するんだろ? 俺もそうする。余所なんか行かなくても別に何の不便もないしな」
「え? でも、たっちゃん……梶山君なら絶対もっと偏差値の高いところに行けるだろうし、大学だってどこでも狙えるよ。家族だって、もっと良いところに行かせたいんじゃ……」
「関係ねえよ、そんなの。俺の人生を俺が決めて何が悪い」
「でも、た……梶山君」
放課後、夕焼けが照らす帰り道の途中。陽向が名前を呼び掛けて苗字を言い直すと、辰巳の綺麗な眉が一瞬ひそめられた。それが怒っているような、機嫌を損ねたような仕草に見えて、陽向はビクリと体を跳ねさせる。
「なあ、何で急に呼び方変えたんだよ。昔はたっちゃんって呼んでただろ」
「それは、その、中学生になっても子どもみたいな呼び方で恥ずかしいかなって」
「恥ずかしいって誰が?」
「ええと」
問い詰められるように質問されて陽向は口ごもる。そもそも名前の呼び方一つでどうしてそんなに気になるのだろう。
「俺は別にどうでもいいけど、お前が恥ずかしいのか? 気にすんなよ、お前以外の奴にはそんな呼び方させてねえし。お互い幼稚園の頃から知ってるんだし、恥ずかしいって言ったって今更だろ」
「そう、だね。ごめん」
俯いて謝罪する陽向に、辰巳は謝らせたいわけじゃなかった、と小さな声で漏らす。
「なあ、陽向」
「何?」
「俺のこと、嫌い?」
突然の問い掛けに、陽向はすぐに答えることができない。辰巳のことが嫌い、というわけではない。ただ傍にいると自分自身の劣等感と否応なく向き合わなければならないのが辛い。何より、自分なんかと一緒にいることで優秀な彼が本来歩むべき輝かしい道から逸れていくことが耐え難い。
「えっと、嫌いなわけじゃないよ」
「じゃあ、何で俺のこと避けてるの?」
「……」
どう答えるのが正解なのか分からない。並んで歩く、自分よりも高い位置にある整った横顔を見る。茜色の陽光に照らされるその顔から、これといった感情は読み取れない。
「俺のこと嫌いじゃないのに、何で避けるの?」
「それは」
言えるわけがない。一緒にいたら自分が惨めに思えてくるからだなんて。
「……その、家の事とかでいろいろ余裕がなくて。避けてるつもりはなかったんだけど、忙しかったからそう見えたのかな」
「ああ、お兄さん……悠さんの事なら前にも少しだけ聞いたけど、本当に災難だったな。大学、休学してるんだっけ」
「うん。でも、今だけだから。あんな事があったから今は参っちゃってるだけで、しばらく休んだらきっとまた元に戻ると思うから」
脳裏に大量のビールの空き缶と日本酒やウイスキーの瓶が転がっている居間の風景が思い出されて、陽向は頭を振った。兄はあれから休学して精神的なショックからの回復に努めていたが、ふとした拍子にアルコールに手を出してからは瞬く間に溺れていった。最初はただの気晴らしだったのだろうが、酒に酔っている間は辛い現実から目を背けられることに気が付いたようだ。
他人から借金を押し付けられ、さらにその返済を親に肩代わりしてもらうという経験は、これまで兄が維持してきた自己肯定感やプライドを完全にへし折ってしまったらしい。かつては身だしなみや衣服にも気を遣っていたのに、今は毎日のように着古したスウェットやジャージ姿で酒類が安いスーパーと家を往復する生活だ。
だから高校は元々憧れていた進学校ではなく、就職に強いと噂の学校を選んだ。父の収入と母のパート代だけでは、家族全員の食い扶持を賄うには心許ない。高校に入学したらアルバイトを始めて、卒業したら就職する。いざとなったら兄のことは自分が養う。それぐらい陽向は思い詰めていた。
「あのさ、陽向。高校出て就職したら一緒に住まねえ? ルームシェアみたいな感じで」
「一緒に?」
「その方がお互い金が浮くだろうし、家事も分担してできるし」
「それはそうかもしれないけど、でも、どうしてそこまで」
「あんま人ん家の事情に口を出すのは良くないって分かってるけど、俺が我慢できないんだよ。そりゃ、悠さんの事は本当に気の毒だし大変だと思うけど、だからって何で陽向がその割を食う必要があるんだ? 家族は生まれてから死ぬまで付き合うから、助け合うのはいい事だけどよ。そしたら、お前の人生はどうなるんだよ」
少しずつ陽が沈んでいき、薄暗くなった空の下で見る辰巳の顔は、心底苦しそうだった。自分の事でもないのにどうしてそんな顔をするのだろう。
陽向が不思議に思っていると、辰巳はハッとしたように続ける。
「悪い、俺が首突っ込んでいい話じゃないよな。じゃあ、俺こっちだから。また明日」
「うん、また明日」
煌々と明かりが灯るコンビニの前で手を振り、それぞれ家路に着く。
辰巳の言うことは間違っていない。絶縁でもしない限り、家族というものはどちらかが死ぬまで関わっていかなければならないものだ。だからこそ気を遣うし、困った時には助け合う必要がある。
だがその結果、自分自身の人生が犠牲になるかもしれないとなると、どうすれば良いのか。正直なところ、陽向は辰巳に言われるまでその点については考えたこともなかった。
兄のピンチなのだから、弟である自分が何とかしなくては。何の疑いもなくそう思っていたが、辰巳の言う通り、自分の事については後回しにしていたかもしれない。
それにしても、彼は何故陽向にそこまで構うのだろう。幼稚園の頃から付き合いがあるとはいえ、お世辞にも優秀とは言い難く厄介な事情まで抱えている幼馴染との関係など、さっさと切り捨ててしまえば良いだろうに。
家に辿り着くまで理由を考えたが、答えは出ない。マンションの階段を上って玄関を開ければ甘ったるいアルコールの匂いが鼻を刺して、そんな疑問も霧散してしまった。


